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13話 「女の疑惑の答え」
その日の夜、女は英太郎に電話をかけた。
文字では、熱が伝わらないと思ったのだ。
「……どうした」
繋がった声は落ち着いていた。けれど女には、その静けさが遠い。
「スーパーで二人を見たんです」
「二人?」
「正幸さんと里奈。里奈が、舅を“名前”で呼んでました」
英太郎が黙る。
“名前で”――その一言が、軽いはずなのに重い。
「……それだけか」
慎重な声だった。否定ではない。ただ、確証にするには足りないと知っている声。
「十分でしょう」
女は言い切った。抑えたぶん、熱が濃くなる。
「あれは、ただの呼び方じゃない。距離がある人間の呼び方じゃない」
英太郎は息を吐いた。
あの夜、二人が帰っていく背中を思い出す。近すぎず、離れすぎず。守るような距離に見えた。
――けれど、“名前”は別の意味を連れてくる。
「決めつけるのは早い」
それでも言うしかない。女の熱に引きずられたら、話は真っ直ぐ崩れる。
電話の向こうで女が黙った。
同意が欲しい沈黙だ。英太郎は、そこに乗らない。
「……今は、何とも言えない」
そう言って切った。
通話が終わっても、英太郎の胸のざらつきは消えなかった。
確かめる方法がない。優一には聞けない。正幸本人にも、こんな形では聞けない。
答えのないまま、違和感だけが残る。
そして――駅前の交差点で信号を待っていたとき。
「久しぶりだな」
穏やかな声に振り返ると、正幸が立っていた。
隣には里奈がいる。
目が合うと、里奈は軽く会釈を返し、気づかうように言った。
「先に帰ってますね、正幸さん」
その呼び方が、英太郎の意識を一気に引き戻す。
里奈はそれ以上何も言わず、足早に人の流れへ消えた。
残ったのは、正幸と英太郎だけだった。
英太郎の脳裏に、あの夜の光景が浮かんだ、夜の帰り道、一定の距離を保って歩く二人。
距離が感じられた、そこに不自然さはなかった。
だが――“名前”という呼び方は、距離を縮める響きを持つ。
電話の向こうで、英太郎は、すぐにはには答えられなかった。
女の疑惑に答えが出せないのだ。
「……今は、何とも言えない」
正直な答え、いや、気持ちだ、だが、女は違う。
「私は、変だと思います。あり得ないでしょう、普通に考えて」
はっきりと言い切った。
英太郎はしばらく黙ったまま、言葉を探した。
「……決めつけるのは早い」
それは女を諭すための言葉でもあり、自分に言い聞かせる言葉でもあった。
電話の向こうが沈黙した、多分疑念と疑惑が。
だが、はっきりとした確証はない。
その曖昧さが、二人の間に重く横たわっていた。
女との会話を思い出すたびに、英太郎は落ち着かなかった。
友人の妻が、舅を名前で呼ぶ、言葉にしてしまえば、それだけのことだ。
だが、女はそこに深い意味を見出している。
英太郎は、まさかと思った。
だが、湧いてきた負の感情、疑惑を確認する術はない。
優一には聞けない、こんなことは、いや、正幸本人にもだ。
駅前の交差点で、信号を待っていたときだ。
穏やかな声に慌てて振り返ると、そこには正幸が居た。
英太郎は一瞬、言葉を失った。
隣に立つ里奈と目が合うと、彼女は軽く会釈を返してきた。
空気を読んだのだろう。
「先に帰ってますね、正幸さん」
正幸は自然に頷いた。
里奈は何も言わずに歩き去っていく。
残されたのは、二人だけだ。
「名前で呼ぶんですか」
英太郎は尋ねた。
「外ではな、声で気づかれることがある」
信号が変わると正幸が歩き出した。
「今は顔なんて関係ない。声が似てる、それだけでな」
正幸は周囲に人がいるのを意識したように、声をひとつ落として続けた。
「優一も里奈さんに、強く言ってる」
英太郎は驚いた、里奈に――「お義父さん」と呼ぶなと?。
自分の表情から察したのだろう、正幸は頷いた。
「俺と優一が外で立ち話してるだけでも、見てくる人はいるんだよ。声だけで気づくんだろうな」
淡々とした口調だが、逆に現実味を増した。
笑い話にする余裕がない。だからこそ本当なのだと、英太郎は理解してしまう。
「里奈さんが『お義父さん』なんて呼んだら――家族だって分かるだろ。」
正幸は言葉を選びながら、短く吐き出す。
「住んでる場所だけじゃない、その気になればすぐわかる、スマホ一つで、家族のことまでな」
他人が好奇心の赴くまま、勝手に掘り始める――そういう時代なのだ。
……だから、里奈は名前で呼ぶ。
「面倒だがな。仕事と生活を分けて。……家族を巻き込まないためでもある」
英太郎の中で違和感が静かに形を変えた。
里奈の呼び方は、親しさの証でも、歪んだ関係の匂いでもない。
むしろ逆だ、外から勝手に踏み込まれないように、線を引くための選択だ。
喫茶店に呼び出された時点で、女は察していた。
長引かせるつもりはない――そういう呼び出し方だ。
喫茶店で向かい合うなり、英太郎は前置きを捨てた。
「正幸さんに会った」
女の目が、わずかに動く。
「里奈さんも一緒だった。呼び方のことも、聞いた」
「……あなたが直接?」
女の声に、驚きと苛立ちが混じる。踏み込まれたこと自体が気に入らない。
英太郎は淡々と続けた。
「外では“お義父さん”って呼ばない。そう決めてる」
「……どうして」
「声だ」
女が眉を寄せる。英太郎は短く言葉を積む。
「正幸さんは声の仕事をしてる。声って、顔より残る。気づくやつは気づく」
「それだけで?」
「“家族”って分かった瞬間、面白半分で掘る人間が出る。だから線を引く。巻き込まないために」
女はカップを持ったまま黙る。納得はしていない。
けれど、理由が“筋”として通っているのも分かってしまっている顔だ。
「じゃあ、私のは……勘違い?」
声が絞れる。自分の違和感を丸ごと否定されたくない。
「俺は、そう見えた」
英太郎は言い切りはしない。だが、逃げもしない。
「正幸さんの言い方も、里奈さんの態度も、“隠す”って空気じゃなかった。守るための線に見えた」
女は視線を落とした。
指先がカップの縁をなぞる。落ち着かない仕草だ。
「でも、まだ引っかかるのよ」
小さな声だった。
疑いを手放したくないのではない。答えが欲しいだけだ――そういう焦りが滲んでいる。
英太郎は、それ以上押さなかった。
ここで言葉を足せば、また女の熱に火がつく。
説明しきった側の静けさと、割り切れない側の沈黙が、テーブルの上に並んだ。
文字では、熱が伝わらないと思ったのだ。
「……どうした」
繋がった声は落ち着いていた。けれど女には、その静けさが遠い。
「スーパーで二人を見たんです」
「二人?」
「正幸さんと里奈。里奈が、舅を“名前”で呼んでました」
英太郎が黙る。
“名前で”――その一言が、軽いはずなのに重い。
「……それだけか」
慎重な声だった。否定ではない。ただ、確証にするには足りないと知っている声。
「十分でしょう」
女は言い切った。抑えたぶん、熱が濃くなる。
「あれは、ただの呼び方じゃない。距離がある人間の呼び方じゃない」
英太郎は息を吐いた。
あの夜、二人が帰っていく背中を思い出す。近すぎず、離れすぎず。守るような距離に見えた。
――けれど、“名前”は別の意味を連れてくる。
「決めつけるのは早い」
それでも言うしかない。女の熱に引きずられたら、話は真っ直ぐ崩れる。
電話の向こうで女が黙った。
同意が欲しい沈黙だ。英太郎は、そこに乗らない。
「……今は、何とも言えない」
そう言って切った。
通話が終わっても、英太郎の胸のざらつきは消えなかった。
確かめる方法がない。優一には聞けない。正幸本人にも、こんな形では聞けない。
答えのないまま、違和感だけが残る。
そして――駅前の交差点で信号を待っていたとき。
「久しぶりだな」
穏やかな声に振り返ると、正幸が立っていた。
隣には里奈がいる。
目が合うと、里奈は軽く会釈を返し、気づかうように言った。
「先に帰ってますね、正幸さん」
その呼び方が、英太郎の意識を一気に引き戻す。
里奈はそれ以上何も言わず、足早に人の流れへ消えた。
残ったのは、正幸と英太郎だけだった。
英太郎の脳裏に、あの夜の光景が浮かんだ、夜の帰り道、一定の距離を保って歩く二人。
距離が感じられた、そこに不自然さはなかった。
だが――“名前”という呼び方は、距離を縮める響きを持つ。
電話の向こうで、英太郎は、すぐにはには答えられなかった。
女の疑惑に答えが出せないのだ。
「……今は、何とも言えない」
正直な答え、いや、気持ちだ、だが、女は違う。
「私は、変だと思います。あり得ないでしょう、普通に考えて」
はっきりと言い切った。
英太郎はしばらく黙ったまま、言葉を探した。
「……決めつけるのは早い」
それは女を諭すための言葉でもあり、自分に言い聞かせる言葉でもあった。
電話の向こうが沈黙した、多分疑念と疑惑が。
だが、はっきりとした確証はない。
その曖昧さが、二人の間に重く横たわっていた。
女との会話を思い出すたびに、英太郎は落ち着かなかった。
友人の妻が、舅を名前で呼ぶ、言葉にしてしまえば、それだけのことだ。
だが、女はそこに深い意味を見出している。
英太郎は、まさかと思った。
だが、湧いてきた負の感情、疑惑を確認する術はない。
優一には聞けない、こんなことは、いや、正幸本人にもだ。
駅前の交差点で、信号を待っていたときだ。
穏やかな声に慌てて振り返ると、そこには正幸が居た。
英太郎は一瞬、言葉を失った。
隣に立つ里奈と目が合うと、彼女は軽く会釈を返してきた。
空気を読んだのだろう。
「先に帰ってますね、正幸さん」
正幸は自然に頷いた。
里奈は何も言わずに歩き去っていく。
残されたのは、二人だけだ。
「名前で呼ぶんですか」
英太郎は尋ねた。
「外ではな、声で気づかれることがある」
信号が変わると正幸が歩き出した。
「今は顔なんて関係ない。声が似てる、それだけでな」
正幸は周囲に人がいるのを意識したように、声をひとつ落として続けた。
「優一も里奈さんに、強く言ってる」
英太郎は驚いた、里奈に――「お義父さん」と呼ぶなと?。
自分の表情から察したのだろう、正幸は頷いた。
「俺と優一が外で立ち話してるだけでも、見てくる人はいるんだよ。声だけで気づくんだろうな」
淡々とした口調だが、逆に現実味を増した。
笑い話にする余裕がない。だからこそ本当なのだと、英太郎は理解してしまう。
「里奈さんが『お義父さん』なんて呼んだら――家族だって分かるだろ。」
正幸は言葉を選びながら、短く吐き出す。
「住んでる場所だけじゃない、その気になればすぐわかる、スマホ一つで、家族のことまでな」
他人が好奇心の赴くまま、勝手に掘り始める――そういう時代なのだ。
……だから、里奈は名前で呼ぶ。
「面倒だがな。仕事と生活を分けて。……家族を巻き込まないためでもある」
英太郎の中で違和感が静かに形を変えた。
里奈の呼び方は、親しさの証でも、歪んだ関係の匂いでもない。
むしろ逆だ、外から勝手に踏み込まれないように、線を引くための選択だ。
喫茶店に呼び出された時点で、女は察していた。
長引かせるつもりはない――そういう呼び出し方だ。
喫茶店で向かい合うなり、英太郎は前置きを捨てた。
「正幸さんに会った」
女の目が、わずかに動く。
「里奈さんも一緒だった。呼び方のことも、聞いた」
「……あなたが直接?」
女の声に、驚きと苛立ちが混じる。踏み込まれたこと自体が気に入らない。
英太郎は淡々と続けた。
「外では“お義父さん”って呼ばない。そう決めてる」
「……どうして」
「声だ」
女が眉を寄せる。英太郎は短く言葉を積む。
「正幸さんは声の仕事をしてる。声って、顔より残る。気づくやつは気づく」
「それだけで?」
「“家族”って分かった瞬間、面白半分で掘る人間が出る。だから線を引く。巻き込まないために」
女はカップを持ったまま黙る。納得はしていない。
けれど、理由が“筋”として通っているのも分かってしまっている顔だ。
「じゃあ、私のは……勘違い?」
声が絞れる。自分の違和感を丸ごと否定されたくない。
「俺は、そう見えた」
英太郎は言い切りはしない。だが、逃げもしない。
「正幸さんの言い方も、里奈さんの態度も、“隠す”って空気じゃなかった。守るための線に見えた」
女は視線を落とした。
指先がカップの縁をなぞる。落ち着かない仕草だ。
「でも、まだ引っかかるのよ」
小さな声だった。
疑いを手放したくないのではない。答えが欲しいだけだ――そういう焦りが滲んでいる。
英太郎は、それ以上押さなかった。
ここで言葉を足せば、また女の熱に火がつく。
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