黒猫の復讐はチョコレートの味

神夜帳

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第9話 夢

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黒猫が部屋の隅でうずくまるようにして眠っている。
マンションの部屋は随分と荒れていて、人が歩けば、床を埃がころころと舞っていく。
洗濯物は洗っている暇がないのだろう、洗濯機の傍に山のように積み重ねられていて、キッチンのシンクには油汚れもそのままにされた皿が大量に積み重なっている。

これは夢だ。
斎藤大地が眠っている時に見ている夢である。

夢の中で大地は、何かにイライラしているように荒々しく部屋の中を歩き回って仕事の準備をしていて、やがて、スーツを着こみ、鞄を持つと黒猫の傍にいって、背中を一撫でして玄関へ向かって歩き出す。
撫でられた黒猫は、大地の方に顔を向けることなく弱々しくニャアと鳴いた。

ガチャリ

黒猫の鳴き声が大地に届いたかどうか……。
大地は弱々しい鳴き声に振り返ることなく、部屋を出て、やがて玄関のドアが閉まり鍵がかけられた音がした。

黒猫は動かない。
もしかしたら、このまま永遠に動かないかもしれない。

しかし、これは夢である。
映像はやがて色褪せていき、だんだんとわけもわからない映像が混じり、全てがフレームアウトしていく。
目覚めの時だ。

斎藤大地が目を覚ました時、生まれたままの姿でぐっしょりと汗をかいていた。

(随分と生々しい夢を見た。あの猫は死んだだろうか? どうしてこんな夢を見る? 俺は猫を飼ったことがないはずだ。あの夢は、ゆかりが助かった時の可能性なのだろうか? それとも……あの時の……もう一つの可能性なのだろうか?)

大地はゆかりと身体を重ねる度、徐々にある光景が頭に浮かんでいた。
少し苦い記憶。本当にほんの少し。

ゆかりが押しかけ女房をしてから2週間ほど。今日は平日で、仕事に行かなければならない。
ふと支度をしながら家の中をあらためて眺める。
ゆかりが積極的に家事をしてくれるため、床に散らかされた洗濯物は綺麗に片付き、埃が床を転がるように舞うこともない。台所のシンクも綺麗に片づけられていて、油汚れが付きっぱなしのお皿が積み重なっていることもない。
さらに、今日も自分より早く起きて朝食を準備してくれている。

「ゆかりのいない生活が想像できなくなってきたな……」
「旦那様ー? なにかおっしゃいましたかー?」

誰に言うでもなくつぶやいた言葉に、ゆかりがキッチンから聞き返してきた。
大地はゆかりのもとへ行くと、ゆかりの瞳を優しく見つめながら言った。

「いつもありがとうと言ったんだ」

ゆかりが少しあわわしたあと、赤面してうつむいた。
なんだか、少し悔しそうな表情をしているのがアンバランスで面白かった。




少しだけエキゾチックな香りがメリハリとなったフローラルな優しい香水の匂いが、斎藤大地を抱きしめている。

(どうしてこうなった……)

迂闊だった。
もうすぐ結婚だと先日まで息巻いていた後輩の小倉和歌が、仕事に集中しておらずケアレスミスを連発するので、具合を尋ねてみれば、目には一杯の涙。
慌てて小さな会議室を予約して、押し込んで話を聞いてみれば、具体的な結婚の話をしてみたら相手と連絡が取れなくなったということだった。
こういう時は、励ましも助言も無用である。ひたすらに共感を示して傾聴してみていると、気づけば和歌に抱きしめられている。

「うぅ。せんぱぁい。やるだけやって逃げるの酷くないですか。格好いいこと散々言っていたくせに」
「あぁ。そいつは酷い奴だ。くず野郎だ。お前には相応しくないやつだった」
「あたしが悪いんですかね。重すぎたんですかね」
「お前は何も悪くない。そいつがお前に釣り合ってなかっただけだ」
「すいません。先輩。いつもいつも」
「いつものことだ。気にするな」
「先輩やさしい!!」

和歌が大地を抱きしめる力がこもる。

「えーっと、そろそろ仕事に戻ろうか?」
「もうちょっと……」
「本当にもうちょっとだけだぞ」
「うん……先輩って」
「ん?」
「なんかペット飼ってます?」
「えっ、いや、飼ってないけど」
「そっか……なんかちょっとだけ獣っぽい匂いがしたんですけどね」
「そ、そうか」
「……先輩」
「ん?」
「考えてみればですね」
「おぅ?」
「先輩と結婚すればいいんじゃないでしょうか!?」
「はぁ!?」
「先輩、あたしじゃダメですか!?」
「落ち着け!」

和歌が抱きしめながら大地の顔を見上げる。上品な栗毛色のミディアムヘアーに後輩キャラが良く似合っている、愛らしい垂れ目。実際、どんなに大変な仕事を振られても、ぶーたれながらもよくこなしてくれ、疲れていても周りに愛想を振りまく。その柔らかな雰囲気と明るい会話に周りがどれだけ助けられてきたことか。
いつもはニコニコしているその目には、涙が滲んでいる。
一時の混乱によるものとはいえ、真剣に見つめるその目を見て、大地は覚悟を決めた。

「ごめん。最近、彼女ができたんだ」
「えっ……」
「すまん」

和歌は、わずかな間、呆けた様子で大地の顔をしげしげと見つめていたが、すぐに明るい顔になると抱きしめていた手をパッと離して言った。

「先輩! 良かったですね! ずっと心配してたんですよぉ!」
「お、おぅ」
「わぁ。嬉しい! 凄い嬉しいです!」
「え」
「自分が好きな人に大切な存在が出来たなんて、凄い嬉しいじゃないですか」

和歌は手を祈るように重ねると、目を閉じて静かに噛みしめている様子だった。

「ふふ。じゃあ、こんなことしていては、彼女さんに悪いですね」

和歌は涙を指でぬぐうと、ニコッと笑って会議室を出て行った。
残された大地は、しばし呆けてその場で立ち尽くす。

「わからん……感情の波が……」

そう呟いて、自分も会議室を出た。
誰もいない会議室に、フローラルな香りがかすかに残った。
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