悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。

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婚約編

64話

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帝都の夕暮れ、広場の石畳に橙色の影が伸びていた。  
ルゥナ=フェリシェは、その光の中で静かに歩を進めていた。  
手には日傘、腕には猫。いつもと変わらぬ、けれど少しだけ胸がざわめく午後。

ふいに、突風が吹いた。

乾いた風が通りを駆け抜け、ルゥナの帽子がふわりと浮き上がる。  
春の陽に縁飾りが煌めき、くるりと空で一回転して、舞うように風の先へ流れていく。

「あら……またですの」

慌てもせず、彼女は風の行方を追った。  
その先に、銀の甲冑を纏ったひとりの騎士の姿があった。

リヒャルト=ヴァイスベルク。  
迷いなく歩み寄り、彼は帽子を拾い上げる。  
その手は、まるで壊れ物に触れるように慎重で、  
帽子に絡まる一筋の草を指先で払うと、静かに差し出した。

ルゥナは、受け取るその瞬間、彼の瞳を見た。  
そして、目が合った。

その一秒が、やけに長く感じられた。

風が止んだ。  
音が遠のき、空気が澄む。  
リヒャルトの目には、何の飾りもなかった。  
まっすぐに、ただ彼女だけを見ていた。

ルゥナは、その感情の重みを初めて正面から受け止めた。  
声もなく、言葉もない。  
けれど、その視線は、何より雄弁だった。

「……あなたといると、風が優しく吹きますのね」

ぽつりと漏らしたその言葉は、返事ではなかった。  
承諾でも、拒絶でもなく――ただ、ひとつの感覚の共有だった。

だがそれだけで、十分だった。

通りを行き交う者たちは、そのやりとりを目にし、口々に囁いた。

「……風が、変わった」  
「ついに……あの令嬢が、誰かを見つめた」

帽子を手にしたリヒャルトは、それをもう一度軽く整えて、彼女の髪に戻す。  
手の動きはどこまでも静かで、どこまでも優しかった。

「……ありがとうございますわ」

帽子のつばを押さえながら、ルゥナはそう言って微笑んだ。

風はまた吹いた。  
だがもう、それは気まぐれに運ぶ風ではない。  
彼女が“誰かと共に感じる風”になりつつあった。

――隣で吹く風が、こんなにも穏やかだと、初めて知りましたの。
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