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第三章:信じること、見つめる先
第23話:龍の巣に眠る、隻眼の剣鬼
しおりを挟む数日間の馬車の旅は、駿の精神をすり減らすには十分すぎる時間だった。
揺れる車内では、千夏の笑顔と、彼女が残した冷たい指令書の文字が、交互に脳裏に浮かんで消える。信じたい。だが、証拠はあまりにも黒に近い灰色だ。思考は何度も同じ場所をぐるぐると回り、答えの出ない問いは、じわじวะと心を蝕んでいく。
そんな旅の終わりを告げたのは、馬車の窓から流れ込んできた、今までとは明らかに異質な空気だった。潮の香りと、何かが腐ったような生臭い匂い。そして、遠くから聞こえてくる、まるで巨大な獣の唸り声のような、途切れることのない喧騒。
「着いたようだな」
御者台に座っていた源が、短く告げる。
一行が馬車を降りたその先に、それはあった。
巨大な門だった。いや、門と呼ぶにはあまりにも禍々しく、冒涜的ですらあった。かつてこの地を支配していたという、伝説の古竜。その白骨化した巨大な頭蓋骨が、街の入り口として鎮座している。天を衝く角、空虚な眼窩、そして、訪れる者すべてを飲み込もうとするかのように大きく開かれた顎。その骨の一つ一つに刻まれた無数の傷跡が、この街が経てきたであろう、血塗られた歴史を物語っていた。
門の上部には、錆びついた鉄板に、殴り書きのような文字でこう記されている。
『龍の巣』
「ここが……」
駿は、ゴクリと喉を鳴らした。門の向こう側から漏れ出してくる空気は、濃密な湿気と熱気を含み、まるで生き物の呼気のようだった。
門をくぐった瞬間、世界は完全にその姿を変えた。
そこは、法も秩序も、善悪の概念すらも希薄な、欲望の坩堝だった。
視界に飛び込んでくるのは、混沌。これまで旅してきたどの街とも違う、剥き出しの生命力と、常に死と隣り合わせの危険な空気が、肌をピリピリと刺す。
道の両脇には、粗末な木と錆びた鉄板で建て増しを繰り返したような、歪な建物が迷路のようにひしめき合っている。建物の隙間から見える空は、常に怪しげな薬を焚く煙や、どこのものとも知れない炊事の煙で、濁った鉛色に汚れていた。
道行く人々もまた、混沌そのものだった。屈強な体躯に傷だらけの顔をした獣人、尖った耳で周囲を警戒するエルフの盗賊、屈強な体つきで巨大な戦斧を担ぐドワーフの傭兵。そして、その間を縫うように、様々な出自の人間たちが、互いを値踏みするような鋭い視線で行き交っている。
耳に届くのは、ノイズの洪水。大陸中のあらゆる言語が、怒号や笑い声、あるいは密やかな取引の囁きとなって飛び交う。どこかの鍛冶場から聞こえるハンマーの甲高い音、昼間から開いている賭博場の喧騒、そして、言い争いの末に拳がぶつかり合う鈍い音。それら全てが混じり合い、一つの巨大な騒音となって、思考を麻痺させる。
鼻腔を突き刺すのは、生命と退廃が入り混じった、強烈な匂い。
湿った路地の、黴と汚水の匂い。人々の汗と、こぼれた安酒の酸っぱい匂い。そして、時折ふっと鼻をかすめる、血の鉄錆びた匂い。それらの不快な匂いに混じって、食欲をそそる屋台の肉が焼ける香ばしい匂いが漂ってくるのが、この街の混沌を象徴していた。
「ひぃっ!」
小夜は、その剥き出しの欲望の渦に完全に気圧され、駿の背後に隠れてブルブルと震えている。
栞は、分厚い眼鏡の奥の目を輝かせ、「興味深い! この都市の形成プロセスは、外部からの干渉を極力排除した状態で、各エージェントが自己の利益を最大化するよう行動した結果、創発的に生まれた自己組織化の好例と言えますわ!」と、一人で興奮気味に分析を始めていた。
他の仲間たちも、一様に表情を引き締め、警戒を露わにしている。
(やべえとこに来ちまった……)
駿は、自分の常識が、この街では何一つ通用しないであろうことを、瞬時に悟った。
*
「――『天つ鏡』だと? そんなもん、聞いたこともねえな」
一行が訪れたのは、龍の巣で最も巨大な賭博場兼酒場だった。情報屋との交渉の末、ようやく重い口を開いた鼠のような小男は、金貨を弄びながら、にやついた笑みを浮かべた。
「だが、お前さんたちが探してるのが、国家レベルの秘密組織ってんなら、心当たりは一人だけいる。この街で、知らねえことは何もねえって言われてる男がな」
その男に会うための条件として提示されたのが、この店の地下で毎夜開かれている賭け試合で、無敗を誇るチャンピオンを倒すことだった。
地下へと続く階段を降りると、むわりとした熱気と、男たちの汗、そして安酒の匂いが、壁のように一行の前に立ちはだかった。
そこに広がっていたのは、円形の闘技場だった。観客たちの剥き出しの欲望と熱気が、巨大な渦となって空気を震わせている。鉄格子で厳重に囲まれた闘技場の床は、幾多の戦いで踏み固められた土と、こびりついた血のシミで、赤黒く不気味に染まっていた。
「さぁさぁ、張った張った! 今宵の挑戦者は、北の蛮族、熊殺しのオロフだァ!」
司会者の甲高い声が響き渡り、観客のボルテージが最高潮に達する。鉄格子の扉が開き、熊と見紛うばかりの巨漢が、巨大な戦斧を振り回しながら闘技場へと足を踏み入れた。
「そして、迎え撃つは我らが絶対王者! 飲んでも飲んでも、決して負けを知らぬ、隻眼の剣鬼! リュウノスケェェェェッ!」
地鳴りのような歓声の中、チャンピオンが姿を現した。
その姿を見て、駿は拍子抜けした。
着崩した薄汚れた着物、伸び放題の無精髭、そして手には、中身が半分ほど残った酒瓶。片目には、使い古された黒い眼帯。どう見ても、ただのうらぶれた酔っ払いの中年男にしか見えない。
しかし。
その男――剣豪・龍之介が、ふらりとした足取りで闘技場の中央に置かれた、一本の何の変哲もない木刀を、その手に握った瞬間。
闘技場の空気が、完全に凍りついた。
だらしなく垂れ下がっていた肩は、いつの間にか、微動だにしない山の如き不動の構えとなり、虚ろだったはずの残る片目が、獲物を定める鷹のように、鋭く、そしてどこまでも冷たい光を放っていた。先ほどまで彼の全身から発せられていた酒の匂いが、まるで幻だったかのように消え失せ、代わりに、研ぎ澄まされた刃のような、凄まじい気迫がその場を支配した。
「始め!」
合図と共に、熊殺しのオロフが雄叫びを上げて突進する。しかし、龍之介は動かない。相手の戦斧が、風を唸らせて脳天に振り下ろされる、その寸前。龍之介の体が、ふっと陽炎のように揺らめいた。
次の瞬間、オロフの巨体は、コマのように回転しながら宙を舞い、轟音と共に地面に叩きつけられていた。何が起きたのか、誰にも見えなかった。ただ、龍之介は、いつの間にかオロフの背後に回り込み、木刀の柄で、その首筋を軽く突いていただけだった。
その後も、挑戦者たちは次々と龍之介に挑んだ。屈強な傭兵も、素早い盗賊も、誰も彼に一太刀浴びせることすらできない。龍之介の動きは、常に最小限だった。まるで、相手が次にどう動くか、コンマ一秒先の未来が見えているかのように、「後の先」を取り、木刀で軽く関節を打つだけで、屈強な男たちは糸が切れた人形のように崩れ落ちていく。
その剣筋は、荒々しいようでいて、どこか悲しい舞のようにも見えた。
仲間たちが龍之介の圧倒的な強さに息を呑む中、駿は、隣に立つ彩葉の異変に気づいた。
彼女の顔から、いつも浮かべている春の日だまりのような穏やかな笑みが、完全に消え失せていた。その顔は、まるで精巧な陶器のように、一切の感情を映さない無表情になっている。
その瞳は、憎しみとも、悲しみとも、あるいは懐かしさともつかない、あまりにも複雑な色を宿して、闘技場の中の男を、ただ一点、見つめていた。
彼女の周りの空気だけが、まるで真冬の夜のように、絶対零度の冷たさに満ちていた。
龍之介もまた、観客席にいる彩葉の、その突き刺すような視線に気づいた。
彼は、次の挑戦者であった身軽な獣人を、視線だけで牽制し、その喉元に木刀の切っ先を突きつけて降参させると、その血振りの勢いのまま、木刀の切っ先を、真っ直ぐに彩葉へと向けた。
そして、ニヤリと、獣のように口の端を吊り上げた。
「――よぉ、姫さん。こんな掃き溜めで会うたぁ、奇遇じゃねえか」
その言葉は、闘技場の喧騒を切り裂き、確かに彩葉の元へと届いた。
彩葉は、答える。その声は、かつてないほどに低く、そして冷たく響いた。
「――龍之介。生きて、いたのですか」
二人の間にだけ流れる、濃密で、張り詰めた空気。
それは、単なる知り合いの再会ではなかった。
深く、永く、そしてあまりにも悲しい因縁の再会だった。
駿は、彩葉の見たことのない表情と、二人の間のただならぬ雰囲気に、ゴクリと唾を飲み込む。
千夏の謎を追って辿り着いた、この混沌の街。
しかし、今、目の前で開かれようとしていたのは、仲間の一人が抱える、想像を絶するほどに、深く、暗い、過去への扉だった。
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