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第一章:わけもわからず、世界は回る
第5話:天下一の彼女は、血の匂いの中で微笑む
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地響きが、腹の底から内臓を揺さぶる。
それは、神田駿がこれまでの人生で経験したことのない、純粋な質量がもたらす恐怖の波動だった。軽自動車ほどの巨体を持つ森の主、フォレストボア。血走った眼は、もはや理性の光など一欠片も宿しておらず、ただ目の前の動くものを破壊し、蹂躙することだけを目的とした、純粋な暴力の塊と化していた。食い込んだワイヤーの痛みと、悪徳商人たちに裏切られた怒りが、その巨体を狂乱の渦へと叩き込んでいた。
「駿くん、危ない!」
千夏の悲鳴が、やけに遠く聞こえる。駿は、ほとんど無意識に彼女の前に立ちはだかっていた。ラノベの主人公なら、ここで隠された力が覚醒し、絶体絶命のピンチを覆すのだろう。だが、現実は非情だ。俺の能力は、空間を陽炎のように歪ませるだけ。この、山が動くような圧倒的な突進の前では、コップの水をスプーンでかき混ぜるような、あまりに無意味で、あまりに無力な悪あがきでしかない。
(死ぬ)
思考が、驚くほど冷静にその一言を紡いだ。土を蹴り上げる蹄の音。白い蒸気となって噴き出す荒い鼻息。鼻腔を突く、獣の濃密な匂いと、土埃の乾いた匂い。五感だけがやけに冴えわたり、スローモーションになった世界の中で、牙を剥き出しにした巨大な顎が、すぐそこまで迫っていた。
(ああ、でも)
自分の背後で息を呑む、太陽のような彼女の気配を感じる。
(こいつに会えて、まあ、悪くはなかったかな)
駿が、ぎゅっと目を瞑った、その瞬間だった。
ふわり、と。
まるで時間が止まったかのように、一陣の風が森を吹き抜けた。
その風は、どこか奇妙だった。初夏の森にはそぐわない、ひんやりとした清涼感を帯び、そしてなぜか、満開の桜並木の下にいるかのような、甘く儚い花の香りを運んできた。風に混じって、季節外れの薄紅色の花びらが数枚、くるくると舞い踊る。
全ての音が消えていた。あれほど凄まじかったフォレストボアの蹄の音も、地響きも、商人たちの下卑た笑い声も、千夏の悲鳴さえも。まるで、世界という名の映写機が、一瞬だけフィルムを止めたかのような、絶対的な静寂。
風が、凪いだ。
駿がおそるおそる目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
猪と、自分たちの間に。
いつの間にか、一人の女性が立っていた。
おっとりとした、どこか眠たげな顔立ち。肌は陽光を浴びたことなどないかのように白く、形の良い唇にはほんのりと紅が差されている。桜色の着物をゆったりと着流し、まとめ上げた髪には質素な一本の簪(かんざし)が挿してあるだけ。どこかの都から、物見遊山にでもやってきた町娘、と言われても信じてしまうような、そんな風情だった。
ただ一つ、場にそぐわないものがあるとすれば、それは彼女の腰に差された、黒漆の鞘に収まった一本の刀だった。その刀だけが、彼女の周りの穏やかな空気とは異質な、凜とした緊張感を放っていた。
彼女は、暴れ狂う猪と、その背後で呆気に取られている商人たちを前にしても、全く動じる素振りを見せない。ただ、ふんわりと、本当に困っている人を見つけたかのように、眉を少しだけ下げて微笑んだ。
「あらあら、お困りのようですわね」
その声は、森の静寂に溶けるように、柔らかく響き渡った。
◇
「な、なんだぁ、てめえは!」
最初に我に返ったのは、悪徳商人たちだった。絶好の機会を邪魔されたことに、彼らの顔が怒りで歪む。
「ヒロイン気取りか? ああ? ちょうどいい、その綺麗な着物、俺たちが剥いでやるよ!」
「ついでにそこのガキどももまとめて、猪のエサにしてやんよ!」
三人組のリーダー格らしき男が、下卑た笑いを浮かべながら、錆びた剣を抜いて彩葉へと歩み寄る。他の二人も、ニヤニヤと汚い笑みを浮かべながら、左右に展開して包囲しようとした。
千夏が「危ない!」と叫ぼうとして、息を呑んだ。駿は、何が起きるのか理解できず、ただ目の前の光景に釘付けになっていた。
彩葉は、動かない。
ただ、静かにそこに佇んでいる。
リーダー格の男が、剣を振り上げ、彼女の華奢な肩口めがけて振り下ろした。
次の瞬間、男は、そこにいなかった。
いや、いた。
彩葉の背後、数メートル先の地面に、まるで足元の石にでもつまずいたかのように、派手な音を立てて倒れ伏していたのだ。気絶しているのか、ピクリとも動かない。
「「え?」」
残りの二人が、何が起きたか分からず、間抜けな声を上げる。彩葉は、一歩も動いていないように見えた。瞬きすらしていないかもしれない。彼女が、ただ、すれ違っただけ。それだけだ。
「このアマ……!」
左右にいた二人が、ようやく状況を理解し、同時に斬りかかった。一人は右から、もう一人は左から。挟み撃ちの形だ。
しかし、その刃が彩葉に届くことは、永遠になかった。
彩葉の姿が、ふっと陽炎のように揺らめいた。
右の男は、空を斬った勢いで前のめりになり、左から来た仲間の剣の柄に、自らの顔面を強かに打ち付けた。
左の男は、仲間とぶつかった衝撃で体勢を崩し、自分の足をもつれさせて、盛大にひっくり返った。
美しいまでの、自滅だった。
気絶した三人の商人。その誰一人として、彩葉の刃に触れてはいない。いや、そもそも彼女は、刀を抜いてすらいないのだ。鞘に収まったまま。ただ、彼女がそこにいた。それだけで、全ての脅威は無力化されていた。
駿は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
強い。
そんな陳腐な言葉では表現できない。これは、武術や戦闘というカテゴリーに収まるものではない。まるで、世界の法則そのものが、彼女に味方しているかのような。あるいは、彼女の周りだけ、物理法則が違うのではないかと錯覚させるような、絶対的な支配力。
だが、本当の脅威は、まだ終わっていなかった。
「グルルルルルォォォォッ!」
人の内輪揉めなど興味はないとばかりに、フォレストボアが再び猛り狂う。商人という標的を失ったその怒りは、今や完全に、目の前に立つ桜色の小柄な女性へと向けられていた。
地面が、抉れる。
フォレストボアの突進が、先ほどとは比較にならないほどの速度と質量を持って、彩葉へと殺到した。もはやそれは、巨大な岩盤が雪崩れ落ちてくるような、抗いようのない自然災害だった。
それに対して、彩葉は、まるで春の小川のほとりで舞を舞うかのように、ただ、一歩、横に動いただけだった。
彼女の動きは、あまりにも滑らかで、あまりにも自然だった。まるで、巨大な猪の突進が来ることを、風がどちらに吹くかを知るのと同じくらい、当たり前のこととして知っていたかのように。
猪の巨大な牙が、彩葉の着物の袖を数ミリだけ掠める。その風圧で、彼女の黒髪がふわりと舞い上がった。
彩葉は、その凄まじい突撃を、まるで柳の枝が強風を受け流すかのように、最小限の動きでいなしていた。彼女の動きには、怒りも、焦りも、恐怖も、一切の感情が乗っていない。ただ、そこにある力を、あるがままに受け入れ、そして流す。それは、戦闘というより、自然と一体になる儀式のようにも見えた。
突進の勢いですれ違った猪の、その巨大な眉間。そこに、彩葉の白魚のような指先が、そっと、本当に優しく触れた。まるで、赤子の額を撫でるかのように。
それだけ、だった。
あれほど荒ぶっていた猪の巨体が、ぴたり、と動きを止めた。その血走っていた瞳から、すうっと、怒りの炎が消えていく。まるで、嵐の後に訪れる、湖面のような静けさ。
猪は、しばらくの間、何が起きたか分からないというように、大きな体で静止していた。やがて、ゆっくりと彩葉の方を振り返ると、その大きな瞳でじっと彼女を見つめた。その瞳には、もはや敵意はなく、どこか畏敬の念すら宿っているように見えた。
「ふん」と一度だけ鼻を鳴らすと、猪はゆっくりと踵を返し、森の奥へとその巨体を消していった。まるで、最初から何もなかったかのように。
後に残されたのは、血の匂いも、悲鳴もない、ただの静寂だった。土埃の乾いた匂いと、獣の残した濃密な匂いだけが、今しがたまでここが死地であったことを、かろうじて物語っていた。
血も流さず、誰も殺さず、ただ圧倒的な実力差で、荒れ狂う自然の化身と、人間の醜い悪意の両方を、完全に支配する。
その絶対的な強さを前に、駿は、安堵よりも先に、理解不能なものに対する原始的な恐怖を感じていた。
(強い……強すぎる。次元が違う。なんだ、この人は。本当に、人間なのか?)
夕陽が、木々の隙間から差し込み、彩葉の横顔を橙色に染め上げていた。
彼女は、いつもと同じ、ふんわりとした穏やかな笑みを浮かべていた。
だが、駿は、見てしまった。
その笑顔とは裏腹に、彼女の瞳の奥底に宿る、決して消えることのない、深い、深い影を。
それは、悲しみという言葉ではあまりに浅薄な、もっと根源的な、世界の全てを諦めてしまったかのような、底知れない虚無の色だった。
絶対的な強さと、究極の静けさ。
そして、それを内包する、底なしの悲しみ。
彼女という存在は、強いとか弱いとか、そういう単純な物差しで測れるものではない。もっと複雑で、もっと矛盾した、様々な要因が奇跡的なバランスで絡み合って成り立っている、一つの現象そのものなのではないか。駿は、言葉にならない直感でそう感じていた。
目の前の、あまりに美しい、あまりに完成された、そしてあまりに悲しいその光景に、駿はただ、釘付けになっていた。
◇
彩葉は、気絶している商人たちを一瞥すると、荷馬車の方へと、ゆっくりと歩を進めた。その荷台に無造生に積まれていた、赤黒く鈍い光を放つ奇妙な鉱石「血錆鉱」。彼女は、その一つを指先でそっとつまみ上げる。
「あらあら……」
表情は、変わらない。穏やかな笑みのままだ。しかし、その声のトーンが、ほんの僅かに、誰にも気づかれないほど低くなったのを、駿は聞き逃さなかった。
「これはどこで手に入れたものですの?」
彼女は、誰に問いかけるでもなく、独り言のように呟いた。その問いは、千夏に向けられたようでもあり、あるいは、この場にいない誰かに向けられたようでもあった。千夏は、ただゴクリと喉を鳴らし、その質問に答えることができなかった。
彩葉は、鉱石を元の場所に戻すと、今度は駿の方を向き、にこりと微笑んだ。その瞳の色は、もう元の穏やかなものに戻っていた。
「貴方、面白い力をお持ちですのね」
その言葉に、駿は心臓が跳ね上がるのを感じた。気づかれていた。あの、自分でも持て余している、空間を歪ませるだけの地味な能力を、この人は完全に見抜いている。
「いえ、そんな、俺のは、ただ……」
「ふふ、ご謙遜を」
彩葉は、それ以上は何も言わなかった。ただ、駿の存在そのものを値踏みするかのような、それでいて、どこか懐かしむような、不思議な視線を一瞬だけ向けた。
彼女は、駿と千夏に向かって、深々と、そして優雅に一礼した。
「では、わたくしはこれで。どうか、お気をつけて」
言うが早いか、彼女はまた、ふわりと風のように踵を返した。数歩歩いたかと思うと、その姿は木々の間に溶け込むように消えてしまい、後には、季節外れの桜の甘い香りの残滓と、あっけにとられた駿と千夏だけが残された。
「……行っちゃった」
千夏が、ぽつりと呟く。
「すごかったね、今の人! まるで物語の登場人物みたいだった! 『天下一』って、ああいう人のことを言うのかなあ」
太陽のような笑顔で、千夏は無邪気に彩葉の強さを賞賛している。
だが、駿は、素直にそう思うことができなかった。
彼の心の中には、彼女の圧倒的な強さと、その瞳に宿る悲しみの残像が、まるで焼印のように、強く、そして深く、刻み込まれていた。
(天下一、か……)
駿は、先ほどまで死の恐怖に支配されていたことも忘れ、ただ、彼女が消えていった森の奥を、呆然と見つめ続けるのだった。
この出会いが、彼の、そして世界の運少しもがな事を、彼はまだ知る由もなかった。
それは、神田駿がこれまでの人生で経験したことのない、純粋な質量がもたらす恐怖の波動だった。軽自動車ほどの巨体を持つ森の主、フォレストボア。血走った眼は、もはや理性の光など一欠片も宿しておらず、ただ目の前の動くものを破壊し、蹂躙することだけを目的とした、純粋な暴力の塊と化していた。食い込んだワイヤーの痛みと、悪徳商人たちに裏切られた怒りが、その巨体を狂乱の渦へと叩き込んでいた。
「駿くん、危ない!」
千夏の悲鳴が、やけに遠く聞こえる。駿は、ほとんど無意識に彼女の前に立ちはだかっていた。ラノベの主人公なら、ここで隠された力が覚醒し、絶体絶命のピンチを覆すのだろう。だが、現実は非情だ。俺の能力は、空間を陽炎のように歪ませるだけ。この、山が動くような圧倒的な突進の前では、コップの水をスプーンでかき混ぜるような、あまりに無意味で、あまりに無力な悪あがきでしかない。
(死ぬ)
思考が、驚くほど冷静にその一言を紡いだ。土を蹴り上げる蹄の音。白い蒸気となって噴き出す荒い鼻息。鼻腔を突く、獣の濃密な匂いと、土埃の乾いた匂い。五感だけがやけに冴えわたり、スローモーションになった世界の中で、牙を剥き出しにした巨大な顎が、すぐそこまで迫っていた。
(ああ、でも)
自分の背後で息を呑む、太陽のような彼女の気配を感じる。
(こいつに会えて、まあ、悪くはなかったかな)
駿が、ぎゅっと目を瞑った、その瞬間だった。
ふわり、と。
まるで時間が止まったかのように、一陣の風が森を吹き抜けた。
その風は、どこか奇妙だった。初夏の森にはそぐわない、ひんやりとした清涼感を帯び、そしてなぜか、満開の桜並木の下にいるかのような、甘く儚い花の香りを運んできた。風に混じって、季節外れの薄紅色の花びらが数枚、くるくると舞い踊る。
全ての音が消えていた。あれほど凄まじかったフォレストボアの蹄の音も、地響きも、商人たちの下卑た笑い声も、千夏の悲鳴さえも。まるで、世界という名の映写機が、一瞬だけフィルムを止めたかのような、絶対的な静寂。
風が、凪いだ。
駿がおそるおそる目を開けると、信じられない光景が広がっていた。
猪と、自分たちの間に。
いつの間にか、一人の女性が立っていた。
おっとりとした、どこか眠たげな顔立ち。肌は陽光を浴びたことなどないかのように白く、形の良い唇にはほんのりと紅が差されている。桜色の着物をゆったりと着流し、まとめ上げた髪には質素な一本の簪(かんざし)が挿してあるだけ。どこかの都から、物見遊山にでもやってきた町娘、と言われても信じてしまうような、そんな風情だった。
ただ一つ、場にそぐわないものがあるとすれば、それは彼女の腰に差された、黒漆の鞘に収まった一本の刀だった。その刀だけが、彼女の周りの穏やかな空気とは異質な、凜とした緊張感を放っていた。
彼女は、暴れ狂う猪と、その背後で呆気に取られている商人たちを前にしても、全く動じる素振りを見せない。ただ、ふんわりと、本当に困っている人を見つけたかのように、眉を少しだけ下げて微笑んだ。
「あらあら、お困りのようですわね」
その声は、森の静寂に溶けるように、柔らかく響き渡った。
◇
「な、なんだぁ、てめえは!」
最初に我に返ったのは、悪徳商人たちだった。絶好の機会を邪魔されたことに、彼らの顔が怒りで歪む。
「ヒロイン気取りか? ああ? ちょうどいい、その綺麗な着物、俺たちが剥いでやるよ!」
「ついでにそこのガキどももまとめて、猪のエサにしてやんよ!」
三人組のリーダー格らしき男が、下卑た笑いを浮かべながら、錆びた剣を抜いて彩葉へと歩み寄る。他の二人も、ニヤニヤと汚い笑みを浮かべながら、左右に展開して包囲しようとした。
千夏が「危ない!」と叫ぼうとして、息を呑んだ。駿は、何が起きるのか理解できず、ただ目の前の光景に釘付けになっていた。
彩葉は、動かない。
ただ、静かにそこに佇んでいる。
リーダー格の男が、剣を振り上げ、彼女の華奢な肩口めがけて振り下ろした。
次の瞬間、男は、そこにいなかった。
いや、いた。
彩葉の背後、数メートル先の地面に、まるで足元の石にでもつまずいたかのように、派手な音を立てて倒れ伏していたのだ。気絶しているのか、ピクリとも動かない。
「「え?」」
残りの二人が、何が起きたか分からず、間抜けな声を上げる。彩葉は、一歩も動いていないように見えた。瞬きすらしていないかもしれない。彼女が、ただ、すれ違っただけ。それだけだ。
「このアマ……!」
左右にいた二人が、ようやく状況を理解し、同時に斬りかかった。一人は右から、もう一人は左から。挟み撃ちの形だ。
しかし、その刃が彩葉に届くことは、永遠になかった。
彩葉の姿が、ふっと陽炎のように揺らめいた。
右の男は、空を斬った勢いで前のめりになり、左から来た仲間の剣の柄に、自らの顔面を強かに打ち付けた。
左の男は、仲間とぶつかった衝撃で体勢を崩し、自分の足をもつれさせて、盛大にひっくり返った。
美しいまでの、自滅だった。
気絶した三人の商人。その誰一人として、彩葉の刃に触れてはいない。いや、そもそも彼女は、刀を抜いてすらいないのだ。鞘に収まったまま。ただ、彼女がそこにいた。それだけで、全ての脅威は無力化されていた。
駿は、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
強い。
そんな陳腐な言葉では表現できない。これは、武術や戦闘というカテゴリーに収まるものではない。まるで、世界の法則そのものが、彼女に味方しているかのような。あるいは、彼女の周りだけ、物理法則が違うのではないかと錯覚させるような、絶対的な支配力。
だが、本当の脅威は、まだ終わっていなかった。
「グルルルルルォォォォッ!」
人の内輪揉めなど興味はないとばかりに、フォレストボアが再び猛り狂う。商人という標的を失ったその怒りは、今や完全に、目の前に立つ桜色の小柄な女性へと向けられていた。
地面が、抉れる。
フォレストボアの突進が、先ほどとは比較にならないほどの速度と質量を持って、彩葉へと殺到した。もはやそれは、巨大な岩盤が雪崩れ落ちてくるような、抗いようのない自然災害だった。
それに対して、彩葉は、まるで春の小川のほとりで舞を舞うかのように、ただ、一歩、横に動いただけだった。
彼女の動きは、あまりにも滑らかで、あまりにも自然だった。まるで、巨大な猪の突進が来ることを、風がどちらに吹くかを知るのと同じくらい、当たり前のこととして知っていたかのように。
猪の巨大な牙が、彩葉の着物の袖を数ミリだけ掠める。その風圧で、彼女の黒髪がふわりと舞い上がった。
彩葉は、その凄まじい突撃を、まるで柳の枝が強風を受け流すかのように、最小限の動きでいなしていた。彼女の動きには、怒りも、焦りも、恐怖も、一切の感情が乗っていない。ただ、そこにある力を、あるがままに受け入れ、そして流す。それは、戦闘というより、自然と一体になる儀式のようにも見えた。
突進の勢いですれ違った猪の、その巨大な眉間。そこに、彩葉の白魚のような指先が、そっと、本当に優しく触れた。まるで、赤子の額を撫でるかのように。
それだけ、だった。
あれほど荒ぶっていた猪の巨体が、ぴたり、と動きを止めた。その血走っていた瞳から、すうっと、怒りの炎が消えていく。まるで、嵐の後に訪れる、湖面のような静けさ。
猪は、しばらくの間、何が起きたか分からないというように、大きな体で静止していた。やがて、ゆっくりと彩葉の方を振り返ると、その大きな瞳でじっと彼女を見つめた。その瞳には、もはや敵意はなく、どこか畏敬の念すら宿っているように見えた。
「ふん」と一度だけ鼻を鳴らすと、猪はゆっくりと踵を返し、森の奥へとその巨体を消していった。まるで、最初から何もなかったかのように。
後に残されたのは、血の匂いも、悲鳴もない、ただの静寂だった。土埃の乾いた匂いと、獣の残した濃密な匂いだけが、今しがたまでここが死地であったことを、かろうじて物語っていた。
血も流さず、誰も殺さず、ただ圧倒的な実力差で、荒れ狂う自然の化身と、人間の醜い悪意の両方を、完全に支配する。
その絶対的な強さを前に、駿は、安堵よりも先に、理解不能なものに対する原始的な恐怖を感じていた。
(強い……強すぎる。次元が違う。なんだ、この人は。本当に、人間なのか?)
夕陽が、木々の隙間から差し込み、彩葉の横顔を橙色に染め上げていた。
彼女は、いつもと同じ、ふんわりとした穏やかな笑みを浮かべていた。
だが、駿は、見てしまった。
その笑顔とは裏腹に、彼女の瞳の奥底に宿る、決して消えることのない、深い、深い影を。
それは、悲しみという言葉ではあまりに浅薄な、もっと根源的な、世界の全てを諦めてしまったかのような、底知れない虚無の色だった。
絶対的な強さと、究極の静けさ。
そして、それを内包する、底なしの悲しみ。
彼女という存在は、強いとか弱いとか、そういう単純な物差しで測れるものではない。もっと複雑で、もっと矛盾した、様々な要因が奇跡的なバランスで絡み合って成り立っている、一つの現象そのものなのではないか。駿は、言葉にならない直感でそう感じていた。
目の前の、あまりに美しい、あまりに完成された、そしてあまりに悲しいその光景に、駿はただ、釘付けになっていた。
◇
彩葉は、気絶している商人たちを一瞥すると、荷馬車の方へと、ゆっくりと歩を進めた。その荷台に無造生に積まれていた、赤黒く鈍い光を放つ奇妙な鉱石「血錆鉱」。彼女は、その一つを指先でそっとつまみ上げる。
「あらあら……」
表情は、変わらない。穏やかな笑みのままだ。しかし、その声のトーンが、ほんの僅かに、誰にも気づかれないほど低くなったのを、駿は聞き逃さなかった。
「これはどこで手に入れたものですの?」
彼女は、誰に問いかけるでもなく、独り言のように呟いた。その問いは、千夏に向けられたようでもあり、あるいは、この場にいない誰かに向けられたようでもあった。千夏は、ただゴクリと喉を鳴らし、その質問に答えることができなかった。
彩葉は、鉱石を元の場所に戻すと、今度は駿の方を向き、にこりと微笑んだ。その瞳の色は、もう元の穏やかなものに戻っていた。
「貴方、面白い力をお持ちですのね」
その言葉に、駿は心臓が跳ね上がるのを感じた。気づかれていた。あの、自分でも持て余している、空間を歪ませるだけの地味な能力を、この人は完全に見抜いている。
「いえ、そんな、俺のは、ただ……」
「ふふ、ご謙遜を」
彩葉は、それ以上は何も言わなかった。ただ、駿の存在そのものを値踏みするかのような、それでいて、どこか懐かしむような、不思議な視線を一瞬だけ向けた。
彼女は、駿と千夏に向かって、深々と、そして優雅に一礼した。
「では、わたくしはこれで。どうか、お気をつけて」
言うが早いか、彼女はまた、ふわりと風のように踵を返した。数歩歩いたかと思うと、その姿は木々の間に溶け込むように消えてしまい、後には、季節外れの桜の甘い香りの残滓と、あっけにとられた駿と千夏だけが残された。
「……行っちゃった」
千夏が、ぽつりと呟く。
「すごかったね、今の人! まるで物語の登場人物みたいだった! 『天下一』って、ああいう人のことを言うのかなあ」
太陽のような笑顔で、千夏は無邪気に彩葉の強さを賞賛している。
だが、駿は、素直にそう思うことができなかった。
彼の心の中には、彼女の圧倒的な強さと、その瞳に宿る悲しみの残像が、まるで焼印のように、強く、そして深く、刻み込まれていた。
(天下一、か……)
駿は、先ほどまで死の恐怖に支配されていたことも忘れ、ただ、彼女が消えていった森の奥を、呆然と見つめ続けるのだった。
この出会いが、彼の、そして世界の運少しもがな事を、彼はまだ知る由もなかった。
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そんな黒瀬の通う高校に突如転校してきた白桃楓香。初対面なのにも関わらず、なぜかいきなり黒瀬に抱きつくという奇行に出る。
「才斗くん、これからよろしくお願いしますねっ」
なんと白桃は黒瀬の直属の部下として派遣された冒険者であり、以後、同じ家で生活を共にし、ダンジョンでの仕事も一緒にすることになるという。
これは、上級冒険者の黒瀬と、美少女転校生の純愛ラブコメディ――ではなく、ちゃんとしたダンジョン・ファンタジー(多分)。
※小説家になろう、カクヨムでも連載しています。
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