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第五章:影と光、偽りの平穏
第50話:海の底から
しおりを挟む静寂が、戦いの終わった玉座の間を支配していた。先ほどまで荒れ狂っていた剣戟の残響は、まるで嘘だったかのように闇の中へと消えている。松明の炎がパチパチと爆ぜる音だけが、やけに大きく、そして不気味に響いていた。
カラン。
二つに割れた鋼の仮面が、床に落ちて乾いた音を立てた。その下から現れた素顔を、揺らめく松明の光が、まるで舞台の役者を照らすかのように浮かび上がらせる。
仲間たちは、息を呑んだ。
その顔は、桔梗が語った時雨の面影に、確かによく似ていた。だが、何かが決定的に違う。桔梗の記憶の中の時雨の瞳が、静かな湖面のような、穏やかさと強さを湛えていたのに対し、その男の目に宿る光は、深い劣等感と、全てを焼き尽くさんとする歪んだ憎しみに濁りきっていた。
「……兄、さん……」
男は、血を吐きながら、嘲るように、そしてどこか悲しげに笑った。
「そうだな。俺は、お前たちの知る英雄、時雨の……双子の弟だ」
その告白は、あまりにも衝撃的だった。男は、崩れ落ちる壁にその身を預けながら、全てを語り始めた。それは、光の影として生まれ、光に焦がれ、そして光を憎むことしかできなかった、一人の男の悲しい独白だった。
「兄さんは、いつも正しかった。いつも、眩しすぎた。俺がどれだけ努力しても、どれだけ技を磨いても、人々が見るのは常に兄さんだった。俺は、完璧な英雄の、出来損ないの写し鏡。それが、俺の全てだった」
彼は、常に優秀な兄の影として生きてきた。そして、その兄を殺した(と彼が信じる)幕府への復讐心から、「紅い刃」にその身を投じた。兄の名を騙り、兄の技を使うことでしか、彼は自分という存在を確かめることができなかったのだ。
「だが、お前は……桔梗、お前だけは、兄さんではなく、俺を見てくれると思った。なのに、お前の目も、結局は兄さんの幻影しか追っていなかった!」
その言葉が、桔梗の胸を締め付けた。
「では、あの日の……」
「ああ、そうだ。兄さんは、最後まで英雄だったよ。お前たち部隊を逃がすために、たった一人で敵軍に突っ込み、そして……死んだ。俺は、その一部始終を、影の中から見ていた。愚かで、気高い、俺の兄さんの最期をな」
桔梗は、裏切られてなどいなかった。
彼女が信じた人は、最後まで彼女の信じた通りの、気高い英雄だったのだ。
その真実に、桔梗の頬を、一筋の涙が止めどなく伝った。それは、悲しみの涙ではなかった。長かった、長かった心の牢獄から、彼女の魂が、ようやく解放された瞬間の、温かい雫だった。何年も、何年も、彼女の心を縛り付けていた偽りの鎖が、音を立てて砕け散っていく。
「……よかった」
声にならない声で、彼女はそう呟いた。
「よかった……時雨様……」
その解放を見届けた男は、まるで自分の役目が終わったかのように、最後の力を振り絞った。彼は、玉座の裏に隠されていた、アジトの自爆装置を起動させる。
「俺は、兄さんを越えられなかった! だが、貴様らも道連れだ!」
ゴゴゴゴゴ……!
砦全体が、地鳴りのような轟音と共に激しく揺れ始める。天井から巨大な岩が崩れ落ち、床に亀裂が走る。
「兄さんは、この腐った世界を守ろうとした。だが、俺は違う! 俺は、この世界を、兄さんを奪ったこの世界そのものを、破壊する!」
男は、崩れ落ちる瓦礫の中、狂ったように笑い続けた。
「もう遅い! 我らが悲願の第一歩は成った! 『災厄』の第一のしもべが、北の海で目覚めた! もう、誰にも止められん!」
「退くぞ!」
駿の叫びを合図に、一行は崩壊する砦から、命からがら脱出路を駆け抜ける。背後で、男の最後の笑い声と、全てを飲み込む巨大な崩落の音が響いていた。
***
一行が、崩れ落ちる砦から転がり出るようにして外へ脱出した時、空は白み始めていた。東の空が、深い藍色から、柔らかな乳白色へとその色を変え、やがて一筋の、燃えるような黄金色の光が地平線を射抜いた。
桔梗の長い、暗い夜も、ようやく明けようとしていた。彼女は、昇り始めた朝日にその顔を向け、ただ静かに、その光と温かさを受け止めていた。その頬を伝う涙は、もうとうに乾いていた。
「きゃっ!」
その静寂を破ったのは、アリア姫の小さな悲鳴だった。彼女は、懐から取り出した王家の羅針盤を、信じられないものを見るかのように見つめていた。
その古びた羅 考え羅針盤が、今までにないほど激しい、目の眩むような青い光を放っていた。針は、もはや方角を示すことを放棄し、狂ったように高速で回転しながら、しかしその全体は、ただ一点――遥か北の海――を、揺るぎなく指し示していた。
その光景に、駿は全身の血の気が引くのを感じた。
(北の海……まさか)
王都で、自分がこじ開けたワームホール。その先は、故郷の、穏やかな海の景色だったはずだ。だが、自分はそこに、この世界の理を歪めるほどの、巨大な「災厄」のエネルギーを叩き込んだ。
あの男の最後の言葉が、脳内で蘇る。
『『災厄』の第一のしもべが、北の海で目覚めた!』
(俺が……俺のせいで……)
桔梗の過去は、一つの決着を見た。しかし、それは同時に、駿自身がその手で引き起こしてしまったかもしれない、より巨大で、そして未知なる厄災の、静かな幕開けを告げていた。
守ったはずの世界に、自ら新たな脅威を生み出してしまったのかもしれない。その計り知れない責任の重さが、夜明けの冷たい空気と共に、駿の肩にずしりと圧し掛かってきた。
物語は、一つの終わりを告げ、そして新たな始まりへと、否応なく舵を切った。その行き先を示す羅針盤は、不吉な光を放ちながら、ただ、北の海を指し示し続けていた。
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