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10話 「だまされたまま、気づかない声」
しおりを挟むその日、映画のチケットを正幸はテーブルの上に置いた。
「知り合いからもらってね。よかったら行ってきたらいい」
警察組織と敵対する犯罪組織の抗争、派手なアクションと騙し合いの内容、彼女の好きそうな内容だと思っていた。
「いいんですか?」
里奈は「行きます」と即答した。
「これ、観たいと思っていた作品なんです。凄く楽しみです。そうだ、今夜、夕飯一緒にどうですか?」
多分、帰ってきたら彼女は映画の感想を話したくてたまらないのだろうと正幸は思った。
その夜、帰ってきた里奈は興奮していた。
「正幸さん、映画、すごかったです!」
玄関を上がるなり、里奈はコートも脱がずに話しかけてきた。
興奮が残っているのか、声が一段高い。
「最初は完全に悪役だと思ってた人が、実はスパイで――敵のふりをして、ずっと裏で動いてたんですよ!」
息をつく暇もなく続ける。
「最後の種明かしで一気に伏線が回収されて、客席から『えっ』って声が出てました。私も、危うく声を出すところでした」
リビングに移動しながら、里奈はバッグの中から、パンフレットを取り出す。
「これです、これ」
差し出されたそれを、正幸は何でもない顔で受け取った。
「それだけじゃないんです、タイトルロールの声優さんの名前、アルファベットとか、当て字ばっかりなんです」
正幸はページをめくりながら、短く相槌を打つ。
「それも、悪役側のキャストだけなんですよ。主要キャラなのに、誰が誰だか分からなくて」
「ざわついてたか?」
里奈は頷いた。
「終わった瞬間、周りが『誰?』『あの声、聞いたことあるよね?』って。考察大会が始まりそうな雰囲気でした」
正幸は、パンフレットから目を離さずに言った。
「映画会社の仕掛けだろう、正体が分かると、物語が壊れる」
淡々とした口調だ。
「だから、あえて隠す。名前を伏せることで、観客の意識を物語から逸らさない」
里奈は、ぱっと顔を輝かせた。
「でも、気になりますよね。悪役の声を演じていた大半の人、有名な人だと思うんです」
「気になるように作ってある」
正幸の言葉に里奈は、一人の役者を指さした。
「それだけじゃないんです。途中で、“この人、二重スパイだ”って思ったんですよ。変装して潜り込んでるタイプだって」
正幸は、黙って聞いている。
「最後に素顔が明かされる流れだと思ったんです。」
里奈はそこで、がっくりと肩を落とした。
正幸は、思わず口元を引き締めた。笑いが漏れそうになるのを、必死でこらえる。
その声を演じていたのは、自分なのだから。
二重スパイ、悪役に見せかけて、時折主人公を助ける役。だから声の調子は、場面ごとに細かく変えてある。
低く、荒く、威圧的に、次の場面では、わずかに柔らかく。
さらに別の場面では、感情を殺した無機質な声で、全部、計算通りだ。
正幸は、何でもない顔でパンフレットをめくる。
「……そういう役もある」
里奈は即座に食いついた。
「だから余計に疑っちゃって。“この人、絶対何か隠してる”って」
正幸は、内心で小さく頷いた。
――隠してるとも。だが、それを言うつもりはない。
里奈はまだ、気づいていない。
自分が、目の前の男の声に、完璧に騙されていたことに。
その事実が、正幸の胸を静かにくすぐった。
愉快だ、実に愉快だ。
正幸は、表情を崩さないまま、パンフレットを閉じる。
「……続編があれば、分かるかもしれんな」
里奈の目が、きらりと光った。
「ですよね!?次こそ正体、出ますよね!」
「どうだろうな」
正幸は、肩をすくめる。
内心では、こう思っていた。
――その時も、彼女は、きっと騙されると。
そしてそれを、またこうして聞くのも、悪くない。
朝食の片付けを終えた頃だった。
「正幸さん」
シンクの前で手を拭きながら、里奈がスマホを持ったまま振り向く。
「優一さんから、メールが来ました」
正幸は思わず顔を上げた。胸の奥が、わずかに強張る。
何かあったのか、トラブルか、それとも――。
その気配を察したのか、里奈は慌てたように言葉を続けた。
「仕事が忙しくて、しばらくは帰国も難しそうだって。向こうのスケジュールが、全然読めないみたいです」
正幸は、ほっと息をついた。
だが同時に、その一文の重さも理解する。
短期の出張ではない。先が見えないということだ。
言葉を切った里奈は、少し困ったような表情になる。
「あ、あの……“何かあったら、オヤジに頼れ”って」
口にしながらも、その言い回しを気にしているようだった。
自分が頼る側に置かれたことを感じているのかもしれない。
正直、無理もないと正幸は思った。
「きっと、心配なんだと思います」
どこか遠慮がちに、そう付け加える。
「ああ……そうだな」
単身で行くと決めたのは優一だ。
それでも、日本に残した妻と父のことが、頭から離れないのだろう。
正幸は、少し間を置いてから言った。
「後で、俺から返信しておくよ。仕事に集中しろって。こっちは大丈夫だから、心配するなってな」
その言葉に、里奈が、はっとしたように顔を上げる。
「正幸さんから……ですか?」
「息子が“オヤジに頼れ”って言ってきたんだ。一言くらい返しておかないと、あいつも落ち着かないだろう」
軽く言ったつもりだ、だが、自分の声に混じったものを、正幸ははっきりと自覚していた。
――任された、という意識だ。
里奈は、その空気を感じ取ったのか、ほっとしたように微笑んだ。
その表情を見て、正幸は改めて理解する。
自分は、息子夫婦の家に身を寄せているだけの舅ではない。
留守を預かる、優一がいない間、この家と、里奈を任されている。
何かあれば前に出る立場だと、正幸は、そう自分の中で位置を定めた。
「お願いします」
里奈に頭を下げられて、改めて思い知らされる。
優一の不在と、託された言葉、その両方が、静かに重なっていくのを、正幸は感じていた。
女は、自分が行き詰まっていることを認めざるを得なかった。
依頼していた男から届いた報告は、簡潔で、冷たい。
――優一は日本にいない。
海外出張。帰国の目処は立たない。接触の糸口も掴めない。
「付き合っていた女たちも、同じ、正確には――同類ですね」
男は言葉を選びながら続けた。
「探られたら困るのは優一じゃない。自分たちだと、わかってる」
女はすぐに反論できなかった。
借金。恋人関係。揉め事。どれも過去だ。
だが、晒されれば終わる。社会的にではなく、“自分の立場”が。
優一はそれを理解している。
脅しの言葉も、条件の提示もいらない。相手が失いたくないものを知っているだけでいい。
だから女たちは、黙る。自分で選んだ顔をして、口を閉ざす。
報告は理にかなっていた。
それでも女の胸の奥には、苛立ちが沈殿していく。
証拠がない。なのに、感覚だけが言う。
――優一は、ただの善人でも悪人でもない。
女は、ふっと顔を上げた。
「……結婚しているのよね」
男が「はい」と答えかけて、言葉を切る。
その沈黙で十分だった。
女は静かにうなずいた。
次に探るべき相手が、はっきりしたからだ。
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