時計台がある街の中で

山本 英生

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最後に残ったのは、

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 そして、その3日後に、彼は、私の前から姿を消した。その夜、私は、私たちの記念時間の10時15分を祝うために作ったチーズたっぷりの野菜グラタンと、一羽丸ごとの七面鳥を、彼のいないダイニングテーブルで、普段の倍以上の時間をかけて食べ進めた。当然、食欲はなかった。食道が、小指より細くなった感じで、一飲み一飲みが苦しかった。しかし、この絶望を乗り越えるには、食べなくてはいけないような気がしてならなかった。そのため、私は、それらをワインで流し込んでいった。胃が、それらを、嘆くような音を立てて消化していった。

 食事中、テーブルに置かれた懐中時計は、10時15分を示し続けていた。いくら食べても、いくら嗚咽しても、いくら祈っても、時計は、10時15分のままだった。それが意味するのは、決して幸せなんかではなかった。私だけ、この時間に取り残されたような、そんな孤独感に、私は継続的に襲われていた。

 ファーブノルル・グエンスト、彼は、私が故郷を離れてできた、初めての恋人だった。私が働かせてもらっている、ヴィースおばあさんが経営している小さな本屋の常連だった。彼は、そこに仕事帰りによく立ち寄る、ハットとコートとステッキ(どれも少し緑がかっている)がとても似合う、華やかで、穏やかな男性だった。時間があれば、レジに座るおばあさんと立ち話をした。その中で、彼は徐々に私との距離を縮めてきた。あの子、寂しそうだから、仲良くしてあげて、とおばあさんが裏で糸を引いていたことは、間違いなかった。

「この絵本、君が描いたんだって?」

 私が戸惑っていると、彼が、「おばあさんから聞いたんだ。それにここの作者名、君のネームプレートの名前と、一緒だ」と私の胸元につけられた名札を指さした。これが、私と彼とのファーストコンタクトだった。店で働いている以上、彼を見かけることは多々あったが、彼の視線、声、意識を独占するのは、これが初めてだった。目は、想像以上に柔和な印象を含み、声は、想像以上にダンディだった。緊張で、私は、彼の顔をうまく見ることができなかった。

「とても興味深い物語だったよ。大人も、考えさせられる」

「とんでもございません。ありがとうございます」

「『時計台の中のネズミたち』。タイトルも素敵だ。あの、もしよかったらこの後、すぐそこのカフェで少しお話でも」

「とてもうれしいお誘いなんですけれど、その、私にはまだ仕事が残っていて……」

「そうか」

 落ち込む彼の後方から、おばあさんが、「アイリンちゃん、あんたの今日の残りの仕事は、この常連さんの接待だよ。さっさと、行ってきな」と眼鏡のレンズを磨いていた。そんなの申し訳ないです、と抗議しようとしても、彼女は聞く耳を持ってくれず、延々と眼鏡の手入れをしていた。

 そのようにして彼は、私を近くのカフェに誘い、ランチに誘い、ディナーに誘った。そして、そこから私たちは交際に発展していった。

 その後、私は、彼と5年ほど時間を共にした。しかし、最後に残ったのは、絶大な孤独感と、止まったままの懐中時計と、私をここへ弾き出したあの街と私との間にあった形容し難い反発力の余韻のようなものだった。
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