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第三章:信じること、見つめる先
第27話:魂の対話
しおりを挟む夜が明け、山の稜線が乳白色の光に縁取られる頃、祠の中では静かな時間が流れていた。鈴は、自分の体の数倍もあるシロの、ふかふかとした白い毛並みに体を預け、浅い眠りについていた。シロは、彼女の穏やかな寝息に合わせて、その半透明の体を、まるで呼吸するかのように僅かに明滅させている。昨日までの張り詰めた緊張が嘘のような、穏やかな朝だった。
しかし、その静寂は、無遠慮な怒声によって、ガラス細工のように粉々に砕かれた。
「おい、呪われ者! 出てこい!」
鈴は、弾かれたように体を起こした。声の主は、昨日、彼女に石を投げつけた町の男だった。祠の入り口には、彼だけでなく、鍬や鎌を手にした十数人の男たちが、険しい顔で集まっていた。彼らの瞳に宿るのは、恐怖と、自分たちの生活を守ろうとする者だけが持つ、追い詰められた必死さだった。
「お前と、その化け犬を、この町に置いておくわけにはいかねえ! 今すぐ山を降りろ!」
男の一人が叫ぶ。その声に呼応するように、シロがグルルル、と低い唸り声を上げた。その巨体がゆっくりと起き上がると、祠の中の空気が重く、冷たくなる。
「やめて!」
鈴は、シロの前に立ちはだかるようにして、必死に叫んだ。
「シロは、悪くないの! 私が、私がちゃんと話すから!」
「話して分かる相手か! 昨日も、俺たちに牙を剥いただろうが!」
「それは、みんなが私に石を投げたから……!」
「うるさい! 疫病神め!」
議論は、最初から平行線だった。恐怖という色眼鏡は、相手の姿を正しく見ることを許さない。男たちの目には、シロはもはや「凶暴な魔物」という一つの記号(レッテル)としてしか映っていなかった。その存在が、どのような経緯で、どのような想いでそこにいるのかを理解しようとする者は、誰もいなかった。
興奮したリーダー格の男が、ずかずかと祠の中に踏み込み、鈴の細い腕を乱暴に掴んだ。
「言うことを聞けねえなら、力ずくでも追い出してやる!」
「いやっ!」
その瞬間、だった。
鈴の腕を掴んだ男の手首に、シロの巨大な牙が、肉に食い込む寸前で、ぴたりと止められていた。シロの琥珀色の瞳から、理性の光が消えていた。
ゴオォォォォッ!!
シロの体から、霊気の嵐が吹き荒れた。それはもはや風ではない。質量を持った、純粋な力の奔流だった。祠の屋根が吹き飛び、周囲の木々が根こそぎ薙ぎ倒されていく。男たちは悲鳴を上げて吹き飛ばされ、地面を転がった。
「シロ! だめっ!!」
鈴の悲痛な叫びも、荒れ狂う嵐の中では、かき消されそうに小さかった。シロの体は見る見るうちに膨れ上がり、もはや小さな家ほどもある。その瞳に映るのは、鈴を傷つける全てのものを排除しようとする、純粋な破壊衝動だけだった。
騒ぎを聞きつけた町の自警団も駆けつけ、錆びた剣や槍を構えてシロを取り囲む。
「化け犬め、神罰だ!」
「かかれ! 町を守るんだ!」
松明の炎が、シロの白い体を不気味に照らし出す。それは、もはや対話の余地などない、一方的な討伐の始まりだった。
「やめて! シロを殺さないで!」
鈴は、涙でぐしゃぐしゃになりながら、ただ叫ぶことしかできなかった。
*
「総員、武器を構えろ!」
駆けつけた駿一行も、その凄まじい光景を前に、臨戦態勢に入っていた。桔梗が冷静に指示を飛ばし、源と龍之介が前衛に立つ。彩葉は刀に手をかけ、栞と小夜は後方で術の準備を始める。
だが、駿だけは動かなかった。彼は、武器を構えるでもなく、ただ、全ての中心で荒れ狂う、白い巨獣をじっと見つめていた。
(違う。こいつは、怒ってるんじゃない)
駿の目には、シロの姿が、ただの凶暴な魔物には見えなかった。それは、あまりにも大きな悲しみを抱えきれず、その重みに耐えきれずに、ただ泣き叫んでいる巨大な赤子のように見えた。
「駿! 何をしている!」
桔梗の鋭い声が飛ぶ。しかし、駿はそれに答えず、ゆっくりと、一歩、前へ出た。丸腰で。無防備に。彼は、シロと、殺気立つ自警団との間に、その小さな体一つで立ちはだかった。
「どけ、よそ者! 死にたいのか!」
自警団のリーダーが叫ぶ。シロもまた、新たな敵の出現に、その殺気を駿へと向けた。
しかし、駿は動かない。彼は、魂の底から、絞り出すように叫んだ。
「こいつの敵は、あんたたちじゃない! こいつはただ、悲しいだけなんだよ! 家族を皆殺しにされて、たった一人の主人を守ることしかできなくて、その想いが強すぎて、どうしようもなくて! ただ、悲しくて苦しいだけなんだよ!」
その言葉には、何の力も込められていなかった。ただ、あまりにもまっすぐで、純粋な、一人の人間の心の叫びだった。
その無謀で、しかし本質を突いた言葉に、シロの殺気が、ほんの一瞬だけ、確かに揺らいだ。自分を「魔物」としてではなく、一つの「心」として見ようとする、初めての存在。その出現に、シロの破壊衝動が、僅かに戸惑いを見せた。
その、コンマ数秒の好機を、小夜は見逃さなかった。
彼女は、ずっと震えていた。自分の過去が、目の前で再現されているようだった。力を制御できず、大切な人を傷つけた、あの日の記憶。自分の力は、人を傷つけるだけの、呪われた力だ。その思い込みが、彼女の足を地面に縫い付けていた。
だが、駿の姿が、彼女に勇気を与えた。
(私も……同じ……)
そして、彼女の隣で、鈴が、ただ嗚咽を漏らしながら、シロの名を呼び続けていた。
(あの子を、助けたい)
初めて、自分のためではなく、他者のために力を使いたいと、心の底から願った。小夜は、震える足で、一歩、前に出た。そして、いつもはヤタを介してしか話せない彼女が、自身の、まだ少し掠れた、しかし凛とした声で、シロに向かって語りかけた。
「あなたの怒り、あなたの悲しみ……わかります。わたくしも、自分の力を制御できず、大切な人を傷つけました。自分の力が、ただ、憎かった……」
それは、彼女が初めて、自分の過去のトラウマと正面から向き合い、それを他者を救うための力に変えようとした、覚醒の瞬間だった。
小夜は、すぅ、と息を吸い込み、祝詞を唱え始めた。それは、攻撃の術でも、防御の術でもない。彼女の持つ全ての霊力を、ただ、相手の心に寄り添わせるためだけの、究極の対話の術。
彼女の小さな体から、青白い、柔らかな光が溢れ出す。その光は、無数の蝶の形となり、嵐の中心にいるシロの巨大な体に、吸い込まれるように、優しく舞い降りていった。
攻撃ではないと悟ったのか、シロも、その光の蝶を振り払おうとはしなかった。
そして、世界は、記憶に包まれた。
シロの中に渦巻いていた、鈴の一族の最後の記憶が、光の粒子となって周囲に流れ出し、映像となって、その場にいる全ての者の脳裏に、直接流れ込んできた。
――それは、雨と風が吹き荒れる、嵐の夜だった。
――平和な一族の集落に、「紅い刃」の兵士たちが、音もなく現れる。
――一方的な、虐殺。抵抗する術もなく、次々と倒れていく一族の者たち。
――幼い鈴を、必死に祠の奥へと隠す、祖父の姿。
――「生きろ、鈴! お前だけは、生きるんじゃ!」
――祖父の体を、無慈悲な刃が貫く。
――その全ての光景を、祠の床下から、息を殺して見ていた、一体の白い犬。それが、若き日のシロだった。
――絶望、無念、悲しみ、怒り。一族全ての、断末魔の想い。その全てを、シロは、たった一体で受け止めた。
――そして、誓ったのだ。何があっても、残された最後の主人、鈴だけは、この身が朽ち果てようとも、守り抜くと。
そのあまりに悲劇的な光景に、自警団の男たちも、仲間たちも、言葉を失い、ただ立ち尽くす。彼らが「魔物」と呼んだ存在が、どれほどの悲しみを背負っていたのかを、ようやく理解したのだ。武器を握っていた男たちが、一人、また一人と、力なくその腕を下ろしていく。
記憶の共有が終わった時、シロの体から吹き荒れていた霊気の嵐は、嘘のように、静かに鎮まっていた。
その巨体は、元の大きさに戻り、力なく鈴の足元にすり寄ると、まるで母親を探す子犬のように、「クゥン、クゥン」と、悲しげに鼻を鳴らした。
「シロ……!」
鈴は、涙でぐしゃぐしゃになりながら、シロの大きな頭を、小さな両腕で、力の限り抱きしめた。
「ありがとう……! 守ってくれて、ありがとう……!」
長い間、二人と一体だけを縛り付けていた、悲しい呪いが、ようやく解けた瞬間だった。
小夜は、その光景を、静かに見つめていた。自分の力が、初めて「人を救った」。その事実に、彼女はまだ戸惑っていた。しかし、胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていくのを、確かに感じていた。
彼女は、そっと鈴の隣に歩み寄ると、その小さな手を、自分の手で優しく握った。同じ孤独を知る二人の少女の間に、もはや言葉は必要なかった。
小-夜は、もう二度と、自分の力を呪いとは思わないだろう。その力は、慈しみの心(正思惟)と共にある時、誰かの凍てついた心を溶かす、温かい光になるのだから。
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