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第二章:すれ違う心と、見えない刃
第19話:優しい嘘と、冷たい真実
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嘆きの廃鉱山から吹き出す風は、もう山の呻き声のようには聞こえなかった。ただ、夕暮れの大気に溶けていく、涼やかで穏やかな風の音だった。
西の空が、燃えるような茜色から、深く、そして優しい紫色へとその表情を刻一刻と変えていく。まるで巨大な画家の掌が、天球という名の画布に幾重もの絵の具を塗り重ねているかのようだ。その壮大なグラデーションを背に、俺たちの影は、歩き慣れたはずの帰り道を長く、長く石畳に伸ばしていた。
俺の隣には、物静かな彩葉さん。その後ろからは、いつものように栞の学術的な解説と小夜の(ヤタを介しての)冷静なツッコミが聞こえてくる。
「あの雲の形状は積雲ですね。大気が不安定な証拠ですが、あの紫色とのコントラストは、ミー散乱とレイリー散乱の複合的な……」
「主よ、あの女はまた小難しいことを言っている。要するに、空が綺麗、それだけだ」
「違いますわ! 現象の裏にある理(ことわり)を理解してこその美しさですのよ!」
「結果は同じだ。凡俗め」
その後ろを歩くのは、新たに俺たちの旅に加わった、二つの影。
一つは、まるで岩が歩いているかのような、拳法家・源さん。彼は、あの廃道場での一件以来、以前のような刺々しい殺気は鳴りを潜め、代わりにどっしりとした山の如き静けさを纏っていた。過去を完全に乗り越えたわけではないだろう。だが、彼はもう怒りのために拳を振るうことはない。その背中は、仲間を守るためにあるのだと、俺には分かった。
そしてもう一つは、闇に溶けるが如き、公儀隠密・桔梗さん。彼女は相変わらず口数が少なく、その表情は能面のように硬いままだ。だが、俺たちを値踏みするような冷たい視線は、いつの間にか消えていた。彼女は今も、俺たちを信じてはいないだろう。だが、それでもいい。彼女は自分の任務のために、そして俺たちは俺たちの目的のために、今は同じ道を歩いている。それだけで、十分だった。
「神田、貴様」
不意に、隣を歩いていた源さんが、低い声で俺を呼んだ。
「あん時の言葉、感謝はせんからな」
「あん時って?」
「道場での……あれだ」
ぶっきらぼうに、彼は視線を明後日の方向に向けたまま続ける。
「だが、まあ……間違ってはいなかった。俺は、ずっと逃げていただけだったのかもしれん」
その横顔は夕闇に紛れてよく見えなかったが、声には微かな、本当に微かな、戸惑いと安堵のような響きが混じっていた。俺は何も言わず、ただ彼の広い背中をぽんと一つ叩いた。言葉なんていらない。拳で語る男には、それで十分なはずだ。
「……素人の集まりにしては、悪くない連携だった」
いつの間にか、反対側を歩いていた桔梗さんが、誰に言うでもなく呟いた。
「特に、あの空間を歪ませる男。使いようによっては、戦況を覆す駒になり得る」
「駒って……。俺、一応、神田駿って名前があるんですけど」
「知っている。だが、今はまだ駒でしかない。真の脅威となるか、あるいはただの駒で終わるか。見極めさせてもらう」
冷たい物言いだが、そこに以前のような侮蔑の色はなかった。むしろ、プロフェッショナルとしての純粋な評価。それは、彼女なりの歩み寄りであり、仲間として認め始めた証なのかもしれない。
そうだ、俺たちは仲間になったんだ。
人見知りの天才陰陽師、ドジっ子の博識賢者、過去に囚われた最強の拳法家、誰も信じない孤高の隠密。そして、天下一の剣士でありながら、深い悲しみを背負う彩葉さん。
なんて厄介で、面倒で、どうしようもなく頼もしい仲間たちだろう。
俺は、隣を歩く彩葉さんの横顔を盗み見た。彼女は、夕闇に染まる街並みを、穏やかな表情で見つめている。あの鉱山で、俺の無茶苦茶な提案を受け入れ、桔梗さんと連携してくれた。その時の彼女の瞳に宿っていたのは、揺るぎない信頼の色だった。
この人と一緒なら、どこへだって行ける。この仲間たちと一緒なら、どんな困難だって乗り越えられる。
そんな、青臭くて、ラノベの主人公みたいなセリフが、何のてらいもなく心の底から湧き上がってくる。この世界に来てから、不安と混乱ばかりだった俺の心に、未来への、ささやかな、しかし確かな希望の光が灯り始めていた。
鉱山を出てから街までの道のりは、驚くほど穏やかだった。
「ただいまー!」
宿屋の扉を開けた千夏の声が、やけに明るく響いた。彼女は、俺たちが鉱山で戦っている間、街で情報収集と補給品の調達をしてくれていた。
「みんな、お疲れ様! ご飯できてるよー!」
太陽のような笑顔。この笑顔に、俺はどれだけ救われてきただろう。
「おお、腹が減っては戦はできんからな!」
源さんが、早速どかりと椅子に腰を下ろす。
「千夏殿の料理は、栄養バランスも考慮されている。素晴らしい」
ヤタが小夜の肩の上で、もっともらしく頷く。
いつもの、騒々しくて、温かい日常がそこにあった。俺は、その光景に心の底から安堵し、大きく息を吐き出した。
だが、その安堵は、次の瞬間、氷のように砕け散ることになる。
俺たちが拠点としていた宿屋の二階。その一番奥にある、一番広い角部屋の扉を開けた瞬間、俺たちは言葉を失った。
そこは、俺たちの知っている部屋ではなかった。
テーブルは無残にひっくり返り、その上にあったはずの食器は、床に散らばって粉々になっていた。壁には、まるで巨大な獣が爪を立てたかのような、鋭利な刃物によるものと思われる生々しい斬り傷が、何本も深く刻まれている。窓ガラスは砕け散り、そこから吹き込む夜風が、破れたカーテンを不気味に揺らしていた。
部屋の隅にあった栞の書物の山は崩れ、貴重な羊皮紙があちこちに散乱している。小夜が大切にしていた薬草を調合するための道具も、無惨に踏み砕かれていた。
まるで、竜巻でも通り過ぎたかのような、圧倒的な破壊の痕跡。
だが、何よりも俺の心を凍りつかせたのは、そこに満ちる空気だった。
冷たい。
つい半日前まで、ここには確かに千夏の温もりがあったはずだ。彼女が淹れてくれたお茶の香り、彼女の鼻歌、そして、彼女の太陽のような笑顔が満ちていたはずの空間が、今はがらんどうの、魂が抜け落ちたかのような冷たい空虚さだけを残して、沈黙していた。
「……なんだ、これは」
源さんが、絞り出すような低い声で言った。彼の拳が、ギリ、と音を立てて固く握り締められる。
桔梗さんは、何も言わずに部屋の隅々まで素早く視線を走らせ、床に残された痕跡を調べていた。そのプロの目に、確かな警戒の色が浮かんでいた。
「千夏さんは!? 千夏さんはどこですの!?」
栞が、半泣きで部屋に駆け込み、その名を叫ぶ。だが、返事はない。
俺は、ただ呆然と、その光景を立ち尽くして見つめることしかできなかった。頭が真っ白になり、何も考えられない。
足元に、何かがカツンと当たった。視線を落とすと、それは千夏がいつも使っていたマグカップの、ひび割れた欠片だった。彼女が、「駿くんは猫舌だから」と言って、わざわざ選んでくれた、少し厚手の、素朴な焼き物だ。
その欠片を見た瞬間、俺の中で何かがぷつりと切れた。
「千夏ッ!!」
俺は、部屋を飛び出し、宿屋の廊下を、階段を、狂ったように駆け下りた。宿の主人に、厨房に、他の客に、誰彼構わず問い詰める。
「千夏を知らないか!? いつもの、明るい、向日葵みたいな女の子だ! どこに行ったんだ!?」
だが、誰もが怯えた顔で首を横に振るばかりだった。誰も見ていない。誰も知らない。彼女は、まるで神隠しにでもあったかのように、忽然と姿を消してしまっていた。
再び、荒らされた部屋に戻った俺を待っていたのは、さらなる絶望だった。
鑑識眼を持つ桔梗さんが、床の僅かな痕跡を指差していた。
「……血痕だ。微量だが、間違いない。ここで、激しい戦闘があった」
血。その一言が、俺の心臓を鷲掴みにする。
「それに、この傷跡」と、壁の傷をなぞりながら彩葉さんが続ける。「これは、並の剣士の太刀筋ではありません。恐ろしく速く、重い一撃。ですが、一種類ではない。少なくとも、二種類以上の武器がここで交錯しています」
千夏は、攫われたのか。誰かと戦って、そして……。
最悪の想像が、頭の中を駆け巡る。息が苦しくなる。足元が、ぐらぐらと揺れる。
そんな俺の視界の隅に、何かが映った。
部屋の惨状の、その中心。割れた陶器の欠片と、散らばった羊皮紙の海の中に、たった一枚だけ、場違いなほどに綺麗な、折り目のない羊皮紙が落ちていた。
それは、まるで誰かが意図してそこに置いたかのように、奇妙な存在感を放っていた。
俺は、吸い寄せられるようにその羊皮紙に近づき、震える手で、ゆっくりと拾い上げた。
上質な、滑らかな手触り。そこには、インクの染み一つない、冷たいほどに美しい、見慣れた筆跡の文字が並んでいた。
千夏の文字によく似ている。だが、彼女の文字が持つ、太陽のような温かみや、少しだけおっちょこちょいな丸みが、そこには一切なかった。まるで、寸分の狂いもなく設計された、機械が書いたかのような、冷徹な文字。
俺は、その文字を、声に出して読み上げた。自分でも、なぜそうしたのかは分からない。ただ、そうしなければならないと、魂が叫んでいた。
「『対象:神田 駿の監視を継続せよ』」
俺の声が、静まり返った部屋に虚しく響く。仲間たちが、息を呑む気配がした。
「『ただし、危険分子……陰陽師・小夜、拳法家・源、公儀隠密・桔梗との接触を確認』」
俺は、自分の名前の隣に並べられた仲間たちの名を、なぞるように読み上げる。
「『計画の障害となりうると判断した場合……速やかに、処理せよ』」
処理、せよ。
その最後の三文字が、俺の頭の中で、教会の鐘のように、何度も、何度も、反響した。
なんだ、これ?
監視? 処理? 危険分子?
まるで、どこかの国のスパイ映画のセリフだ。何かの悪い冗談か? 敵が残した、俺たちの仲間割れを誘うための、偽物の手紙か?
そうであってくれ。
そう願いながら、俺は羊皮紙の隅に押された、一つの紋章に目を落とした。
翼を広げた、一羽の鳥。
シンプルだが、気品のある、美しい紋章。
そして俺は、その紋章を、知っていた。
忘れもしない。この世界に来て、千夏に連れられて初めて万事屋組合を訪れた日。あの氷のように無表情な受付嬢、静が、俺がこぼしたインクを拭うために使っていた、あの真っ白な布。
その隅に刺繍されていた紋章と、寸分違わず、全く同じものだった。
―――ああ。
俺の中で、何かが崩れ落ちる音がした。
点と、点が、繋がってしまった。
千夏が、なぜ初対面の俺にあんなに親切だったのか。
彼女が、時折見せた、チンピラをあしらう時のような、プロじみた鋭い目つき。
彼女が、なぜ俺の苦手な食べ物を、何も言っていないのに知っていたのか。
彼女が、なぜ彩葉さんに対してだけ、どこかよそよそしく、警戒するような素振りを見せていたのか。
彼女の、あの太陽のような笑顔。俺を救ってくれた、あの優しさ。
その全てが、頭の中で、指令書の冷たい文字に、一つ、また一つと、上書きされていく。
『監視』
『危険分子』
『処理せよ』
嘘だ。
嘘だ嘘だ嘘だ。
信じられるか。信じられるわけがない。
俺の頭の中に、千夏の笑顔が、何度も何度もフラッシュバックする。
「大丈夫!? あなた、すごい力を持ってるのね!」
「お腹すいてるでしょ? ご馳走するよ!」
「みんな元気でいいねぇ」
あの笑顔が、全部、嘘だったというのか。あの優しさが、全部、『任務』だったというのか。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
耳の奥で、キーン、という甲高い耳鳴りが鳴り響く。
仲間たちの声が、遠くで聞こえる。
「……どういう、ことだ」
「千夏殿が、我らを……?」
「……スパイ、だったとでも言うのか」
もう、何も聞こえない。
何も、考えられない。
俺がこの世界で、最初に信じた人間。
俺がこの世界で、最初に救われた優しさ。
それが、全部。
全部、偽物だった。
「……う、そだろ」
俺の口から、か細い声が漏れた。
立っていることすらできず、俺は、その場に膝から崩れ落ちた。手から滑り落ちた指令書が、ひらりと床に舞う。
窓から差し込む夕日は、いつの間にか、血のように禍々しい赤色に変わっていた。その光が、荒らされた部屋を、仲間たちの呆然とした顔を、そして、床に崩れ落ちた俺の絶望を、不吉なまでに赤く、赤く、染め上げていた。
「千夏……」
優しい嘘は、冷たい真実の刃となって、俺の心を、深く、深く、貫いていた。
西の空が、燃えるような茜色から、深く、そして優しい紫色へとその表情を刻一刻と変えていく。まるで巨大な画家の掌が、天球という名の画布に幾重もの絵の具を塗り重ねているかのようだ。その壮大なグラデーションを背に、俺たちの影は、歩き慣れたはずの帰り道を長く、長く石畳に伸ばしていた。
俺の隣には、物静かな彩葉さん。その後ろからは、いつものように栞の学術的な解説と小夜の(ヤタを介しての)冷静なツッコミが聞こえてくる。
「あの雲の形状は積雲ですね。大気が不安定な証拠ですが、あの紫色とのコントラストは、ミー散乱とレイリー散乱の複合的な……」
「主よ、あの女はまた小難しいことを言っている。要するに、空が綺麗、それだけだ」
「違いますわ! 現象の裏にある理(ことわり)を理解してこその美しさですのよ!」
「結果は同じだ。凡俗め」
その後ろを歩くのは、新たに俺たちの旅に加わった、二つの影。
一つは、まるで岩が歩いているかのような、拳法家・源さん。彼は、あの廃道場での一件以来、以前のような刺々しい殺気は鳴りを潜め、代わりにどっしりとした山の如き静けさを纏っていた。過去を完全に乗り越えたわけではないだろう。だが、彼はもう怒りのために拳を振るうことはない。その背中は、仲間を守るためにあるのだと、俺には分かった。
そしてもう一つは、闇に溶けるが如き、公儀隠密・桔梗さん。彼女は相変わらず口数が少なく、その表情は能面のように硬いままだ。だが、俺たちを値踏みするような冷たい視線は、いつの間にか消えていた。彼女は今も、俺たちを信じてはいないだろう。だが、それでもいい。彼女は自分の任務のために、そして俺たちは俺たちの目的のために、今は同じ道を歩いている。それだけで、十分だった。
「神田、貴様」
不意に、隣を歩いていた源さんが、低い声で俺を呼んだ。
「あん時の言葉、感謝はせんからな」
「あん時って?」
「道場での……あれだ」
ぶっきらぼうに、彼は視線を明後日の方向に向けたまま続ける。
「だが、まあ……間違ってはいなかった。俺は、ずっと逃げていただけだったのかもしれん」
その横顔は夕闇に紛れてよく見えなかったが、声には微かな、本当に微かな、戸惑いと安堵のような響きが混じっていた。俺は何も言わず、ただ彼の広い背中をぽんと一つ叩いた。言葉なんていらない。拳で語る男には、それで十分なはずだ。
「……素人の集まりにしては、悪くない連携だった」
いつの間にか、反対側を歩いていた桔梗さんが、誰に言うでもなく呟いた。
「特に、あの空間を歪ませる男。使いようによっては、戦況を覆す駒になり得る」
「駒って……。俺、一応、神田駿って名前があるんですけど」
「知っている。だが、今はまだ駒でしかない。真の脅威となるか、あるいはただの駒で終わるか。見極めさせてもらう」
冷たい物言いだが、そこに以前のような侮蔑の色はなかった。むしろ、プロフェッショナルとしての純粋な評価。それは、彼女なりの歩み寄りであり、仲間として認め始めた証なのかもしれない。
そうだ、俺たちは仲間になったんだ。
人見知りの天才陰陽師、ドジっ子の博識賢者、過去に囚われた最強の拳法家、誰も信じない孤高の隠密。そして、天下一の剣士でありながら、深い悲しみを背負う彩葉さん。
なんて厄介で、面倒で、どうしようもなく頼もしい仲間たちだろう。
俺は、隣を歩く彩葉さんの横顔を盗み見た。彼女は、夕闇に染まる街並みを、穏やかな表情で見つめている。あの鉱山で、俺の無茶苦茶な提案を受け入れ、桔梗さんと連携してくれた。その時の彼女の瞳に宿っていたのは、揺るぎない信頼の色だった。
この人と一緒なら、どこへだって行ける。この仲間たちと一緒なら、どんな困難だって乗り越えられる。
そんな、青臭くて、ラノベの主人公みたいなセリフが、何のてらいもなく心の底から湧き上がってくる。この世界に来てから、不安と混乱ばかりだった俺の心に、未来への、ささやかな、しかし確かな希望の光が灯り始めていた。
鉱山を出てから街までの道のりは、驚くほど穏やかだった。
「ただいまー!」
宿屋の扉を開けた千夏の声が、やけに明るく響いた。彼女は、俺たちが鉱山で戦っている間、街で情報収集と補給品の調達をしてくれていた。
「みんな、お疲れ様! ご飯できてるよー!」
太陽のような笑顔。この笑顔に、俺はどれだけ救われてきただろう。
「おお、腹が減っては戦はできんからな!」
源さんが、早速どかりと椅子に腰を下ろす。
「千夏殿の料理は、栄養バランスも考慮されている。素晴らしい」
ヤタが小夜の肩の上で、もっともらしく頷く。
いつもの、騒々しくて、温かい日常がそこにあった。俺は、その光景に心の底から安堵し、大きく息を吐き出した。
だが、その安堵は、次の瞬間、氷のように砕け散ることになる。
俺たちが拠点としていた宿屋の二階。その一番奥にある、一番広い角部屋の扉を開けた瞬間、俺たちは言葉を失った。
そこは、俺たちの知っている部屋ではなかった。
テーブルは無残にひっくり返り、その上にあったはずの食器は、床に散らばって粉々になっていた。壁には、まるで巨大な獣が爪を立てたかのような、鋭利な刃物によるものと思われる生々しい斬り傷が、何本も深く刻まれている。窓ガラスは砕け散り、そこから吹き込む夜風が、破れたカーテンを不気味に揺らしていた。
部屋の隅にあった栞の書物の山は崩れ、貴重な羊皮紙があちこちに散乱している。小夜が大切にしていた薬草を調合するための道具も、無惨に踏み砕かれていた。
まるで、竜巻でも通り過ぎたかのような、圧倒的な破壊の痕跡。
だが、何よりも俺の心を凍りつかせたのは、そこに満ちる空気だった。
冷たい。
つい半日前まで、ここには確かに千夏の温もりがあったはずだ。彼女が淹れてくれたお茶の香り、彼女の鼻歌、そして、彼女の太陽のような笑顔が満ちていたはずの空間が、今はがらんどうの、魂が抜け落ちたかのような冷たい空虚さだけを残して、沈黙していた。
「……なんだ、これは」
源さんが、絞り出すような低い声で言った。彼の拳が、ギリ、と音を立てて固く握り締められる。
桔梗さんは、何も言わずに部屋の隅々まで素早く視線を走らせ、床に残された痕跡を調べていた。そのプロの目に、確かな警戒の色が浮かんでいた。
「千夏さんは!? 千夏さんはどこですの!?」
栞が、半泣きで部屋に駆け込み、その名を叫ぶ。だが、返事はない。
俺は、ただ呆然と、その光景を立ち尽くして見つめることしかできなかった。頭が真っ白になり、何も考えられない。
足元に、何かがカツンと当たった。視線を落とすと、それは千夏がいつも使っていたマグカップの、ひび割れた欠片だった。彼女が、「駿くんは猫舌だから」と言って、わざわざ選んでくれた、少し厚手の、素朴な焼き物だ。
その欠片を見た瞬間、俺の中で何かがぷつりと切れた。
「千夏ッ!!」
俺は、部屋を飛び出し、宿屋の廊下を、階段を、狂ったように駆け下りた。宿の主人に、厨房に、他の客に、誰彼構わず問い詰める。
「千夏を知らないか!? いつもの、明るい、向日葵みたいな女の子だ! どこに行ったんだ!?」
だが、誰もが怯えた顔で首を横に振るばかりだった。誰も見ていない。誰も知らない。彼女は、まるで神隠しにでもあったかのように、忽然と姿を消してしまっていた。
再び、荒らされた部屋に戻った俺を待っていたのは、さらなる絶望だった。
鑑識眼を持つ桔梗さんが、床の僅かな痕跡を指差していた。
「……血痕だ。微量だが、間違いない。ここで、激しい戦闘があった」
血。その一言が、俺の心臓を鷲掴みにする。
「それに、この傷跡」と、壁の傷をなぞりながら彩葉さんが続ける。「これは、並の剣士の太刀筋ではありません。恐ろしく速く、重い一撃。ですが、一種類ではない。少なくとも、二種類以上の武器がここで交錯しています」
千夏は、攫われたのか。誰かと戦って、そして……。
最悪の想像が、頭の中を駆け巡る。息が苦しくなる。足元が、ぐらぐらと揺れる。
そんな俺の視界の隅に、何かが映った。
部屋の惨状の、その中心。割れた陶器の欠片と、散らばった羊皮紙の海の中に、たった一枚だけ、場違いなほどに綺麗な、折り目のない羊皮紙が落ちていた。
それは、まるで誰かが意図してそこに置いたかのように、奇妙な存在感を放っていた。
俺は、吸い寄せられるようにその羊皮紙に近づき、震える手で、ゆっくりと拾い上げた。
上質な、滑らかな手触り。そこには、インクの染み一つない、冷たいほどに美しい、見慣れた筆跡の文字が並んでいた。
千夏の文字によく似ている。だが、彼女の文字が持つ、太陽のような温かみや、少しだけおっちょこちょいな丸みが、そこには一切なかった。まるで、寸分の狂いもなく設計された、機械が書いたかのような、冷徹な文字。
俺は、その文字を、声に出して読み上げた。自分でも、なぜそうしたのかは分からない。ただ、そうしなければならないと、魂が叫んでいた。
「『対象:神田 駿の監視を継続せよ』」
俺の声が、静まり返った部屋に虚しく響く。仲間たちが、息を呑む気配がした。
「『ただし、危険分子……陰陽師・小夜、拳法家・源、公儀隠密・桔梗との接触を確認』」
俺は、自分の名前の隣に並べられた仲間たちの名を、なぞるように読み上げる。
「『計画の障害となりうると判断した場合……速やかに、処理せよ』」
処理、せよ。
その最後の三文字が、俺の頭の中で、教会の鐘のように、何度も、何度も、反響した。
なんだ、これ?
監視? 処理? 危険分子?
まるで、どこかの国のスパイ映画のセリフだ。何かの悪い冗談か? 敵が残した、俺たちの仲間割れを誘うための、偽物の手紙か?
そうであってくれ。
そう願いながら、俺は羊皮紙の隅に押された、一つの紋章に目を落とした。
翼を広げた、一羽の鳥。
シンプルだが、気品のある、美しい紋章。
そして俺は、その紋章を、知っていた。
忘れもしない。この世界に来て、千夏に連れられて初めて万事屋組合を訪れた日。あの氷のように無表情な受付嬢、静が、俺がこぼしたインクを拭うために使っていた、あの真っ白な布。
その隅に刺繍されていた紋章と、寸分違わず、全く同じものだった。
―――ああ。
俺の中で、何かが崩れ落ちる音がした。
点と、点が、繋がってしまった。
千夏が、なぜ初対面の俺にあんなに親切だったのか。
彼女が、時折見せた、チンピラをあしらう時のような、プロじみた鋭い目つき。
彼女が、なぜ俺の苦手な食べ物を、何も言っていないのに知っていたのか。
彼女が、なぜ彩葉さんに対してだけ、どこかよそよそしく、警戒するような素振りを見せていたのか。
彼女の、あの太陽のような笑顔。俺を救ってくれた、あの優しさ。
その全てが、頭の中で、指令書の冷たい文字に、一つ、また一つと、上書きされていく。
『監視』
『危険分子』
『処理せよ』
嘘だ。
嘘だ嘘だ嘘だ。
信じられるか。信じられるわけがない。
俺の頭の中に、千夏の笑顔が、何度も何度もフラッシュバックする。
「大丈夫!? あなた、すごい力を持ってるのね!」
「お腹すいてるでしょ? ご馳走するよ!」
「みんな元気でいいねぇ」
あの笑顔が、全部、嘘だったというのか。あの優しさが、全部、『任務』だったというのか。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
耳の奥で、キーン、という甲高い耳鳴りが鳴り響く。
仲間たちの声が、遠くで聞こえる。
「……どういう、ことだ」
「千夏殿が、我らを……?」
「……スパイ、だったとでも言うのか」
もう、何も聞こえない。
何も、考えられない。
俺がこの世界で、最初に信じた人間。
俺がこの世界で、最初に救われた優しさ。
それが、全部。
全部、偽物だった。
「……う、そだろ」
俺の口から、か細い声が漏れた。
立っていることすらできず、俺は、その場に膝から崩れ落ちた。手から滑り落ちた指令書が、ひらりと床に舞う。
窓から差し込む夕日は、いつの間にか、血のように禍々しい赤色に変わっていた。その光が、荒らされた部屋を、仲間たちの呆然とした顔を、そして、床に崩れ落ちた俺の絶望を、不吉なまでに赤く、赤く、染め上げていた。
「千夏……」
優しい嘘は、冷たい真実の刃となって、俺の心を、深く、深く、貫いていた。
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