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第13章:最強の荷物持ち
第63話:秋の予感と、書き留められた言葉 〜託された言葉は、枯れゆく森が土に預ける種子である〜
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季節の絵筆が、世界の色を塗り替えていた。
あの喧しかった夏の日差しは鳴りを潜め、空はどこまでも高く、吸い込まれそうな群青色へと深みを増している。 草原を渡る風には、もう湿った熱気はない。代わりに、肌をさするような乾いた冷気と、枯れ始めた草の香ばしい匂いが混じり始めていた。
初秋。 一年の中で最も美しく、そしてどこか物悲しい季節。 夕暮れの時間が早くなり、世界が燃えるような茜色に染め上げられる「黄昏(たそがれ)」が、人々の影を長く、黒く引き伸ばしていく。
そんな、終わりの予感を孕んだ街道を、勇者パーティの一行は歩いていた。 彼らの足取りは、いつものような軽快なものではなかった。
「……『深淵の霊廟(アビス・トゥーム)』か」
先頭を歩く勇者アランが、手の中にある依頼書を見つめながら低く呟いた。 ギルドから直々に届いた、特S級の緊急調査依頼。 辺境の地で発見された未踏の古代遺跡。一見すれば、冒険者としての血が騒ぐ新たな挑戦の舞台だ。 だが、何かが違う。 風の音が、鳥のさえずりが、そして肌に触れる大気そのものが、微かな警告音(アラート)を鳴らしているような気がした。
「嫌な予感がしますわ」
聖女エレナが、珍しく真面目な顔で、胸元の聖印を握りしめていた。 彼女の商魂たくましい瞳からは計算高い色が消え、代わりに深い不安が揺らめいている。
「朝、カードを引きましたの。……どれを引いても、何度やり直しても、『逆位置(リバース)』ばかりが出ます。世界が、ひっくり返るような……そんな不吉な暗示ですわ」
「ふん、非科学的だ」
賢者レインが鼻を鳴らして眼鏡を押し上げた。だが、その手つきはいつになく神経質で、無意識に抱えた魔導書の表紙を強くさすっていた。
「だが……エレナの直感を無視するわけにはいかん。それに、現地の魔力濃度の測定値が異常だ。通常のダンジョンの数百倍……いや、計測不能領域だ。局所的に空間が歪み、異界と接続している可能性すらある」
戦士ガルドでさえ、無口だった。 彼は自慢の筋肉を誇示することもなく、ただ黙々と周囲の気配を探っていた。野生動物としての本能が、近づいてくる「巨大な捕食者」の気配に怯えているようだった。
最後尾を歩くシルヴィアは、そんな仲間たちの背中を見つめながら、自分のリュックのベルトをきつく握りしめた。 いつもなら、「お腹が空きました」とか「足が疲れました」とか、文句が飛び交うはずなのに。 今日の静けさは、嵐の前の海のように重苦しかった。
(大丈夫。……きっと、気のせいです)
彼女は自分に言い聞かせる。 私たちは最強だ。これまでだって、絶体絶命のピンチを何度も、泥だらけになりながら笑い飛ばしてきたじゃないか。 今回もきっと、大変な思いをして、ボロボロになって、それでも最後には「あー疲れた!」って笑って帰ってくるはずだ。
街道の向こうに、宿場町の灯りが見えてきた。 その灯りは、冷たい秋風の中で揺れる蝋燭のように、儚く頼りなく見えた。
***
宿場町の外れにある、古びた宿屋。 出発の前夜。 二階の部屋の窓から見える月は、刃物のように鋭く欠けていた。
シルヴィアは一人、荷物の最終点検をしていた。 癒やしのポーションの数、保存食の賞味期限、予備の武器の手入れ、防寒具の確認。 それは、何百回と繰り返してきた、呼吸をするように慣れた作業のはずだった。 けれど、指先が震えて、うまくリュックに詰められない。
カチャリ、とポーションの瓶がぶつかる音が、静寂の中でやけに大きく響く。
「……落ち着いて、私」
深呼吸をする。 肺に冷たい空気が入ってくる。 怖い。 何が怖いのか分からないけれど、胸の奥がザワザワとして、じっとしていられない。 まるで、この部屋を出て行ってしまったら、もう二度とここには戻ってこられないような、そんな根拠のない喪失感が胸を締め付ける。
コンコン。
控えめなノックの音が、シルヴィアの思考を中断させた。
「……入るぞ」
扉が開き、アランが入ってきた。 彼はいつもの戦闘服ではなく、ラフなシャツ姿だった。手には何も持っていない。 少し照れくさそうな、決まりの悪そうな顔をして、頭をかいている。
「まだ起きてたのか? 明日は早いぞ。睡眠不足は美容の大敵だろ?」 「アランこそ。……また夜更かしして、朝起きられないパターンですか? 起こす私の身にもなってください」 「へへっ、バレたか」
アランは、シルヴィアの向かいにある椅子を引いて、どかりと座った。 窓から差し込む月明かりが、彼の赤い髪を銀色に縁取っている。
彼はしばらく無言で、テーブルの木目を指でなぞっていたが、やがて意を決したように懐に手を突っ込んだ。
「これ、やるよ」
彼がテーブルに置いたのは、一冊の手帳だった。 革張りの、使い込まれて角が擦り切れた、茶色の手帳。
「え? 何ですか、これ?」 「冒険日誌だ」
アランは鼻の下をこすった。
「俺さ、字が汚いじゃん? ミミズがのたうち回ったみたいだって、いつもお前に笑われるし」 「ええ、本当に汚いですよね。象形文字かと思いました」 「うっせーな。……だからさ、これ、お前に預けるわ。これからはお前が代わりに書いてくれよ。記録係、任命な」
シルヴィアは、不思議そうに手帳を手に取った。 ずしりと重い。 革の匂いと、鉄の匂い、そして微かにアランの汗の匂いがした。
パラリ、とページをめくる。 そこには、確かに「解読困難」なレベルの悪筆で、これまでの旅の記録が書き散らされていた。
『〇月×日。巨大ガエルと戦った。ヌルヌルして気持ち悪かった。粘液まみれになったシルヴィアが、「嫁に行けない!」って本気で泣いてて面白かった。あとで高い石鹸を買わされた』
『〇月△日。野宿。俺が火番をしてたのに寝ちまって、飯が黒焦げになった。みんなにボコボコにされたけど、焦げたスープもみんなで食うと案外美味かった』
『〇月□日。シルヴィアが風邪を引いた。熱が高くて辛そうだ。……早く良くなれ。お前がいないと、パーティが静かすぎて調子が狂う。俺の靴紐も誰も結んでくれねぇしな』
読んでいくうちに、シルヴィアの視界が滲んできた。 そこには、勇者としての武勇伝など、一行も書かれていなかった。 魔王を倒す決意も、世界を救う使命感もない。 ただの、アランから見た「日常」。 馬鹿やって、喧嘩して、笑い合った、かけがえのない日々の断片。 そして、その行間には、彼がいかに仲間たちを、そしてシルヴィアを大切に想っているかが、不器用すぎる言葉で綴られていた。
「……なんで、私に?」
シルヴィアが震える声で問うと、アランは頭の後ろで手を組んで、天井を見上げた。
「なんかさ。……忘れたくないんだよ」
彼の声は、夜の闇に溶けるように静かだった。
「俺たちは、いつか死ぬ。勇者なんて大層な名前で呼ばれても、中身はただの人間だ。いつか爺さんになって、ボケちまうかもしれない。……でも、この旅が最高に楽しかったこととか、お前が作ってくれたスープの味とか、そういうのは……ちゃんと残しておきたいんだ」
彼は視線を下ろし、シルヴィアを見てニカっと笑った。
「お前は字が綺麗だし、しっかりしてるからさ。俺たちの生きた証、預かってくれよ。……俺が書くと、後で読み返した時に何て書いてあるかわかんねぇしな」
それは、遺言のようにも聞こえた。 いや、違う。そう思ってはいけない。 これは、未来への約束だ。 この手帳の続きを、明日からも書いていくためのバトンタッチだ。
シルヴィアは、手帳を胸に抱きしめた。 硬い表紙の感触が、心臓の鼓動と重なる。
「……アラン。嫌な予感がするんですか?」 「んー、まあな。俺の勘は当たるからな」
アランは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。 月を見上げる彼の背中は、いつもより少しだけ小さく、そして頼もしく見えた。
「でも、大丈夫だ」
彼は振り返り、腰の聖剣をポンと叩いた。
「俺たちは最強だ。……何があっても、俺が絶対に守るから。お前も、みんなも」
その言葉に、嘘はなかった。 彼は本気で、運命さえもねじ伏せるつもりでいた。 その絶対的な自信と覚悟が、シルヴィアの不安を少しだけ溶かしてくれた。
その時。 ドタドタドタッ! と廊下を走る音がして、勢いよくドアが開かれた。
「みーつけたっ!」 「あら、やっぱりここでしたのね」 「抜け駆けとは感心しないな」
エレナ、レイン、ガルドの三人が、雪崩れ込んできたのだ。 その手には酒瓶や、おつまみの干し肉が握られている。
「わっとっと!?」 アランが驚く。 「お前ら、寝たんじゃなかったのかよ!?」
「寝れるわけないでしょう! 明日は大一番ですのよ!」 エレナがグラスを配り始める。 「そうそう! 筋肉が高ぶって眠れないんだ! タンパク質を寄越せ!」 「精神統一をしようと思ったが、酒の匂いに釣られた」
狭い客室に、5人が入り乱れる。 一気に賑やかになる部屋。 シルヴィアは、呆れながらも、涙をそっと拭って笑った。
「もう……明日早いんですよ!?」 「いいじゃねぇか、景気付けだ!」
誰かが隠し持っていた年代物のワインが開けられ、乾杯が始まる。
「明日の勝利に!」 「ダンジョンの財宝に!」 「筋肉の更なるパンプアップに!」 「未知なる魔導の真理に!」
そして、アランが高らかにグラスを掲げた。
「俺たちの、最高の旅に!」
カチン! グラスがぶつかる音が、軽やかに響く。 笑い声。歌声。 彼らは、心の奥底にある不安を打ち消すように、いつも以上に騒いだ。 肩を組み、踊り、馬鹿な話で盛り上がった。
シルヴィアも、手帳をポケットにしまって、グラスを傾けた。 隣でアランが、音程のズレた鼻歌を歌っている。 ガルドが筋肉自慢をして、レインがそれを冷ややかな目で解説し、エレナが二人の財布を狙っている。
この光景が、大好きだった。 世界中のどこよりも、ここが一番温かい場所だった。
(きっと大丈夫。この人たちがいる限り、どんな困難も乗り越えられる)
夜が更けていく。 秋の風が、窓をガタガタと揺らす音も、今は笑い声にかき消されている。 それが、彼らが5人揃って過ごす、最後の夜になることを、まだ誰も認めたくなかった。
手帳の最後のページは、まだ白紙のままだ。 そこには、明日からの冒険が記されるはずだった。 「無事に帰還した」と。「また馬鹿騒ぎをした」と。「アランがまた靴紐を踏んで転んだ」と。
しかし、運命の筆は、彼らの望まぬインクで、その白紙を塗り潰そうとしていた。
***
宴のあと。 仲間たちが雑魚寝で酔い潰れ、寝息を立てている中。 アランだけが起きていた。
彼は、窓辺に座り、月明かりの下で愛剣エクスカリバーを丁寧に磨いていた。 その横顔は、昼間の能天気な勇者ではなく、全てを背負う覚悟を決めた戦士の顔だった。
彼は、寝息を立てるシルヴィアの方を一瞥し、小さく、本当に小さく呟いた。
「……頼んだぞ、シルヴィア」
その声は、誰にも聞こえないまま、夜の闇に溶けていった。 それは、これから訪れる過酷な運命の中で、彼女にだけ生き残ってほしいという、彼なりの祈りだったのかもしれない。
これが、数十年後の未来――瞬が「深淵の霊廟」の最下層から持ち帰ることになる「血塗れの手帳」の、まだ血に濡れていない、温かい記憶の夜だった。 その手帳に残された空白のページが、どんな物語で埋められるのか。 それを知るのは、まだ先の話だ。
あの喧しかった夏の日差しは鳴りを潜め、空はどこまでも高く、吸い込まれそうな群青色へと深みを増している。 草原を渡る風には、もう湿った熱気はない。代わりに、肌をさするような乾いた冷気と、枯れ始めた草の香ばしい匂いが混じり始めていた。
初秋。 一年の中で最も美しく、そしてどこか物悲しい季節。 夕暮れの時間が早くなり、世界が燃えるような茜色に染め上げられる「黄昏(たそがれ)」が、人々の影を長く、黒く引き伸ばしていく。
そんな、終わりの予感を孕んだ街道を、勇者パーティの一行は歩いていた。 彼らの足取りは、いつものような軽快なものではなかった。
「……『深淵の霊廟(アビス・トゥーム)』か」
先頭を歩く勇者アランが、手の中にある依頼書を見つめながら低く呟いた。 ギルドから直々に届いた、特S級の緊急調査依頼。 辺境の地で発見された未踏の古代遺跡。一見すれば、冒険者としての血が騒ぐ新たな挑戦の舞台だ。 だが、何かが違う。 風の音が、鳥のさえずりが、そして肌に触れる大気そのものが、微かな警告音(アラート)を鳴らしているような気がした。
「嫌な予感がしますわ」
聖女エレナが、珍しく真面目な顔で、胸元の聖印を握りしめていた。 彼女の商魂たくましい瞳からは計算高い色が消え、代わりに深い不安が揺らめいている。
「朝、カードを引きましたの。……どれを引いても、何度やり直しても、『逆位置(リバース)』ばかりが出ます。世界が、ひっくり返るような……そんな不吉な暗示ですわ」
「ふん、非科学的だ」
賢者レインが鼻を鳴らして眼鏡を押し上げた。だが、その手つきはいつになく神経質で、無意識に抱えた魔導書の表紙を強くさすっていた。
「だが……エレナの直感を無視するわけにはいかん。それに、現地の魔力濃度の測定値が異常だ。通常のダンジョンの数百倍……いや、計測不能領域だ。局所的に空間が歪み、異界と接続している可能性すらある」
戦士ガルドでさえ、無口だった。 彼は自慢の筋肉を誇示することもなく、ただ黙々と周囲の気配を探っていた。野生動物としての本能が、近づいてくる「巨大な捕食者」の気配に怯えているようだった。
最後尾を歩くシルヴィアは、そんな仲間たちの背中を見つめながら、自分のリュックのベルトをきつく握りしめた。 いつもなら、「お腹が空きました」とか「足が疲れました」とか、文句が飛び交うはずなのに。 今日の静けさは、嵐の前の海のように重苦しかった。
(大丈夫。……きっと、気のせいです)
彼女は自分に言い聞かせる。 私たちは最強だ。これまでだって、絶体絶命のピンチを何度も、泥だらけになりながら笑い飛ばしてきたじゃないか。 今回もきっと、大変な思いをして、ボロボロになって、それでも最後には「あー疲れた!」って笑って帰ってくるはずだ。
街道の向こうに、宿場町の灯りが見えてきた。 その灯りは、冷たい秋風の中で揺れる蝋燭のように、儚く頼りなく見えた。
***
宿場町の外れにある、古びた宿屋。 出発の前夜。 二階の部屋の窓から見える月は、刃物のように鋭く欠けていた。
シルヴィアは一人、荷物の最終点検をしていた。 癒やしのポーションの数、保存食の賞味期限、予備の武器の手入れ、防寒具の確認。 それは、何百回と繰り返してきた、呼吸をするように慣れた作業のはずだった。 けれど、指先が震えて、うまくリュックに詰められない。
カチャリ、とポーションの瓶がぶつかる音が、静寂の中でやけに大きく響く。
「……落ち着いて、私」
深呼吸をする。 肺に冷たい空気が入ってくる。 怖い。 何が怖いのか分からないけれど、胸の奥がザワザワとして、じっとしていられない。 まるで、この部屋を出て行ってしまったら、もう二度とここには戻ってこられないような、そんな根拠のない喪失感が胸を締め付ける。
コンコン。
控えめなノックの音が、シルヴィアの思考を中断させた。
「……入るぞ」
扉が開き、アランが入ってきた。 彼はいつもの戦闘服ではなく、ラフなシャツ姿だった。手には何も持っていない。 少し照れくさそうな、決まりの悪そうな顔をして、頭をかいている。
「まだ起きてたのか? 明日は早いぞ。睡眠不足は美容の大敵だろ?」 「アランこそ。……また夜更かしして、朝起きられないパターンですか? 起こす私の身にもなってください」 「へへっ、バレたか」
アランは、シルヴィアの向かいにある椅子を引いて、どかりと座った。 窓から差し込む月明かりが、彼の赤い髪を銀色に縁取っている。
彼はしばらく無言で、テーブルの木目を指でなぞっていたが、やがて意を決したように懐に手を突っ込んだ。
「これ、やるよ」
彼がテーブルに置いたのは、一冊の手帳だった。 革張りの、使い込まれて角が擦り切れた、茶色の手帳。
「え? 何ですか、これ?」 「冒険日誌だ」
アランは鼻の下をこすった。
「俺さ、字が汚いじゃん? ミミズがのたうち回ったみたいだって、いつもお前に笑われるし」 「ええ、本当に汚いですよね。象形文字かと思いました」 「うっせーな。……だからさ、これ、お前に預けるわ。これからはお前が代わりに書いてくれよ。記録係、任命な」
シルヴィアは、不思議そうに手帳を手に取った。 ずしりと重い。 革の匂いと、鉄の匂い、そして微かにアランの汗の匂いがした。
パラリ、とページをめくる。 そこには、確かに「解読困難」なレベルの悪筆で、これまでの旅の記録が書き散らされていた。
『〇月×日。巨大ガエルと戦った。ヌルヌルして気持ち悪かった。粘液まみれになったシルヴィアが、「嫁に行けない!」って本気で泣いてて面白かった。あとで高い石鹸を買わされた』
『〇月△日。野宿。俺が火番をしてたのに寝ちまって、飯が黒焦げになった。みんなにボコボコにされたけど、焦げたスープもみんなで食うと案外美味かった』
『〇月□日。シルヴィアが風邪を引いた。熱が高くて辛そうだ。……早く良くなれ。お前がいないと、パーティが静かすぎて調子が狂う。俺の靴紐も誰も結んでくれねぇしな』
読んでいくうちに、シルヴィアの視界が滲んできた。 そこには、勇者としての武勇伝など、一行も書かれていなかった。 魔王を倒す決意も、世界を救う使命感もない。 ただの、アランから見た「日常」。 馬鹿やって、喧嘩して、笑い合った、かけがえのない日々の断片。 そして、その行間には、彼がいかに仲間たちを、そしてシルヴィアを大切に想っているかが、不器用すぎる言葉で綴られていた。
「……なんで、私に?」
シルヴィアが震える声で問うと、アランは頭の後ろで手を組んで、天井を見上げた。
「なんかさ。……忘れたくないんだよ」
彼の声は、夜の闇に溶けるように静かだった。
「俺たちは、いつか死ぬ。勇者なんて大層な名前で呼ばれても、中身はただの人間だ。いつか爺さんになって、ボケちまうかもしれない。……でも、この旅が最高に楽しかったこととか、お前が作ってくれたスープの味とか、そういうのは……ちゃんと残しておきたいんだ」
彼は視線を下ろし、シルヴィアを見てニカっと笑った。
「お前は字が綺麗だし、しっかりしてるからさ。俺たちの生きた証、預かってくれよ。……俺が書くと、後で読み返した時に何て書いてあるかわかんねぇしな」
それは、遺言のようにも聞こえた。 いや、違う。そう思ってはいけない。 これは、未来への約束だ。 この手帳の続きを、明日からも書いていくためのバトンタッチだ。
シルヴィアは、手帳を胸に抱きしめた。 硬い表紙の感触が、心臓の鼓動と重なる。
「……アラン。嫌な予感がするんですか?」 「んー、まあな。俺の勘は当たるからな」
アランは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。 月を見上げる彼の背中は、いつもより少しだけ小さく、そして頼もしく見えた。
「でも、大丈夫だ」
彼は振り返り、腰の聖剣をポンと叩いた。
「俺たちは最強だ。……何があっても、俺が絶対に守るから。お前も、みんなも」
その言葉に、嘘はなかった。 彼は本気で、運命さえもねじ伏せるつもりでいた。 その絶対的な自信と覚悟が、シルヴィアの不安を少しだけ溶かしてくれた。
その時。 ドタドタドタッ! と廊下を走る音がして、勢いよくドアが開かれた。
「みーつけたっ!」 「あら、やっぱりここでしたのね」 「抜け駆けとは感心しないな」
エレナ、レイン、ガルドの三人が、雪崩れ込んできたのだ。 その手には酒瓶や、おつまみの干し肉が握られている。
「わっとっと!?」 アランが驚く。 「お前ら、寝たんじゃなかったのかよ!?」
「寝れるわけないでしょう! 明日は大一番ですのよ!」 エレナがグラスを配り始める。 「そうそう! 筋肉が高ぶって眠れないんだ! タンパク質を寄越せ!」 「精神統一をしようと思ったが、酒の匂いに釣られた」
狭い客室に、5人が入り乱れる。 一気に賑やかになる部屋。 シルヴィアは、呆れながらも、涙をそっと拭って笑った。
「もう……明日早いんですよ!?」 「いいじゃねぇか、景気付けだ!」
誰かが隠し持っていた年代物のワインが開けられ、乾杯が始まる。
「明日の勝利に!」 「ダンジョンの財宝に!」 「筋肉の更なるパンプアップに!」 「未知なる魔導の真理に!」
そして、アランが高らかにグラスを掲げた。
「俺たちの、最高の旅に!」
カチン! グラスがぶつかる音が、軽やかに響く。 笑い声。歌声。 彼らは、心の奥底にある不安を打ち消すように、いつも以上に騒いだ。 肩を組み、踊り、馬鹿な話で盛り上がった。
シルヴィアも、手帳をポケットにしまって、グラスを傾けた。 隣でアランが、音程のズレた鼻歌を歌っている。 ガルドが筋肉自慢をして、レインがそれを冷ややかな目で解説し、エレナが二人の財布を狙っている。
この光景が、大好きだった。 世界中のどこよりも、ここが一番温かい場所だった。
(きっと大丈夫。この人たちがいる限り、どんな困難も乗り越えられる)
夜が更けていく。 秋の風が、窓をガタガタと揺らす音も、今は笑い声にかき消されている。 それが、彼らが5人揃って過ごす、最後の夜になることを、まだ誰も認めたくなかった。
手帳の最後のページは、まだ白紙のままだ。 そこには、明日からの冒険が記されるはずだった。 「無事に帰還した」と。「また馬鹿騒ぎをした」と。「アランがまた靴紐を踏んで転んだ」と。
しかし、運命の筆は、彼らの望まぬインクで、その白紙を塗り潰そうとしていた。
***
宴のあと。 仲間たちが雑魚寝で酔い潰れ、寝息を立てている中。 アランだけが起きていた。
彼は、窓辺に座り、月明かりの下で愛剣エクスカリバーを丁寧に磨いていた。 その横顔は、昼間の能天気な勇者ではなく、全てを背負う覚悟を決めた戦士の顔だった。
彼は、寝息を立てるシルヴィアの方を一瞥し、小さく、本当に小さく呟いた。
「……頼んだぞ、シルヴィア」
その声は、誰にも聞こえないまま、夜の闇に溶けていった。 それは、これから訪れる過酷な運命の中で、彼女にだけ生き残ってほしいという、彼なりの祈りだったのかもしれない。
これが、数十年後の未来――瞬が「深淵の霊廟」の最下層から持ち帰ることになる「血塗れの手帳」の、まだ血に濡れていない、温かい記憶の夜だった。 その手帳に残された空白のページが、どんな物語で埋められるのか。 それを知るのは、まだ先の話だ。
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