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第7章:過去の嘘と、真実の絆
第35話:転がるリンゴは、運命の坂道を下る 〜「喪失」とは、新しい出会いのための「予約席」である〜
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冬の朝は、死のような静けさを連れてくる。
王都グランドルの路地裏。 吐く息が凍りつくような寒さの中、エリーゼは一人、石畳の上で目を覚ました。 頬に触れるのは、冷たい石の感触と、泥のざらつき。鼻をつくのは、排水溝から漂う腐敗臭と、冬特有の乾いた風の匂い。
そこには、もう何もなかった。 あの地獄のような谷底の冷気も、耳をつんざく轟音も、仲間たちの叫び声も。 ただ、日常の朝の光景が広がっているだけだった。
「……う、そ……」
エリーゼは、ガタガタと震える体で起き上がろうとした。 力が入らない。指先が麻痺している。 左手の薬指に嵌められた、安っぽい青いガラスの指輪だけが、朝日に照らされて寒々しく光っていた。
『必ず全員で生きて帰る』。 レオンと交わした、たった一つの契約。 それが、永遠に破られたことを、指輪の冷たさが告げていた。
彼女は這うようにしてギルドへ向かった。 まだ間に合うかもしれない。誰かが助けに行ってくれれば。あるいは、彼らも別の方法で脱出しているかもしれない。 そんな、糸のように細い希望に縋り付いて。
だが、ギルドの扉を開けた彼女を待っていたのは、残酷な現実(レポート)だった。 「銀の翼、全滅」。 観測班が確認したのは、谷底から立ち上った巨大な爆発の痕跡と、生命反応の消失だけだった。
「……おい、見ろよ。あいつだけ帰ってきたぞ」 「あの天才魔女か? 仲間を見捨てて逃げたって噂だぜ」 「自分だけ助かればいいってか。ひでぇ女だ」 「死神だな。関わらない方がいい」
冒険者たちのひそひそ話が、針のようにエリーゼの鼓膜を刺す。 弁解はしなかった。 否定する言葉を持たなかった。 だって、彼らの言う通りだ。 私が弱かったから。私が計算を間違えたから。私が足手まといだったから。 彼らは私を生かすために死んだ。 それは、「見捨てて逃げた」のと、結果として何が違うというのだろう。
エリーゼは、逃げるようにギルドを飛び出した。 背中に浴びせられる視線が、焼け火箸のように熱く、痛かった。
彼女は、自分の屋敷――あの蔦に覆われた古びた洋館へと戻った。 重い扉を閉め、鍵をかける。一つ、二つ、三つ。 さらに、魔術による結界を何重にも張り巡らせる。 世界を拒絶するように。 あるいは、自分という罪人が、二度と外の世界へ出て誰かを傷つけないように。
薄暗い部屋の中で、彼女は膝を抱えた。 窓の外では、冬の空から白いものが舞い落ちてきていた。 雪だ。 白く、冷たく、全ての音と色を覆い隠していく雪。 それは、彼女の止まった時間を象徴するかのように、静かに降り積もっていった。
***
季節は巡る。 残酷なほど正確に、無関心に。
窓の外の景色は、万華鏡のように移り変わっていった。 凍てつく冬が去り、春の嵐が花びらを運び、夏の太陽が石畳を焦がし、秋の風が枯れ葉を散らす。 人々は笑い、泣き、恋をして、別れ、また新しい季節を迎える。 世界は動いていた。 エリーゼ・フォン・ヴァイデマンという一人の魔女を置き去りにして。
洋館の中だけは、時間が死んでいた。 分厚いカーテンは閉め切られ、埃の匂いと、煮詰められた薬草の匂いが充満している。 床から天井まで積み上げられた古書。複雑怪奇な実験器具の山。 エリーゼは、その「ゴミの山」の中で、ただひたすらに手を動かし続けていた。
ポコ、ポコ、とフラスコの中で液体が沸騰する。 彼女が作っているのは、「完璧なポーション」だった。 どんな傷も瞬時に癒やし、失われた魔力を即座に回復させ、死の淵にある者さえも蘇らせる奇跡の秘薬。
「これがあれば」 彼女は、充血した目でフラスコを見つめながら呟く。 「これがあれば、ボルグの腕は治せた。セラの魔力は尽きなかった。レオンは……死なずに済んだ」
それは、終わりのない後悔(執着)の儀式だった。 もう二度と戻らない過去に対して、「もしも」という叶わない修正を加え続ける作業。 彼女の作り出すポーションは、王都でも最高品質のものとして高値で取引されたが、それを使うべき仲間はもうどこにもいない。
彼女は、人嫌いになった。 人間不信になった。 誰かと関われば、心が動く。心が動けば、情が湧く。情が湧けば、失うことが怖くなる。 そして失った時、その痛みは耐え難い。 ならば、最初から一人でいい。 この研究室という名の棺桶の中で、数式と魔力だけに囲まれて朽ち果てていくのが、私にはお似合いなのだ。
指輪は、いつしか外していた。 見るのが辛かったからだ。 それを小箱の奥深くに封印し、彼女は自分の心にも何重もの鍵をかけた。
そうして、幾度目かの夏が巡ってきた。
***
その日は、朝から気まぐれな雨が降っていた。 初夏の雨だ。 地面を叩く激しい雨音が、遠い記憶――あの谷底での戦闘の音――を呼び起こしそうで、エリーゼは朝から不機嫌だった。
食料庫が空になっていた。 普段なら使い魔を使って買い出しを済ませるところだが、あいにく使い魔の動力源である魔石も切らしていた。 仕方なく、彼女は数週間ぶりに外の世界へと足を踏み出すことにした。
フードを目深に被り、目立たないように灰色の外套を羽織る。 重い扉を開けると、ムッとするような湿気が顔にかかった。 雨上がりの路地裏。 濡れた石畳が黒く光り、排水溝からは土と水の混じった匂いが立ち上っている。 その匂いは、生理的な嫌悪感を催させた。あの日、泥にまみれて転がっていた自分を思い出させるからだ。
「……早く済ませましょう」
エリーゼは足早に市場へ向かった。 人混みは苦痛だった。誰かの視線を感じるたびに、背中が粟立つ。 「あいつだ」「死神だ」と噂されているような気がして、息が詰まる。 必要なものだけを買い、逃げるように帰り道を急ぐ。
その時、ふと果物屋の店先で足が止まった。 籠の中に山積みになった、真っ赤な果実。 リンゴだ。 艶やかで、健康的で、生命力に溢れた赤色。
『ほら、エリーゼ。これやるよ。皮ごと食うのが一番美味いんだ!』
レオンの声が、脳内で再生された。 あの日、彼が笑って投げ渡してくれたリンゴ。 酸っぱくて、甘くて、そして温かかった思い出。
気がつけば、エリーゼは籠いっぱいのリンゴを買っていた。 一人では食べきれない量だ。皮をむくのも面倒だ。 それでも、買わずにはいられなかった。 それは、彼女の心の奥底に残っていた、ほんのわずかな「寂しさ」の欠片がさせた行動だったのかもしれない。
帰り道。 「猫のしっぽ通り」と呼ばれる、緩やかな下り坂の路地裏。 エリーゼは、大きな茶色の紙袋を両腕で抱え、足元を確かめながら歩いていた。 紙袋はずっしりと重い。リンゴの重みだけではない。過去の記憶の重みが、そのまま腕にかかっているようだった。
雨上がりの風が吹き抜ける。 生温かく、湿った風。 それがフードを揺らし、エリーゼの視界を一瞬だけ遮った。
カツッ。
履き慣れないヒールが、濡れた石畳の隙間に挟まった。 「あ」と思う間もなかった。 バランスが崩れ、体が前方へと投げ出される。
世界がスローモーションになる。 腕から紙袋が離れる。 ビリッ、という乾いた音と共に、濡れた紙袋の底が裂けた。
鮮烈な赤色が、灰色の世界にばら撒かれた。 リンゴだ。 十数個のリンゴが、石畳の上を跳ね、コロコロと坂道を転がり落ちていく。 一つ、また一つ。 まるで、彼女の手からこぼれ落ちていった、大切なものたちのように。
(ああ……)
エリーゼは、宙に浮いた体の中で、ぼんやりと思った。 私の人生そのものね。 積み上げてきたものが崩れ、バラバラになり、泥にまみれて転がっていく。 止めることも、拾い集めることもできない。 私はただ、それを見ていることしかできない。
地面が迫ってくる。 硬く、冷たく、濡れた石畳。 顔を打てば痛いだろう。怪我をするだろう。 でも、それでいい。 いっそ、このまま壊れてしまえばいい。 痛みだけが、私が生きていることを許してくれる罰なのだから。
エリーゼは目を閉じた。 身を縮め、衝撃に備える。 冷たい闇が、彼女を迎え入れようとしていた。
――しかし。
予想された衝撃は、いつまで経っても来なかった。 代わりに、ふわりとした、温かい感触が彼女を包み込んだ。
「……おっと、セーフ」
頭上から、声が降ってきた。 明るく、軽く、何の重みも感じさせない、能天気な声。
エリーゼは、恐る恐る目を開けた。 至近距離に、男の顔があった。 黒髪に、黒い瞳。 その瞳は、雨上がりの太陽のようにキラキラと輝き、悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。
彼は、倒れそうになったエリーゼの体を片腕で支え、もう片方の手と、なんと足まで使って、宙を舞っていたリンゴをキャッチしていたのだ。 まるで曲芸。あるいは魔法。
「いやぁ、いいリンゴだね。赤くて艶があって。これが坂の下まで転がってジュースになっちゃうのは、世界の損失だろ?」
男はニカっと笑った。 その笑顔は、かつてのレオンと同じくらい――いや、それ以上に無神経で、図々しくて、そして圧倒的に「陽」のエネルギーに満ちていた。
エリーゼの時間が、止まった。 いや、止まっていた時間が、カチリと音を立てて動き出した。
レオンではない。 彼はもういない。 でも、この目の前の男――瞬(シュン)は、レオンが持っていた「あたたかさ」を、もっと強引な形で持っている気がした。 閉ざしていた扉を、ノックもせずに蹴破って入ってくるような、あの懐かしい嵐の予感。
「……あなたは……」
「おっと、自己紹介は後だ。まずはこのリンゴ、袋に戻さないとな」
瞬は、エリーゼを優しく立たせると、手品のような手つきでリンゴを新しい袋(どこから出したのか)に移し替えていく。 一つ、また一つ。 こぼれ落ちたはずのものが、再び手元に戻ってくる。
雨雲が切れ、夕陽が差し込んだ。 路地裏の水たまりが、黄金色に輝き始める。 エリーゼは、眩しそうに目を細めた。
転がるリンゴは、運命の坂道を下り――そして、英雄の手によって拾い上げられた。 それは、孤独な魔女が、再び「外の世界」へと引きずり出される、新たな物語の始まりだった。
風が変わった。 湿った腐敗の匂いは消え、代わりに乾いた、新しい季節の匂いが吹き抜けていった。
王都グランドルの路地裏。 吐く息が凍りつくような寒さの中、エリーゼは一人、石畳の上で目を覚ました。 頬に触れるのは、冷たい石の感触と、泥のざらつき。鼻をつくのは、排水溝から漂う腐敗臭と、冬特有の乾いた風の匂い。
そこには、もう何もなかった。 あの地獄のような谷底の冷気も、耳をつんざく轟音も、仲間たちの叫び声も。 ただ、日常の朝の光景が広がっているだけだった。
「……う、そ……」
エリーゼは、ガタガタと震える体で起き上がろうとした。 力が入らない。指先が麻痺している。 左手の薬指に嵌められた、安っぽい青いガラスの指輪だけが、朝日に照らされて寒々しく光っていた。
『必ず全員で生きて帰る』。 レオンと交わした、たった一つの契約。 それが、永遠に破られたことを、指輪の冷たさが告げていた。
彼女は這うようにしてギルドへ向かった。 まだ間に合うかもしれない。誰かが助けに行ってくれれば。あるいは、彼らも別の方法で脱出しているかもしれない。 そんな、糸のように細い希望に縋り付いて。
だが、ギルドの扉を開けた彼女を待っていたのは、残酷な現実(レポート)だった。 「銀の翼、全滅」。 観測班が確認したのは、谷底から立ち上った巨大な爆発の痕跡と、生命反応の消失だけだった。
「……おい、見ろよ。あいつだけ帰ってきたぞ」 「あの天才魔女か? 仲間を見捨てて逃げたって噂だぜ」 「自分だけ助かればいいってか。ひでぇ女だ」 「死神だな。関わらない方がいい」
冒険者たちのひそひそ話が、針のようにエリーゼの鼓膜を刺す。 弁解はしなかった。 否定する言葉を持たなかった。 だって、彼らの言う通りだ。 私が弱かったから。私が計算を間違えたから。私が足手まといだったから。 彼らは私を生かすために死んだ。 それは、「見捨てて逃げた」のと、結果として何が違うというのだろう。
エリーゼは、逃げるようにギルドを飛び出した。 背中に浴びせられる視線が、焼け火箸のように熱く、痛かった。
彼女は、自分の屋敷――あの蔦に覆われた古びた洋館へと戻った。 重い扉を閉め、鍵をかける。一つ、二つ、三つ。 さらに、魔術による結界を何重にも張り巡らせる。 世界を拒絶するように。 あるいは、自分という罪人が、二度と外の世界へ出て誰かを傷つけないように。
薄暗い部屋の中で、彼女は膝を抱えた。 窓の外では、冬の空から白いものが舞い落ちてきていた。 雪だ。 白く、冷たく、全ての音と色を覆い隠していく雪。 それは、彼女の止まった時間を象徴するかのように、静かに降り積もっていった。
***
季節は巡る。 残酷なほど正確に、無関心に。
窓の外の景色は、万華鏡のように移り変わっていった。 凍てつく冬が去り、春の嵐が花びらを運び、夏の太陽が石畳を焦がし、秋の風が枯れ葉を散らす。 人々は笑い、泣き、恋をして、別れ、また新しい季節を迎える。 世界は動いていた。 エリーゼ・フォン・ヴァイデマンという一人の魔女を置き去りにして。
洋館の中だけは、時間が死んでいた。 分厚いカーテンは閉め切られ、埃の匂いと、煮詰められた薬草の匂いが充満している。 床から天井まで積み上げられた古書。複雑怪奇な実験器具の山。 エリーゼは、その「ゴミの山」の中で、ただひたすらに手を動かし続けていた。
ポコ、ポコ、とフラスコの中で液体が沸騰する。 彼女が作っているのは、「完璧なポーション」だった。 どんな傷も瞬時に癒やし、失われた魔力を即座に回復させ、死の淵にある者さえも蘇らせる奇跡の秘薬。
「これがあれば」 彼女は、充血した目でフラスコを見つめながら呟く。 「これがあれば、ボルグの腕は治せた。セラの魔力は尽きなかった。レオンは……死なずに済んだ」
それは、終わりのない後悔(執着)の儀式だった。 もう二度と戻らない過去に対して、「もしも」という叶わない修正を加え続ける作業。 彼女の作り出すポーションは、王都でも最高品質のものとして高値で取引されたが、それを使うべき仲間はもうどこにもいない。
彼女は、人嫌いになった。 人間不信になった。 誰かと関われば、心が動く。心が動けば、情が湧く。情が湧けば、失うことが怖くなる。 そして失った時、その痛みは耐え難い。 ならば、最初から一人でいい。 この研究室という名の棺桶の中で、数式と魔力だけに囲まれて朽ち果てていくのが、私にはお似合いなのだ。
指輪は、いつしか外していた。 見るのが辛かったからだ。 それを小箱の奥深くに封印し、彼女は自分の心にも何重もの鍵をかけた。
そうして、幾度目かの夏が巡ってきた。
***
その日は、朝から気まぐれな雨が降っていた。 初夏の雨だ。 地面を叩く激しい雨音が、遠い記憶――あの谷底での戦闘の音――を呼び起こしそうで、エリーゼは朝から不機嫌だった。
食料庫が空になっていた。 普段なら使い魔を使って買い出しを済ませるところだが、あいにく使い魔の動力源である魔石も切らしていた。 仕方なく、彼女は数週間ぶりに外の世界へと足を踏み出すことにした。
フードを目深に被り、目立たないように灰色の外套を羽織る。 重い扉を開けると、ムッとするような湿気が顔にかかった。 雨上がりの路地裏。 濡れた石畳が黒く光り、排水溝からは土と水の混じった匂いが立ち上っている。 その匂いは、生理的な嫌悪感を催させた。あの日、泥にまみれて転がっていた自分を思い出させるからだ。
「……早く済ませましょう」
エリーゼは足早に市場へ向かった。 人混みは苦痛だった。誰かの視線を感じるたびに、背中が粟立つ。 「あいつだ」「死神だ」と噂されているような気がして、息が詰まる。 必要なものだけを買い、逃げるように帰り道を急ぐ。
その時、ふと果物屋の店先で足が止まった。 籠の中に山積みになった、真っ赤な果実。 リンゴだ。 艶やかで、健康的で、生命力に溢れた赤色。
『ほら、エリーゼ。これやるよ。皮ごと食うのが一番美味いんだ!』
レオンの声が、脳内で再生された。 あの日、彼が笑って投げ渡してくれたリンゴ。 酸っぱくて、甘くて、そして温かかった思い出。
気がつけば、エリーゼは籠いっぱいのリンゴを買っていた。 一人では食べきれない量だ。皮をむくのも面倒だ。 それでも、買わずにはいられなかった。 それは、彼女の心の奥底に残っていた、ほんのわずかな「寂しさ」の欠片がさせた行動だったのかもしれない。
帰り道。 「猫のしっぽ通り」と呼ばれる、緩やかな下り坂の路地裏。 エリーゼは、大きな茶色の紙袋を両腕で抱え、足元を確かめながら歩いていた。 紙袋はずっしりと重い。リンゴの重みだけではない。過去の記憶の重みが、そのまま腕にかかっているようだった。
雨上がりの風が吹き抜ける。 生温かく、湿った風。 それがフードを揺らし、エリーゼの視界を一瞬だけ遮った。
カツッ。
履き慣れないヒールが、濡れた石畳の隙間に挟まった。 「あ」と思う間もなかった。 バランスが崩れ、体が前方へと投げ出される。
世界がスローモーションになる。 腕から紙袋が離れる。 ビリッ、という乾いた音と共に、濡れた紙袋の底が裂けた。
鮮烈な赤色が、灰色の世界にばら撒かれた。 リンゴだ。 十数個のリンゴが、石畳の上を跳ね、コロコロと坂道を転がり落ちていく。 一つ、また一つ。 まるで、彼女の手からこぼれ落ちていった、大切なものたちのように。
(ああ……)
エリーゼは、宙に浮いた体の中で、ぼんやりと思った。 私の人生そのものね。 積み上げてきたものが崩れ、バラバラになり、泥にまみれて転がっていく。 止めることも、拾い集めることもできない。 私はただ、それを見ていることしかできない。
地面が迫ってくる。 硬く、冷たく、濡れた石畳。 顔を打てば痛いだろう。怪我をするだろう。 でも、それでいい。 いっそ、このまま壊れてしまえばいい。 痛みだけが、私が生きていることを許してくれる罰なのだから。
エリーゼは目を閉じた。 身を縮め、衝撃に備える。 冷たい闇が、彼女を迎え入れようとしていた。
――しかし。
予想された衝撃は、いつまで経っても来なかった。 代わりに、ふわりとした、温かい感触が彼女を包み込んだ。
「……おっと、セーフ」
頭上から、声が降ってきた。 明るく、軽く、何の重みも感じさせない、能天気な声。
エリーゼは、恐る恐る目を開けた。 至近距離に、男の顔があった。 黒髪に、黒い瞳。 その瞳は、雨上がりの太陽のようにキラキラと輝き、悪戯っ子のような笑みを浮かべていた。
彼は、倒れそうになったエリーゼの体を片腕で支え、もう片方の手と、なんと足まで使って、宙を舞っていたリンゴをキャッチしていたのだ。 まるで曲芸。あるいは魔法。
「いやぁ、いいリンゴだね。赤くて艶があって。これが坂の下まで転がってジュースになっちゃうのは、世界の損失だろ?」
男はニカっと笑った。 その笑顔は、かつてのレオンと同じくらい――いや、それ以上に無神経で、図々しくて、そして圧倒的に「陽」のエネルギーに満ちていた。
エリーゼの時間が、止まった。 いや、止まっていた時間が、カチリと音を立てて動き出した。
レオンではない。 彼はもういない。 でも、この目の前の男――瞬(シュン)は、レオンが持っていた「あたたかさ」を、もっと強引な形で持っている気がした。 閉ざしていた扉を、ノックもせずに蹴破って入ってくるような、あの懐かしい嵐の予感。
「……あなたは……」
「おっと、自己紹介は後だ。まずはこのリンゴ、袋に戻さないとな」
瞬は、エリーゼを優しく立たせると、手品のような手つきでリンゴを新しい袋(どこから出したのか)に移し替えていく。 一つ、また一つ。 こぼれ落ちたはずのものが、再び手元に戻ってくる。
雨雲が切れ、夕陽が差し込んだ。 路地裏の水たまりが、黄金色に輝き始める。 エリーゼは、眩しそうに目を細めた。
転がるリンゴは、運命の坂道を下り――そして、英雄の手によって拾い上げられた。 それは、孤独な魔女が、再び「外の世界」へと引きずり出される、新たな物語の始まりだった。
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