死にたい俺、不老不死を呪った神を殺す旅に出たら、訳アリ美女たちと日本を救う羽目になった件

Gaku

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中部編

第10話『樹海に響くエンジン音』

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東京という、アスファルトとコンクリートで塗り固められた巨大な坩堝(るつぼ)からようやく脱出した僕たちの愛車、もとい、オンボロワンボックスカーは、まるで巨大な洗濯機から解放された靴下のように、くたくたになって西へ向かっていた。夏の終わりが、首都圏の熱気をわずかに緩め、車窓を通り過ぎる風は、湿った粘り気の中に秋の気配という名の尖ったガラス片を隠し持っている。それは肌を撫でる優しさの中に、やがて来る季節の厳しさを予感させる、どこか切ない感触だった。

首都高速道路の継ぎ目を規則正しく乗り越えるたびに、僕の古い相棒は「ガタン、ゴトン」と年寄りじみた関節痛のような音を立てる。その音すら、僕にとっては耳慣れた子守唄のようなものだった。コンクリートの壁面に反響していた都会の騒音は、中央自動車道に入る頃には嘘のように遠のき、代わりに蝉時雨の波が、途切れることなく車内に流れ込んでくる。神奈川を抜け、山梨県に入ったあたりで、景色は劇的な変化を遂げた。空を傲慢に突き刺していた灰色のビル群は鳴りを潜め、その代わりに、どこまでも深く、どこまでも濃い緑が、僕たちの視界を支配し始めたのだ。それはまるで、モノクロ映画の世界から、突如として総天然色の世界へと放り込まれたかのような、鮮烈な色彩の洪水だった。

「うわー、空気が全然違う!なんか、美味しい!」

助手席の栞(しおり)が、ほとんど身を乗り出すようにして窓を全開にし、胸いっぱいに森の空気を吸い込んでいる。彼女の艶やかな黒髪が、生命の匂いをたっぷり含んだ風に優しくなびいていた。その匂いは、単なる植物の香りではなかった。湿った土の匂い、陽光を浴びて温まった岩の匂い、朽ちていく落ち葉の匂い、そして名前も知らない無数の草花が放つ、甘くも青臭い生命の香り。それらが渾然一体となって、僕たちの肺を、そして魂を浄化していくようだった。都会で吸い込んでいた排気ガスと埃にまみれた空気とは、成分からして根本的に違う。それは「生きている」空気だった。

「マイナスイオン!これがマイナスイオンっすか!俺の筋肉が喜んでる!大胸筋が!上腕二頭筋が!細胞レベルで歓喜の雄叫びを上げてるっすよ!」

後部座席では、体育会系の巨漢、田中猛(たける)が、一人で興奮のるつぼと化している。彼の単純明快な思考回路は、美しい自然に触れるといつもこうしてオーバーヒートを起こすのだ。その巨体には不釣り合いなほど子供っぽい笑顔を浮かべ、窓の外の景色に感動している。

彼の隣では、天才ハッカー少女の鈴木莉奈(りな)が、ノートパソコンの画面に滝のように流れる緑色の文字列を睨みつけながら、その歓喜の雄叫びに冷や水を浴びせた。

「猛さんの筋肉細胞が喜んでるんじゃなくて、急激な気圧の変化と酸素濃度の違いに、自律神経が悲鳴を上げてるだけじゃないですか?生体モニターの数値、心拍数が若干乱れてますよ。アドレナリンの過剰分泌です。落ち着いてください」

莉奈は、自分の腕につけたウェアラブルデバイスと猛のそれを同期させ、リアルタイムで彼の生体情報を監視しているらしい。夢も希望もない、しかし紛れもない事実を淡々と突きつけるのが彼女の流儀だ。猛は「な、なんだとー!俺の筋肉はそんなヤワじゃねえ!」と反論しているが、その声にはいささかの動揺が混じっている。

ドタバタとした日常。痴話喧嘩のような、漫才のような、そんなやり取り。いつからか当たり前になった、この騒がしい道中。何百年もの間、ただひたすらに独りで死に場所を探し続けてきた僕にとっては、あまりにも眩しすぎる光景だった。光は、時に目を焼く。この温かく、しかし決して永遠ではない光に慣れてしまえば、再び訪れるであろう孤独の闇に、僕は耐えられるのだろうか。そんな一抹の不安が、いつも心の隅に影を落としている。

ハンドルを握る僕、藤原悠人(ゆうと)は、そんな仲間たちの喧騒をBGMに、ただぼんやりと前を見ていた。僕の体は、もう何百年も変わっていない。見た目は大学生の頃のまま。二十歳を少し過ぎた、人生で最もエネルギーに満ち溢れていたあの瞬間から、僕の時間は完全に止まってしまった。痛みも、苦しみも、悲しみも、喜びも、人並み以上に感じるくせに、決して壊れることも、老いることも、そして、死ぬこともない。

原因は、幼い頃に迷い込んだ故郷の森で出会った、「常世(とこよ)の神」と名乗る気まぐれな存在だ。神は、死にかけていた僕を哀れんだのか、あるいは単なる悪戯心か、不老不死という名の、終わりのない呪いを僕にかけた。以来、僕は家族を看取り、友人を看取り、恋人を看取り、時代が移り変わるのを、ただ独り、傍観者として見つめ続けてきた。終わらない生は、終わらない地獄と同義だった。

僕はこの旅で、その神様を見つけ出し、積年の恨みを込めて一発ぶん殴った上で、この呪いを解いてもらうつもりだった。ただ、まあ、神様探しなんてのは、広大な砂漠でたった一粒の砂金を探すような、途方もないクエストだ。具体的な手がかりは何もない。だから今は、仲間たちと共に、日本各地で起きるちょっと不思議な騒動――神隠しだの、ポルターガイストだの、土地に纏わる古い因縁だの――に首を突っ込み、それを解決することで日銭を稼ぎ、このオンボロカーにガソリンを食わせる、そんな毎日を送っている。

山道は、鬱蒼とした森の中へと続いていく。カーナビの画面には「青木ヶ原樹海」という、不穏な文字列が表示されていた。その名を聞いただけで、さっきまで筋肉の歓喜を叫んでいた猛が「ひっ」と短い悲鳴を上げ、莉奈の背後に隠れようとして「邪魔です」と肘でどかされている。

道沿いに立つ、古びて錆の浮いた看板には、掠れた文字で「いのちを大切に もう一度考えよう 家族のこと」なんて書かれている。何百年も死ねずにいる僕への、壮大な皮肉にしか見えない。大切にしたくても、僕の命には終わりがないのだ。家族なんて、もう何世代も前に土に還ってしまった。

太陽の光が、びっしりと生い茂った木々の葉に遮られ、昼間だというのに森の中は薄暗い。それはまるで、世界から色と音を少しずつ濾し取っていくような、不思議な静寂が支配する空間だった。聞こえるのは、僕たちの車のエンジン音と、湿ったアスファルトをタイヤが噛む音、そして後部座席で猛が小声で念仏のように何かを唱えている声だけ。そのエンジン音が、どこか苦しげに聞こえたのは、決して気のせいではなかったのだろう。長い登り坂で、アクセルを踏み込んでも、いつもより力がなく、かすかに咳き込むような振動がハンドルに伝わってきていた。

ぷすん。

それは、長い溜息のような、あるいは、もう疲れたよと呟くような、あまりにも穏やかで、唐突な音だった。それまで健気に唸りを上げていたエンジン音が、ふっと消えた。同時に、カーステレオから流れていたインディーズバンドの音楽も、エアコンの送風音も、全ての音がぴたりと止んだ。全ての計器類の針が、だらりと力をなくして重力に従い、ゼロを指す。警告灯の一つもつかない。まるで停電した家のように、ただ、静かに、本当に静かに、僕の長年の相棒は、その鉄の心臓を止めた。

惰性でしばらく進んだ車を、僕はゆっくりと路肩に寄せた。静寂が、耳に痛いほど車内を満たしている。

「…………え?」

後部座席から、莉奈の素っ頓狂な声が上がる。いつも冷静な彼女が、これほどまでに感情を露わにするのは珍しい。

「おい、どうしたんだ悠人!なんで止まるんだよ!ここ、絶対ヤバいって!テレビで見たもん!一回入ったら二度と出られない森なんだぞ!方位磁石も狂うんだろ!?」

猛が、すっかり顔面蒼白になってがたがたと震えている。その巨体が震えるたびに、車体が微かに揺れた。栞も、言葉はなくとも、心配そうな顔で僕の横顔を見つめている。

「いや、止まったもんは仕方ないだろ。どうやら、こいつ、ご臨終らしい」

僕はキーをもう一度捻ってみるが、うんともすんとも言わない。完全に沈黙している。鉄の塊と化した車を降り、ボンネットを軽く叩くと、かつん、という空虚で乾いた音がした。

「ご臨終って……。そんな!莉奈!なんとかしろよ!お前のハイテクメカでさ!ちょちょいとやれば動くんだろ!?」

猛に泣きつかれた莉奈は、すでに自分の席を飛び出し、運転席に乗り込んできていた。彼女は慣れた手つきでダッシュボードの下のカバーを外し、隠されたコネクタに自前のラップトップから伸びるケーブルを接続した。ノートパソコンの画面に、複雑なダイアグラムと数列が滝のように流れ始める。

「ちょっと待ってください。車両システムの自己診断プログラムに直接アクセスします……。あれ?おかしいな。全ての項目が『N/A』……応答がありません。バスシステムが完全にダウンしてる?」

莉奈の細い指が、猛烈なスピードでキーボードを叩く。その動きは、まるで熟練のピアニストのようだ。

「メインECUが応答しないなら、サブシステムから叩きます。強制的に診断モードに移行させます。エンジン制御ユニット、トランスミッション、バッテリーマネジメントシステム……ダメだ。全部、完全に沈黙してます。物理的な断線とか、ヒューズが飛んだとか、そういうレベルじゃない。なんていうか……」

彼女は一度言葉を切り、信じられない、という表情で僕を見た。その瞳には、自らの知識と技術が通用しない未知の現象に遭遇した、天才ゆえの戸惑いが浮かんでいた。

「全ての電子制御パーツが、まるで示し合わせたように、一斉に『生きるのをやめた』みたいな反応です。こんなログ、見たことない……。まるで、ソフトウェア的に『死』を定義されて、実行されたみたいな……。オカルトです」

天才ハッカーのお手上げ宣言。それは、この鉄の塊が、科学的に解明できる故障ではなく、もっと根源的な、概念的な「終わり」を迎えたことを意味していた。念のためスマートフォンを取り出すが、当然のように画面の隅には「圏外」の二文字が表示されている。JAFのコールセンターに電話をかけても、「お客様のおかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか…」という、絶望を誘う無機質なアナウンスが流れるだけ。僕たちは、文字通り、樹海の入り口で完全に孤立し、途方に暮れた。

「だーかーらー言ったじゃないっすか!樹海の呪いなんだよぉ!俺たち、森に喰われるんだぁ!」

猛が、ついに半泣きで地面にへたり込む。その巨体には全く似合わない情けない姿だ。栞が、困ったように微笑みながら、そんな猛の広い背中を優しくさすってやっている。彼女のこういう優しさが、この凸凹チームの潤滑油になっているのだ。

「悠人さん、この車、なんだかとても悲しそうです。ずっと、ずっと我慢してたみたい……」

栞が、静かに言った。彼女には、モノや場所に残された人の強い想いが見えたり、聞こえたりすることがある。彼女の言葉は、莉奈の科学的な分析よりも、ずっと僕の心にすとんと落ちてきた。

「ああ。そうだろうな。こいつには、何年も無茶な旅に付き合わせたからな。北は北海道の雪道から、南は沖縄の潮風まで。そろそろ、ゆっくり休みたかったんだろ」

僕は、色褪せ、所々に傷のついたボディをそっと撫でた。何人ものオーナーを経て、中古車屋の片隅で埃をかぶっていたこいつを、旅の相棒に選んだのはもうずいぶん前のことだ。こいつだけが、僕がどれだけ歳をとらない化け物かを知らずに、ただ黙って、僕を次の場所へ運んでくれた。友人や恋人が僕を置いて老い、死んでいくのを見送るしかなかった僕にとって、この無機質な鉄の塊は、唯一、対等で、そして気楽な相棒だったのだ。

「悲しいとか、呪いとか言ってる場合じゃないですよ。このままだと、僕たちがリアルに遭難します。日没まで時間がない。とにかく、文明の灯りを探さないと」

莉奈は、感傷に浸る僕たちを現実へと引き戻す。彼女は自分の荷物の中から、手のひらサイズの小型ドローンを取り出し、その場で起動させた。プロペラが静かな音を立てて上昇し、樹海の上空からの映像を彼女のタブレットにリアルタイムで映し出す。緑の海が、画面いっぱいに広がっている。

「……ありました。ここから南東へ1.5キロほど下ったところに、建物が一つ。周囲の植生から見て、かなり古い。工場か倉庫みたいです。煙は……出てないですね。廃墟かもしれませんが、でも、行くしかありません」

僕たちは、必要最低限の荷物――水、食料、莉奈のハイテクガジェット、そして猛が「お守りっす!」と言い張るプロテインシェイカー――をそれぞれのバックパックに詰め込み、完全に「死体」となったバンをその場に残し、歩き始めた。アスファルトの道はすぐに途切れ、獣道に近い細い砂利道になる。道の両脇からは、苔むした木々が覆いかぶさるように伸び、まるで緑色のトンネルのようだ。ひんやりと湿った空気が、肌にまとわりつく。鳥の声すら聞こえない、不気味な静寂の中を、僕たちはただ黙々と歩いた。

三十分ほど歩いただろうか。森が不意に開け、古びた建物が見えてきた。錆びたトタンの壁に、消えかかったペンキで「サトウモーター」と書かれている。どうやら、莉奈が見つけたのは自動車整備工場らしい。しかし、現役で稼働しているとは思えないほど、その建物は周囲の森に溶け込み、時代から完全に取り残されていた。まるで、太古の巨大な獣の死骸が、静かにそこに横たわっているかのように。

「ご、ごめんくださーい……。誰かいませんかー……?」

猛が、僕の背中に隠れながら、恐る恐る声を張り上げる。中から返事はない。代わりに、キィン、という甲高い金属音と、ガシャ、という重い工具を置くような音が、どこか規則的なリズムで聞こえてくる。どうやら、誰かいるらしい。

僕たちは、油と鉄と、そして時間の匂いが充満する、薄暗い工場の中へと足を踏み入れた。高い天井から吊るされた裸電球が、ぼんやりと内部を照らしている。壁には、大小様々なスパナやドライバーが、まるで外科医の手術道具のように整然と、しかし使い込まれた風格を漂わせて並べられている。床には、何十年分もの油が染み込み、黒光りしていた。そこは、一人の人間の城であり、戦場であり、そして聖域であるような、濃密な空気が満ちていた。

工場の真ん中で、分解された車のエンジンらしきものを前に、熊のように大きな背中が屈み込んでいた。油と汗にまみれた作業着を着たその男は、僕たちの気配に気づいているはずなのに、一度もこちらを振り向かない。ただ黙々と、手元の機械と対話するように、格闘している。

「あの、すみません。車が、この先の道で壊れてしまって……。レッカーを呼びたいんですが、電話も通じなくて」

僕が意を決して声をかけると、男の動きがぴたりと止まった。ゆっくりと、本当にゆっくりと、まるで錆びついた機械が軋むように、こちらを振り向く。

年の頃は四十代だろうか。無精髭を生やし、熊のようにがっしりとした体躯。その目は、闇夜に獲物を狙う猟師のように鋭く、僕たちを値踏みするように、一人一人、じろりと見つめている。彼が、このサトウモーターの主、佐藤健吾(さとう けんご)だった。

彼は、僕たちの都会風の服装、特に莉奈が持ち込んだハイテクなドローンケースやラップトップを一瞥すると、何も言わずに無言で立ち上がり、工場の外に出て、僕たちが来た道を指さした。その指は太く、短く、爪の間まで油で黒ずんでいた。

「あのオンボロか」

ボソリと、地を這うような低い声で言った。どうやら、僕たちのバンが森の入り口に乗り捨てられているのを知っていたらしい。

「ええ。そうです。もしよろしければ、見てもらえないでしょうか」

「……」

健吾は、しばらく黙って僕の顔をじっと見ていた。その視線は、単に容姿を見ているのではない。僕の体の奥、決して老いることのない魂の核まで見透かしているかのようで、思わず身じろぎしてしまった。やがて、彼はふいと視線を逸らし、僕のバンが乗り捨てられている方角を向いて、信じられない言葉を呟いた。

「こいつ、泣いてるな」

その瞬間、工場の湿った空気が凍りついた。猛は「ひぃっ」とカエルの潰れたような悲鳴を上げ、栞と莉奈は驚いたように目を見開いている。

泣いている? 車が?

だが、僕には分かった。彼の言葉は、比喩でも、戯言でもない。彼は、本当に「聞いて」いるのだ。僕の相棒が、その鉄の体で、声にならない声を上げて、泣いているのを。僕が、聞こえないふりをし続けてきた、その悲痛な叫びを。

健吾は、呆然とする僕たちに「ついてこい」とだけ言うと、工場の脇に停めてあった軽トラックの運転席に乗り込んだ。僕たちも慌てて荷台に乗り込む。ガタガタと心許ない音を立てて揺れるトラックに乗り、バンが乗り捨てられた場所に戻ると、健吾は車から降り、僕の相棒に手も触れずに、ただその周りをぐるりと一周した。まるで、手負いの獣の足跡や血痕を追う、老練な猟師のように。その目は、ボディの傷、タイヤの摩耗、マフラーの煤、その全てから情報を読み取っているようだった。

そして、一言。

「直す」

そう言うと、彼は自分のトラックから太い牽引ロープを取り出し、手際よく僕たちのバンに繋いだ。そして、あの古びた城塞へと、僕の相棒の「亡骸」を、静かに、しかし力強く運び入れたのだった。

修理を待つ間、僕たちは健吾に「腹でも減ってるんだろ。集落の食堂に行ってろ」とぶっきらぼうに言われ、言われるがまま、歩いて数分の距離にある小さな集落の唯一の食堂で時間を潰すことにした。古い木のテーブル、壁に貼られた黄ばんだメニュー、テレビからは昼のワイドショーが気だるく流れている。昭和の時代で時が止まったかのような空間だった。

「へぇ、あんたら、あの樹海の近くから来たのかい。物好きだねぇ。あの辺りは、近寄らんほうがいいよ」

注文を取りに来た、人の良さそうな割烹着姿のおばちゃんが、僕たちに親しげに話しかけてきた。

「最近、また出てるからねぇ。神隠しだよ」

「神隠し、ですか?」

栞が、興味深そうに聞き返す。こういう話は、僕たちの仕事の範疇だ。

「そうだよ。車ごと、忽然と消えちまうんだ。人も、車も、跡形もなくね。一月前にも、東京から来た若いカップルが、新車で森に入ったきり、戻ってこないんだよ。警察も消防団も大勢で探したけど、タイヤの跡ひとつ見つからなかったって。お手上げさ。森に入ったが最後、二度と出てこねえ。昔から、あの森は、神様が気に入ったものを隠しちまうって言うからねぇ。あんたらも、あのサトウモーターの健吾さんがいなけりゃ、危なかったかもしれないよ。気をつけなよ」

そんな不気味な噂話を聞きながら、伸び切ったうどんをすすっていると、莉奈のスマートフォンが短く震えた。健吾からだ。「終わった」という、たった三文字のメッセージ。僕たちは、代金をテーブルに置くと、慌ててサトウモーターへと戻った。

工場に戻ると、僕のバンは、まるで何事もなかったかのように、そこに佇んでいた。あれほど頑なに沈黙を守っていたのに、今はアイドリングの穏やかな振動を伝えている。健吾が、油まみれの手をウエスで拭きながら、こちらを向く。

「エンジンはかかる。だが、長くはもたんぞ。こいつはもう、旅をする体じゃねえ」

「原因は?」

莉奈が、専門家として鋭く問いかける。彼女はまだ、科学的な説明を求めているようだった。

「ただの寿命だ」

健吾は、こともなげに言った。

「ただの寿命?そんなはずは……。全ての電子制御パーツが一斉に機能停止するなんて、ありえません。何かしらの電気系統のサージか、あるいは強力な指向性の電磁波でも浴びない限り……」

食い下がる莉奈の言葉を、健吾は汚れた手で制した。

「あんたらが、こいつに詰め込んできた無茶な旅の『想い』が、こいつの寿命を縮めたんだ。それだけのことだ。喜びも、悲しみも、怒りも、全部な。機械は鉄の塊だが、魂が宿ることもある。あんたらの想いが重すぎたんだよ」

想い、という言葉に、栞がはっとしたように顔を上げた。

「機械ってのはな、人間が思ってるよりずっと正直だ。作られた目的通りに、愛情を持って使われりゃ、設計寿命よりずっと長生きすることもある。だが、無茶をさせ続けりゃ、その分だけ早く壊れる。こいつはずっと、あんたらに言ってたはずだ。もう無理だ、疲れた、休ませてくれ、ってな。エンジンオイルに混じった鉄粉が、ミッションの唸りが、サスペンションの軋みが、全部こいつの言葉だったんだ」

健吾は、僕の目をまっすぐに見て、静かに、しかし厳しく問い詰めた。その目は、僕の心の奥底を見透かしている。

「悲鳴が、聞こえなかったか?」

その言葉は、重い鉄槌のように僕の胸に深く突き刺さった。

聞こえていた。もちろん、聞こえていた。高速道路を何百キロも走り続けた後の、エンジンの微かな異音。急な坂道を登る時の、ミッションの苦しげな唸り。小さな段差を乗り越えるたびに聞こえる、足回りの悲鳴。僕はこの何百年、あらゆる「声」に耳を塞いで生きてきた。共に過ごした友人の「もう歳だから、昔みたいにはいかないよ」という諦めの混じったぼやきも。愛した恋人の「あなたと私とでは、流れる時間が違うのね」という涙に濡れた囁きも。そして、この鉄の相棒の、声なき悲鳴も。

僕は、いつだって気づかないふりをしてきた。自分だけが変わらないという残酷な現実から、目を逸らすために。周りが老い、朽ちていくことに向き合えば、自分の異常さが際立ってしまうから。

「……うるせえくらいにな」

僕は、吐き捨てるように、絞り出すように言った。健吾は、それ以上何も言わず、ただ黙って頷いた。彼には、僕が背負っているものの重さのカケラが、見えているのかもしれない。

「それで、修理代はいくらですか?」

莉奈が現実的な話題に戻し、財布を取り出そうとすると、健吾はそれを一瞥して、短く言った。

「要らん」

「え?でも……」

「代わりに、仕事を手伝え。今夜、森が一番やかましくなる」

やかましくなる?
あの、鳥の声すらしない、不気味なほど静まり返った森が?
健吾の言葉の意味が分からず、僕たちが戸惑っていると、工場の外が急速に夕闇に包まれていくのが見えた。西の山の稜線に太陽が沈み、空は深い藍色から漆黒へと、その表情を変えていく。森の輪郭が、闇に溶けていく。

そして、その闇の底から、何かが這い上がってくるかのように、不気味な音が聞こえ始めた。

キィィ……、ガガガ……、ブゥゥン……。

それは、一つの音ではなかった。錆びついた金属が擦れ合うような甲高い音。壊れたモーターが空回りするような鈍い音。古いラジオのノイズのような音。何百、いや何千もの機械が一斉に、苦しげにうめき、泣き、怒っているかのような、異様で、不協和音に満ちたシンフォニーだった。

「ひぃぃぃ!な、ななな、なんすか今の音!幽霊っすか!機械の幽霊の大合唱っすか!?」

猛が腰を抜かし、僕の足にしがみついてくる。その巨体でやられると、非常に邪魔で、そして重い。

栞は、胸の前で手を組み、悲しげに目を伏せている。彼女の顔は青ざめていた。
「これは……。あまりに悲しい『声』です。たくさんの、たくさんの……捨てられてしまったモノたちの……叫びです」

健吾は、いつの間にか工場の入り口に立ち、樹海の深い闇をじっと見つめていた。その大きな背中は、まるで嵐に立ち向かう灯台守のようだ。彼の横顔は、静かな、しかし底知れない怒りに満ちているように見えた。

「また始まったか」

彼は、誰に言うでもなく、重く呟いた。

「人間に捨てられた、森の連中が泣いてるんだ」

その言葉が、夏の終わりの湿った空気に、重く、重く、響き渡った。彼の目には、声なき機械たちへの深い愛情と、それらを無慈悲に捨て去った人間たちへの、静かで、しかし決して消えることのない怒りの炎が宿っていた。僕たちの新しい旅の仲間になるかもしれないこの男は、どうやら、ただの腕利きの整備士ではないらしい。僕たちは、この森の、深い、深い闇の入り口に、今まさに立たされたのだ。
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青春
   僕のアパートの前で、巨乳美人のお姉さんが倒れていた。  助けたそのお姉さんは一流大卒だが内定取り消しとなり、就職浪人中のキャバ嬢だった。  でもまさかそのお姉さんと、同棲することになるとは…。 「今日のパンツってどんなんだっけ? ああ、これか。」 「ちょっと、確認しなくていいですから!」 「これ、可愛いでしょ? 色違いでピンクもあるんだけどね。綿なんだけど生地がサラサラで、この上の部分のリボンが」 「もういいです! いいですから、パンツの説明は!」    天然高学歴キャバ嬢と、心優しいDT高校生。  異色の2人が繰り広げる、水色パンツから始まる日常系ラブコメディー! ※小説家になろうとカクヨムにも同時掲載中です。 ※本作品はフィクションであり、実在の人物や団体、製品とは一切関係ありません。

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