時計台がある街の中で

山本 英生

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彼の言う通り、ある意味、私たちは同じだった

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 2回目は、彼が家から出て行く3日前の、人間をからかうように、朝から雨が降ったり止んだりを繰り返していた、静かな秋の夜でのことだった。その夜、私たちは、食後のコーヒーの、湯気として可視化された香りも楽しみながら、開けた窓からいつもより威勢のない虫の声を聞いていた。耳を澄ましてみると、雨が街路樹や生垣の葉にぶつかり、弾けていく音が微かに聞こえた。ときには、どっと激しく降った。雷鳴も轟いた。

 雨が激しくなると、私は発作的に頭痛がして息苦しくなるため、そのときも、彼に窓を閉めてもらい、それからレコードをかけてもらうように頼んだ。長年一緒に暮らしていたので、彼のその手際は、非常に熟練されたものだった。

 コーヒーカップを、音を立てずにサイドテーブルに置き、ソファから腰を上げる。雨に濡れた窓枠を布巾で拭い、窓を隙間なく閉めて、カーテンをする。それから、レコードをプレイヤーにセットし、針を落とす。音楽が室内に広がり、リズムが家具や壁に染み込む。温かみと朗らかさを纏うように、音楽が私を包み、外側から強張った細胞一つひとつを緩ませていく。おかげで、私の心の緊張もほぐれ、だんだんと気分が良くなっていく。それを見ながら、彼も安心の笑みを浮かべる。

 しかし、その夜の彼は、いつもとどこか違っていた。窓を閉めて、レコードをかけるまでの手際の良さは、変わらず迅速で、丁寧だった。室内に広がる音楽の雰囲気も、私の細胞の反応も、通常通りだった。妙だったのは、そのあとの、彼の落ち着きのなさだった。彼は、レコードをかけてから、ソファに座りコーヒーカップを手に持ち、コーヒーを一口飲んでカップを戻すと、腕を組んで何か考え事をする、これを再三繰り返していた。

 傍から見たら、ただの何気ない、熟考の最中なのかもしれないが、私から見るとそれは、ひどく際立って見えた。まるで、川の中に佇む岩のようであり、さらには、それが保有する性質も、視覚からありありと伝わってきた。冷たく固く、そして、重たい。

 突如として彼が、腰を上げてレコードの針を上げると、私のそばにやってきた。正面に立ち、私の肩を両手で支えると、そっとキスをした。雨はすっかり止んでいるらしく、外からは、音という音は聞こえなかった。私たちの家だけが、神の手によって無限の宇宙に放り出されたような、そんな静寂が辺りを満たしていた。

 彼の唐突のキスは、少なからず私を興奮させた。心の片隅にあった不安から、一時的に目を背けされてくれた。私の視線を、明るい方へと誘導させてくれた。このとき、私が見ていたのは、彼、ただ一人だった。

「アイリン。僕たちが見つめ合い始めてから、何秒が経ったと思う?」

「さあ。15秒ってところかしら」

「ううん。実際は、48秒さ」

「フフフ。ファーブノルル、あなたは、私と愛を分かち合っているときも、時間を正確に測るころができるのね。まさか、あなたは、時計人間?」

「ああ。いかなるときも正確に。それが時計の役割と意義さ」

 60秒経過。彼は、そう言って微笑んだ。目が細くなり、目尻に皺が寄った。大きな鼻の下に生えた髭には、幾本か白い毛が確認できた。彼は、60秒という時間の中でも、それ相応に歳を重ねているように見えた。それは、それを見ている私自身にも、私たちに無償に降り注ぐ、時の重みというものを自覚させた。私たちは、時の洗礼を受け続ける者として逃れることのできない同じ運命を背負っているのだと、実感することができた。

「でも、あなたは、完全な時計ではないでしょう? 私は知っているのよ、これでも昔、時計台で働いていたもの」

「うん。もちろん僕は、完全な時計ではないよ。僕は人間さ。そして、それにおいても、完璧ではない」

「なんなら完璧からほど遠い?」

「ハハハ。この世に、完璧な人間なんかそうそういやしないさ。それに、完璧さは、距離で測ることができるものでもない」

「じゃあ、何なら測ることができるの?」

「そもそも完璧さに測定方法なんて存在していない。完璧さというのは、10億年前に爆発した、地球から10億光年先の星の光のようなものだから」

「そこに実態はなくて、あるのは光だけ」

「ああ、そんな感じ。僕は、そう考える。君は?」

 そのようにして、私たちは軽いディスカッションを行った。それも、いつも通りの光景だった。だから、口を動かす中で、私の精神は、だんだんと安心の方へと倒れつつあった。私たちは、日常を取り戻しつつある、と感じさせてくれた。

 ただ一つ、問題だったのは、この瞬間、既に私たちは、別々の時間の流れの中にいた、ということだった。つまり、私は、彼の実態ではなく、私の元に届く彼の煌めきを見ていたにすぎなかったのだ。

「僕たちは、常に同じ時間の流れの中にいられるわけじゃないんだ。僕が、君との時間の中から出る日はいずれ来る。そして、それは、そう遠くない」

 当然、私は、彼の言っていることが理解できなかった。ソファに座っているはずなのに、そう感じられなかった。髪が頬に張り付いているのに、それを少しも煩わしく思えなかった。全身を揺らす激烈な脈拍だけが、絶えず私の命の確かさを示すと同時に、地上から私の身体を引き剥がそうとしているようにも感じられた。いつの間にか、重力の方向がつかめなくなっていた。私は、必死に重力の方向を探った。身体を支える何かを見つけなくては、何かに身体を引っ掛けなくては、と真剣に思った。そのため、私は彼に、どうしてそんなことを言うのか、訊ねた。

 重力が私を四方八方に引き裂くようにはたらき始めていることに気づかせてくれたのは、やはり、彼だった。私の問いに対する、彼の言動や言葉と言葉との間が、私の身体の至る所にくぎを打つように、重力の方向を教えてくれた。決してどれも、同じ方向ではなかった。それは、私を非常に混乱させた。肺が胃液を分泌し、脳が尿をこし出す、といった風に、身体の臓器も、機能を混同し始めているように想えた。そう想像すると、卵巣が、涙を流すようにヒクヒクと疼いた。

「君と一緒だよ」

 彼が言ったその言葉は、私をこの地上に引き戻すことになった。体内の臓器を元ある場所にしっかり収め、そのもの本来の機能を再興させた。肺が酸素を取り込み、脳が思考を取り戻し、卵巣が私に残ったわずかばかりの生殖細胞の成長を促した。私の身体が、正常なリズムを刻みだすと、私は、彼の発言について考えた。私と一緒?

「君だって、数年前に、君の住む街を後にしただろう? 両親や、恋人を捨てて」

「……、それが何よ。この問題にどう関係があるっていうのよ」

「じゃあ、君は、君がその街を出て行かなくてはならなかった明確な理由を、今僕に説明できるのかい?」

 私は返事に困った。要するに、彼の質問に答えることができなかった。私は、私がどうしてあの街を出ていかなくちゃいけなかったのか、はっきりした理由を持ち合わせていなかった。あるのは、断片的なものとしての、漠然な考えのみだった。それらを口にするのは、躊躇われた。なぜなら、それらは、彼がついさっき私に話した、相手を混乱の渦に陥らせるのに特化した言葉の複合体となんら変わりないからだった。

 そう。彼の言う通り、ある意味、私たちは同じだった。
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