「クズ夫と愛人にざまぁを。嫁が選んだのは“義父”でした」

木桜 春雨

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9話 「元妻の言葉」

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 「……正幸じゃない?」
 名前を呼ばれて振り返った、その瞬間、正幸の表情がわずかに固まった。
 声の主は、昔、妻だった女性だ。
 正直、会いたい相手ではなかった。
 見覚えのある顔は、別れた頃とあまり変わっていないように見えた。
 いや、正確には――変わっていないように見せるのがうまいのだと思った。
 化粧のせいか、いや、他にも色々とやってるのかもしれないと思った。

 落ち着け、余計な感情を出すな、正幸は自分に言い聞かせた。
 しかし、そんな自分の気持ちなど気づく素振りも見せず、女は昔と同じ距離感で近づいてきた。
 「元気そうね」
 「ああ、君も」
 交わされるのは社交辞令だ、それ以上の言葉を求めていない、自分も彼女もだ。
 少し離れた場所に、長身の若い男が立っていた。
 壁にもたれ、スマホをいじりながら、こちらを見ようともしない。
 艶のある髪、身体に馴染んだ派手な服、明らかに一般人ではないだろう。
 それでも、何となく察しがついた、金と嘘に慣れた人間の匂いだ。
 
 「この間、優一に会ったの。元気そうで、安心したわ」
 「……そうか」
 会話は、そこで一旦、途切れた。
 「正直に言うと、あなたが引き取って一緒に暮らすなんて思わなかった。」
 女は軽く肩をすくめる。
 「あたし、子育て向いてないのよ。改めて思ったわ。」
 悪びれる様子はない、後悔も、言い訳も、そこにはなかった。
 正幸は短く頷いた。自分が何か言ったところで過去のことだ。
 視界の端で、若い男が欠伸を噛み殺している、退屈だと言わんばかりに。
 ――やっぱり、住む世界が違うと思った。
 正幸はそう確信し、女から視線を外した。
 「優一と話していて」
 女は笑った。
 「あの子、あたしに似ているって思ったわ」
 正幸は答えなかった、言葉が出なかったのではない。
 その必要がないと思ったからだ。
 今さら、そんな話を持ち出されても、胸は一切ざわつかなかった。
 自分の中で、答えは出ているのだ。
 「……そうだな」
 口から出たのは、驚くほど平坦な声だ。
 「正直、俺には似てないと思ったよ」
 女は驚いた顔になった。
 そんな言葉が返ってくると思わなかったのかもしれない。
 「本気で言ってるの?」
 正幸は答えなかった、否定も、肯定もしない、いや、今更だと思ったのかもしれない。
 それとも、必要がなかったのか。
 自分が選んだのだ、一緒に生きると決めたときから。
 それだけで、十分だった。
 何が本当で何が違っていたとしても、あの時の自分は確かめる理由、向き合う気力も残っていなかった。
 過去は過去だと、そう思っている。
 
 別れたあと、正幸は立ち止まらずに歩いた。
 ――相変わらずだな。
 近づく距離も、言葉の軽さも、昔のままだ、あの女は、選ぶのも捨てるのも迷わない。
 昔は、その強さが羨ましいと思ったこともある。
 だが今は違う、もう、振り返る理由がない。
 気づけば家はすぐそこだった。

 「ただいま」
 ドアを開けると、足音と「お帰りなさい」という里奈の声が迎えた。
 「寒くなかったですか。お茶、入れますね。それとも珈琲がいいですか」
 「お茶でいい」
 湯気の立つ台所の空気の中で、正幸はさっきの言葉を思い出す。
 ――あの子、あたしに似ている。
 確かに優一は、顔立ちも体格も元妻に寄っている。
 胸の奥に、針で刺したような感覚が走った。
 もし優一が――。
 そこまで考えて、正幸はやめた。
 答えを出すための材料が、今は何もない。
 ただ、考えてしまった。
 その事実だけが、静かに残った。

 男から報告が届いた。
 家族欄。母親は空白――別に珍しくない。女は流すように視線を滑らせた。
 父親の項目を見た瞬間、指が止まった。
 ――声優。
 思考が一拍遅れて追いつく。
 声優? あの、テレビの向こうの仕事の?
 女は無意識に資料を持つ手に力を入れていた。紙がわずかに軋む。
 優一の父親は、どこにでもいる会社員だと思っていた。
 その前提が、たった二文字で崩れる。
 優一は見た目がいい。要領もいい。空気を読むのが上手くて、人に合わせるのが習慣みたいな男だ。
 笑うタイミング、声のトーン、距離の詰め方。全部“正解”を知っている。
 交友関係が広いのも納得できる。
 でも、父親の情報を辿るほど、妙なズレが浮き上がってきた。
 派手さはない、スキャンダルで騒がれるタイプでもない。
 それでも長く仕事を続けている。役の幅も広い。
 映画、アニメの吹き替え。悪役から善人まで、どれもそつがない。
 ――堅実で、職人気質。
 表に出て目立つより、役の中に沈むタイプ。
 女は資料から目を離した。
 そして、もう一度優一を思い出す。あの顔、あの立ち回り、あの軽さ。
 似ているはずの親子が、頭の中で並んだ瞬間。
 噛み合わない。
 血が引くほどではない。けれど、胸の奥がひゅっと冷える。
 パズルのピースが“形だけ合ってる別物”みたいな、不快な感触。
 ……本当に、親子なの?
 女はその言葉を口にしないまま、喉の奥で飲み込んだ。
 断定できない、証拠もない、答えは出ない。
 ただ、違和感だけが消えないままだった。
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