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第7章:過去の嘘と、真実の絆
第33話:忍び寄る影と、終わらない夏への願い 〜永遠を願うことが、別れの始まりである〜
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季節の歩みは、誰にも止めることができない。 それは、幸福な時間も、そうでない時間も、平等に過去へと押し流していく巨大な河の流れのようだった。
王都の空から、あの暴力的な入道雲が姿を消し、代わりに刷毛(はけ)で掃いたような薄い鰯雲(いわしぐも)が広がり始めていた。 日差しはまだ強く、昼間は汗ばむほどの陽気だが、夕暮れ時になると、肌を撫でる風に微かな冷気が混じるようになる。 耳を澄ませば、夏を謳歌していた蝉たちの合唱は鳴りを潜め、代わりに鈴虫やコオロギたちの、どこか寂しげで、それでいて透き通るような音色が、草むらの奥から聞こえてくる。
晩夏から、初秋へ。 一年の中で最も美しく、そして最も切なさを孕んだ季節が、音もなく訪れていた。
***
「おいエリーゼ! ぼーっとしてんじゃねぇ! 安売りのタイムセールが始まるぞ!」
雑踏の中で、野太い声がエリーゼの思考を引き戻した。 王都の大通り。夕刻の市場は、家路を急ぐ人々と、夕飯の買い出しに来た客たちでごった返している。 肉を焼く脂の匂い、スパイスの香り、熟した果実の甘い芳香。それらが混然一体となって、生活の熱気を生み出していた。
「……うるさいですわね、ボルグ。たかが野菜の安売りで、何をそんなに殺気立っているのですか」
エリーゼは日傘をたたみながら、呆れたようにため息をついた。 だが、その足取りは軽かった。 かつて象牙の塔に引きこもり、静寂だけを友としていた彼女は、今やこの喧騒の中を当たり前のように歩いている。
「たかが野菜だと!? いいかお嬢、この『大根一本半額』の札(ふだ)を勝ち取る戦いは、ドラゴン討伐よりもシビアなんだよ!」 盗賊のボルグが、主婦たちの人垣に決死のダイブを敢行する。
「あらあら、ボルグちゃんったら必死ですねぇ。エリーゼちゃん、私たちはあっちのお洋服見に行きましょうか~」 僧侶のセラが、ふんわりと笑いながらエリーゼの腕を組む。 その温かさに、エリーゼは一瞬だけ体を強張らせ、すぐに力を抜いた。 他人の体温。 以前は不快でしかなかったそれが、今は不思議と心地よい。
パーティ「銀の翼」は、この数ヶ月で急速に名を上げていた。 難攻不落と言われた遺跡の踏破。凶悪な魔獣の討伐。 レオンの猪突猛進な突破力、ボルグの狡猾な罠解除、セラの鉄壁の守り、そしてエリーゼの完璧な魔術制御。 四つのピースが噛み合った彼らは、向かうところ敵なしだった。
街を歩けば、「あ、銀の翼だ!」と子供たちが手を振る。 エリーゼに向けられる視線も、かつての「不気味な天才」を見る目ではなく、憧れと親愛を含んだものに変わっていた。
(悪くない……)
エリーゼは、ショーウィンドウに映る自分を見た。 以前のような張り詰めた表情はない。少し髪が乱れ、頬には健康的な血色が差し、何よりその瞳が、生き生きと輝いている。 私は、変わったのだ。 この騒がしくて、泥臭い仲間たちのおかげで。
「おーい! 待たせたな!」
人混みをかき分けて、大きな荷物を抱えたレオンが戻ってきた。 両手には串焼き肉、背中には新調した装備品。 相変わらずの暑苦しさだが、その笑顔を見ると、エリーゼの胸の奥で小さな灯りがともるような感覚がある。
「ほら、エリーゼ。これやるよ」 レオンが放り投げてきたのは、真っ赤なリンゴだった。 「市場のおばちゃんがオマケしてくれたんだ。お前、リンゴ好きだろ?」
「……皮をむかないと食べられませんわ」 「皮ごと食うのが一番美味いんだよ! ワイルドにいこうぜ、ワイルドに!」
エリーゼは文句を言いながらも、そのリンゴを大事そうに受け取った。 艶やかな赤。ずしりとした重み。 それは、彼女にとっての「日常」の象徴だった。
四人はカフェのテラス席に陣取った。 夕陽が街を黄金色に染め上げていく。 ボルグが戦利品の大根を誇らしげに掲げ、セラがニコニコとお茶を淹れ、レオンが次の冒険の話をする。
「なぁ、次のデカい依頼が終わったらさ、みんなで海を見に行かねぇか?」
唐突に、レオンが言った。
「海?」 「おう。俺、まだ見たことねぇんだよ。すっげー広い水たまりなんだろ? そこで魚釣ったり、泳いだりして遊ぼうぜ!」
「いいですねぇ~! 私、可愛い水着買っちゃおうかな~」 「けっ、セラが水着着ても誰も喜ばねぇよ。……ま、海産物は高値で売れるし、悪くないな」
盛り上がる三人をよそに、エリーゼはカップを持ったまま固まっていた。 海。 書物でしか知らない、果てしない青の世界。 四人で行けたら、どんなに楽しいだろう。 想像するだけで、胸が躍る。
けれど、同時に。 冷たい風が、ふわりとエリーゼの首筋を撫でた。
――怖い。
不意に、恐怖が込み上げてきた。 あまりにも幸せすぎる。 完璧すぎる。 パズルのピースが綺麗にハマりすぎていて、逆に不安になる。
『諸行無常』。 この世に、永遠に続くものなど何一つない。 咲いた花は必ず散り、満ちた月は欠ける。 今のこの、黄金色に輝く時間も、いつかは終わる。 その「終わり」が、すぐそこまで来ているような、根拠のない予感がした。
手に入れたものが大きければ大きいほど、失う時の痛みは大きくなる。 もし、この居場所を失ったら。 私はもう二度と、立ち上がれないかもしれない。
「……エリーゼ? どうした、顔色が悪いぞ」 レオンが心配そうに顔を覗き込んでくる。 その真っ直ぐな瞳。 エリーゼは、動揺を悟られないように、精一杯の虚勢を張った。
「な、何でもありませんわ。ただ……海に行くなら、日焼け止めを調合しなければと考えていただけです」 「なんだそりゃ! さすが天才、準備がいいな!」
レオンが豪快に笑う。 その笑い声が、永遠に続けばいいのに。 エリーゼは祈るように、温かい紅茶を飲み下した。
***
数日後。 ギルドから、特S級の依頼が舞い込んだ。
場所は、王都から遠く離れた辺境、「幻霧の谷(ミスト・ホロウ)」。 調査依頼だ。 最近、その谷周辺で強力な魔力異常が観測され、調査に向かった騎士団の部隊が誰一人として帰還していないという。
「報酬は破格だ。これをクリアすれば、俺たちは名実ともにトップランカーだぜ!」 レオンが依頼書を叩いて気炎を吐く。 ボルグも「こりゃあ豪遊できるな」と計算機を弾く。
だが、エリーゼだけは、依頼書を見た瞬間に悪寒が走った。 『幻霧の谷』。 古い文献によれば、そこは精神に干渉する特殊な磁場を持つ場所だ。 魔導師としての直感が、警鐘を鳴らしていた。 行ってはいけない。 あそこには、触れてはいけない「何か」がある。
「……断りましょう」 エリーゼは言った。 「リスクが高すぎます。情報が少なすぎるし、帰還率ゼロというのは異常ですわ」
「だからこそ、俺たちの出番だろ?」 レオンは引かなかった。 「誰も帰ってきてないなら、助けを待ってる奴がいるかもしれねぇ。俺たちが見捨てたら、誰があいつらを救うんだ?」
レオンの「正義感」という病。 それが彼の美徳であり、最大の危うさでもあった。 エリーゼは反論しようとしたが、セラの悲しげな目と、ボルグの「やるしかねぇだろ」という覚悟を見て、言葉を飲み込んだ。 彼らはもう、行く気だ。 私が止めても、彼らは行くだろう。私を置いてでも。 なら、私がついていって、全力で守るしかない。
「……わかりました。でも、私の指示には絶対に従ってくださいね」 「おう! 任せとけ!」
出発は翌朝に決まった。
***
その夜。 エリーゼは自室で、星占いの道具を広げていた。 水晶玉。タロットカード。星図。 あらゆる手段を使って、明日の運命を視ようとした。
けれど。 何も見えなかった。 水晶は白く濁り、カードは意味を成さない配列を示し、星々は雲に隠れていた。 『白紙』。 未来が閉ざされているのか、それとも、見る必要もないほど確定しているのか。
「……嫌な予感がする」
エリーゼが爪を噛んでいると、窓ガラスがコンコンと叩かれた。 バルコニーに、レオンが立っていた。
「よっ。起きてるか?」 「……ここが三階だということをご存知?」 「俺にかかれば庭の木登るくらい余裕だぜ」
レオンは窓枠を跨いで入ってくると、エリーゼの向かいに座った。 夜風が入り込み、机の上のロウソクの炎を揺らす。
「どうしたんだよ、難しい顔して。またシワが増えるぞ」 「余計なお世話です。……明日の準備をしていただけですわ」
レオンは少しの間、黙ってエリーゼを見ていたが、やがてポケットをごそごそと探り、何かを取り出した。
「ほら、手ェ出せ」 「何ですの? また変な虫とか……」
エリーゼが警戒しながら手を出すと、レオンは彼女の掌に、小さな輪っかを落とした。 指輪だった。 宝石なんてついていない。祭りの屋台で売っているような、安っぽい青いガラス細工の指輪。 月明かりを受けて、チープに、けれど涼やかに光っている。
「……これは?」
「お守りだ」 レオンは照れくさそうに鼻の下をこすった。 「この前の市場で見つけてさ。お前の目の色に似てるなって思って、つい買っちまった」
エリーゼの心臓が、ドクンと跳ねた。 目の色。 彼が、そんなことを考えてくれていたなんて。
「俺たち、明日は危険な場所に行くんだろ? だからさ、契約の証だ」 「契約?」 「おう。『必ず全員で生きて帰って、海を見に行く』っていう契約。その指輪を持ってりゃ、迷子になっても必ず俺が見つけ出してやる」
子供騙しのような理屈。 何の魔力も込められていない、ただのガラス玉。 けれど、エリーゼにとって、それは世界中のどんな国宝級のアーティファクトよりも価値のあるものに見えた。
彼女は震える手で、指輪を左手の薬指にはめた。 サイズは少し大きかったけれど、温かかった。
「……バカな人」 エリーゼは、涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。 「こんな安物で、私を釣ろうなんて」
「ははっ、悪かったな! 本物の宝石は、もっと稼いでから買ってやるよ」 レオンは立ち上がり、窓枠に足をかけた。 「じゃあな、エリーゼ。明日、遅刻すんなよ!」
「ええ。おやすみなさい、レオン」
レオンは闇夜に消えていった。 エリーゼは、指輪を胸に抱いて、しばらくその場に立ち尽くしていた。 不安は消えない。 けれど、この指輪がある限り、きっと大丈夫だと思えた。 彼らは「銀の翼」。どんな嵐も超えていける、最強のパーティなのだから。
この時の彼女は、まだ知らなかった。 この指輪が、彼女に残された最後の「絆の証」になることを。 そして、数年後の彼女の指には、もうこの指輪がないことを。
***
翌朝。 王都を出発する頃には、空は泣き出しそうな灰色に染まっていた。 冷たい秋雨が、ポツリ、ポツリと降り始める。
「幻霧の谷」の入り口に立った時、雨は本降りになっていた。 地面はぬかるみ、濡れた落ち葉が靴底にべっとりと張り付く。 まるで、侵入者を逃がさないための、死者の手招きのように。
エリーゼは、指輪を嵌めた手をギュッと握りしめた。 冷たい雨が、彼女の頬を伝う。 その冷たさは、これから訪れる悲劇の温度と、よく似ていた。
終わらない夏への願いは、冷たい秋風に吹き消されようとしていた。 運命の歯車が、軋みながら回り始める。 もう、誰にも止めることはできない。
王都の空から、あの暴力的な入道雲が姿を消し、代わりに刷毛(はけ)で掃いたような薄い鰯雲(いわしぐも)が広がり始めていた。 日差しはまだ強く、昼間は汗ばむほどの陽気だが、夕暮れ時になると、肌を撫でる風に微かな冷気が混じるようになる。 耳を澄ませば、夏を謳歌していた蝉たちの合唱は鳴りを潜め、代わりに鈴虫やコオロギたちの、どこか寂しげで、それでいて透き通るような音色が、草むらの奥から聞こえてくる。
晩夏から、初秋へ。 一年の中で最も美しく、そして最も切なさを孕んだ季節が、音もなく訪れていた。
***
「おいエリーゼ! ぼーっとしてんじゃねぇ! 安売りのタイムセールが始まるぞ!」
雑踏の中で、野太い声がエリーゼの思考を引き戻した。 王都の大通り。夕刻の市場は、家路を急ぐ人々と、夕飯の買い出しに来た客たちでごった返している。 肉を焼く脂の匂い、スパイスの香り、熟した果実の甘い芳香。それらが混然一体となって、生活の熱気を生み出していた。
「……うるさいですわね、ボルグ。たかが野菜の安売りで、何をそんなに殺気立っているのですか」
エリーゼは日傘をたたみながら、呆れたようにため息をついた。 だが、その足取りは軽かった。 かつて象牙の塔に引きこもり、静寂だけを友としていた彼女は、今やこの喧騒の中を当たり前のように歩いている。
「たかが野菜だと!? いいかお嬢、この『大根一本半額』の札(ふだ)を勝ち取る戦いは、ドラゴン討伐よりもシビアなんだよ!」 盗賊のボルグが、主婦たちの人垣に決死のダイブを敢行する。
「あらあら、ボルグちゃんったら必死ですねぇ。エリーゼちゃん、私たちはあっちのお洋服見に行きましょうか~」 僧侶のセラが、ふんわりと笑いながらエリーゼの腕を組む。 その温かさに、エリーゼは一瞬だけ体を強張らせ、すぐに力を抜いた。 他人の体温。 以前は不快でしかなかったそれが、今は不思議と心地よい。
パーティ「銀の翼」は、この数ヶ月で急速に名を上げていた。 難攻不落と言われた遺跡の踏破。凶悪な魔獣の討伐。 レオンの猪突猛進な突破力、ボルグの狡猾な罠解除、セラの鉄壁の守り、そしてエリーゼの完璧な魔術制御。 四つのピースが噛み合った彼らは、向かうところ敵なしだった。
街を歩けば、「あ、銀の翼だ!」と子供たちが手を振る。 エリーゼに向けられる視線も、かつての「不気味な天才」を見る目ではなく、憧れと親愛を含んだものに変わっていた。
(悪くない……)
エリーゼは、ショーウィンドウに映る自分を見た。 以前のような張り詰めた表情はない。少し髪が乱れ、頬には健康的な血色が差し、何よりその瞳が、生き生きと輝いている。 私は、変わったのだ。 この騒がしくて、泥臭い仲間たちのおかげで。
「おーい! 待たせたな!」
人混みをかき分けて、大きな荷物を抱えたレオンが戻ってきた。 両手には串焼き肉、背中には新調した装備品。 相変わらずの暑苦しさだが、その笑顔を見ると、エリーゼの胸の奥で小さな灯りがともるような感覚がある。
「ほら、エリーゼ。これやるよ」 レオンが放り投げてきたのは、真っ赤なリンゴだった。 「市場のおばちゃんがオマケしてくれたんだ。お前、リンゴ好きだろ?」
「……皮をむかないと食べられませんわ」 「皮ごと食うのが一番美味いんだよ! ワイルドにいこうぜ、ワイルドに!」
エリーゼは文句を言いながらも、そのリンゴを大事そうに受け取った。 艶やかな赤。ずしりとした重み。 それは、彼女にとっての「日常」の象徴だった。
四人はカフェのテラス席に陣取った。 夕陽が街を黄金色に染め上げていく。 ボルグが戦利品の大根を誇らしげに掲げ、セラがニコニコとお茶を淹れ、レオンが次の冒険の話をする。
「なぁ、次のデカい依頼が終わったらさ、みんなで海を見に行かねぇか?」
唐突に、レオンが言った。
「海?」 「おう。俺、まだ見たことねぇんだよ。すっげー広い水たまりなんだろ? そこで魚釣ったり、泳いだりして遊ぼうぜ!」
「いいですねぇ~! 私、可愛い水着買っちゃおうかな~」 「けっ、セラが水着着ても誰も喜ばねぇよ。……ま、海産物は高値で売れるし、悪くないな」
盛り上がる三人をよそに、エリーゼはカップを持ったまま固まっていた。 海。 書物でしか知らない、果てしない青の世界。 四人で行けたら、どんなに楽しいだろう。 想像するだけで、胸が躍る。
けれど、同時に。 冷たい風が、ふわりとエリーゼの首筋を撫でた。
――怖い。
不意に、恐怖が込み上げてきた。 あまりにも幸せすぎる。 完璧すぎる。 パズルのピースが綺麗にハマりすぎていて、逆に不安になる。
『諸行無常』。 この世に、永遠に続くものなど何一つない。 咲いた花は必ず散り、満ちた月は欠ける。 今のこの、黄金色に輝く時間も、いつかは終わる。 その「終わり」が、すぐそこまで来ているような、根拠のない予感がした。
手に入れたものが大きければ大きいほど、失う時の痛みは大きくなる。 もし、この居場所を失ったら。 私はもう二度と、立ち上がれないかもしれない。
「……エリーゼ? どうした、顔色が悪いぞ」 レオンが心配そうに顔を覗き込んでくる。 その真っ直ぐな瞳。 エリーゼは、動揺を悟られないように、精一杯の虚勢を張った。
「な、何でもありませんわ。ただ……海に行くなら、日焼け止めを調合しなければと考えていただけです」 「なんだそりゃ! さすが天才、準備がいいな!」
レオンが豪快に笑う。 その笑い声が、永遠に続けばいいのに。 エリーゼは祈るように、温かい紅茶を飲み下した。
***
数日後。 ギルドから、特S級の依頼が舞い込んだ。
場所は、王都から遠く離れた辺境、「幻霧の谷(ミスト・ホロウ)」。 調査依頼だ。 最近、その谷周辺で強力な魔力異常が観測され、調査に向かった騎士団の部隊が誰一人として帰還していないという。
「報酬は破格だ。これをクリアすれば、俺たちは名実ともにトップランカーだぜ!」 レオンが依頼書を叩いて気炎を吐く。 ボルグも「こりゃあ豪遊できるな」と計算機を弾く。
だが、エリーゼだけは、依頼書を見た瞬間に悪寒が走った。 『幻霧の谷』。 古い文献によれば、そこは精神に干渉する特殊な磁場を持つ場所だ。 魔導師としての直感が、警鐘を鳴らしていた。 行ってはいけない。 あそこには、触れてはいけない「何か」がある。
「……断りましょう」 エリーゼは言った。 「リスクが高すぎます。情報が少なすぎるし、帰還率ゼロというのは異常ですわ」
「だからこそ、俺たちの出番だろ?」 レオンは引かなかった。 「誰も帰ってきてないなら、助けを待ってる奴がいるかもしれねぇ。俺たちが見捨てたら、誰があいつらを救うんだ?」
レオンの「正義感」という病。 それが彼の美徳であり、最大の危うさでもあった。 エリーゼは反論しようとしたが、セラの悲しげな目と、ボルグの「やるしかねぇだろ」という覚悟を見て、言葉を飲み込んだ。 彼らはもう、行く気だ。 私が止めても、彼らは行くだろう。私を置いてでも。 なら、私がついていって、全力で守るしかない。
「……わかりました。でも、私の指示には絶対に従ってくださいね」 「おう! 任せとけ!」
出発は翌朝に決まった。
***
その夜。 エリーゼは自室で、星占いの道具を広げていた。 水晶玉。タロットカード。星図。 あらゆる手段を使って、明日の運命を視ようとした。
けれど。 何も見えなかった。 水晶は白く濁り、カードは意味を成さない配列を示し、星々は雲に隠れていた。 『白紙』。 未来が閉ざされているのか、それとも、見る必要もないほど確定しているのか。
「……嫌な予感がする」
エリーゼが爪を噛んでいると、窓ガラスがコンコンと叩かれた。 バルコニーに、レオンが立っていた。
「よっ。起きてるか?」 「……ここが三階だということをご存知?」 「俺にかかれば庭の木登るくらい余裕だぜ」
レオンは窓枠を跨いで入ってくると、エリーゼの向かいに座った。 夜風が入り込み、机の上のロウソクの炎を揺らす。
「どうしたんだよ、難しい顔して。またシワが増えるぞ」 「余計なお世話です。……明日の準備をしていただけですわ」
レオンは少しの間、黙ってエリーゼを見ていたが、やがてポケットをごそごそと探り、何かを取り出した。
「ほら、手ェ出せ」 「何ですの? また変な虫とか……」
エリーゼが警戒しながら手を出すと、レオンは彼女の掌に、小さな輪っかを落とした。 指輪だった。 宝石なんてついていない。祭りの屋台で売っているような、安っぽい青いガラス細工の指輪。 月明かりを受けて、チープに、けれど涼やかに光っている。
「……これは?」
「お守りだ」 レオンは照れくさそうに鼻の下をこすった。 「この前の市場で見つけてさ。お前の目の色に似てるなって思って、つい買っちまった」
エリーゼの心臓が、ドクンと跳ねた。 目の色。 彼が、そんなことを考えてくれていたなんて。
「俺たち、明日は危険な場所に行くんだろ? だからさ、契約の証だ」 「契約?」 「おう。『必ず全員で生きて帰って、海を見に行く』っていう契約。その指輪を持ってりゃ、迷子になっても必ず俺が見つけ出してやる」
子供騙しのような理屈。 何の魔力も込められていない、ただのガラス玉。 けれど、エリーゼにとって、それは世界中のどんな国宝級のアーティファクトよりも価値のあるものに見えた。
彼女は震える手で、指輪を左手の薬指にはめた。 サイズは少し大きかったけれど、温かかった。
「……バカな人」 エリーゼは、涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。 「こんな安物で、私を釣ろうなんて」
「ははっ、悪かったな! 本物の宝石は、もっと稼いでから買ってやるよ」 レオンは立ち上がり、窓枠に足をかけた。 「じゃあな、エリーゼ。明日、遅刻すんなよ!」
「ええ。おやすみなさい、レオン」
レオンは闇夜に消えていった。 エリーゼは、指輪を胸に抱いて、しばらくその場に立ち尽くしていた。 不安は消えない。 けれど、この指輪がある限り、きっと大丈夫だと思えた。 彼らは「銀の翼」。どんな嵐も超えていける、最強のパーティなのだから。
この時の彼女は、まだ知らなかった。 この指輪が、彼女に残された最後の「絆の証」になることを。 そして、数年後の彼女の指には、もうこの指輪がないことを。
***
翌朝。 王都を出発する頃には、空は泣き出しそうな灰色に染まっていた。 冷たい秋雨が、ポツリ、ポツリと降り始める。
「幻霧の谷」の入り口に立った時、雨は本降りになっていた。 地面はぬかるみ、濡れた落ち葉が靴底にべっとりと張り付く。 まるで、侵入者を逃がさないための、死者の手招きのように。
エリーゼは、指輪を嵌めた手をギュッと握りしめた。 冷たい雨が、彼女の頬を伝う。 その冷たさは、これから訪れる悲劇の温度と、よく似ていた。
終わらない夏への願いは、冷たい秋風に吹き消されようとしていた。 運命の歯車が、軋みながら回り始める。 もう、誰にも止めることはできない。
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