奴隷のアイナと不機嫌顔のバルト侯爵

神夜帳

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中編

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 バルトと出会った時の思い出に浸りながらアイナは、皆が寝静まる闇の中、じっと明かりのついているバルトの部屋を眺め続けた。

 あれから、息子のレオンハルトの相手をする日々が続いた。
 母親を求めていたレオンハルトに24時間つきっきりで心に空いた穴を埋める仕事。
 侯爵家の長男ということで、色々な教育を施され、行動も制限されているが、実際の中身は年相応の幼い男の子。野原を駆けまわりたいし、狩りだってついていきたい。
 そんな男の子の願望をかなえるには、アイナの身体は丁度良かった。
 獣人の戦闘センス、狩りのセンス、人間からすれば驚異的なまでの無尽蔵なまでの体力は、レオンハルトの願いをかなえ、レオンハルトを満足させるまで駆け回るには十分すぎる。

 恐らく母に似たのだろう、あんまりバルトに似ていない可愛らしく愛嬌のある顔は、それでも、ふっとしたときに男らしいバルトの表情が見え隠れして、ドキリとさせられる。

 気がついたらバルトの顔を目でおっていた。

 あれから、二人きりになることもなければ、夜中に寝室に呼ばれることもない。

 お前は俺のものだとは、どういう意味だったのか?
 買ったのはバルトなのだから、実際問題所有者がバルトなのは間違いない。

 今、目の前で、息子のレオンハルトが食事を口に運びながら、父であるバルトに今日の出来事を必死に報告している。その報告内容のほとんどが、アイナは凄い。アイナが兎を一瞬で獲った。アイナが兵士たちとともにゴブリンを瞬殺した。アイナが。アイナが。なのが、とても恥ずかしくて歯がゆい。ちょっと頑張りすぎただろうか。

 そんな息子の報告をバルトは、口の中に何もなくなってから話しなさいと、至極当たり前のことを注意しながらも、その不機嫌そうな顔はどこへやら、子煩悩な優しい表情を見せて、嬉しそうに頷きながら聞いていた。

 ちらり

 バルトが一瞬アイナを見た。

 とても優しい眼差しで。

 アイナはレオンハルトの座っている食席のすぐ後ろにメイド服姿で立ち、すました顔で会話を聞いてたが、そのバルトの視線にドキリとさせられ、少し顔が熱くなる。
 しっぽのつけ根がそわそわとして、尻尾が動かないように制止するのに必死になった。

 はて?
 なんでドキリとするのだろうか。

 不機嫌そうな顔が息子に対して優しい顔になるから、そのギャップにだろうか。
 バルトは、思ったより可愛いおじさんであった。
 山のような存在感と不機嫌そうないつもの顔のせいで損をしているだけで、他人に厳しいというわけでもなく、領地を視察すれば、あちこちから市井の人間に気さくに声をかけられ、それに対して穏やかに応対している。
 だからこそだろうか。
 問題となりそうものは小さいうちからバルトの耳に入って、燃える前に鎮火することもできれば、発展の種を見つけて領地を豊かにすることもできた。

 亡くした妻に操を立てているという話になっていて、息子を溺愛し、女っ気一つとしてない。
 アイナを買ったことにより、バルト侯爵もやはり男であったという話が社交界でもちきりになった時期もあるようだが、その後、あまりに何もないので、やがてそんな話も風化していった。
 なぜ、何もないという話になったかといえば、この領地にも他の貴族のスパイが山ほど入ってきているからだということをアイナは後になって知った。

 貴族社会とは、毒蛇が絡み合うそんな世界なのだと恐ろしくも思ったものだ。

 そんなこんなをしていたら、アイナがバルトと出会ってからあっという間に1年が経ってしまっていた。

 この1年の間、バルトとの会話は数回のみ。
 件のこの領地で生活していておかしいと思うところをまとめたレポートを提出した後、いくらか質疑応答をしたのみであった。
 その時も、バルトはアイナに対して性的な接触をする気配は無く、ただただ真面目に質疑応答をし、まっすぐな熱い瞳をアイナに向けたのみである。

 だから、アイナは不安になった。

 この1か月間、悪夢をよく見てうなされる。
 悪夢から覚めてみれば、見慣れた屋根裏部屋の天井にほっとし、あまりの寝汗で濡れてひんやりとするシーツの気持ち悪さにバツの悪さを覚えた。

 内容はいつも同じである。

 仲間達が。
 ゴツゴツとした冷たい床にボロボロになった仲間達がたくさん横たわっている。
 その仲間たちの瞳は、一斉にアイナに向けられていて、その瞳には恨みが、そして憐れみが籠っている。

 ——このままじゃ捨てられちゃうよ——

 ——また痛い思いをするよ——

 ——ここは冷たいよ——

 ——いたいたいたいたいたいたいたいたいたいたい——

 ——なんでお前ばかり!!——

 ——なんでわたしたちを置いていったの!?!?!——

 ——呪われろ! 仲間を見捨てた報いを受けろ!——

 なにか冷たい鋭い刃のようなものが自分の胸を突き刺したような衝撃に襲われて飛び起きる。

 時には、耳の中に仲間たちの絶叫が聞こえた気がして飛び起きる。

 日によっては、仲間に首を絞められ殺される思いをして飛び起きる。

 気が付けば、疲れは溜まり、さすがの獣人のアイナも疲労困憊である。

 原因はわかっていた。

 仲間たちとはあまりに違う厚遇。
 穏やかな日々と、仕事に見合わない、奴隷の身でありながら貰う高い給料。
 あまりの申し訳なさに、自ら屋根裏部屋に住むほどである。

 つまり、アイナの心にとってみれば、仲間と同じくらい辛い日々を過ごし、せめて、それこそバルトの慰み者として夜伽を仰せつかっていれば、まだ均等が取れたというものなのだ。

 自分のしていることと、受けている厚遇が見合っていない。
 そんな想いが、このままではいずれ捨てられてしまうのではないかという不安を呼び起こさせ、仲間たちの恨みを買っているという悪夢に繋がっていた。

 そして、アイナは今、ベビードールに身を包んで屋根からバルトの明かりのついている部屋を凝視している。

 初めて給料を貰った時に、突然寝室に呼び出されてもいいようにと買って、1年間出番の無かったベビードール。
 男を、バルトを悦ばせるためだけに買った卑しい下着。

「俺のものだって言うならさ、ちゃんとそれらしく振る舞ってよね……」

 アイナが誰に聞かせるわけでもなくつぶやくと、音を殺して屋根つたいに駆けていく。

 自分の部屋のある棟と、バルトの明かりの灯る窓のある棟は、屋根から屋根に飛び移るには、50メートル程離れているが、そんなことはお構いなしと、アイナは徐々に足を速めて、助走をつけると、屋根の端で足に力を入れ、屋根を蹴った。

 タンッ

 守衛は雪が屋根から落ちた音だと思うだろう。
 それくらいわずかな、しかし、重い音。
 アイナは、三日月の光に自身を輝かせながら、バルトのいる棟に向かって空を駆けた。
 向かい風にバタバタとベビードールをはためかせ、身体にはりつかせながら、しっぽはぼわっと逆立った毛で膨らんで、そして、バランスを取るように細かく左右に震えている。
 冷たい風がアイナの顔を無遠慮にはたいていき、左目から一滴、きらりと涙がこぼれて後ろに消えていく。
 その涙が、なんの涙なのか。
 冷たい風が目を乾かしたからなのか、それとも、生きたいという願いからなのか。

 バルトのいる棟の屋根に右足の裏が触れたとき、横から突風が吹いて思わず転げそうになる。
 それが、なんだかバルトの亡き妻が吹かせた風のように思えて、アイナはこなくそ! と闇に落ちていきそうな身体を拾い上げるために、必死に腕を伸ばし屋根にしがみつく。

「愛してないくせに身体を重ねるなと言いたいの? ごめんなさいね。汚らわしい体で。それでも、私は生きたいの」

 アイナは腕に力を入れると、獣人らしいしなやかで軽やかに屋根に飛び乗る。

 ぱらぱらと雪がいくらか崩れて闇に向こうに落ちていく。

「それに、可愛いなって、思ってるから。それは、本当だから……」

 アイナはそう囁くと、静かに明かりの元へ歩んでいく。
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