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第5章:未完成の地図
第25話:春の雪解けと、汚されたマント〜「汚濁(おだく)」とは、「魂を洗濯するための洗剤」である〜
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戦いは終わった。
だが、森にはまだ、戦いの熱と、強烈な異臭が残っていた。
北の森を覆っていた分厚い鉛色の雲が、強風に追われて千切れ飛んでいく。
その裂け目から、夕暮れの光ではなく、雲の上の澄んだ青空と、突き刺さるような強い西日が差し込んできた。
光の柱が森に降り注ぎ、濡れた地面をキラキラと照らす。
スライムの体液と泥にまみれた戦場は、光を受けると奇妙なほど神々しく、そして生々しい生命の匂いを放ち始めた。
それは、腐葉土の甘い腐敗臭と、雪解け水の冷たい匂い、そして泥の中から芽吹こうとする若草の青臭さが混じり合った、濃厚な「生」の香りだった。
その光の中で、ゼイク・バンフォードは呆然と立ち尽くしていた。
彼の自慢の白銀の鎧は、見る影もなかった。
緑色の粘液がべっとりと張り付き、黒い泥が関節の隙間まで入り込んでいる。
かつての彼なら、発狂して気絶していただろう惨状だ。
だが、不思議と不快ではなかった。
ゼイクは、自分の両手を見つめた。
鉄の手甲(ガントレット)は汚れている。
けれど、その内側にある手は、確かに温かかった。
生きている。
泥にまみれ、無様に転がり、なりふり構わず叫んだけれど、自分はまだ立っている。
「……終わったのか」
ポツリと漏らした声は、震えていなかった。
あの日、リリアを失った夏の日から、ずっと彼の喉元に詰まっていた硬い氷の塊が、溶けて流れ落ちていくような感覚があった。
ふと、視界の端で何かが揺れた気がした。
光の粒が舞う森の奥。
幻だとわかっている。けれど、そこには懐かしい赤茶色の髪をした少女が立っていて、泥だらけのゼイクを見て、お腹を抱えて笑っているように見えた。
――『あはは! ゼイクってば、泥んこ遊びの才能あるじゃん!』
幻聴が聞こえた気がした。
かつては、その笑顔を思い出すたびに胸が締め付けられ、罪悪感で息ができなくなった。
でも今は、その笑顔が「許し」のように感じられた。
――『やっと、脱げたね。その重い殻』
風が吹き抜け、幻影は光の中に溶けて消えた。
ゼイクは深く、肺の底まで空気を吸い込んだ。
冷たくて、泥臭くて、美味しい空気だった。
彼は、自分を縛り付けていた「完璧でなければならない」という呪いが、スライムの核と共に砕け散ったことを悟った。
世界はカオスだ。思い通りにはいかない。
けれど、泥にまみれても、転んでも、立ち上がって笑えばいい。
そんな当たり前のことを思い出すのに、五年もかかってしまった。
彼は、泥だらけの顔を上げ、どこか清々しい表情で空を見上げた。
感動的な沈黙。
魂の救済と、再生の瞬間。
――その美しい余韻を、一人の男が台無しにした。
「よーう、石頭! お疲れさん!」
能天気な声と共に、ぬっと視界に入ってきたのは、同じく全身粘液まみれの瞬(シュン)だった。
瞬は「うへぇ、ベタベタするぅ」と顔をしかめながら、ゼイクに近づいてきた。
「……貴様か。見ての通り、私は今、人生の重要な転換点を噛み締めている最中だ。静かにしてくれ」
「なんだよ水臭いな! 一緒に死線をくぐり抜けた仲だろ? まあ、お前のおかげで俺の服も台無しだけどな!」
瞬はニカっと笑うと、泥だらけの手をブンブンと振った。
ゼイクはフンと鼻を鳴らした。
以前のような刺々しい敵意はない。ただの悪態だ。
「私の鎧のクリーニング代に比べれば、貴様の服など雑巾同然だ」
「ひどっ! 英雄の服だぞ? プレミアつくんだぞ?」
瞬はそう言いながら、キョロキョロと周囲を見回した。
「あーあ、顔を拭きたいけど、ハンカチ持ってねぇや。メイちゃん持ってる?」
少し離れた場所にいたメイが、申し訳なさそうに首を振る。
「ごめん、私も泥だらけで……」
「だよねぇ。困ったなぁ、このネバネバ、乾くとパリパリになりそうだし……」
瞬は困った顔をして、ふとゼイクの方を見た。
そして、ゼイクの背中にある「あるもの」に目を止めた。
ゼイクの白銀の鎧は泥まみれだったが、背中に羽織っていた**儀礼用の純白のマント**だけは、奇跡的に裏側が綺麗なまま残っていたのだ。
それは、最高級のシルクで織られ、王家の紋章が金糸で刺繍された、国宝級の一品である。
ゼイクが最も誇りとし、絶対に汚すまいと気をつけていた聖域。
瞬の目が、キラリと光った。
邪悪な光ではない。
「あ、いい雑巾あったわ」という、純粋で残酷な発見の光だ。
「お、いいのあるじゃん」
「ん? 何がだ」
ゼイクが怪訝な顔をした、その時だった。
瞬の手が伸びた。
速い。スライムを殴った時よりも速いかもしれない。
バッ!!
瞬は、ゼイクの背中に回り込むと、その純白のマントを鷲掴みにした。
そして、躊躇なく、自分の顔に押し当てた。
「……は?」
ゼイクの思考が停止した。
今、自分の背中で何が起きている?
ゴシ、ゴシ、ゴシ、ゴシ!!
背中から、布が激しく擦れる振動が伝わってくる。
瞬は、ゼイクのマント(裏地)を使って、自分の顔についた緑色の粘液と泥を、親の敵のように拭き取っていたのだ。
「ぷはぁーっ! 生き返ったぁ!」
瞬はマントを離し、スッキリした顔で言った。
「うん、この布、吸水性バツグンだな! 肌触りもいいし、最高級タオルって感じ! サンキュな、石頭!」
瞬が指差した先。
そこには、無残な姿になったマントがあった。
かつて純白だったその布地には、瞬の顔型に茶色い泥と緑色のスライム液がべっとりと擦り付けられ、まるで抽象画のような(あるいはただの汚物のような)模様が描かれていた。
時が止まった。
森の空気さえも凍りついた。
メイが「あ……」と口を押さえ、顔面蒼白になる。
ゼイクは、ゆっくりと、錆びついた機械のように首を回し、自分の背中を確認した。
そこにある、汚濁(おだく)。
王家から賜った、名誉の象徴。
命より大事にしていた(はずの)、誇り高きマント。
それが、今。
この野蛮人の、手鼻をかんだティッシュのように扱われた。
プチン。
ゼイクの脳内で、何かが切れる音がした。
それは「理性」という名の安全装置だった。
ゼイクの肩が震え始めた。
小刻みな震えは、すぐに全身への激震へと変わる。
彼の顔色が、青から赤へ、そして赤黒い色へと沸騰していく。
それは、かつての彼が抱えていた「恐怖によるパニック」ではない。
もっと原始的な、もっと人間臭い、純度100パーセントの「激怒」だった。
「き……」
ゼイクの喉から、絞り出すような声が漏れる。
「き、きさ……」
「ん? どうした? まだ背中痒いのか?」
瞬はまだ状況を理解していない。
次の瞬間、北の森に、魔獣の咆哮をも凌駕する絶叫が轟いた。
「きさぁぁぁぁまぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
ドォォォン!!
ゼイクの怒気が、物理的な衝撃波となって周囲の枯れ葉を吹き飛ばした。
「な、なに!? 敵襲!?」
瞬がビクッとして構える。
ゼイクは、鞘に収まったままの剣を引き抜き、鬼の形相で瞬に突きつけた。
「それはッ! それは王家から賜った! 世界に五枚しかない! 聖・王・家・直・伝・の・マ・ン・ト・だ・ぞぉぉぉぉ!!」
一語一語に魂の叫びが乗っている。
「それを! 貴様は! あろうことか! 雑巾代わりにぃぃぃ!?」
「えっ、そうなの? ただの白い布じゃん」
「ただの布だと!? この刺繍が見えんのか! この金糸の輝きが!」
「いや、泥で見えないし」
「誰のせいだと思ってんだァァァ!!」
ゼイクは地団駄を踏んだ。
あの「直角歩行」の男が、子供のように地団駄を踏んで悔しがっている。
「弁償しろ! 今すぐだ! クリーニング代じゃないぞ、新品を用意しろ!」
「無理無理! 俺、金ないもん! 体で払うわ!」
「貴様の汚い体などいらん! 金をよこせ! あるいは、その首を置いていけぇぇ!」
ゼイクは剣を振りかぶり、瞬に襲いかかった。
もちろん、鞘に入ったままだし、本気で殺す気はない(たぶん)。
これは、理性をかなぐり捨てた、ただの「喧嘩」だった。
「うわっ、危ねぇ! 落ち着けって!」
瞬がヒョイと身をかわし、木の上に飛び乗る。
「逃げるな卑怯者! 正々堂々と私の怒りを受け止めろ!」
ゼイクは重い鎧を着ているとは思えない速度で木を駆け上がり、瞬を追う。
「お前、元気だな! さっきまで死にかけてたくせに!」
「貴様のせいで寿命が縮んだわ! その落とし前をつけさせてもらう!」
森の中で、大人二人の追いかけっこが始まった。
泥だらけの騎士が剣を振り回し、変な服の男が猿のように木々を飛び回る。
「待てぇぇ! その顔面をマントと同じ色に染めてやる!」
「嫌だね! 俺の顔は国宝級なんだよ!」
「なら私のマントは世界遺産級だバカヤロウ!」
罵声が飛び交う。
それは、高貴な騎士団長と英雄の会話とはとても思えない、低レベルで、幼稚で、そして最高に生き生きとしたやり取りだった。
木の下で見ていたメイは、最初はオロオロしていたが、やがてプッとおかしくなって、口元を押さえた。
あんなに怒っているゼイクを見るのは初めてだ。
でも、その怒りには陰湿さがない。
感情を爆発させ、大声を出して走り回る彼の姿は、まるで泥遊びをする少年のようだ。
(よかった……)
メイは心からそう思った。
彼はもう、窒息していない。鎧の中に閉じ込めていた感情が、堰を切ったように溢れ出している。
マントは犠牲になったけれど、その代償として、彼は人間らしさを取り戻したのだ。
十分ほど走り回っただろうか。
ゼイクのスタミナが切れ、瞬も息が上がってきた頃。
ドサッ。
ゼイクが木の根に躓き、派手に転んだ。
泥の中に大の字になる。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
白い息が、荒く吐き出される。
もう一歩も動けない。鎧が重い。体が痛い。
「だっはっは! 転んだな、石頭!」
瞬もその横にドサリと倒れ込んだ。
「あー疲れた。お前、しつこすぎ。ストーカーかよ」
「……うるさい。……貴様を……斬首刑にするまでは……死ねん」
ゼイクは仰向けのまま、切れ切れの声で言い返した。
二人は泥の上に並んで寝転がり、空を見上げていた。
木々の枝の隙間から、夕暮れが終わり、夜が始まろうとする深い群青色の空が見える。
一番星が、チロチロと瞬いている。
冷たい泥が背中に染みてくる。
不快だ。汚い。
マントは台無しだ。鎧も傷だらけだ。
完璧な記録は途絶えた。明日の始末書を考えると頭が痛い。
けれど。
「……ふっ」
ゼイクの喉から、空気が漏れた。
それは、咳払いではなかった。
「……くくっ……あはは……」
乾いた、錆びついた扉が開くような音。
それが自分の笑い声だと気づくのに、数秒かかった。
「はははは! なんだこれは。ひどい有様だ」
ゼイクは腹を抱えて笑った。
十年間、一度も出したことのない、お腹の底からの笑い声。
「マントがあんな色に……ははっ! まるで、子供の落書きだ」
「だろ? 俺の芸術的センスに感謝しろよ」
瞬もつられて笑う。
「ふざけるな。……だが、まあ」
ゼイクは、汚れた手甲を空にかざした。
その隙間から、星が見える。
「悪くない気分だ」
彼は認めた。
完璧でなくても、世界は美しい。
泥にまみれても、星は綺麗だ。
そして、こんなデタラメな男と、隣で笑い合えるなら、人生というカオスもそう捨てたものではない。
「ゼイクさん、瞬」
メイが二人の顔を覗き込んだ。
白いアイガードの下で、彼女もまた、屈託のない笑顔を浮かべていた。
「風邪ひきますよ。帰りましょう」
「おう、帰るか! 腹減った!」
瞬が跳ね起きた。
「ゼイク、飯奢れよ! 慰謝料として」
「なぜ私が払うんだ! 貴様がマント代を払うまで、地の果てまで追いかけてやるからな!」
ゼイクは瞬の手を借りずに、自力で立ち上がった。
鎧についた泥を軽く払う。
完全には落ちない。シミも残るだろう。
でも、彼はもう気にしなかった。
「行くぞ。……まったく、貴様らといると退屈しない」
三人は並んで歩き出した。
王都への帰り道。
冷たい夜風が吹き抜けるが、もう誰も寒くはなかった。
ゼイクの背中のマントは見るも無惨に汚れていたが、今の彼には、どんな勲章よりも誇らしい「生の証」に見えた。
曲がらない剣は折れる。だが、しなる枝は嵐の中でも折れない。
一度折れた騎士は、泥の中で接ぎ木され、以前よりも太く、逞しく、そして少しだけ曲がった(柔軟な)魂を手に入れた。
彼らの足跡が、泥道に刻まれていく。
それは決して真っ直ぐではなく、ふらふらと蛇行していたが、どこまでも力強く、明日へと続いていた。
だが、森にはまだ、戦いの熱と、強烈な異臭が残っていた。
北の森を覆っていた分厚い鉛色の雲が、強風に追われて千切れ飛んでいく。
その裂け目から、夕暮れの光ではなく、雲の上の澄んだ青空と、突き刺さるような強い西日が差し込んできた。
光の柱が森に降り注ぎ、濡れた地面をキラキラと照らす。
スライムの体液と泥にまみれた戦場は、光を受けると奇妙なほど神々しく、そして生々しい生命の匂いを放ち始めた。
それは、腐葉土の甘い腐敗臭と、雪解け水の冷たい匂い、そして泥の中から芽吹こうとする若草の青臭さが混じり合った、濃厚な「生」の香りだった。
その光の中で、ゼイク・バンフォードは呆然と立ち尽くしていた。
彼の自慢の白銀の鎧は、見る影もなかった。
緑色の粘液がべっとりと張り付き、黒い泥が関節の隙間まで入り込んでいる。
かつての彼なら、発狂して気絶していただろう惨状だ。
だが、不思議と不快ではなかった。
ゼイクは、自分の両手を見つめた。
鉄の手甲(ガントレット)は汚れている。
けれど、その内側にある手は、確かに温かかった。
生きている。
泥にまみれ、無様に転がり、なりふり構わず叫んだけれど、自分はまだ立っている。
「……終わったのか」
ポツリと漏らした声は、震えていなかった。
あの日、リリアを失った夏の日から、ずっと彼の喉元に詰まっていた硬い氷の塊が、溶けて流れ落ちていくような感覚があった。
ふと、視界の端で何かが揺れた気がした。
光の粒が舞う森の奥。
幻だとわかっている。けれど、そこには懐かしい赤茶色の髪をした少女が立っていて、泥だらけのゼイクを見て、お腹を抱えて笑っているように見えた。
――『あはは! ゼイクってば、泥んこ遊びの才能あるじゃん!』
幻聴が聞こえた気がした。
かつては、その笑顔を思い出すたびに胸が締め付けられ、罪悪感で息ができなくなった。
でも今は、その笑顔が「許し」のように感じられた。
――『やっと、脱げたね。その重い殻』
風が吹き抜け、幻影は光の中に溶けて消えた。
ゼイクは深く、肺の底まで空気を吸い込んだ。
冷たくて、泥臭くて、美味しい空気だった。
彼は、自分を縛り付けていた「完璧でなければならない」という呪いが、スライムの核と共に砕け散ったことを悟った。
世界はカオスだ。思い通りにはいかない。
けれど、泥にまみれても、転んでも、立ち上がって笑えばいい。
そんな当たり前のことを思い出すのに、五年もかかってしまった。
彼は、泥だらけの顔を上げ、どこか清々しい表情で空を見上げた。
感動的な沈黙。
魂の救済と、再生の瞬間。
――その美しい余韻を、一人の男が台無しにした。
「よーう、石頭! お疲れさん!」
能天気な声と共に、ぬっと視界に入ってきたのは、同じく全身粘液まみれの瞬(シュン)だった。
瞬は「うへぇ、ベタベタするぅ」と顔をしかめながら、ゼイクに近づいてきた。
「……貴様か。見ての通り、私は今、人生の重要な転換点を噛み締めている最中だ。静かにしてくれ」
「なんだよ水臭いな! 一緒に死線をくぐり抜けた仲だろ? まあ、お前のおかげで俺の服も台無しだけどな!」
瞬はニカっと笑うと、泥だらけの手をブンブンと振った。
ゼイクはフンと鼻を鳴らした。
以前のような刺々しい敵意はない。ただの悪態だ。
「私の鎧のクリーニング代に比べれば、貴様の服など雑巾同然だ」
「ひどっ! 英雄の服だぞ? プレミアつくんだぞ?」
瞬はそう言いながら、キョロキョロと周囲を見回した。
「あーあ、顔を拭きたいけど、ハンカチ持ってねぇや。メイちゃん持ってる?」
少し離れた場所にいたメイが、申し訳なさそうに首を振る。
「ごめん、私も泥だらけで……」
「だよねぇ。困ったなぁ、このネバネバ、乾くとパリパリになりそうだし……」
瞬は困った顔をして、ふとゼイクの方を見た。
そして、ゼイクの背中にある「あるもの」に目を止めた。
ゼイクの白銀の鎧は泥まみれだったが、背中に羽織っていた**儀礼用の純白のマント**だけは、奇跡的に裏側が綺麗なまま残っていたのだ。
それは、最高級のシルクで織られ、王家の紋章が金糸で刺繍された、国宝級の一品である。
ゼイクが最も誇りとし、絶対に汚すまいと気をつけていた聖域。
瞬の目が、キラリと光った。
邪悪な光ではない。
「あ、いい雑巾あったわ」という、純粋で残酷な発見の光だ。
「お、いいのあるじゃん」
「ん? 何がだ」
ゼイクが怪訝な顔をした、その時だった。
瞬の手が伸びた。
速い。スライムを殴った時よりも速いかもしれない。
バッ!!
瞬は、ゼイクの背中に回り込むと、その純白のマントを鷲掴みにした。
そして、躊躇なく、自分の顔に押し当てた。
「……は?」
ゼイクの思考が停止した。
今、自分の背中で何が起きている?
ゴシ、ゴシ、ゴシ、ゴシ!!
背中から、布が激しく擦れる振動が伝わってくる。
瞬は、ゼイクのマント(裏地)を使って、自分の顔についた緑色の粘液と泥を、親の敵のように拭き取っていたのだ。
「ぷはぁーっ! 生き返ったぁ!」
瞬はマントを離し、スッキリした顔で言った。
「うん、この布、吸水性バツグンだな! 肌触りもいいし、最高級タオルって感じ! サンキュな、石頭!」
瞬が指差した先。
そこには、無残な姿になったマントがあった。
かつて純白だったその布地には、瞬の顔型に茶色い泥と緑色のスライム液がべっとりと擦り付けられ、まるで抽象画のような(あるいはただの汚物のような)模様が描かれていた。
時が止まった。
森の空気さえも凍りついた。
メイが「あ……」と口を押さえ、顔面蒼白になる。
ゼイクは、ゆっくりと、錆びついた機械のように首を回し、自分の背中を確認した。
そこにある、汚濁(おだく)。
王家から賜った、名誉の象徴。
命より大事にしていた(はずの)、誇り高きマント。
それが、今。
この野蛮人の、手鼻をかんだティッシュのように扱われた。
プチン。
ゼイクの脳内で、何かが切れる音がした。
それは「理性」という名の安全装置だった。
ゼイクの肩が震え始めた。
小刻みな震えは、すぐに全身への激震へと変わる。
彼の顔色が、青から赤へ、そして赤黒い色へと沸騰していく。
それは、かつての彼が抱えていた「恐怖によるパニック」ではない。
もっと原始的な、もっと人間臭い、純度100パーセントの「激怒」だった。
「き……」
ゼイクの喉から、絞り出すような声が漏れる。
「き、きさ……」
「ん? どうした? まだ背中痒いのか?」
瞬はまだ状況を理解していない。
次の瞬間、北の森に、魔獣の咆哮をも凌駕する絶叫が轟いた。
「きさぁぁぁぁまぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
ドォォォン!!
ゼイクの怒気が、物理的な衝撃波となって周囲の枯れ葉を吹き飛ばした。
「な、なに!? 敵襲!?」
瞬がビクッとして構える。
ゼイクは、鞘に収まったままの剣を引き抜き、鬼の形相で瞬に突きつけた。
「それはッ! それは王家から賜った! 世界に五枚しかない! 聖・王・家・直・伝・の・マ・ン・ト・だ・ぞぉぉぉぉ!!」
一語一語に魂の叫びが乗っている。
「それを! 貴様は! あろうことか! 雑巾代わりにぃぃぃ!?」
「えっ、そうなの? ただの白い布じゃん」
「ただの布だと!? この刺繍が見えんのか! この金糸の輝きが!」
「いや、泥で見えないし」
「誰のせいだと思ってんだァァァ!!」
ゼイクは地団駄を踏んだ。
あの「直角歩行」の男が、子供のように地団駄を踏んで悔しがっている。
「弁償しろ! 今すぐだ! クリーニング代じゃないぞ、新品を用意しろ!」
「無理無理! 俺、金ないもん! 体で払うわ!」
「貴様の汚い体などいらん! 金をよこせ! あるいは、その首を置いていけぇぇ!」
ゼイクは剣を振りかぶり、瞬に襲いかかった。
もちろん、鞘に入ったままだし、本気で殺す気はない(たぶん)。
これは、理性をかなぐり捨てた、ただの「喧嘩」だった。
「うわっ、危ねぇ! 落ち着けって!」
瞬がヒョイと身をかわし、木の上に飛び乗る。
「逃げるな卑怯者! 正々堂々と私の怒りを受け止めろ!」
ゼイクは重い鎧を着ているとは思えない速度で木を駆け上がり、瞬を追う。
「お前、元気だな! さっきまで死にかけてたくせに!」
「貴様のせいで寿命が縮んだわ! その落とし前をつけさせてもらう!」
森の中で、大人二人の追いかけっこが始まった。
泥だらけの騎士が剣を振り回し、変な服の男が猿のように木々を飛び回る。
「待てぇぇ! その顔面をマントと同じ色に染めてやる!」
「嫌だね! 俺の顔は国宝級なんだよ!」
「なら私のマントは世界遺産級だバカヤロウ!」
罵声が飛び交う。
それは、高貴な騎士団長と英雄の会話とはとても思えない、低レベルで、幼稚で、そして最高に生き生きとしたやり取りだった。
木の下で見ていたメイは、最初はオロオロしていたが、やがてプッとおかしくなって、口元を押さえた。
あんなに怒っているゼイクを見るのは初めてだ。
でも、その怒りには陰湿さがない。
感情を爆発させ、大声を出して走り回る彼の姿は、まるで泥遊びをする少年のようだ。
(よかった……)
メイは心からそう思った。
彼はもう、窒息していない。鎧の中に閉じ込めていた感情が、堰を切ったように溢れ出している。
マントは犠牲になったけれど、その代償として、彼は人間らしさを取り戻したのだ。
十分ほど走り回っただろうか。
ゼイクのスタミナが切れ、瞬も息が上がってきた頃。
ドサッ。
ゼイクが木の根に躓き、派手に転んだ。
泥の中に大の字になる。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
白い息が、荒く吐き出される。
もう一歩も動けない。鎧が重い。体が痛い。
「だっはっは! 転んだな、石頭!」
瞬もその横にドサリと倒れ込んだ。
「あー疲れた。お前、しつこすぎ。ストーカーかよ」
「……うるさい。……貴様を……斬首刑にするまでは……死ねん」
ゼイクは仰向けのまま、切れ切れの声で言い返した。
二人は泥の上に並んで寝転がり、空を見上げていた。
木々の枝の隙間から、夕暮れが終わり、夜が始まろうとする深い群青色の空が見える。
一番星が、チロチロと瞬いている。
冷たい泥が背中に染みてくる。
不快だ。汚い。
マントは台無しだ。鎧も傷だらけだ。
完璧な記録は途絶えた。明日の始末書を考えると頭が痛い。
けれど。
「……ふっ」
ゼイクの喉から、空気が漏れた。
それは、咳払いではなかった。
「……くくっ……あはは……」
乾いた、錆びついた扉が開くような音。
それが自分の笑い声だと気づくのに、数秒かかった。
「はははは! なんだこれは。ひどい有様だ」
ゼイクは腹を抱えて笑った。
十年間、一度も出したことのない、お腹の底からの笑い声。
「マントがあんな色に……ははっ! まるで、子供の落書きだ」
「だろ? 俺の芸術的センスに感謝しろよ」
瞬もつられて笑う。
「ふざけるな。……だが、まあ」
ゼイクは、汚れた手甲を空にかざした。
その隙間から、星が見える。
「悪くない気分だ」
彼は認めた。
完璧でなくても、世界は美しい。
泥にまみれても、星は綺麗だ。
そして、こんなデタラメな男と、隣で笑い合えるなら、人生というカオスもそう捨てたものではない。
「ゼイクさん、瞬」
メイが二人の顔を覗き込んだ。
白いアイガードの下で、彼女もまた、屈託のない笑顔を浮かべていた。
「風邪ひきますよ。帰りましょう」
「おう、帰るか! 腹減った!」
瞬が跳ね起きた。
「ゼイク、飯奢れよ! 慰謝料として」
「なぜ私が払うんだ! 貴様がマント代を払うまで、地の果てまで追いかけてやるからな!」
ゼイクは瞬の手を借りずに、自力で立ち上がった。
鎧についた泥を軽く払う。
完全には落ちない。シミも残るだろう。
でも、彼はもう気にしなかった。
「行くぞ。……まったく、貴様らといると退屈しない」
三人は並んで歩き出した。
王都への帰り道。
冷たい夜風が吹き抜けるが、もう誰も寒くはなかった。
ゼイクの背中のマントは見るも無惨に汚れていたが、今の彼には、どんな勲章よりも誇らしい「生の証」に見えた。
曲がらない剣は折れる。だが、しなる枝は嵐の中でも折れない。
一度折れた騎士は、泥の中で接ぎ木され、以前よりも太く、逞しく、そして少しだけ曲がった(柔軟な)魂を手に入れた。
彼らの足跡が、泥道に刻まれていく。
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「今さら戻ってきてくれと言われても、俺はお客さん(美少女)の背中を流すのに忙しいんで」
これは、掃除屋の少年が無自覚に最強の座に君臨し、幸せなスローライフを送る物語。
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それからと言うもの、調子付いた勇者ディランとパーティーメンバー達は、レベルの上がらないサポート役の僕を邪険にし始めていき…
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……とまぁ、ここまでは良くある話。
僕が抜けた勇者ディランとパーティーメンバー達は、その後も活躍し続けていき…
遂には、大魔王ドゥルガディスが収める魔大陸を攻略すると言う話になっていた。
「おやおや…もう魔大陸に上陸すると言う話になったのか、ならば…そろそろ僕の本来のスキルを発動するとしますか!」
それから数日後に、ディランとパーティーメンバー達が魔大陸に侵攻し始めたという話を聞いた。
なので、それと同時に…僕の本来のスキルを発動すると…?
2月11日にHOTランキング男性向けで1位になりました。
皆様お陰です、有り難う御座います。
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