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40.それぞれの未来*

こんなに可愛いと分かっていたなら

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「あー、あー」

 ふくふくの小さな手が自分に向けて伸ばされるたび、世の中にこんな愛しいものが存在していたのかと我知らず笑みとともに吐息が漏れる。


帆乃ほのは本当にパパが大好きね」

 ベビーベッドから娘を抱き上げたと同時、「何だかちょっぴり妬けちゃうなぁ」と、妻の美春みはるが微笑んで。
 偉央いおは娘を胸に抱いたまま、そんな彼女を見下ろして「バカだな」とつぶやいた。

 偉央は、もとより美春のことは嫌いではない。だが、悲しいかな前妻の結葉ゆいはほど熱烈に愛せてはいないという自覚もある。

 だからこそ、こうして子供を作れたんだけどね、と心の中で一人静かに嘆息した。

 結葉とは――そう、愛してやまなかった前妻とは。夫婦二人きりの生活を邪魔されたくなくて、絶対に子供なんて要らないと思っていた偉央だ。

 子供を作ったりしたら、結葉が自分一人の家族ではなくなってしまう。

 下手したら、愛する結葉が〝偉央の妻〟であることよりも〝子供の母親〟であることを優先しかねないかも知れないではないか。

 そう考えると、絶対に結葉との間には子供など必要ない、邪魔にしかならないと思ってしまった。

 そんな身勝手なワガママのために、結葉が自分との子供を心の底から欲していたことを分かっていながら、偉央はずっとその気持ちを無下にし続けたのだ。

 ――愛玩対象が欲しいなら、今まで通りペットが一匹いれば十分だろう?

 そう勝手に結論付けて、寂しがる結葉に美春の家で生まれたハムスターを一匹当てがってやったのを思い出す。

 あの時の結葉の悲しそうな顔を、偉央はことある毎に思い出しては何とも言えない気持ちになる。

 結葉は偉央に逆らうことをしない女性だった。けれど、もちろん不満が全くないわけではなかったのだ。

 長い年月をかけて結葉を力で押さえ続けて来た代償を、後に嫌と言うほど味わう羽目になった偉央だったけれど、その時は結葉が自分の横暴さを受け入れてくれることが愛の証のようで嬉しくもあって。

 部屋の片隅、前妻に与えたハムスター雪日ゆきはるの両親にあたるゴールデンハムスターが二匹、結葉が使っていたケージより遥かに小さなケージふたつに分けられて、気持ちよさそうにスヤスヤ眠っている。

 まん丸になっている白茶のふわふわのオスが毛玉、メスが毛鞠けまりと言う名前だと美春から聞かされた。

 美春が、結葉ほどこの小さな生き物に依存していないように見えるのは、他に愛情を注ぐ対象がいるからだろう。

 結葉にはきっと、無条件に愛せる対象が福助や雪日ゆきはるしかいなかったのだ。

 無論、偉央のことだって愛してくれていなかったわけではないと思う。
 だけど、いつしかそれがどんどんすり減って……。

 結葉が偉央を見つめる眼差しにおびえが混ざるようになればなるほど、しぼんでいっているのが分かる自分への愛情を、これ以上子供なんかだれかられてたまるか、と偉央は意固地になった。

 その思いが偉央のなかでどんどん膨らんでいったから。

 偉央は結葉とは絶対に子供を作りたくないとかたくなに拒んだのだ。


 結葉が出て行ってしまった時、愛する妻が自分のことはアッサリと切り捨てたくせに、雪日ゆきはるは手放せなかったんだと思ったら、泣きたいくらいに辛かったのを覚えている。

 美春が結婚に際して毛玉と毛鞠を連れてきてもいいか?と打診してきた時、ふと結葉と福助や、雪日ゆきはるのことを思い出した偉央だ。

 だが、やはり愛情の差だろうか。

 結葉の時ほど複雑な気持ちは湧いてこなくて。
 「好きにしたらいいよ」と即答出来ていた。


 ――それにしても、だ。

(縁なんてどこでどうなるか分からないものだな)

 狂おしいほどに愛しくて堪らなかった結葉との離婚直後、偉央は何もかもどうでも良くなった。
 傷心の余り自暴自棄になっていた心の隙間にもぐり込むようにして、独身時代〝性の吐け口〟として付き合いのあった美春に誘われて、半ばほだされる形で避妊もせずに性行為に及んだけれど。

 結葉との婚姻生活の三年間、絶対に生ではしないと心に決めていた反動だろうか。

 美春が「奥様に出来なかったことを私にしたらいい」と言うから。
 それで子が出来たらその時だと投げやりに思ってしまった。

 そもそも相手が結葉でないならば、子供が出来る出来ないは偉央には大した問題ではなかったから。

 元々結葉に出会う前は、条件の合う女性と結婚して、適当に家族ごっこをして跡取りを成せばいいと思っていた偉央だ。

 美春が、「妊娠したみたいなの」と、どこか媚びるように自分を見つめて来た時、「じゃあ結婚しようか」とするりと口を突いていたのもそのためだ。

 もしかしたらあの日の美春は、自身が妊娠しやすい時期だと分かっていて、あえて偉央をそそのかしたんじゃないかと思わなかったわけじゃない。

 けれど今となってはそれもどうでもいいことだ。

 元を正せば、そんな美春を子供ができても不思議ではない形で抱いたのは偉央自身なのだから。


 自分だってかなりのところ、打算で美春を二番目の妻としてめとったのだ。

 ある意味お互い様。いや、むし惰性うそだらけで似合いの夫婦じゃないか、と思っていたりもする。

 だけど――。


 そんな中、親を喜ばせる材料が出来たくらいにしか思っていなかったはずの我が子が、いざ生まれてみれば何ものにも変え難いほどに愛しく感じられる対象になってしまったと言うのは、偉央いおにとって全くの計算外だった。


(こんなに可愛いものだと最初から分かっていたら、結葉ゆいはとの間に子供を成してもよかったな……)

 今更のようにそんなことを思って。


帆乃ほのは本当に美人だ」

 黒く澄んだ瞳でじっと自分を見上げて意味の分からない音を発して手を伸ばしてくる娘に、偉央は思わず目を細める。


 もちろん、美春に対して結葉との間に子供を作らなかったことを、今になって後悔しているだなんて、告げるつもりはない。

 この愛らしい娘を自分に授けてくれたのは、偉央が〝嫌いじゃない〟程度にしか愛情を持てない相手――美春であることも確かな事実だから。

 美春が望むままに愛しているとうそぶいて、無理のない程度。適度に夫としての役割を果たせたらそれでいいと思っている偉央だ。

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