76 / 105
第16章:拒絶の森
第76話:罪悪感という名の重たいコート
しおりを挟む
季節というのは、ある日突然カレンダーをめくるように切り替わるわけではない。それはもっと曖昧で、グラデーションのようにゆっくりと、けれど確実に世界の色を塗り替えていくものだ。 北の大地を覆い尽くしていた分厚い雪の毛布が、日ごとに薄くなっていく。 街道のあちこちで、黒々とした土が顔を出し始めていた。その湿った土の匂いは、長く厳しかった冬の終わりと、命が芽吹く春の予感を同時に孕(はら)んでいる。 風はまだ冷たく、頬を刺すような鋭さを残しているものの、その芯には微かな温(ぬく)もりが混じり始めていた。
そんな早春の街道を、銀色の巨体――魔導キャンピングカー「クイーン・アリス号」が、低い駆動音を響かせながら滑るように進んでいた。
車内は、外の静かな雪解けの風景とは対照的に、今日も今日とて嵐のような騒がしさに包まれていた。
「だーかーら! パンの耳は『揚げる』のが正義なんだよ! たっぷりの油でキツネ色になるまで揚げて、砂糖をまぶしてカリッとな! これが至高だろうが!」
広々としたリビングのソファで、瞬(シュン)が熱弁を振るっていた。 彼はソファの上に仁王立ちになり、手には朝食のサンドイッチ作りで切り落とされたパンの耳の山を握りしめている。
「何言ってるのよ。野蛮ねぇ。パンの耳は『ラスク』にするのが一番お洒落でしょ? オーブンでじっくり焼き上げるのよ。揚げるなんてカロリーの暴力だわ」 対面の安楽椅子に深く腰掛けたアリスが、優雅に紅茶を飲みながら呆れたように反論する。
「ふん、二人とも甘いな。パンの耳こそ、コンソメスープに浸してふやけさせ、離乳食のようにして食べるのが最も消化に良い」 「ゼイクさん、それはもはや食事というより『流動食』ですわ。顎(あご)の筋肉が衰えます」
騎士ゼイクの質実剛健すぎる意見を、魔女エリーゼがバッサリと切り捨てる。 キッチンで片付けをしていたメイは、困ったように微笑んで、手元のボウルを掲げた。
「えっと……私はもう、揚げちゃいましたけど」 「っしゃあ! さすがメイ! わかってるぅ!」
瞬がガッツポーズをする。ボウルの中には、黄金色に輝く揚げパンの耳が山盛りになっていた。甘く香ばしい匂いが、リビングいっぱいに広がる。
エルフのアリアは、その喧騒を少し離れた窓際の席から眺めていた。 膝の上には読みかけの分厚い本があるが、内容は頭に入ってこない。
(……平和ね)
窓の外を流れる景色のように、穏やかで、何の変哲もない日常。 昨晩、コタツの中でみんなと密着して過ごした温もりが、まだ肌に残っている気がした。あの時は、何もかも忘れてただ笑っていられた。
「ほら、アリアも食ってみろよ! 揚げパン!」
不意に、目の前にキツネ色に揚がったパンの耳が差し出された。瞬がニカっと笑っている。口の周りに砂糖がついている。
「……いらないわよ。油っこそうだし」 「いいからいいから! 頭使いすぎて疲れてんだろ? 糖分補給だ!」
強引に押し付けられ、アリアは観念して小さく一口かじった。 ザクッ。 小気味よい音と共に、ジャリジャリとした砂糖の甘さと、油のコクが口いっぱいに広がる。 ジャンクで、下品で、そして……どうしようもなく美味しい味。
「……悪くはないわね」 「だろ!? 俺の故郷じゃ給食の王様だったんだぜ!」
瞬は満足そうに笑い、またアリスとの論争に戻っていった。 アリアは、口の中に残る甘さを噛み締めながら、ふっと口元を緩めた。
――その瞬間だった。
ズキン。 胸の奥、心臓のすぐ裏側あたりに、鋭い棘(とげ)が刺さったような痛みが走った。 物理的な痛みではない。冷たくて、重い、罪悪感の塊だ。
(……私、何笑ってるんだろう)
アリアの表情が強張る。 昨晩のコタツの中や、あの丘の上で瞬に「今のままでいい」と言われた時は、確かに救われた気がした。自分はここにいていいのだと、そう思えた。 けれど、こうしてふと我に返ると、背筋が寒くなる。
本当に? 本当に、今のままでいいの?
かつて自分が「害獣」と呼んで見下していた人間たちと、こうして甘い菓子を食べて笑っている。 私がこうして温かい場所で幸せを感じている今この瞬間も、森に残してきた同胞たちは、冷たい風の中で厳しい冬を耐えているというのに。
『裏切り者』。 どこからか、そんな声が聞こえた気がした。 瞬は許してくれた。みんなも受け入れてくれた。 でも、私自身が、この「幸せ」を許せない。
(……怖い)
満たされれば満たされるほど、それが「間違い」であるような気がしてくる。 この温かい時間は、神様が気まぐれにくれた仮初(かりそ)めの猶予に過ぎなくて、明日には全部取り上げられてしまうんじゃないか。 瞬たちが、「やっぱりお前は役に立たない」「ただの居候だ」と言って、私を雪の中に放り出すんじゃないか。
そんな強迫観念が、黒い霧のように心の中に広がっていく。 瞬の言葉に甘えて、ただ笑ってご飯を食べているだけではダメだ。 もっと何かしなければ。役に立たなければ。 「ここにいていい理由」を、常に証明し続けなければ、私はいつか必ず捨てられる。
アリアは本を閉じ、立ち上がった。 その動作は、何かに追われるように急だった。
「……掃除、してくるわ」 「え? もう昨日やったじゃん。ピカピカだぞ?」
瞬が揚げパンを頬張りながら振り返る。
「まだ埃(ほこり)が残ってるかもしれないわ。……それに、魔力探知の結界も張り直さないと。この辺りは磁場が不安定だから、感度が落ちてるかもしれないし。敵が来たら大変でしょ」
アリアは早口でまくし立てた。 それは誰かに対する説明というより、自分自身への言い訳のようだった。私は役に立っている、私は必要な存在だ、と確認するための。
「おいおい、そんなに根詰めなくても……」 「いいから! 私の気が済まないの!」
アリアは声を荒らげてしまい、ハッとして口をつぐんだ。 瞬が驚いた顔をしている。 違う、怒りたいわけじゃない。ただ、じっとしていられないだけなのだ。じっとしていると、自分の幸福が罪のように思えて押しつぶされそうになるから。
彼女は逃げるようにリビングを出て行った。 背中に、仲間たちの不思議そうな、そして少し心配そうな視線を感じながら。
***
自分の個室に戻ったアリアは、ドアに背中を預けてずるずると座り込んだ。 心臓が早鐘を打っている。
(ここにいたい) 強烈な願いが、胸を締め付ける。 あんなに嫌っていた人間たちの輪の中に、今はどうしようもなく「いたい」と願ってしまっている。 だからこそ、失うのが怖い。 何もしていなくても許されるなんて、そんな甘い話を信じきることができない。
コンコン。 控えめなノックの音がした。 アリアはビクリと肩を震わせ、慌てて立ち上がり、服の皺を伸ばした。 弱みを見せてはいけない。完璧でなければならない。役に立つエルフでなければならない。
「……誰?」 「メイです。……入ってもいいですか?」
アリアは一瞬躊躇(ためら)ったが、鍵を開けた。 ドアを開けると、メイがお盆を持って立っていた。湯気を立てるマグカップが乗っている。
「あの、アリアさん。リビングで顔色が悪いみたいだったので……ホットミルク、持ってきました。蜂蜜入りです」
メイは、食事の時でさえ外さない白いアイガードの下から、心配そうにアリアを見上げている。 その全身から発せられるオーラは「心配」と「親愛」そのものだった。
「……ありがとう。でも、必要ないわ。少し疲れていただけよ」
アリアは冷たく言おうとした。 優しくされるのが怖かった。その優しさに甘えてしまえば、自分がもっと駄目になってしまう気がしたから。 だが、メイは遠慮がちに、でも強引に部屋に入ってきた。 そして、サイドテーブルにカップを置くと、アリアの手をそっと、ぎゅっと握った。
「冷たいです」 メイが悲しげに言う。 「アリアさん、最近、無理してませんか? 夜も見回りをしたり、掃除をしたり……。昨日も、夜中に起きて装備の手入れをしてましたよね?」
見られていた。 アリアは動揺した。
「これは私の役目よ。……私がしっかりしないと」 「役目とか、そういうのじゃなくて」
メイは、真っ直ぐにアリアを見た。
「アリアさんが辛そうだと、私も辛いです。……私、アリアさんの笑ってる顔が好きですから」
ドキン。 アリアの言葉が詰まる。 ただの、感情論。 論理的でもなんでもない。「効率」や「役割」といった言葉とは無縁の理屈。 でも、その言葉は、アリアが必死に積み上げてきた「自分を正当化するための理屈」を、いとも簡単に溶かしてしまう。
(やめてよ……) アリアは心の中で泣いた。 そんなに温かくしないで。 私は、あなたが思うようないい子じゃないのよ。 内心では怯えて、計算して、自分の居場所を守ることしか考えていない、卑しいエルフなのよ。
メイの手の温もりが、冷え切ったアリアの手のひらを侵食していく。 それは心地よく、そして痛かった。
「……飲むわ」
アリアは観念して、カップを手に取った。 温かいミルクを一口飲むと、張り詰めていた神経が、強制的に緩められるような感覚があった。 悔しいけれど、ホッとしてしまう。
「……美味しい」 「よかったです! ……あ、そうだ。さっきアリスさんが地図を見て騒いでましたよ。次の村に、温泉があるんですって!」
「温泉?」 「はい! 『裸の付き合いよ!』って盛り上がってました」
温泉。裸の付き合い。 同じ湯船に入るということは、互いの境界線をなくし、隠しているものを全て晒(さら)け出すということだ。
「……私は遠慮するわ。野蛮だもの」 アリアは即座に拒否した。 怖い。自分の全てを見られるのが怖い。 特に、この心の中にある「罪悪感」や「計算」といった醜いものまで見透かされそうで。
「えー、行きましょうよぉ。アリアさんの背中、流してあげますから」 メイが無邪気に言う。
「あいつ……勝手なことを」 アリアはため息をついた。 でも、カップの中のミルクに映る自分の顔を見た時、そこには困りながらも、どこか期待しているような、情けない顔が映っていた。
(……もし、お湯に入れば) ふと、馬鹿げた考えがよぎる。 この振り返すような重たい罪悪感も、不安も、綺麗さっぱり洗い流せるんじゃないか。 温かいお湯に溶けて、なくなってしまえばいいのに。
***
数時間後。 「クイーン・アリス号」は、山間の小さな村に到着した。 湯けむりに包まれたその村は、夕暮れ時を迎えていた。
「うわーーーっ! すげぇ! 硫黄の匂いだ! ザ・温泉って感じ!」
車から降りた瞬が叫ぶ。 みんな、楽しそうだ。 アリアは、最後尾で車を降りた。 冷たい山の空気が、火照った頬に気持ちいい。
『お前だけが、楽しんでいいのか?』 また、内なる声が囁く。 足がすくむ。
だが、その声をかき消すように、メイが駆け寄ってきた。 「行きましょう、アリアさん!」 彼女の手が、アリアの手を引く。躊躇(ためら)いなく、力強く。
その手の温もりが、アリアを「今」に引き戻した。 過去のしがらみでも、未来の不安でもない。ただ、この湯気の匂いと、仲間の笑い声がある「現在(いま)」へ。
「……ええ、行くわ」
アリアは、小さく頷いて歩き出した。 罪悪感は消えない。不安もなくならない。コートはまだ重い。 それでも、この手を離したくないという思いだけは、確かな熱を持ってそこにあった。
これから始まる「裸の付き合い」が、彼女の中で何かを決定的に変えてしまうことになるとは、まだ誰も知らなかった。 湯けむりの向こう側で、隠していた「真実」が露わになり、そしてそれが「許される」瞬間が近づいている。
アリアは、メイに引かれるまま、湯気の立ち込める脱衣所へと足を踏み入れた。
そんな早春の街道を、銀色の巨体――魔導キャンピングカー「クイーン・アリス号」が、低い駆動音を響かせながら滑るように進んでいた。
車内は、外の静かな雪解けの風景とは対照的に、今日も今日とて嵐のような騒がしさに包まれていた。
「だーかーら! パンの耳は『揚げる』のが正義なんだよ! たっぷりの油でキツネ色になるまで揚げて、砂糖をまぶしてカリッとな! これが至高だろうが!」
広々としたリビングのソファで、瞬(シュン)が熱弁を振るっていた。 彼はソファの上に仁王立ちになり、手には朝食のサンドイッチ作りで切り落とされたパンの耳の山を握りしめている。
「何言ってるのよ。野蛮ねぇ。パンの耳は『ラスク』にするのが一番お洒落でしょ? オーブンでじっくり焼き上げるのよ。揚げるなんてカロリーの暴力だわ」 対面の安楽椅子に深く腰掛けたアリスが、優雅に紅茶を飲みながら呆れたように反論する。
「ふん、二人とも甘いな。パンの耳こそ、コンソメスープに浸してふやけさせ、離乳食のようにして食べるのが最も消化に良い」 「ゼイクさん、それはもはや食事というより『流動食』ですわ。顎(あご)の筋肉が衰えます」
騎士ゼイクの質実剛健すぎる意見を、魔女エリーゼがバッサリと切り捨てる。 キッチンで片付けをしていたメイは、困ったように微笑んで、手元のボウルを掲げた。
「えっと……私はもう、揚げちゃいましたけど」 「っしゃあ! さすがメイ! わかってるぅ!」
瞬がガッツポーズをする。ボウルの中には、黄金色に輝く揚げパンの耳が山盛りになっていた。甘く香ばしい匂いが、リビングいっぱいに広がる。
エルフのアリアは、その喧騒を少し離れた窓際の席から眺めていた。 膝の上には読みかけの分厚い本があるが、内容は頭に入ってこない。
(……平和ね)
窓の外を流れる景色のように、穏やかで、何の変哲もない日常。 昨晩、コタツの中でみんなと密着して過ごした温もりが、まだ肌に残っている気がした。あの時は、何もかも忘れてただ笑っていられた。
「ほら、アリアも食ってみろよ! 揚げパン!」
不意に、目の前にキツネ色に揚がったパンの耳が差し出された。瞬がニカっと笑っている。口の周りに砂糖がついている。
「……いらないわよ。油っこそうだし」 「いいからいいから! 頭使いすぎて疲れてんだろ? 糖分補給だ!」
強引に押し付けられ、アリアは観念して小さく一口かじった。 ザクッ。 小気味よい音と共に、ジャリジャリとした砂糖の甘さと、油のコクが口いっぱいに広がる。 ジャンクで、下品で、そして……どうしようもなく美味しい味。
「……悪くはないわね」 「だろ!? 俺の故郷じゃ給食の王様だったんだぜ!」
瞬は満足そうに笑い、またアリスとの論争に戻っていった。 アリアは、口の中に残る甘さを噛み締めながら、ふっと口元を緩めた。
――その瞬間だった。
ズキン。 胸の奥、心臓のすぐ裏側あたりに、鋭い棘(とげ)が刺さったような痛みが走った。 物理的な痛みではない。冷たくて、重い、罪悪感の塊だ。
(……私、何笑ってるんだろう)
アリアの表情が強張る。 昨晩のコタツの中や、あの丘の上で瞬に「今のままでいい」と言われた時は、確かに救われた気がした。自分はここにいていいのだと、そう思えた。 けれど、こうしてふと我に返ると、背筋が寒くなる。
本当に? 本当に、今のままでいいの?
かつて自分が「害獣」と呼んで見下していた人間たちと、こうして甘い菓子を食べて笑っている。 私がこうして温かい場所で幸せを感じている今この瞬間も、森に残してきた同胞たちは、冷たい風の中で厳しい冬を耐えているというのに。
『裏切り者』。 どこからか、そんな声が聞こえた気がした。 瞬は許してくれた。みんなも受け入れてくれた。 でも、私自身が、この「幸せ」を許せない。
(……怖い)
満たされれば満たされるほど、それが「間違い」であるような気がしてくる。 この温かい時間は、神様が気まぐれにくれた仮初(かりそ)めの猶予に過ぎなくて、明日には全部取り上げられてしまうんじゃないか。 瞬たちが、「やっぱりお前は役に立たない」「ただの居候だ」と言って、私を雪の中に放り出すんじゃないか。
そんな強迫観念が、黒い霧のように心の中に広がっていく。 瞬の言葉に甘えて、ただ笑ってご飯を食べているだけではダメだ。 もっと何かしなければ。役に立たなければ。 「ここにいていい理由」を、常に証明し続けなければ、私はいつか必ず捨てられる。
アリアは本を閉じ、立ち上がった。 その動作は、何かに追われるように急だった。
「……掃除、してくるわ」 「え? もう昨日やったじゃん。ピカピカだぞ?」
瞬が揚げパンを頬張りながら振り返る。
「まだ埃(ほこり)が残ってるかもしれないわ。……それに、魔力探知の結界も張り直さないと。この辺りは磁場が不安定だから、感度が落ちてるかもしれないし。敵が来たら大変でしょ」
アリアは早口でまくし立てた。 それは誰かに対する説明というより、自分自身への言い訳のようだった。私は役に立っている、私は必要な存在だ、と確認するための。
「おいおい、そんなに根詰めなくても……」 「いいから! 私の気が済まないの!」
アリアは声を荒らげてしまい、ハッとして口をつぐんだ。 瞬が驚いた顔をしている。 違う、怒りたいわけじゃない。ただ、じっとしていられないだけなのだ。じっとしていると、自分の幸福が罪のように思えて押しつぶされそうになるから。
彼女は逃げるようにリビングを出て行った。 背中に、仲間たちの不思議そうな、そして少し心配そうな視線を感じながら。
***
自分の個室に戻ったアリアは、ドアに背中を預けてずるずると座り込んだ。 心臓が早鐘を打っている。
(ここにいたい) 強烈な願いが、胸を締め付ける。 あんなに嫌っていた人間たちの輪の中に、今はどうしようもなく「いたい」と願ってしまっている。 だからこそ、失うのが怖い。 何もしていなくても許されるなんて、そんな甘い話を信じきることができない。
コンコン。 控えめなノックの音がした。 アリアはビクリと肩を震わせ、慌てて立ち上がり、服の皺を伸ばした。 弱みを見せてはいけない。完璧でなければならない。役に立つエルフでなければならない。
「……誰?」 「メイです。……入ってもいいですか?」
アリアは一瞬躊躇(ためら)ったが、鍵を開けた。 ドアを開けると、メイがお盆を持って立っていた。湯気を立てるマグカップが乗っている。
「あの、アリアさん。リビングで顔色が悪いみたいだったので……ホットミルク、持ってきました。蜂蜜入りです」
メイは、食事の時でさえ外さない白いアイガードの下から、心配そうにアリアを見上げている。 その全身から発せられるオーラは「心配」と「親愛」そのものだった。
「……ありがとう。でも、必要ないわ。少し疲れていただけよ」
アリアは冷たく言おうとした。 優しくされるのが怖かった。その優しさに甘えてしまえば、自分がもっと駄目になってしまう気がしたから。 だが、メイは遠慮がちに、でも強引に部屋に入ってきた。 そして、サイドテーブルにカップを置くと、アリアの手をそっと、ぎゅっと握った。
「冷たいです」 メイが悲しげに言う。 「アリアさん、最近、無理してませんか? 夜も見回りをしたり、掃除をしたり……。昨日も、夜中に起きて装備の手入れをしてましたよね?」
見られていた。 アリアは動揺した。
「これは私の役目よ。……私がしっかりしないと」 「役目とか、そういうのじゃなくて」
メイは、真っ直ぐにアリアを見た。
「アリアさんが辛そうだと、私も辛いです。……私、アリアさんの笑ってる顔が好きですから」
ドキン。 アリアの言葉が詰まる。 ただの、感情論。 論理的でもなんでもない。「効率」や「役割」といった言葉とは無縁の理屈。 でも、その言葉は、アリアが必死に積み上げてきた「自分を正当化するための理屈」を、いとも簡単に溶かしてしまう。
(やめてよ……) アリアは心の中で泣いた。 そんなに温かくしないで。 私は、あなたが思うようないい子じゃないのよ。 内心では怯えて、計算して、自分の居場所を守ることしか考えていない、卑しいエルフなのよ。
メイの手の温もりが、冷え切ったアリアの手のひらを侵食していく。 それは心地よく、そして痛かった。
「……飲むわ」
アリアは観念して、カップを手に取った。 温かいミルクを一口飲むと、張り詰めていた神経が、強制的に緩められるような感覚があった。 悔しいけれど、ホッとしてしまう。
「……美味しい」 「よかったです! ……あ、そうだ。さっきアリスさんが地図を見て騒いでましたよ。次の村に、温泉があるんですって!」
「温泉?」 「はい! 『裸の付き合いよ!』って盛り上がってました」
温泉。裸の付き合い。 同じ湯船に入るということは、互いの境界線をなくし、隠しているものを全て晒(さら)け出すということだ。
「……私は遠慮するわ。野蛮だもの」 アリアは即座に拒否した。 怖い。自分の全てを見られるのが怖い。 特に、この心の中にある「罪悪感」や「計算」といった醜いものまで見透かされそうで。
「えー、行きましょうよぉ。アリアさんの背中、流してあげますから」 メイが無邪気に言う。
「あいつ……勝手なことを」 アリアはため息をついた。 でも、カップの中のミルクに映る自分の顔を見た時、そこには困りながらも、どこか期待しているような、情けない顔が映っていた。
(……もし、お湯に入れば) ふと、馬鹿げた考えがよぎる。 この振り返すような重たい罪悪感も、不安も、綺麗さっぱり洗い流せるんじゃないか。 温かいお湯に溶けて、なくなってしまえばいいのに。
***
数時間後。 「クイーン・アリス号」は、山間の小さな村に到着した。 湯けむりに包まれたその村は、夕暮れ時を迎えていた。
「うわーーーっ! すげぇ! 硫黄の匂いだ! ザ・温泉って感じ!」
車から降りた瞬が叫ぶ。 みんな、楽しそうだ。 アリアは、最後尾で車を降りた。 冷たい山の空気が、火照った頬に気持ちいい。
『お前だけが、楽しんでいいのか?』 また、内なる声が囁く。 足がすくむ。
だが、その声をかき消すように、メイが駆け寄ってきた。 「行きましょう、アリアさん!」 彼女の手が、アリアの手を引く。躊躇(ためら)いなく、力強く。
その手の温もりが、アリアを「今」に引き戻した。 過去のしがらみでも、未来の不安でもない。ただ、この湯気の匂いと、仲間の笑い声がある「現在(いま)」へ。
「……ええ、行くわ」
アリアは、小さく頷いて歩き出した。 罪悪感は消えない。不安もなくならない。コートはまだ重い。 それでも、この手を離したくないという思いだけは、確かな熱を持ってそこにあった。
これから始まる「裸の付き合い」が、彼女の中で何かを決定的に変えてしまうことになるとは、まだ誰も知らなかった。 湯けむりの向こう側で、隠していた「真実」が露わになり、そしてそれが「許される」瞬間が近づいている。
アリアは、メイに引かれるまま、湯気の立ち込める脱衣所へと足を踏み入れた。
10
あなたにおすすめの小説
『ゴミ掃除』が役立たずと追放されたが、実は『存在抹消』級のチートだった。勇者一行がゴミで溺れているが、俺は辺境で美少女と温泉宿を経営中なので
eringi
ファンタジー
「悪いが、お前のスキル『ゴミ掃除』は魔王討伐の役には立たない。クビだ」
勇者パーティの雑用係だったアレクは、戦闘の役に立たないという理由で、ダンジョンの最深部手前で追放されてしまう。
しかし、勇者たちは気づいていなかった。
彼らの装備が常に新品同様だったのも、野営地が快適だったのも、襲い来る高レベルモンスターの死体が跡形もなく消えていたのも、すべてアレクが『掃除』していたからだということに。
アレクのスキルは単なる掃除ではない。対象を空間ごと削り取る『存在抹消』レベルの規格外チートだったのだ。
一人になったアレクは、気ままに生こうと辺境の廃村にたどり着く。
そこでボロボロになっていた伝説のフェンリル(美少女化)を『洗浄』して懐かれたり、呪われたエルフの姫君を『シミ抜き』して救ったりしているうちに、いつの間にかそこは世界最高峰の温泉宿になっていて……?
一方、アレクを失った勇者パーティは、武器は錆びつき、悪臭にまみれ、雑魚モンスターの処理すら追いつかず破滅の一途をたどっていた。
「今さら戻ってきてくれと言われても、俺はお客さん(美少女)の背中を流すのに忙しいんで」
これは、掃除屋の少年が無自覚に最強の座に君臨し、幸せなスローライフを送る物語。
散々利用されてから勇者パーティーを追い出された…が、元勇者パーティーは僕の本当の能力を知らない。
アノマロカリス
ファンタジー
僕こと…ディスト・ランゼウスは、経験値を倍増させてパーティーの成長を急成長させるスキルを持っていた。
それにあやかった剣士ディランは、僕と共にパーティーを集めて成長して行き…数々の魔王軍の配下を討伐して行き、なんと勇者の称号を得る事になった。
するとディランは、勇者の称号を得てからというもの…態度が横柄になり、更にはパーティーメンバー達も調子付いて行った。
それからと言うもの、調子付いた勇者ディランとパーティーメンバー達は、レベルの上がらないサポート役の僕を邪険にし始めていき…
遂には、役立たずは不要と言って僕を追い出したのだった。
……とまぁ、ここまでは良くある話。
僕が抜けた勇者ディランとパーティーメンバー達は、その後も活躍し続けていき…
遂には、大魔王ドゥルガディスが収める魔大陸を攻略すると言う話になっていた。
「おやおや…もう魔大陸に上陸すると言う話になったのか、ならば…そろそろ僕の本来のスキルを発動するとしますか!」
それから数日後に、ディランとパーティーメンバー達が魔大陸に侵攻し始めたという話を聞いた。
なので、それと同時に…僕の本来のスキルを発動すると…?
2月11日にHOTランキング男性向けで1位になりました。
皆様お陰です、有り難う御座います。
無自覚に世界最強だった俺、追放後にチートがバレて全員ざまぁされる件
fuwamofu
ファンタジー
冒険者団から「役立たず」と追放された青年リオ。
実は彼のスキル《創造》は、世界の理を作り替える最強の能力だった。
追放後、孤独な旅に出るリオは、自身の無自覚な力で人々を救い、国を救い、やがて世界の中心に立つ。
そんな彼の元には、かつて彼を見下していた美少女たちが次々と跪いていく──。
これは、無自覚に世界を変えてしまう青年の、ざまぁと覇道の物語。
ゲームの悪役貴族に転生した俺、断罪されて処刑される未来を回避するため死ぬ気で努力したら、いつの間にか“救国の聖人”と呼ばれてたんだが
夏見ナイ
ファンタジー
過労死した俺が転生したのは、大好きな乙女ゲームの悪役貴族アレン。待つのはヒロインたちからの断罪と処刑エンド!?冗談じゃない!
絶対に生き延びて平穏な老後を送るため、俺はゲーム知識を総動員して破滅フラグ回避に奔走する。領地を改革し、民を救い、来るべき災厄に備えて血の滲むような努力を重ねた。
ただ死にたくない一心だったのに、その行動はなぜか周囲に「深謀遠慮の聖人」と勘違いされ、評価はうなぎ登り。
おまけに、俺を断罪するはずの聖女や王女、天才魔導師といったヒロインたちが「運命の人だわ!」「結婚してください!」と次々に迫ってきて……!?
これは、破滅を回避したいだけの悪役貴族が、いつの間にか国を救う英雄に祭り上げられ、ヒロインたちに溺愛される勘違い救国ファンタジー!
最強すぎて無職になりましたが、隣国の姫が勝手に嫁入りしてきました
eringi
ファンタジー
平凡なサラリーマン・佐藤亮は、満員電車で謎の光に包まれ異世界へ転移する。神様から「世界最強の力」を授かったはずが、本人はただの無職ニートとしか思っていない。冒険者ギルドで雑用を請け負う日々。そんな亮の周囲に、冷徹な騎士姫、天才魔導士、元盗賊の少女、竜人族の戦士など個性豊かな美少女たちが自然と集まってくる。一方、彼を「ただの運のいい凡人」と侮る貴族や悪徳商人たちは次々と痛快なざまぁ展開に。亮は「俺なんて大したことないのに」と呟きながら、気づけば国を揺るがす陰謀を解決し、世界を救うことに――。無自覚最強主人公による、爽快ハーレムファンタジー開幕!
【完結】実はチートの転生者、無能と言われるのに飽きて実力を解放する
エース皇命
ファンタジー
【HOTランキング1位獲得作品!!】
最強スキル『適応』を与えられた転生者ジャック・ストロングは16歳。
戦士になり、王国に潜む悪を倒すためのユピテル英才学園に入学して3ヶ月がたっていた。
目立たないために実力を隠していたジャックだが、学園長から次のテストで成績がよくないと退学だと脅され、ついに実力を解放していく。
ジャックのライバルとなる個性豊かな生徒たち、実力ある先生たちにも注目!!
彼らのハチャメチャ学園生活から目が離せない!!
※小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも投稿中
S級クラフトスキルを盗られた上にパーティから追放されたけど、実はスキルがなくても生産力最強なので追放仲間の美少女たちと工房やります
内田ヨシキ
ファンタジー
[第5回ドラゴンノベルス小説コンテスト 最終選考作品]
冒険者シオンは、なんでも作れる【クラフト】スキルを奪われた上に、S級パーティから追放された。しかしシオンには【クラフト】のために培った知識や技術がまだ残されていた!
物作りを通して、新たな仲間を得た彼は、世界初の技術の開発へ着手していく。
職人ギルドから追放された美少女ソフィア。
逃亡中の魔法使いノエル。
騎士職を剥奪された没落貴族のアリシア。
彼女らもまた、一度は奪われ、失ったものを、物作りを通して取り戻していく。
カクヨムにて完結済み。
( https://kakuyomu.jp/works/16817330656544103806 )
「雑草係」と追放された俺、スキル『草むしり』でドラゴンも魔王も引っこ抜く~極めた園芸スキルは、世界樹すら苗木扱いする神の力でした~
eringi
ファンタジー
「たかが雑草を抜くだけのスキルなんて、勇者パーティには不要だ!」
王立アカデミーを首席で卒業したものの、発現したスキルが『草むしり』だった少年・ノエル。
彼は幼馴染の勇者に見下され、パーティから追放されてしまう。
失意のノエルは、人里離れた「魔の森」で静かに暮らすことを決意する。
しかし彼は知らなかった。彼のスキル『草むしり』は、対象を「不要な雑草」と認識すれば、たとえドラゴンであろうと古代兵器であろうと、根こそぎ引っこ抜いて消滅させる即死チートだったのだ。
「あれ? この森の雑草、ずいぶん頑丈だな(ドラゴンを引っこ抜きながら)」
ノエルが庭の手入れをするだけで、Sランク魔物が次々と「除草」され、やがて森は伝説の聖域へと生まれ変わっていく。
その実力に惹かれ、森の精霊(美女)や、亡国の女騎士、魔王の娘までもが彼の「庭」に集まり、いつしかハーレム状態に。
一方、ノエルを追放した勇者たちは、ダンジョンの茨や毒草の処理ができずに進行不能となり、さらにはノエルが密かに「除草」していた強力な魔物たちに囲まれ、絶望の淵に立たされていた。
「ノエル! 戻ってきてくれ!」
「いや、いま家庭菜園が忙しいんで」
これは、ただ庭いじりをしているだけの少年が、無自覚に世界最強に至る物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる