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12話 「夜の街で、見かけた光景」
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女が、直接会って話がしたいと英太郎に連絡してきた。
そのために選んだ場所は駅から少し外れた喫茶店だった。
夜も遅く、寒さのせいもあってか、店内に客の姿は少ない。
低い照明の下で、時間がゆっくりと流れている。
女は、カップに手を添えたまま言った。
「正幸さんに、直接聞くつもり」
その一言に、英太郎は思わず顔を上げた。
「……何を」
「桜川という名前を、知っているかどうか」
嫌な感覚が走る。驚きよりも先に英太郎は危うさを感じた。
「やめろ」
英太郎は、即座に言った。
「今、正幸さんは里奈さんと暮らしている」
女が目を見開く。
「……同居、しているの?」
英太郎はうなずいた。
「俺が見た限り、偶然、息子の家に立ち寄っていた、そんな感じじゃなかった」
それは、感覚的なものだ。だが、英太郎自身、間違いではないと確信している。
女は黙り込む。桜川という名前を投げることが、どれほど多くのものを揺らすのか。
自分の中に現実として迫ってきたのだろう。
しばらくは無言のままだったが、二人は会計を済ませ、店を出た。
外は冷えていた。吐く息が白く、街灯の光がにじんで見える。
通りを挟んだ向こう側、少し離れた場所に、一人の男が立っている。
英太郎の視線が吸い寄せられるように釘付けになった。声が、出ない。
「どうしたの」
後ろから、女の声がかかる。
英太郎は、視線を外さないまま、低く呟いた。
視線の先を追って、女も気づいた。
遠目でも分かる、年相応の男性、派手さも、芸能人特有の雰囲気もない。
そのときだった。
建物から女性が出てきた、胸に、大きな袋を抱えている。
英太郎の喉が、小さく鳴った。
「……里奈さん」
声を落とし、周囲を一瞬だけ確かめる。
英太郎は以前、優一が笑いながら話していた言葉を思い出した。
(里奈は映画が好きで、夜遅くても一人で出かけるんだよ)
終電を逃して、漫画喫茶に泊まったことがある、とも。
けれど、その出来事を里奈は良くないと感じたらしい。
だから今は、遅くなっても泊まらず、必ず家に帰るようにしている――優一はそんなふうに話していた。
ただ、時間が時間だ。
このあたりは賑やかな繁華街に隣接していて、少し歩けば歓楽街も近い。
夜更けの空気は、安心できる種類のものじゃない。
だからこそ、今日みたいな時間帯なら、同行する理由はある。
正幸は、ただ心配で付いてきただけ、英太郎はそう結論づけた。
二人は歩き出した。
肩を並べるほど近くはない。けれど、離れすぎてもいない。
追いかけるでも、置いていくでもない距離――守るための距離に見えた。
正幸と里奈は、一定の距離を保って歩いている。
肩が触れ合うほど近くはない、だが、離れすぎてもいない。
並んではいるが、寄り添ってはいない。
歩幅も揃えすぎず、無理に合わせている様子もない。
英太郎は、小さく言った。
「近すぎるようには見えない。かといって、他人みたいに離れてもいない」
女は黙ったまま、視線を向ける。
街灯の下で、二人の影がわずかに重なり、すぐに離れる。
正幸は前を向き、里奈は抱えた袋を気にしている。
視線を絡めることも、触れ合うこともない。
「心配して一緒に来ただけに見えないか」
英太郎は続ける。
言い切らない、断定もしない。
ただ、目に映るものだけを言葉にする。
「変な関係なら、もっと違う歩き方をする」
その声に感情はない。
観察の結果だけがある。
女は、もう一度二人を見た。
確かにそこにあるのは、
甘さでも、秘密めいた空気でもない。
ただ、同じ方向へ帰る二人の背中。
並んでいる、それだけだ。
英太郎は、それ以上何も言わなかった。
疑えば、いくらでも疑える。
だが、今見えている光景は、それを裏付けるものではなかった。
通りの向こうに、立ち止まる人影があった。
街灯の下、輪郭だけが浮かび上がる。
――似ている、息子の友人に、と正幸は思った。
だが距離がある、光の加減も悪い。
正直、確信は持てない。
視線を向けたまま、ほんの一瞬だけ足が止まる。
夜風が、コートの裾を揺らした。車の走る音が、低く流れる。
「……どうしました?」
隣で里奈が小さく問いかける。
正幸は、ゆっくりと首を振った。
「いや」
それ以上は言わない。
もう一度、通りの向こうを見る。
だがその影は、すでに人混みに紛れていた。
気のせいかもしれない。
そう結論づけるように、正幸は歩き出す。
里奈も何も言わず、歩き出した。
その夜、正幸はメールを送った。
電話はしなかった、時差の問題もあるが、それだけではない。
息子は仕事で神経を使っているはずだ。
休める時間に、無用な着信で呼び戻す必要はない。
短い文面でいい。
「こっちのことは心配するな。夜が遅い日は俺がついている。」
それだけを打ち込む。
「何かあったらオヤジを頼れ」
そう書いてきた息子を、安心させるための一言だ。
余計な説明はしない。
生活の細かな報告も、感情も添えない。
仕事以外の長い文章など、今は読みたくないだろうと分かっている。
父親にできるのは、余計な心配をさせないことだけだ。
翌朝、短い通知音が鳴った。
表示された文字は、たった一行。
「ありがとう」
短い一文だ。その言葉に、どれほどの本心が含まれているのかは分からない。
だが余計なことを言わないところは昔から変わらない。
似ているのか。
似ていないのか。
正幸は、画面を伏せた。父と息子のやり取りなど、こんなものだ。
長い文章を交わす関係でもない。
台所から、食器の触れ合う音が聞こえる。
いつもと変わらない朝の気配。
正幸はその音に耳を澄ませた。今の自分にできることは一つだ。
この日常を守ること。
それが、何よりも優先されるべきものだと、
静かに思った。
その日の夕方、女はスーパーで買い物をしている二人を偶然見かけた。
数日前、喫茶店の前で目にした光景が脳裏をよぎった。夜の街灯の下、一定の距離を保って歩く二人。
女は無意識に陳列棚の陰で足を止めた。
二人は淡々と買い物を続けている。
里奈がかごを押し、正幸が横につく。寄り添ってはいない。だが、迷いもない。
値札を確かめ、必要なものだけを手に取っていく手つきが、慣れていた。
レジに並ぶと、里奈は商品を流し台に置くように一つずつ出し、最後にかごを正幸のほうへ滑らせた。
正幸は何も言わず、財布を出した。
里奈は礼を言わない。見もしない。
ただ、次の袋詰めに手を動かしている。
――分担。
女の胸の奥が、ひやりと冷えた。
そこにあったのは、気遣いでも遠慮でもない。
“いつもの動き”だった
そのために選んだ場所は駅から少し外れた喫茶店だった。
夜も遅く、寒さのせいもあってか、店内に客の姿は少ない。
低い照明の下で、時間がゆっくりと流れている。
女は、カップに手を添えたまま言った。
「正幸さんに、直接聞くつもり」
その一言に、英太郎は思わず顔を上げた。
「……何を」
「桜川という名前を、知っているかどうか」
嫌な感覚が走る。驚きよりも先に英太郎は危うさを感じた。
「やめろ」
英太郎は、即座に言った。
「今、正幸さんは里奈さんと暮らしている」
女が目を見開く。
「……同居、しているの?」
英太郎はうなずいた。
「俺が見た限り、偶然、息子の家に立ち寄っていた、そんな感じじゃなかった」
それは、感覚的なものだ。だが、英太郎自身、間違いではないと確信している。
女は黙り込む。桜川という名前を投げることが、どれほど多くのものを揺らすのか。
自分の中に現実として迫ってきたのだろう。
しばらくは無言のままだったが、二人は会計を済ませ、店を出た。
外は冷えていた。吐く息が白く、街灯の光がにじんで見える。
通りを挟んだ向こう側、少し離れた場所に、一人の男が立っている。
英太郎の視線が吸い寄せられるように釘付けになった。声が、出ない。
「どうしたの」
後ろから、女の声がかかる。
英太郎は、視線を外さないまま、低く呟いた。
視線の先を追って、女も気づいた。
遠目でも分かる、年相応の男性、派手さも、芸能人特有の雰囲気もない。
そのときだった。
建物から女性が出てきた、胸に、大きな袋を抱えている。
英太郎の喉が、小さく鳴った。
「……里奈さん」
声を落とし、周囲を一瞬だけ確かめる。
英太郎は以前、優一が笑いながら話していた言葉を思い出した。
(里奈は映画が好きで、夜遅くても一人で出かけるんだよ)
終電を逃して、漫画喫茶に泊まったことがある、とも。
けれど、その出来事を里奈は良くないと感じたらしい。
だから今は、遅くなっても泊まらず、必ず家に帰るようにしている――優一はそんなふうに話していた。
ただ、時間が時間だ。
このあたりは賑やかな繁華街に隣接していて、少し歩けば歓楽街も近い。
夜更けの空気は、安心できる種類のものじゃない。
だからこそ、今日みたいな時間帯なら、同行する理由はある。
正幸は、ただ心配で付いてきただけ、英太郎はそう結論づけた。
二人は歩き出した。
肩を並べるほど近くはない。けれど、離れすぎてもいない。
追いかけるでも、置いていくでもない距離――守るための距離に見えた。
正幸と里奈は、一定の距離を保って歩いている。
肩が触れ合うほど近くはない、だが、離れすぎてもいない。
並んではいるが、寄り添ってはいない。
歩幅も揃えすぎず、無理に合わせている様子もない。
英太郎は、小さく言った。
「近すぎるようには見えない。かといって、他人みたいに離れてもいない」
女は黙ったまま、視線を向ける。
街灯の下で、二人の影がわずかに重なり、すぐに離れる。
正幸は前を向き、里奈は抱えた袋を気にしている。
視線を絡めることも、触れ合うこともない。
「心配して一緒に来ただけに見えないか」
英太郎は続ける。
言い切らない、断定もしない。
ただ、目に映るものだけを言葉にする。
「変な関係なら、もっと違う歩き方をする」
その声に感情はない。
観察の結果だけがある。
女は、もう一度二人を見た。
確かにそこにあるのは、
甘さでも、秘密めいた空気でもない。
ただ、同じ方向へ帰る二人の背中。
並んでいる、それだけだ。
英太郎は、それ以上何も言わなかった。
疑えば、いくらでも疑える。
だが、今見えている光景は、それを裏付けるものではなかった。
通りの向こうに、立ち止まる人影があった。
街灯の下、輪郭だけが浮かび上がる。
――似ている、息子の友人に、と正幸は思った。
だが距離がある、光の加減も悪い。
正直、確信は持てない。
視線を向けたまま、ほんの一瞬だけ足が止まる。
夜風が、コートの裾を揺らした。車の走る音が、低く流れる。
「……どうしました?」
隣で里奈が小さく問いかける。
正幸は、ゆっくりと首を振った。
「いや」
それ以上は言わない。
もう一度、通りの向こうを見る。
だがその影は、すでに人混みに紛れていた。
気のせいかもしれない。
そう結論づけるように、正幸は歩き出す。
里奈も何も言わず、歩き出した。
その夜、正幸はメールを送った。
電話はしなかった、時差の問題もあるが、それだけではない。
息子は仕事で神経を使っているはずだ。
休める時間に、無用な着信で呼び戻す必要はない。
短い文面でいい。
「こっちのことは心配するな。夜が遅い日は俺がついている。」
それだけを打ち込む。
「何かあったらオヤジを頼れ」
そう書いてきた息子を、安心させるための一言だ。
余計な説明はしない。
生活の細かな報告も、感情も添えない。
仕事以外の長い文章など、今は読みたくないだろうと分かっている。
父親にできるのは、余計な心配をさせないことだけだ。
翌朝、短い通知音が鳴った。
表示された文字は、たった一行。
「ありがとう」
短い一文だ。その言葉に、どれほどの本心が含まれているのかは分からない。
だが余計なことを言わないところは昔から変わらない。
似ているのか。
似ていないのか。
正幸は、画面を伏せた。父と息子のやり取りなど、こんなものだ。
長い文章を交わす関係でもない。
台所から、食器の触れ合う音が聞こえる。
いつもと変わらない朝の気配。
正幸はその音に耳を澄ませた。今の自分にできることは一つだ。
この日常を守ること。
それが、何よりも優先されるべきものだと、
静かに思った。
その日の夕方、女はスーパーで買い物をしている二人を偶然見かけた。
数日前、喫茶店の前で目にした光景が脳裏をよぎった。夜の街灯の下、一定の距離を保って歩く二人。
女は無意識に陳列棚の陰で足を止めた。
二人は淡々と買い物を続けている。
里奈がかごを押し、正幸が横につく。寄り添ってはいない。だが、迷いもない。
値札を確かめ、必要なものだけを手に取っていく手つきが、慣れていた。
レジに並ぶと、里奈は商品を流し台に置くように一つずつ出し、最後にかごを正幸のほうへ滑らせた。
正幸は何も言わず、財布を出した。
里奈は礼を言わない。見もしない。
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