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第13章:最強の荷物持ち
第62話:夏の嵐と、喧嘩するほど良い絆 〜激しくぶつかる火花は、いつか訪れる静寂を照らす光である〜
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季節は巡る。 あの春の柔らかな日差しは、いつの間にか肌を焦がすような強烈な熱線へと変貌を遂げていた。
盛夏。 頭上には、抜けるような青空が広がっている。だが、それは爽やかさとは程遠い。太陽は慈悲なく地上を灼き、空間そのものが歪んで見えるほどの陽炎(かげろう)が立ち上っている。 蝉たちの鳴き声が、ジリジリと鼓膜を震わせる。それはまるで、世界全体がフライパンの上で油を跳ねさせている音のようだった。
山岳地帯へと続く険しい街道を、勇者パーティ一行は歩いていた――いや、正確には、険悪きわまりない空気の中で行軍していた。
「だ・か・ら! 言っただろうが! あの分岐は右だったんだよ!」
先頭を歩く勇者アランが、汗だくになりながら叫んだ。 彼の燃えるような赤髪は汗で額に張り付き、顔は茹でダコのように赤く、こめかみには太い青筋がビキビキと浮かんでいる。
「はぁ!? 星の位置と地磁気の流れから計算すれば、左が最短ルートだと言ったのは私だぞ! 貴様の根拠のない野生の勘など、学術的にはチンパンジーの直感と同レベルだ!」
賢者レインが、汗でずり落ちる分厚い眼鏡を中指で押し上げながら反論する。 二人の間には、目に見えるほどの火花がバチバチと散っていた。
原因は、実に些細なことだった。 今日の夕飯の鍋に、道端で見つけた「斑点のある毒々しい紫色のキノコ」を入れるか、入れないか。 アランは「美味そうな匂いがするから入れろ」と言い張り、レインは「成分が未知数だから研究サンプルにする」と主張した。 たったそれだけの火種が、この猛暑というガソリンを浴びて大爆発を起こしたのだ。 話はそこから飛び火し、さっきの道の間違い、昨日のアランのイビキのうるささ、三日前のレインの靴下の酸っぱい臭いまで、ありとあらゆる過去の不満が噴出する泥仕合へと発展していた。
「大体お前はいつもそうだ! 難しいことばっかり言って、結局迷子になるじゃねぇか! 『北北西に進路を取れ』とか言うけどな、俺たちにはコンパスがねぇんだよ!」 「貴様こそ! 筋肉で思考するのをやめたまえ! 『こっちの風が呼んでる』などという詩的な理由で崖を登り始めるな! この単細胞生物め!」
「まあまあ、二人とも……暑いんですから、熱くならないで……」
シルヴィアがオロオロと仲裁に入ろうとするが、男たちの怒号にかき消される。
「うるせぇ! 今日という今日は決着をつけてやる! 表へ出ろ!」 「ここが表だ、馬鹿者!」
アランが聖剣エクスカリバー(こんなことで抜かれる剣が不憫だ)に手をかけ、レインが杖の先端に火球を灯す。 一触即発。 世界を救うはずの勇者と賢者が、山道で小学生レベルの喧嘩を始めようとしていた。
その時だった。 後ろから、重苦しい溜息と共に、呆れた声が響いた。
「あらあら。暑苦しいですわねぇ。そんなに元気なら、私の荷物も持ってくださいな」
聖女エレナが、日傘の下で優雅に汗を拭っている。 彼女は魔法で冷やしたタオルを首に巻き、自分だけ快適な温度を保っていた。
「エレナ! お前も止めてくださいよ! このままじゃ仲間割れで全滅です!」 「いいじゃありませんか。怪我をしたら私が治しますわ。もちろん、治療費は割増料金で請求させていただきますけれど」 「この守銭奴!」
さらに、最後尾からは「フンッ! ヌンッ!」という聞き慣れた呼吸音が聞こえてくる。 戦士ガルドだ。 彼はこの灼熱地獄の中、なぜか岩を抱えてスクワットをしていた。
「見ろ! 汗が滝のように流れる! これは筋肉が泣いているんじゃない、歓喜の涙を流しているんだ! 太陽よ、もっと俺を照らせ! 大胸筋を焦がしてくれ!」 「あんたは黙ってて! 熱中症になりますよ!」
シルヴィアは頭を抱えた。 どいつもこいつも、自由すぎる。 「協力」とか「協調性」という言葉は、彼らの辞書には載っていないらしい。
その時。 ゴロゴロ……。 遠くで、腹の底に響くような重低音が轟いた。
「あ」 シルヴィアが空を見上げる。
さっきまで白く輝いていた入道雲が、急速にインクを流したように黒く変色し、不気味な渦を巻き始めていた。 風が変わる。 熱を含んだ風が、急に冷たく、湿ったものへと変質する。土の匂いが強くなる。 夏の夕立。それも、山間部特有の、空が落ちてくるような局地的な豪雨の予兆。
「ちょ、ちょっと待ってください! 雨が来ます!」 シルヴィアが声を張り上げる。
だが、アランとレインは止まらない。 「知るか! 雨だろうが槍だろうが、こいつの眼鏡をカチ割るまでは引かねぇ!」 「望むところだ! その赤髪をアフロに変える呪文をお見舞いしてやる! 科学の力の前にひれ伏せ!」
二人の殺気がピークに達し、同時に飛び出した、その瞬間。
ドッシャァァァァァァン!!!!
空が裂けた。 バケツをひっくり返したなんてものではない。巨大な滝の中に放り込まれたような、暴力的な豪雨が彼らを直撃した。 視界が白く染まる。地面が一瞬で泥の川になる。
「うわっぷ!?」 「ぶげっ!?」
アランとレインの頭上から、大量の雨水が鉄槌のように叩きつけられ、二人の罵り合いは物理的に鎮火された。火球はジュッと消え、アランは足を滑らせて泥の中に顔から突っ込む。
「洞窟! あそこに岩陰があります! 走って!」 シルヴィアの的確な指示(悲鳴に近い)が飛ぶ。
一行は、泥まみれになりながら、転がるようにして近くの岩陰の洞窟へと逃げ込んだ。
***
洞窟の中は、薄暗く、カビと湿った土の匂いが充満していた。 入り口からは、世界を洗い流すような激しい雨音が、轟音となって響き続けている。
アランたちは、ずぶ濡れになった服を絞りながら、小さく焚き火を囲んでいた。 レインが濡れた杖で必死に火を起こし、なんとか暖は取れているが、空気は最悪だった。
アランはふてくされて膝を抱え、水滴の垂れる髪を乱暴にかき上げている。 レインは大事な魔導書が濡れてしまい、ページを一枚一枚めくって必死に乾かしている。 エレナは「ああ、私の高級シルクのローブが……縮んでしまいましたわ。この損害賠償は、天候を管理している神に請求できるのかしら」とブツブツ言い、ガルドは「天然のシャワーだ! 筋肉のクールダウンに最適!」と一人で喜んでマッスルポーズを取っている(彼は通常運転だ)。
シルヴィアは、深いため息をついた。 そして、手に持っていたお玉(もちろん武器ではない、ただの調理器具だ)で、足元に置かれた鍋の底をカン! と叩いた。
その乾いた音が、洞窟内の湿っぽい空気を切り裂いた。
「いい加減にしなさい!」
シルヴィアの怒声が響いた。 アランたちがビクッとして顔を上げる。普段は温厚な彼女が、鬼のような形相で仁王立ちしていたからだ。
「あなたたち、世界を救う前に、この鍋の中身を救う気はないんですか!?」
シルヴィアは、煮込み途中で放置され、雨水が入ってしまった哀れな鍋を指差した。
「あんなところで喧嘩してる間に、雨が入ってスープが薄まりました! 野菜も煮えすぎてドロドロです! これじゃあ、キノコを入れる以前の問題ですよ!」
彼女は腰に手を当て、世界最強の戦士たちを順に見下ろした。
「アラン! リーダーなら、仲間の意見を聞く度量を持ちなさい! 靴紐が結べないのを棚に上げて偉そうにしない!」 「うっ……」
「レイン! 知識があるなら、それを平和的解決に使いなさい! 嫌味を言うための語彙力ばかり増やしてどうするんですか!」 「ぐっ……」
「エレナ! 請求書を燃やして焚き付けにしなさい! 今必要なのは金じゃなくて熱です!」 「そ、それは横暴ですわ……」
「ガルド! ……あなたは服を着なさい! 風邪ひきますよ!」 「筋肉は風邪を引か……ハックション!」
シルヴィアの説教は、外の雷鳴よりも恐ろしかった。 勇者も賢者も聖女も戦士も、借りてきた猫のように縮こまり、「はい……ごめんなさい……」と正座した。
しばらくして、静寂が訪れた。 雨音だけが、ザァザァと心地よいリズムで響いている。 焚き火のオレンジ色の光が、彼らの顔を揺らめきながら照らしていた。パチパチと爆ぜる薪の音が、尖った神経を少しずつ溶かしていく。
アランが、気まずそうに口を開いた。
「……悪かったな、レイン」
彼はボサボサの頭をかいた。
「俺が意地になってた。……まあ、お前の言う通り、左の道だったかもしれねぇよ」
「……いや、私こそ」 レインが眼鏡を拭きながら、小さくため息をつく。 「理屈をこねくり回しすぎた。……君の勘が、これまで何度も私たちを救ってきたのは事実だ。認めるよ」
二人は顔を見合わせ、フッと笑った。 喧嘩するほど仲がいい、とはよく言ったものだ。 言いたいことを言い合って、雨に打たれて頭を冷やして。 そうやって、彼らの絆は、雨降って地固まるように、より強固なものになっていく。彼らは凸凹で、噛み合わないけれど、ぶつかり合うことで互いの角を削り合い、丸くなっていく小石のようだった。
シルヴィアが作り直したスープが配られた。 具材は少し煮崩れて、味も薄くなってしまったけれど、冷えた体には染み渡る美味しさだった。
「ふぅ……生き返るな」 アランが器を両手で包み込み、湯気を吸い込む。
「なあ」 スープを飲みながら、アランがポツリと言った。 焚き火を見つめる彼の瞳に、炎が映っている。
「もしさ。魔王を倒して、世界が平和になったら……お前ら、何する?」
唐突な問いかけ。 皆が手を止め、考え込む。 外の雨音が、少しだけ遠くなった気がした。
「私は……そうですねぇ」 エレナがうっとりと天井を見上げる。 「王都の一等地に、巨大な教会を建てて、入場料を取りますわ。入り口には私の純金の銅像を置いて、お賽銭箱を設置して……ウフフ、左団扇ですわ。信者たちに囲まれて優雅に暮らしますの」 「ブレないな、お前は。信仰心どこいった」
「私は、学院に戻って研究の続きだな」 レインが眼鏡を光らせる。 「今回の旅で得た未知の素材や魔法生物のデータ……これをまとめれば、魔導の歴史がひっくり返る論文が書ける。後世に名を残すのが、私の夢だ」
「俺はボディビルのジムを開く!」 ガルドが胸筋をピクつかせる。 「世界中の男たちに、筋肉の素晴らしさを布教するんだ! 筋肉があれば争いなんて起きない! 全人類マッチョ化計画だ!」
それぞれの夢。それぞれの未来。 戦いが終われば、彼らはそれぞれの場所へ帰っていく。 当たり前のことなのに、なぜか少しだけ、胸がチクリとした。 この旅は、いつか終わるのだ。 この騒がしくて、面倒くさくて、でも温かい時間は、永遠じゃない。
「アランは?」 シルヴィアが尋ねた。彼女の声は、雨音に混じって少し震えていたかもしれない。 「勇者様は、何をするの? 国王にでもなるんですか?」
アランは、スープの最後の一滴を飲み干し、口元を袖で拭ってニカっと笑った。
「俺? 俺は……そうだな」
彼は、焚き火越しにシルヴィアを見た。 その瞳は、燃える炎を映して、揺るぎなく、そしてどこまでも真っ直ぐだった。
「俺は、シルヴィアの淹れた茶を、毎日飲みたいな」
ドキリ。 シルヴィアの心臓が跳ねた。 エレナが「あらあら~」と扇子で口元を隠し、ガルドが「ヒュー! 熱いねぇ!」と口笛を吹く。レインでさえ、口元を緩めている。
「な、何言ってるのよ、バカ!」 シルヴィアは顔を真っ赤にして、お玉を振り上げた。 「私はあなたの家政婦じゃありません! そんなこと言って、また家事全部を私に押し付ける気でしょう!」
「いいじゃんかよー。お前の茶が一番美味いんだから」 アランは悪びれもせずに笑い、焚き火に新しい薪をくべた。
「平和になったらさ、剣なんか捨てて、日当たりのいい丘の上に家を建てて。……そこで、みんなでまた、こうして飯を食おうぜ」
彼は仲間たちを見回した。
「喧嘩して、仲直りして、不味いスープ飲んで、笑って。……俺は、そんな毎日が一番の宝物だと思ってるんだ」
それは、不器用なプロポーズにも似た、永遠の日常への願いだった。 英雄としての栄光でも、富でも、歴史に名を残すことでもない。 ただ、この凸凹で騒がしい仲間たちと、同じ食卓を囲むこと。 それが、「最強の勇者」が抱いた、ささやかで切実な夢だった。
「……うん。……そうだね」 シルヴィアは、お玉を下ろして微笑んだ。 目頭が熱くなるのを、湯気のせいにして誤魔化す。
洞窟の外では、雨が降り続いている。 世界は、刻一刻と変化している。 「諸行無常」。 同じ時間は二度と戻らない。 いつか、この焚き火も消え、彼らの旅も終わる日が来る。 出会えば別れが来るのが、この世の理(ことわり)だ。
彼らは心のどこかで、その儚さを予感していたのかもしれない。 強すぎる光は、濃い影を落とす。 自分たちが背負っている運命の重さを知っているからこそ、今この瞬間、雨音に閉じ込められた小さな空間での温もりが、何よりも愛おしく、かけがえのないものに感じられた。
「おかわり!」 アランが器を突き出す。 「はいはい」 シルヴィアが鍋を傾ける。
笑い声が、洞窟の中に響く。 それは、夏の嵐の中に咲いた、一瞬の、けれど永遠に記憶に残る花のような時間だった。
……数十年後。 ギルドマスターとなったシルヴィアが、冷たい執務室で一人、紅茶を飲む時。 彼女の心には、いつもこの日の雨音と、アランの「お前の茶が一番美味い」という言葉が、痛いほど鮮明に蘇るのだった。 あの時のぬるいスープの味と、煙たい焚き火の匂いと共に。
盛夏。 頭上には、抜けるような青空が広がっている。だが、それは爽やかさとは程遠い。太陽は慈悲なく地上を灼き、空間そのものが歪んで見えるほどの陽炎(かげろう)が立ち上っている。 蝉たちの鳴き声が、ジリジリと鼓膜を震わせる。それはまるで、世界全体がフライパンの上で油を跳ねさせている音のようだった。
山岳地帯へと続く険しい街道を、勇者パーティ一行は歩いていた――いや、正確には、険悪きわまりない空気の中で行軍していた。
「だ・か・ら! 言っただろうが! あの分岐は右だったんだよ!」
先頭を歩く勇者アランが、汗だくになりながら叫んだ。 彼の燃えるような赤髪は汗で額に張り付き、顔は茹でダコのように赤く、こめかみには太い青筋がビキビキと浮かんでいる。
「はぁ!? 星の位置と地磁気の流れから計算すれば、左が最短ルートだと言ったのは私だぞ! 貴様の根拠のない野生の勘など、学術的にはチンパンジーの直感と同レベルだ!」
賢者レインが、汗でずり落ちる分厚い眼鏡を中指で押し上げながら反論する。 二人の間には、目に見えるほどの火花がバチバチと散っていた。
原因は、実に些細なことだった。 今日の夕飯の鍋に、道端で見つけた「斑点のある毒々しい紫色のキノコ」を入れるか、入れないか。 アランは「美味そうな匂いがするから入れろ」と言い張り、レインは「成分が未知数だから研究サンプルにする」と主張した。 たったそれだけの火種が、この猛暑というガソリンを浴びて大爆発を起こしたのだ。 話はそこから飛び火し、さっきの道の間違い、昨日のアランのイビキのうるささ、三日前のレインの靴下の酸っぱい臭いまで、ありとあらゆる過去の不満が噴出する泥仕合へと発展していた。
「大体お前はいつもそうだ! 難しいことばっかり言って、結局迷子になるじゃねぇか! 『北北西に進路を取れ』とか言うけどな、俺たちにはコンパスがねぇんだよ!」 「貴様こそ! 筋肉で思考するのをやめたまえ! 『こっちの風が呼んでる』などという詩的な理由で崖を登り始めるな! この単細胞生物め!」
「まあまあ、二人とも……暑いんですから、熱くならないで……」
シルヴィアがオロオロと仲裁に入ろうとするが、男たちの怒号にかき消される。
「うるせぇ! 今日という今日は決着をつけてやる! 表へ出ろ!」 「ここが表だ、馬鹿者!」
アランが聖剣エクスカリバー(こんなことで抜かれる剣が不憫だ)に手をかけ、レインが杖の先端に火球を灯す。 一触即発。 世界を救うはずの勇者と賢者が、山道で小学生レベルの喧嘩を始めようとしていた。
その時だった。 後ろから、重苦しい溜息と共に、呆れた声が響いた。
「あらあら。暑苦しいですわねぇ。そんなに元気なら、私の荷物も持ってくださいな」
聖女エレナが、日傘の下で優雅に汗を拭っている。 彼女は魔法で冷やしたタオルを首に巻き、自分だけ快適な温度を保っていた。
「エレナ! お前も止めてくださいよ! このままじゃ仲間割れで全滅です!」 「いいじゃありませんか。怪我をしたら私が治しますわ。もちろん、治療費は割増料金で請求させていただきますけれど」 「この守銭奴!」
さらに、最後尾からは「フンッ! ヌンッ!」という聞き慣れた呼吸音が聞こえてくる。 戦士ガルドだ。 彼はこの灼熱地獄の中、なぜか岩を抱えてスクワットをしていた。
「見ろ! 汗が滝のように流れる! これは筋肉が泣いているんじゃない、歓喜の涙を流しているんだ! 太陽よ、もっと俺を照らせ! 大胸筋を焦がしてくれ!」 「あんたは黙ってて! 熱中症になりますよ!」
シルヴィアは頭を抱えた。 どいつもこいつも、自由すぎる。 「協力」とか「協調性」という言葉は、彼らの辞書には載っていないらしい。
その時。 ゴロゴロ……。 遠くで、腹の底に響くような重低音が轟いた。
「あ」 シルヴィアが空を見上げる。
さっきまで白く輝いていた入道雲が、急速にインクを流したように黒く変色し、不気味な渦を巻き始めていた。 風が変わる。 熱を含んだ風が、急に冷たく、湿ったものへと変質する。土の匂いが強くなる。 夏の夕立。それも、山間部特有の、空が落ちてくるような局地的な豪雨の予兆。
「ちょ、ちょっと待ってください! 雨が来ます!」 シルヴィアが声を張り上げる。
だが、アランとレインは止まらない。 「知るか! 雨だろうが槍だろうが、こいつの眼鏡をカチ割るまでは引かねぇ!」 「望むところだ! その赤髪をアフロに変える呪文をお見舞いしてやる! 科学の力の前にひれ伏せ!」
二人の殺気がピークに達し、同時に飛び出した、その瞬間。
ドッシャァァァァァァン!!!!
空が裂けた。 バケツをひっくり返したなんてものではない。巨大な滝の中に放り込まれたような、暴力的な豪雨が彼らを直撃した。 視界が白く染まる。地面が一瞬で泥の川になる。
「うわっぷ!?」 「ぶげっ!?」
アランとレインの頭上から、大量の雨水が鉄槌のように叩きつけられ、二人の罵り合いは物理的に鎮火された。火球はジュッと消え、アランは足を滑らせて泥の中に顔から突っ込む。
「洞窟! あそこに岩陰があります! 走って!」 シルヴィアの的確な指示(悲鳴に近い)が飛ぶ。
一行は、泥まみれになりながら、転がるようにして近くの岩陰の洞窟へと逃げ込んだ。
***
洞窟の中は、薄暗く、カビと湿った土の匂いが充満していた。 入り口からは、世界を洗い流すような激しい雨音が、轟音となって響き続けている。
アランたちは、ずぶ濡れになった服を絞りながら、小さく焚き火を囲んでいた。 レインが濡れた杖で必死に火を起こし、なんとか暖は取れているが、空気は最悪だった。
アランはふてくされて膝を抱え、水滴の垂れる髪を乱暴にかき上げている。 レインは大事な魔導書が濡れてしまい、ページを一枚一枚めくって必死に乾かしている。 エレナは「ああ、私の高級シルクのローブが……縮んでしまいましたわ。この損害賠償は、天候を管理している神に請求できるのかしら」とブツブツ言い、ガルドは「天然のシャワーだ! 筋肉のクールダウンに最適!」と一人で喜んでマッスルポーズを取っている(彼は通常運転だ)。
シルヴィアは、深いため息をついた。 そして、手に持っていたお玉(もちろん武器ではない、ただの調理器具だ)で、足元に置かれた鍋の底をカン! と叩いた。
その乾いた音が、洞窟内の湿っぽい空気を切り裂いた。
「いい加減にしなさい!」
シルヴィアの怒声が響いた。 アランたちがビクッとして顔を上げる。普段は温厚な彼女が、鬼のような形相で仁王立ちしていたからだ。
「あなたたち、世界を救う前に、この鍋の中身を救う気はないんですか!?」
シルヴィアは、煮込み途中で放置され、雨水が入ってしまった哀れな鍋を指差した。
「あんなところで喧嘩してる間に、雨が入ってスープが薄まりました! 野菜も煮えすぎてドロドロです! これじゃあ、キノコを入れる以前の問題ですよ!」
彼女は腰に手を当て、世界最強の戦士たちを順に見下ろした。
「アラン! リーダーなら、仲間の意見を聞く度量を持ちなさい! 靴紐が結べないのを棚に上げて偉そうにしない!」 「うっ……」
「レイン! 知識があるなら、それを平和的解決に使いなさい! 嫌味を言うための語彙力ばかり増やしてどうするんですか!」 「ぐっ……」
「エレナ! 請求書を燃やして焚き付けにしなさい! 今必要なのは金じゃなくて熱です!」 「そ、それは横暴ですわ……」
「ガルド! ……あなたは服を着なさい! 風邪ひきますよ!」 「筋肉は風邪を引か……ハックション!」
シルヴィアの説教は、外の雷鳴よりも恐ろしかった。 勇者も賢者も聖女も戦士も、借りてきた猫のように縮こまり、「はい……ごめんなさい……」と正座した。
しばらくして、静寂が訪れた。 雨音だけが、ザァザァと心地よいリズムで響いている。 焚き火のオレンジ色の光が、彼らの顔を揺らめきながら照らしていた。パチパチと爆ぜる薪の音が、尖った神経を少しずつ溶かしていく。
アランが、気まずそうに口を開いた。
「……悪かったな、レイン」
彼はボサボサの頭をかいた。
「俺が意地になってた。……まあ、お前の言う通り、左の道だったかもしれねぇよ」
「……いや、私こそ」 レインが眼鏡を拭きながら、小さくため息をつく。 「理屈をこねくり回しすぎた。……君の勘が、これまで何度も私たちを救ってきたのは事実だ。認めるよ」
二人は顔を見合わせ、フッと笑った。 喧嘩するほど仲がいい、とはよく言ったものだ。 言いたいことを言い合って、雨に打たれて頭を冷やして。 そうやって、彼らの絆は、雨降って地固まるように、より強固なものになっていく。彼らは凸凹で、噛み合わないけれど、ぶつかり合うことで互いの角を削り合い、丸くなっていく小石のようだった。
シルヴィアが作り直したスープが配られた。 具材は少し煮崩れて、味も薄くなってしまったけれど、冷えた体には染み渡る美味しさだった。
「ふぅ……生き返るな」 アランが器を両手で包み込み、湯気を吸い込む。
「なあ」 スープを飲みながら、アランがポツリと言った。 焚き火を見つめる彼の瞳に、炎が映っている。
「もしさ。魔王を倒して、世界が平和になったら……お前ら、何する?」
唐突な問いかけ。 皆が手を止め、考え込む。 外の雨音が、少しだけ遠くなった気がした。
「私は……そうですねぇ」 エレナがうっとりと天井を見上げる。 「王都の一等地に、巨大な教会を建てて、入場料を取りますわ。入り口には私の純金の銅像を置いて、お賽銭箱を設置して……ウフフ、左団扇ですわ。信者たちに囲まれて優雅に暮らしますの」 「ブレないな、お前は。信仰心どこいった」
「私は、学院に戻って研究の続きだな」 レインが眼鏡を光らせる。 「今回の旅で得た未知の素材や魔法生物のデータ……これをまとめれば、魔導の歴史がひっくり返る論文が書ける。後世に名を残すのが、私の夢だ」
「俺はボディビルのジムを開く!」 ガルドが胸筋をピクつかせる。 「世界中の男たちに、筋肉の素晴らしさを布教するんだ! 筋肉があれば争いなんて起きない! 全人類マッチョ化計画だ!」
それぞれの夢。それぞれの未来。 戦いが終われば、彼らはそれぞれの場所へ帰っていく。 当たり前のことなのに、なぜか少しだけ、胸がチクリとした。 この旅は、いつか終わるのだ。 この騒がしくて、面倒くさくて、でも温かい時間は、永遠じゃない。
「アランは?」 シルヴィアが尋ねた。彼女の声は、雨音に混じって少し震えていたかもしれない。 「勇者様は、何をするの? 国王にでもなるんですか?」
アランは、スープの最後の一滴を飲み干し、口元を袖で拭ってニカっと笑った。
「俺? 俺は……そうだな」
彼は、焚き火越しにシルヴィアを見た。 その瞳は、燃える炎を映して、揺るぎなく、そしてどこまでも真っ直ぐだった。
「俺は、シルヴィアの淹れた茶を、毎日飲みたいな」
ドキリ。 シルヴィアの心臓が跳ねた。 エレナが「あらあら~」と扇子で口元を隠し、ガルドが「ヒュー! 熱いねぇ!」と口笛を吹く。レインでさえ、口元を緩めている。
「な、何言ってるのよ、バカ!」 シルヴィアは顔を真っ赤にして、お玉を振り上げた。 「私はあなたの家政婦じゃありません! そんなこと言って、また家事全部を私に押し付ける気でしょう!」
「いいじゃんかよー。お前の茶が一番美味いんだから」 アランは悪びれもせずに笑い、焚き火に新しい薪をくべた。
「平和になったらさ、剣なんか捨てて、日当たりのいい丘の上に家を建てて。……そこで、みんなでまた、こうして飯を食おうぜ」
彼は仲間たちを見回した。
「喧嘩して、仲直りして、不味いスープ飲んで、笑って。……俺は、そんな毎日が一番の宝物だと思ってるんだ」
それは、不器用なプロポーズにも似た、永遠の日常への願いだった。 英雄としての栄光でも、富でも、歴史に名を残すことでもない。 ただ、この凸凹で騒がしい仲間たちと、同じ食卓を囲むこと。 それが、「最強の勇者」が抱いた、ささやかで切実な夢だった。
「……うん。……そうだね」 シルヴィアは、お玉を下ろして微笑んだ。 目頭が熱くなるのを、湯気のせいにして誤魔化す。
洞窟の外では、雨が降り続いている。 世界は、刻一刻と変化している。 「諸行無常」。 同じ時間は二度と戻らない。 いつか、この焚き火も消え、彼らの旅も終わる日が来る。 出会えば別れが来るのが、この世の理(ことわり)だ。
彼らは心のどこかで、その儚さを予感していたのかもしれない。 強すぎる光は、濃い影を落とす。 自分たちが背負っている運命の重さを知っているからこそ、今この瞬間、雨音に閉じ込められた小さな空間での温もりが、何よりも愛おしく、かけがえのないものに感じられた。
「おかわり!」 アランが器を突き出す。 「はいはい」 シルヴィアが鍋を傾ける。
笑い声が、洞窟の中に響く。 それは、夏の嵐の中に咲いた、一瞬の、けれど永遠に記憶に残る花のような時間だった。
……数十年後。 ギルドマスターとなったシルヴィアが、冷たい執務室で一人、紅茶を飲む時。 彼女の心には、いつもこの日の雨音と、アランの「お前の茶が一番美味い」という言葉が、痛いほど鮮明に蘇るのだった。 あの時のぬるいスープの味と、煙たい焚き火の匂いと共に。
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冒険者シオンは、なんでも作れる【クラフト】スキルを奪われた上に、S級パーティから追放された。しかしシオンには【クラフト】のために培った知識や技術がまだ残されていた!
物作りを通して、新たな仲間を得た彼は、世界初の技術の開発へ着手していく。
職人ギルドから追放された美少女ソフィア。
逃亡中の魔法使いノエル。
騎士職を剥奪された没落貴族のアリシア。
彼女らもまた、一度は奪われ、失ったものを、物作りを通して取り戻していく。
カクヨムにて完結済み。
( https://kakuyomu.jp/works/16817330656544103806 )
木を叩いただけでレベルアップ⁉︎生まれついての豪運さんの豪快無敵な冒険譚!
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お前には才能が無いと言われて公爵家から追放された俺は、前世が最強職【奪盗術師】だったことを思い出す ~今さら謝られても、もう遅い~
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「お前には才能がない」
この俺アルカは、父にそう言われて、公爵家から追放された。
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【完結】実はチートの転生者、無能と言われるのに飽きて実力を解放する
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【HOTランキング1位獲得作品!!】
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ジャックのライバルとなる個性豊かな生徒たち、実力ある先生たちにも注目!!
彼らのハチャメチャ学園生活から目が離せない!!
※小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも投稿中
追放された万年雑用、最強神具を拾って無自覚無双~元勇者パーティーを見返したら、なぜか女神たちまで跪いてきた件~
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勇者パーティーの雑用係・リオは、役立たずの烙印を押されて追放された。
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世界樹に選ばれ、女神たちに認められ、龍王に気に入られ――気づけば敵なし。
無自覚に世界最強となった少年は、かつて彼を見下した者たちへ静かな復讐を果たす。
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