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第五章:影と光、偽りの平穏
第49話:信じる刃
しおりを挟む松明の炎が、石壁に二つの巨大な影を揺らめかせていた。まるで、光と闇そのものが戦っているかのようだ。肩から流れる血が、じわりと装束を濡らしていく。桔梗は、冷たい壁に背を預け、荒い息をつきながら、仮面の男を見据えていた。
(ここまで、か……)
肺が痛い。身体の芯が凍えるように寒い。だが、それ以上に、心が冷え切っていた。信じた光は、偽りの幻だった。伸ばした手は、無慈悲に振り払われた。結局、自分は独りなのだ。奈落の闇の中で生まれ、この砦の闇の中で死んでいく。それが、道具として作られた自分の、あまりに相応しい結末。
絶望が、冷たい霧のように彼女の心を完全に包み込もうとしていた。彼女が死を覚悟し、その瞼をゆっくりと閉じようとした、まさにその瞬間だった。
**ゴォォォンッ!**
砦の入り口が、まるで雷に打たれたかのような轟音と共に、内側から粉々に吹き飛ばされた。
時が止まる。木片と石の破片が舞い散る中、ぽっかりと開いた暗い穴の向こう側から、月明かりを背負って現れたのは、見慣れた、そして今、最も会いたくなかった者たちのシルエットだった。
「そこまでだ!」
先頭に立つ駿の叫びを皮切りに、仲間たちが一斉になだれ込んでくる。
「ちっ、派手にやりやがって……桔梗! 無事か!」
源が拳を鳴らしながら叫ぶ。龍之介は気だるげに木刀を肩に担ぎ、彩葉は静かに、しかしその瞳に確かな怒りの炎を宿して佇んでいた。
「桔梗さん! 遅くなってごめんなさい!」
アリア姫の凛とした声が、絶望に満ちたこの空間に、場違いなほど真っ直ぐに響き渡った。
時雨は、予期せぬ闖入者たちに、仮面の奥から不快そうな視線を向ける。
「……馴れ合いが好きなのは、相変わらずか、桔梗。だが、雑魚が何匹集まろうと、結果は変わらん」
時雨は、まず邪魔な中心人物を排除すべく、その姿をふっと掻き消した。狙いは、駿。常人には目で追うことすら不可能な速度で、その刃が駿の心臓めがけて一直線に突き出される。
誰もが悲鳴を上げる間もなかった。しかし、駿は避けなかった。
彼の瞳には、もはや時雨の姿そのものは映っていなかった。見えていたのは、彼が修行の果てに認識できるようになった、世界の理(ことわり)。時雨の動きに先行して、空間に走る「光の糸」――因果の繋がり――が、一本の鋭い槍となって自分に突き刺さる未来図が、はっきりと見えていた。
(ここを、ずらす)
駿は、時雨が踏み込む先の空間を、まるで水面に指で波紋を作るように、ほんの僅かに「滑らせた」。
時雨にとっては、信じがたい光景だった。完璧なタイミング、完璧な軌道で放ったはずの突きが、まるで蜃気楼を貫くかのように、駿の身体の数センチ横を通り過ぎていった。手応えがない。まるで、そこにいるはずの男が、一瞬だけ世界の法則の外側にいたかのように。
「なっ……!?」
その動揺を見逃す仲間たちではない。源が、龍之介が、彩葉が、一斉に時雨へと襲いかかる。激しい金属音が、再び玉座の間に響き渡った。
その戦いの渦の中心で、駿は傷ついた桔梗に向かって、魂で叫んだ。
「桔梗さん! あんたが信じるべきは、幕府が見せた紙切れでも、過去の幻影でもない!」
その言葉は、何よりも雄弁な「正しい言葉」として、桔梗の凍てついた心を激しく揺さぶった。
「今、あんたの隣で、あんたのために戦ってる、俺たちだ!」
そうだ。
自分は、もう独りじゃない。
無茶な戦い方をする駿。それを守るように立ち塞がる源。背後の死角を完璧にカバーする龍之介と彩葉。後方から術の援護をしようと必死に印を結ぶ小夜と鈴。戦況を冷静に分析する栞と、癒しの光を放ち続けるアリア。
くだらないことで言い争い、呆れるほど能天気で、どうしようもなく不器用で、そして……誰よりも温かい、仲間たち。
体を張って自分を守ろうとする彼らの姿が、涙で滲む。
(ああ、そうか。私は……帰りたかったんだ。この人たちのいる、あの騒がしい場所に)
桔梗の迷いが、完全に消え失せた。その瞳に、奈落の闇をも貫く、鋭く、そして澄んだ光が宿る。彼女は、ゆっくりと立ち上がった。肩の傷が、もはや痛みを感じさせない。
「貴方の正義がどうであれ……」
その声は、静かだったが、戦場の全ての音を支配するほどの、強い意志に満ちていた。
「私の正義は、もう二度と、仲間を失わないこと!」
彼女は、刃を構えた。その一振りは、時雨から教わった全ての技の集大成。そして、その刃の上には、駿たちとの旅で初めて芽生えた「仲間を信じる心」という、時雨すらも知らない新たな理(ことわり)が、淡い光となって乗っていた。
もはや迷いも、憎しみも、後悔もない。ただ、守りたいという、純粋な祈りだけを乗せた一撃。
その刃は、時雨の鉄壁の防御を、まるで水面を滑るようにすり抜けた。
カラン。
乾いた音が、やけに大きく響いた。時雨の仮面が、綺麗な一直線の亀裂と共に、真っ二つに割れる。
砕けた仮面の破片が、スローモーションのように宙を舞い、床に落ちた。彼女を長年縛り付けてきた偽りの過去が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
その向こう側に、松明の光に照らし出されて、ついに真実の顔が晒された。
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