悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。

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44話

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帝国南東の農村地帯、ルゥナ=フェリシェが三日間滞在したというだけで、小麦の発育は例年の倍、雨は過不足なく降り、村人の間からは笑顔が消えなかった。  
風が心地よく吹き抜け、病を抱えていた老人が立ち上がり、子供たちは喧嘩ひとつせずに遊ぶ。

「……これは、奇跡じゃ」

「いや、あの方が歩いてくださったからじゃ。村の空気そのものが変わった……」

「このまま、ずっといてくださればええのに……」

そうして始まったのは、小さな署名だった。

“ルゥナ様を帝国に。帰国させず、この地の祝福としてお守りしたい”

それは最初、村の長老が書いた一通の手紙からだった。  
手製の用紙に、震える筆致で書かれた願いは、数日で周辺の村に届き、やがて帝都の新聞に掲載される。

「帰らないで、ルゥナ様」

「あなたがいると、空が明るい」

「笑うだけで、種が芽吹くのです」

“祝福の声”は広がり続けた。  
市場では香草の包みに“ルゥナの香り”と名付けられた新商品が登場し、  
宿屋の看板には“迷い姫も泊まった部屋”の文字が躍る。

誰もが信じて疑わなかった。  
この令嬢は、人の姿をした祝福だと。

そして、帝国評議会には、各地から集められた署名が山積みとなった。  
数は千、二千、やがて万に達し、陛下への直訴も始まった。

「どうか、ルゥナ様を帝国に」

「彼女が歩くたび、命が芽吹く。風が優しくなる」

「こんなにも国が穏やかになったのは、何年ぶりだ」

皇帝ヴィクトールは、その山のような署名書を前に微笑んだ。  
指先で一通を手に取り、封蝋を静かに外す。

「……子供の字だな。“ルゥナお姉ちゃん、パンくれてありがとう。また来てね”か」

彼の笑みは穏やかだったが、その声は重く宮殿中に響いた。

「これは、民の声だ。ならば、帝国は応えねばなるまい」

一方、当の本人はと言えば――

「まぁ、このパン屋さん、バターが少し多めで好みですわね」

港町の一角、猫と並んでパンを頬張っていた。  
署名活動が起こっていることなど露知らず、  
ただ目の前のパンと風の香りに心を寄せていた。

「……少し風が強くなってきましたわ。きっと、次の街へ向かう合図ですのね」

彼女が立ち上がると同時に、そのパン屋では売上が二倍に跳ね上がる。  
“令嬢が風を受けた日”として記念日とされるのは、また別の話である。

もはや帝国全土が、“帰らせない”空気に染まりつつあった。  
それは命令でも、政策でもなく――  
純粋な感謝と、希望の風が運ぶ、真っ直ぐな願いだった。
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