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第10章:スラムの黒猫たち
第47話:夏の腐敗と、忍び寄る影 〜黄金は石ころである〜
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季節は、容赦なく巡る。 あの凍てつく冬の夜、雪の中で小さな命を拾い上げてから、数年の月日が流れていた。
王都のスラム街に、夏が来ていた。 ただし、それは貴族たちが避暑地で優雅に過ごすような、爽やかな夏ではない。 逃げ場のない熱気が、腐った建物の隙間に澱(よど)み、行き場を失って滞留する。空からは暴力的な日差しが降り注ぎ、地面からは湿った汚泥の臭気が立ち上る。 この街の夏は、「熱」というよりも「発酵」に近い。 生ゴミ、排泄物、汗、そして人々の欲望。あらゆるものが熱に浮かされ、ドロドロに溶け合い、むせ返るような濃厚な空気を作り出していた。
そんな劣悪な環境の中でも、彼ら――盗賊団「黒猫」は、確かに輝いていた。
「おいキース! 今日の収穫だ! 見ろよこの銀貨の山!」
大男のボルグが、革袋を逆さにしてテーブル(拾ってきた木箱)の上に中身をぶちまけた。 ジャラジャラと硬貨が鳴る。 それは、悪徳金貸しの隠し金庫から「回収」してきた戦利品だ。
「へへっ、あいつらの慌てふためく顔、見ものだったぜ!」 身軽なティックが、リンゴをかじりながら笑う。 「『金庫がない! 幽霊だ!』って騒いでやんの。幽霊じゃなくて『黒猫』だって教えてやりたかったよ」
リーダーのキースは、硬貨の山を冷静に数えながら、口元を緩めた。 「上出来だ。これでまた、しばらくは食うに困らない」
彼らは強くなった。 生きるため、そして守るために、盗みの技術を磨き、連携を極めた。 今やスラム街で「黒猫」の名を知らぬ者はいない。 彼らは決して弱者からは奪わない。奪うのは、弱者を搾取して肥え太った豚どもからだけだ。そして、その金の一部を貧しい隣人たちに分け与える。 そんな彼らを、人々は「義賊」と呼び、英雄視し始めていた。
「ただいまー!」
入り口のカーテンが開き、アンナが入ってきた。 その手には、小さな女の子の手が引かれている。
「おかえり! ミーシャ!」
男たちが一斉に表情を崩す。さっきまでの「スラムの強盗」の顔はどこへやら、完全に「親バカ」の顔だ。
ミーシャ。 五歳になった彼女は、スラムの泥水の中でも、蓮の花のように清らかに育っていた。 栄養状態が良くなったおかげで、頬は林檎のように赤く、白い肌は透き通るようだ。亜麻色の髪はアンナによって綺麗に編み込まれ、古着だが清潔なワンピースを着ている。
「おにいちゃんたち、おかえりなさい!」
ミーシャが弾けるような笑顔で駆け寄ってくる。 その笑顔を見るだけで、キースたちの体に溜まった疲労も、汚れ仕事をした罪悪感も、夏の暑ささえも、すべてが洗い流されるようだった。
「ほらミーシャ、お土産だぞ。綺麗なビー玉だ」 ボルグが巨大な手で、小さなガラス玉を差し出す。 「わあ、キラキラしてる! ありがとうボルグお兄ちゃん!」
「こっちはリボンだ。アンナに結んでもらえ」 ティックが得意げに赤いリボンを渡す。 「えへへ、可愛い! ありがとうティックお兄ちゃん!」
そして最後に、ミーシャはキースの前に立った。 キースは何も言わず、ただ彼女の頭を撫でた。 その手は、かつてのように泥だらけではなかった。彼女に触れるために、帰ってきてすぐに洗ったからだ。
「……いい子にしてたか?」 「うん! アンナお姉ちゃんのお手伝いしたよ!」
ミーシャが、キースの膝に抱きつく。 温かい。 柔らかい。 ドクン、ドクンと脈打つ心臓の音が聞こえる。
キースは目を細めた。 (幸せだ) 心からそう思った。 ゴミ溜めのようなこの場所で、俺たちは「楽園」を作ったんだ。 金はある。飯もある。仲間がいる。そして何より、守るべき太陽がいる。 この幸せが、ずっと続けばいい。 いや、俺たちが守り抜くんだ。どんな手を使っても。
「変わらないでほしい」 そう願うこと。 今の幸福にしがみつき、時の流れを止めようとすること。 それが、どれほど傲慢で、叶わぬ願いであるかを、彼らはまだ知らなかった。
世界は、止まってはくれない。 季節が巡るように、形あるものは壊れ、命あるものは衰えていく。 その絶対的なルール(無常)が、音もなく忍び寄っていた。
***
異変が起きたのは、最も暑さが厳しい、夏の盛りの夜だった。
その夜、風はピタリと止まっていた。 湿度は極限まで上がり、空気は水飴のように粘り気を帯びていた。 遠くの空で、ゴロゴロと低い雷鳴が響いている。 どこかの家から漂ってくる腐った残飯の臭いと、ドブ川の硫黄のような臭いが混ざり合い、吐き気を催すような夜だった。
「……う……うぅ……」
闇の中で、小さなうめき声が聞こえた。 キースは跳ね起きた。 長年の路地裏暮らしで培われた野生の勘が、即座に異常を感知したのだ。
「ミーシャ?」
彼は、ミーシャが寝ている粗末なベッド(木枠に布を張ったもの)に駆け寄った。 ランプを点ける。 その明かりに照らされた光景を見て、キースの血の気が引いた。
ミーシャが、苦しそうに呼吸をしていた。 顔は真っ赤に火照り、玉のような汗がびっしりと浮いている。 そして何より異様だったのは、その白く透き通った肌に、赤い蜘蛛の巣のような不気味な痣(あざ)が浮かび上がっていたことだ。
「おい! 起きろ! ミーシャが!」
キースの叫び声で、全員が飛び起きた。 「どうした!?」 「熱い……! 体が火みたいに熱い!」 アンナがミーシャの額に触れ、悲鳴を上げる。
「医者だ! すぐに医者を呼んでこい!」 キースが怒鳴る。 ティックが弾かれたように飛び出していった。
長い、長い夜だった。 氷水で冷やしたタオルを額に乗せても、数分もしないうちにタオルは生温かくなってしまう。 ミーシャの熱は、タオルの冷たさを貪り食うように奪い去り、一向に下がる気配がない。 彼女の小さな胸が、ヒュー、ヒューと苦しげに上下するたびに、キースたちの心臓も締め付けられるようだった。
やがて、ティックが息を切らして戻ってきた。 背中には、嫌がる初老の医師を無理やり担いでいた。
「離せ! 野蛮人め! 私は忙しいんだ!」 「うるせぇ! 金なら払う! 診ろ!」 ボルグが金貨の詰まった袋を医者の目の前に突きつける。
医師は金貨を見て大人しくなり、渋々ミーシャの診察を始めた。 聴診器を当て、瞼をめくり、肌の痣を見る。 その表情が、次第に険しく、そして冷たいものに変わっていく。
「……ふん。やはりか」
医師は聴診器をしまうと、ハンカチで手を拭いた。まるで汚いものに触れたかのように。
「『深紅の熱病(クリムゾン・フィーバー)』だ」
「な……なんだそれ? 治るのか?」 キースが詰め寄る。
「治らんよ」 医師は淡々と言い放った。
「これは、このスラム特有の風土病だ。汚れた水、腐った空気、栄養の偏り……劣悪な環境が、子供の弱い体に毒素として蓄積し、内側から蝕んでいく病気だ」
医師は部屋の中を見回し、軽蔑したように鼻を鳴らした。
「金を持ってるようだが……無駄だ。どんな薬を使っても、このゴミ溜めのような環境に住んでいる限り、毒素は抜けん。手遅れになる前に、綺麗な空気と水のある場所へ移せば、あるいは……まあ、お前らのようなドブネズミには無理な話だろうがな」
医師は金貨の袋をひったくると、逃げるように出て行った。
残されたのは、絶望的な静寂と、ミーシャの苦しげな呼吸音だけ。
環境。 それが原因だと言われた。 俺たちが生きている、この場所そのものが、ミーシャを殺そうとしていると。
「……クソッ!!」
キースは壁を殴りつけた。 拳から血が滲むが、痛みなど感じない。
金はある。 盗んで、奪って、溜め込んだ金はある。 なのに、買えない。 綺麗な空気も、清らかな水も、ここには売っていない。 俺たちは、このスラムから出られない。戸籍もない、身分もない犯罪者が、表の世界で暮らせるはずがない。
ここは「掃き溜め」だ。 一度落ちたら這い上がれない、底なしの沼。 俺たちはその沼の中で、必死に「幸せ」という城を築いたつもりだった。 でも、それは砂上の楼閣だったのだ。 土台そのものが腐っていたのだから、崩れるのは時間の問題だった。
「……ごめん……ね……」
うわ言のように、ミーシャが呟いた。 熱に浮かされた瞳が、虚空を見つめている。
「キースお兄ちゃん……痛い……あついよぉ……」
「ミーシャ! 俺だ! ここにいるぞ!」 キースは彼女の手を握った。 熱い。 火傷しそうなほど熱いのに、その生命力は蝋燭の火のように頼りなく揺らめいている。
「たすけ……て……」
その言葉が、キースの心を八つ裂きにした。 助けたい。 自分の命と引き換えにしてでも、助けたい。 でも、どうすればいい? 敵がいれば斬ればいい。金が必要なら盗めばいい。 だが、「環境」や「運命」といった見えない敵とは、どう戦えばいいんだ?
アンナが泣きながら、新しい氷水を運んでくる。 タオルを絞り、額に乗せる。 すぐにぬるくなる。 また冷やす。またぬるくなる。 その繰り返しの徒労感が、彼らの精神を削っていく。
窓の外では、再び雷が鳴り始めた。 遠くで光る稲妻が、一瞬だけ部屋の中を青白く照らす。 その光の中で、ミーシャの顔色は、死人のように白く、美しく、そして儚く見えた。
「変わらないで」と願った。 今の幸せが続いてほしいと願った。 だが、世界は無慈悲に変化していく。 昨日までの健康な体は、今日は病魔に侵され、明日はどうなるかわからない。 愛しい笑顔は苦悶の表情に変わり、温かい手は燃えるように熱くなっている。
これが、「諸行無常」という名の現実。 形あるものはいつか壊れる。 その理(ことわり)を頭では分かっていても、心は納得できなかった。 認めたくなかった。 なんで、ミーシャなんだ。 なんで、世界で一番純粋なこの子が、こんな目に遭わなきゃいけないんだ。
部屋の隅には、山積みの金貨があった。 昨日までは「希望」の象徴だったそれが、今はただの冷たい金属の塊にしか見えなかった。 命の前では、金など紙切れ以下の価値しかない。
「……絶対に、治す」
キースは、ミーシャの手を握りしめて誓った。 その目は、血走っていた。 理性的な輝きは失われ、代わりに宿っているのは、何かに取り憑かれたような狂気的な「執着」の炎だった。
「どんな手を使っても……たとえ悪魔に魂を売ってでも、お前を助ける」
それは、愛ゆえの決意であり、同時に、終わりのない修羅の道への入り口だった。 「助けたい」という強い願い(渇愛)が、やがて彼らの判断を狂わせ、破滅的な行動へと駆り立てていくことになる。
部屋の中には、甘ったるい腐敗臭のような、夏の熱気の匂いが充満していた。 それは、彼らの「幸せな夏」が終わったことを告げる、死の匂いだった。
王都のスラム街に、夏が来ていた。 ただし、それは貴族たちが避暑地で優雅に過ごすような、爽やかな夏ではない。 逃げ場のない熱気が、腐った建物の隙間に澱(よど)み、行き場を失って滞留する。空からは暴力的な日差しが降り注ぎ、地面からは湿った汚泥の臭気が立ち上る。 この街の夏は、「熱」というよりも「発酵」に近い。 生ゴミ、排泄物、汗、そして人々の欲望。あらゆるものが熱に浮かされ、ドロドロに溶け合い、むせ返るような濃厚な空気を作り出していた。
そんな劣悪な環境の中でも、彼ら――盗賊団「黒猫」は、確かに輝いていた。
「おいキース! 今日の収穫だ! 見ろよこの銀貨の山!」
大男のボルグが、革袋を逆さにしてテーブル(拾ってきた木箱)の上に中身をぶちまけた。 ジャラジャラと硬貨が鳴る。 それは、悪徳金貸しの隠し金庫から「回収」してきた戦利品だ。
「へへっ、あいつらの慌てふためく顔、見ものだったぜ!」 身軽なティックが、リンゴをかじりながら笑う。 「『金庫がない! 幽霊だ!』って騒いでやんの。幽霊じゃなくて『黒猫』だって教えてやりたかったよ」
リーダーのキースは、硬貨の山を冷静に数えながら、口元を緩めた。 「上出来だ。これでまた、しばらくは食うに困らない」
彼らは強くなった。 生きるため、そして守るために、盗みの技術を磨き、連携を極めた。 今やスラム街で「黒猫」の名を知らぬ者はいない。 彼らは決して弱者からは奪わない。奪うのは、弱者を搾取して肥え太った豚どもからだけだ。そして、その金の一部を貧しい隣人たちに分け与える。 そんな彼らを、人々は「義賊」と呼び、英雄視し始めていた。
「ただいまー!」
入り口のカーテンが開き、アンナが入ってきた。 その手には、小さな女の子の手が引かれている。
「おかえり! ミーシャ!」
男たちが一斉に表情を崩す。さっきまでの「スラムの強盗」の顔はどこへやら、完全に「親バカ」の顔だ。
ミーシャ。 五歳になった彼女は、スラムの泥水の中でも、蓮の花のように清らかに育っていた。 栄養状態が良くなったおかげで、頬は林檎のように赤く、白い肌は透き通るようだ。亜麻色の髪はアンナによって綺麗に編み込まれ、古着だが清潔なワンピースを着ている。
「おにいちゃんたち、おかえりなさい!」
ミーシャが弾けるような笑顔で駆け寄ってくる。 その笑顔を見るだけで、キースたちの体に溜まった疲労も、汚れ仕事をした罪悪感も、夏の暑ささえも、すべてが洗い流されるようだった。
「ほらミーシャ、お土産だぞ。綺麗なビー玉だ」 ボルグが巨大な手で、小さなガラス玉を差し出す。 「わあ、キラキラしてる! ありがとうボルグお兄ちゃん!」
「こっちはリボンだ。アンナに結んでもらえ」 ティックが得意げに赤いリボンを渡す。 「えへへ、可愛い! ありがとうティックお兄ちゃん!」
そして最後に、ミーシャはキースの前に立った。 キースは何も言わず、ただ彼女の頭を撫でた。 その手は、かつてのように泥だらけではなかった。彼女に触れるために、帰ってきてすぐに洗ったからだ。
「……いい子にしてたか?」 「うん! アンナお姉ちゃんのお手伝いしたよ!」
ミーシャが、キースの膝に抱きつく。 温かい。 柔らかい。 ドクン、ドクンと脈打つ心臓の音が聞こえる。
キースは目を細めた。 (幸せだ) 心からそう思った。 ゴミ溜めのようなこの場所で、俺たちは「楽園」を作ったんだ。 金はある。飯もある。仲間がいる。そして何より、守るべき太陽がいる。 この幸せが、ずっと続けばいい。 いや、俺たちが守り抜くんだ。どんな手を使っても。
「変わらないでほしい」 そう願うこと。 今の幸福にしがみつき、時の流れを止めようとすること。 それが、どれほど傲慢で、叶わぬ願いであるかを、彼らはまだ知らなかった。
世界は、止まってはくれない。 季節が巡るように、形あるものは壊れ、命あるものは衰えていく。 その絶対的なルール(無常)が、音もなく忍び寄っていた。
***
異変が起きたのは、最も暑さが厳しい、夏の盛りの夜だった。
その夜、風はピタリと止まっていた。 湿度は極限まで上がり、空気は水飴のように粘り気を帯びていた。 遠くの空で、ゴロゴロと低い雷鳴が響いている。 どこかの家から漂ってくる腐った残飯の臭いと、ドブ川の硫黄のような臭いが混ざり合い、吐き気を催すような夜だった。
「……う……うぅ……」
闇の中で、小さなうめき声が聞こえた。 キースは跳ね起きた。 長年の路地裏暮らしで培われた野生の勘が、即座に異常を感知したのだ。
「ミーシャ?」
彼は、ミーシャが寝ている粗末なベッド(木枠に布を張ったもの)に駆け寄った。 ランプを点ける。 その明かりに照らされた光景を見て、キースの血の気が引いた。
ミーシャが、苦しそうに呼吸をしていた。 顔は真っ赤に火照り、玉のような汗がびっしりと浮いている。 そして何より異様だったのは、その白く透き通った肌に、赤い蜘蛛の巣のような不気味な痣(あざ)が浮かび上がっていたことだ。
「おい! 起きろ! ミーシャが!」
キースの叫び声で、全員が飛び起きた。 「どうした!?」 「熱い……! 体が火みたいに熱い!」 アンナがミーシャの額に触れ、悲鳴を上げる。
「医者だ! すぐに医者を呼んでこい!」 キースが怒鳴る。 ティックが弾かれたように飛び出していった。
長い、長い夜だった。 氷水で冷やしたタオルを額に乗せても、数分もしないうちにタオルは生温かくなってしまう。 ミーシャの熱は、タオルの冷たさを貪り食うように奪い去り、一向に下がる気配がない。 彼女の小さな胸が、ヒュー、ヒューと苦しげに上下するたびに、キースたちの心臓も締め付けられるようだった。
やがて、ティックが息を切らして戻ってきた。 背中には、嫌がる初老の医師を無理やり担いでいた。
「離せ! 野蛮人め! 私は忙しいんだ!」 「うるせぇ! 金なら払う! 診ろ!」 ボルグが金貨の詰まった袋を医者の目の前に突きつける。
医師は金貨を見て大人しくなり、渋々ミーシャの診察を始めた。 聴診器を当て、瞼をめくり、肌の痣を見る。 その表情が、次第に険しく、そして冷たいものに変わっていく。
「……ふん。やはりか」
医師は聴診器をしまうと、ハンカチで手を拭いた。まるで汚いものに触れたかのように。
「『深紅の熱病(クリムゾン・フィーバー)』だ」
「な……なんだそれ? 治るのか?」 キースが詰め寄る。
「治らんよ」 医師は淡々と言い放った。
「これは、このスラム特有の風土病だ。汚れた水、腐った空気、栄養の偏り……劣悪な環境が、子供の弱い体に毒素として蓄積し、内側から蝕んでいく病気だ」
医師は部屋の中を見回し、軽蔑したように鼻を鳴らした。
「金を持ってるようだが……無駄だ。どんな薬を使っても、このゴミ溜めのような環境に住んでいる限り、毒素は抜けん。手遅れになる前に、綺麗な空気と水のある場所へ移せば、あるいは……まあ、お前らのようなドブネズミには無理な話だろうがな」
医師は金貨の袋をひったくると、逃げるように出て行った。
残されたのは、絶望的な静寂と、ミーシャの苦しげな呼吸音だけ。
環境。 それが原因だと言われた。 俺たちが生きている、この場所そのものが、ミーシャを殺そうとしていると。
「……クソッ!!」
キースは壁を殴りつけた。 拳から血が滲むが、痛みなど感じない。
金はある。 盗んで、奪って、溜め込んだ金はある。 なのに、買えない。 綺麗な空気も、清らかな水も、ここには売っていない。 俺たちは、このスラムから出られない。戸籍もない、身分もない犯罪者が、表の世界で暮らせるはずがない。
ここは「掃き溜め」だ。 一度落ちたら這い上がれない、底なしの沼。 俺たちはその沼の中で、必死に「幸せ」という城を築いたつもりだった。 でも、それは砂上の楼閣だったのだ。 土台そのものが腐っていたのだから、崩れるのは時間の問題だった。
「……ごめん……ね……」
うわ言のように、ミーシャが呟いた。 熱に浮かされた瞳が、虚空を見つめている。
「キースお兄ちゃん……痛い……あついよぉ……」
「ミーシャ! 俺だ! ここにいるぞ!」 キースは彼女の手を握った。 熱い。 火傷しそうなほど熱いのに、その生命力は蝋燭の火のように頼りなく揺らめいている。
「たすけ……て……」
その言葉が、キースの心を八つ裂きにした。 助けたい。 自分の命と引き換えにしてでも、助けたい。 でも、どうすればいい? 敵がいれば斬ればいい。金が必要なら盗めばいい。 だが、「環境」や「運命」といった見えない敵とは、どう戦えばいいんだ?
アンナが泣きながら、新しい氷水を運んでくる。 タオルを絞り、額に乗せる。 すぐにぬるくなる。 また冷やす。またぬるくなる。 その繰り返しの徒労感が、彼らの精神を削っていく。
窓の外では、再び雷が鳴り始めた。 遠くで光る稲妻が、一瞬だけ部屋の中を青白く照らす。 その光の中で、ミーシャの顔色は、死人のように白く、美しく、そして儚く見えた。
「変わらないで」と願った。 今の幸せが続いてほしいと願った。 だが、世界は無慈悲に変化していく。 昨日までの健康な体は、今日は病魔に侵され、明日はどうなるかわからない。 愛しい笑顔は苦悶の表情に変わり、温かい手は燃えるように熱くなっている。
これが、「諸行無常」という名の現実。 形あるものはいつか壊れる。 その理(ことわり)を頭では分かっていても、心は納得できなかった。 認めたくなかった。 なんで、ミーシャなんだ。 なんで、世界で一番純粋なこの子が、こんな目に遭わなきゃいけないんだ。
部屋の隅には、山積みの金貨があった。 昨日までは「希望」の象徴だったそれが、今はただの冷たい金属の塊にしか見えなかった。 命の前では、金など紙切れ以下の価値しかない。
「……絶対に、治す」
キースは、ミーシャの手を握りしめて誓った。 その目は、血走っていた。 理性的な輝きは失われ、代わりに宿っているのは、何かに取り憑かれたような狂気的な「執着」の炎だった。
「どんな手を使っても……たとえ悪魔に魂を売ってでも、お前を助ける」
それは、愛ゆえの決意であり、同時に、終わりのない修羅の道への入り口だった。 「助けたい」という強い願い(渇愛)が、やがて彼らの判断を狂わせ、破滅的な行動へと駆り立てていくことになる。
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