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29話
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その場所は、王都の北側、使われなくなった旧図書院の裏庭だった。
古い蔦に覆われた石壁と、苔むしたベンチ。
昼を少し過ぎた時刻、そこには誰の視線も届かない、微かな静寂があった。
ロジーナは、胸の内に確かな緊張を抱えたまま、その場所に立っていた。
「……来て、くれたのね」
姿を現したのは、フードを深く被った細い影。
リリィ=クロフォード――王国の“聖女”。
だがその足取りは、聖女とは思えぬほど不安定で、影のように揺れていた。
「……どうしても……誰かに、言いたかったの」
彼女の唇は震えていた。
その声には、力も威厳もなかった。
「“あの夜”、神殿で示された神託……あれは、わたしが見たものじゃない。……私が書いたものでも、ないの」
ロジーナは目を見開いた。
「……偽装……された、ということ?」
リリィはうなずいた。
そして、目元を押さえるようにして、口を噛んだ。
「わたしが視た未来は、“誰も断罪されない穏やかな夜”だったの。けど……書かれていたのは、“公爵令嬢に災いあり”って」
「誰が?」
「分からない。分かりたくない。でも……あのとき神官長様は、何も言わなかった。目が……全部を見ていた目だった」
ロジーナは息を呑んだ。
ミカエル――彼もまた、沈黙を選んだというのか。
「でも、どうして今になって、私に?」
リリィは、ようやく顔を上げた。
その瞳には涙の跡と、微かな怒り、そして――恐怖が宿っていた。
「……私は、ただの人間よ。皆が“聖女”にしただけ。
でも彼女は……あの人は、誰にも“作られて”いないの。最初から、そこにいたのよ」
「……シャルロットのこと?」
リリィは小さくうなずいた。
「彼女の香りに触れた人は……皆、自分を取り戻すの。私みたいに“役割”にしがみつかなくても、生きていけるって思わせてくれる。……私、怖かったの。彼女に“聖女の座”を奪われることが……でも、本当に怖いのは、嘘を守ることだった」
その場に座り込むようにして、リリィは声を詰まらせた。
「でも、私の口じゃ……言えないの……言ったら、私……」
彼女の指が小さく震えていた。
ロジーナは、ゆっくりと彼女の隣に腰を下ろした。
「じゃあ、私が書く。……証拠にはならなくても、誰かが“真実だった”って記録しなきゃ、何も変わらないから」
「……ありがとう」
リリィは、涙の中で小さく笑った。
その表情は、ようやく“聖女”ではなく、“一人の少女”のものになっていた。
*
その夜、ロジーナは手記を綴りながら、セバスティアンに報告を行った。
「確証にはならない。でも、これが“何も知らない”彼女のためにできることよ」
セバスティアンは黙ってその言葉を受け取った。
そして深くうなずいた。
「記録に残すだけで意味がある。……それが、後に“証”となる日もあるでしょう」
そしてロジーナは、ページの一番下に静かに書き記す。
――“あの夜、神託は偽られた”――
それが、誰にも届かぬ真実であっても。
彼女の言葉は、確かに香りのように、この国の空気の中に溶け始めていた。
古い蔦に覆われた石壁と、苔むしたベンチ。
昼を少し過ぎた時刻、そこには誰の視線も届かない、微かな静寂があった。
ロジーナは、胸の内に確かな緊張を抱えたまま、その場所に立っていた。
「……来て、くれたのね」
姿を現したのは、フードを深く被った細い影。
リリィ=クロフォード――王国の“聖女”。
だがその足取りは、聖女とは思えぬほど不安定で、影のように揺れていた。
「……どうしても……誰かに、言いたかったの」
彼女の唇は震えていた。
その声には、力も威厳もなかった。
「“あの夜”、神殿で示された神託……あれは、わたしが見たものじゃない。……私が書いたものでも、ないの」
ロジーナは目を見開いた。
「……偽装……された、ということ?」
リリィはうなずいた。
そして、目元を押さえるようにして、口を噛んだ。
「わたしが視た未来は、“誰も断罪されない穏やかな夜”だったの。けど……書かれていたのは、“公爵令嬢に災いあり”って」
「誰が?」
「分からない。分かりたくない。でも……あのとき神官長様は、何も言わなかった。目が……全部を見ていた目だった」
ロジーナは息を呑んだ。
ミカエル――彼もまた、沈黙を選んだというのか。
「でも、どうして今になって、私に?」
リリィは、ようやく顔を上げた。
その瞳には涙の跡と、微かな怒り、そして――恐怖が宿っていた。
「……私は、ただの人間よ。皆が“聖女”にしただけ。
でも彼女は……あの人は、誰にも“作られて”いないの。最初から、そこにいたのよ」
「……シャルロットのこと?」
リリィは小さくうなずいた。
「彼女の香りに触れた人は……皆、自分を取り戻すの。私みたいに“役割”にしがみつかなくても、生きていけるって思わせてくれる。……私、怖かったの。彼女に“聖女の座”を奪われることが……でも、本当に怖いのは、嘘を守ることだった」
その場に座り込むようにして、リリィは声を詰まらせた。
「でも、私の口じゃ……言えないの……言ったら、私……」
彼女の指が小さく震えていた。
ロジーナは、ゆっくりと彼女の隣に腰を下ろした。
「じゃあ、私が書く。……証拠にはならなくても、誰かが“真実だった”って記録しなきゃ、何も変わらないから」
「……ありがとう」
リリィは、涙の中で小さく笑った。
その表情は、ようやく“聖女”ではなく、“一人の少女”のものになっていた。
*
その夜、ロジーナは手記を綴りながら、セバスティアンに報告を行った。
「確証にはならない。でも、これが“何も知らない”彼女のためにできることよ」
セバスティアンは黙ってその言葉を受け取った。
そして深くうなずいた。
「記録に残すだけで意味がある。……それが、後に“証”となる日もあるでしょう」
そしてロジーナは、ページの一番下に静かに書き記す。
――“あの夜、神託は偽られた”――
それが、誰にも届かぬ真実であっても。
彼女の言葉は、確かに香りのように、この国の空気の中に溶け始めていた。
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