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第16章:拒絶の森
第77話:湯けむりの向こう側
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山あいの夕暮れは、インクを垂らしたように急速に濃くなっていく。 稜線の彼方から迫る夜の帳(とばり)が、谷底にある温泉街をひっそりと包み込もうとしていた。 あたり一面に漂うのは、鼻の奥をツンと刺激する硫黄の匂いと、岩肌から絶え間なく噴き出す白い蒸気だ。 村のあちこちから立ち上る湯けむりは、風に流されて生き物のようにうねり、夕闇に沈みゆく家々の輪郭をぼかしている。
川のせせらぎと、宿の軒先に吊るされた行灯(あんどん)の揺れる灯り。 そこは、外界から切り離された、夢と現(うつつ)の境界線にあるような幻想的な世界だった。
――そんな静謐な空気を、銀色の巨大な鉄塊が土足で踏み荒らしていくまでは。
「オーライ! オーライ! ストップストップ! そこ屋根! 屋根当たるって!」
瞬(シュン)の絶叫が谷間に木霊する。 村の入り口にある木造の門を、アリスご自慢の巨大キャンピングカー「クイーン・アリス号」が通過しようとして、完全につっかえていたのだ。
「無理よ瞬! 車幅感覚がおかしいのよ、この村の設計は!」 運転席のアリスが窓から顔を出して逆ギレする。 「村のせいにするな! お前の車がデカすぎるんだよ!」 「ええい、ままよ! 強行突破する!」 「待てアリス! 器物破損だ! 外交問題になる!」
ゼイクが青ざめて止めようとするが、アリスはアクセルを踏み込んだ。 ズズズ……メリメリッ。 嫌な音が響いたが、なんと車体は浮遊魔術の出力調整で強引に門の上を飛び越え、ドスンと着地した。
「……ふぅ。ギリギリセーフね」 「アウトだよ! 瓦が三枚落ちたぞ!」
騒がしい到着劇。 こうして、最強の勇者パーティ一行は、秘湯の宿「湯の華亭」へと滑り込み、アリスの財力(金貨の袋)によって貸し切りを勝ち取ったのだった。
***
「じゃあ、一時間後に宴会場でな!」 「のぼせるなよー」
廊下で男女が別れる。 瞬とゼイクたちは、タオルを片手に男湯の暖簾(のれん)をくぐっていった。すぐに中から「うおっ、熱っ!」「背中流してやんよ!」という賑やかな声が聞こえてくる。
アリアは、その声を背中で聞きながら、女湯の脱衣所へと足を踏み入れた。 ムッとするような湿気と熱気。
「ん~! 開放感! やっぱりドレスって肩凝るわよねぇ」 アリスが躊躇なく服を脱ぎ捨て、真っ白な肌を晒して伸びをする。 「さっさと汗を流したいですわ。今日の移動で、肌の水分量が三%低下しましたもの」 エリーゼも手早くローブを脱ぐ。
アリアは、部屋の隅で壁に向かって、こそこそと服を脱いだ。 恥ずかしい。 エルフにとって肌を晒すことは、魂を晒すことに等しい。それに、自分の体は人間とは違う。長く尖った耳や、色素の薄い肌。「違う」ということは、それだけで疎外感を生む。
バスタオルをきつく巻き、誰とも目を合わせないようにして、浴室の扉を開けた。
視界が白く染まる。 もうもうと立ち込める湯気。 岩造りの広大な露天風呂が広がっていた。頭上を見上げれば、屋根はなく、冬の澄んだ夜空に満月がぽっかりと浮かんでいた。
「わぁ……! お月様が綺麗!」
一番に飛び込んだのはメイだった。 彼女はタオルも巻かずに、チャプンと音を立ててお湯に浸かった。 ――ただ、あの白いアイガードだけは、しっかりと顔につけたままだ。 半年近く一緒に旅をして、食事をし、同じ部屋で寝ていても、彼女がそのガードを外したところをアリアは一度も見たことがなかった。
「極楽ぅ~! これよこれ! 日本人のDNAが騒ぐわぁ!」 アリスがオッサンくさい声を上げて肩まで浸かる。 「成分分析終了。硫黄泉、酸性度は低め。美肌効果は科学的に証明されていますわ」 エリーゼがお湯をすくって顔にかける。
アリアは、できるだけみんなから離れた岩陰を選んで、そっとお湯に入った。 熱い。 冷え切っていた足先がジンジンと痺れる。けれど、すぐにその熱さが全身を包み込み、強張っていた筋肉をほぐしていく。
「……ふぅ」 思わず息が漏れた。 お湯の中に体を沈めると、耳までお湯に浸かる。 外界の音が遮断され、ボコボコという水音と、自分の心臓の音だけが響く。
温かい。 この温かさだけは、種族も立場も関係なく、平等だ。 アリアは湯面から顔だけを出して、ぼんやりと月を眺めた。
(気持ちいい……) 罪悪感も、不安も、この湯気と一緒に空へ昇って消えてしまえばいいのに。 そう願ってしまうほど、この場所は優しかった。
その時だった。 チャプン、と近くで水音がした。 メイだ。 彼女はアリスたちの騒ぎから少し離れて、アリアの近くで髪を洗おうとしていた。 手桶でお湯を汲み、頭からかぶる。銀色の髪が濡れて、肌に張り付く。
メイが顔を洗おうと、両手で顔を拭った、その瞬間。
するり。
濡れて緩んでいたのか、彼女がいつも顔につけていた白いアイガードの紐が解けた。 車内での食事中も、寝る時さえも決して外そうとしなかった、あの頑ななガードが。
白い革が、スローモーションのようにハラリと落ち、湯船に浮かぶ。 そして。 湯気に濡れたその下に、隠されていた「真実」が露わになった。
アリアは、見てしまった。 月明かりと、水面の揺らめきに照らされて、妖しく、鮮烈に輝く――紫色の瞳を。
ドクン。 アリアの心臓が、凍りついたように止まった。
(紫……!?)
それは、エルフの古い伝承にある禁忌の色。 かつて国を滅ぼし、災厄を招いたとされる魔女の瞳。不吉の象徴。疫病神の刻印。 生理的な恐怖が、背筋を駆け上がった。
アリアは反射的に息を呑み、ザバッと音を立てて後ずさった。 湯が波打ち、アリアの動揺を伝える。
「……メイ、その目……」
声が震えた。 メイが、ハッとしてこちらを見る。 左右で色の違う瞳。片方は普通の黒、もう片方はアメジストのような、底知れぬ深さをたたえた紫。 その瞳が、アリアの怯えた表情を捉えた。
「あ……」
メイの顔色から、血の気が引いていくのがわかった。 彼女は慌てて両手で顔を覆った。濡れた手が、必死に右目を隠そうとする。
「ご、ごめんなさい! 気分を悪くされましたよね!? すぐに隠します! 見ないでください!」
彼女の体は小さく震えていた。 拒絶されることを、罵倒されることを予期して、身を縮めている小動物のように。 その姿を見て、アリアの胸が痛んだ。 けれど、それ以上に「恐怖」という本能が勝ってしまう。近づいてはいけない。見てはいけない。それは「呪い」なのだから。
アリアは言葉を失い、ただ立ち尽くすしかなかった。 この楽しい時間が、音を立てて壊れていく予感がした。 アリスたちも気づくだろう。そして、悲鳴を上げるに違いない。「化け物!」と叫んで、メイを追い出すかもしれない。
だが。 次の瞬間、アリアの予想を裏切る事態が起きた。
バシャバシャバシャ! 豪快な水音を立てて、アリスが近づいてきたのだ。
「何やってんのよ、メイ!」
アリスは、怯えるメイの前に立つと、隠している両手を強引に引き剥がした。
「ひっ……!」 メイが身をすくめる。怒られると思ったのだろう。 しかし、アリスの口から出たのは、罵倒ではなかった。
「そんなの手で隠してたら、髪も洗えないでしょ! 邪魔よ邪魔!」
「え……?」 アリアが目を丸くする。
アリスは、露わになったメイの紫の瞳を見ても、眉一つ動かさなかった。 恐怖どころか、嫌悪感の欠片もない。まるで、顔についた泡を拭うような気軽さで、メイの手を払いのけたのだ。
「ほら、シャンプー貸してあげるから。ちゃんと目を開けて洗いなさいよ。泡が入るわよ」 「そ、そうですわね」
エリーゼも、平然とお湯をすくって自分の肩にかけていた。 彼女はチラリとメイの方を見たが、すぐに月を見上げて優雅に言った。
「お風呂は開放的に入ったほうが血行にも良いですわ。それに、その瞳の色、湯気に映えてとても綺麗ですもの。隠すなんてもったいないです」
……は? アリアは、自分の耳を疑った。 今、なんて言った? 邪魔? 綺麗? 災厄の色を見て、そんな感想が出るの?
誰も、悲鳴を上げない。 誰も、不気味だと言わない。 誰も、逃げ出さない。
アリスは鼻歌交じりにメイの背中を流し始め、エリーゼはお湯の効能について独り言を言っている。 彼女たちは、メイのその「異形」を、まるで「ちょっと変わった髪色」や「ホクロの位置」くらいの、些細な個性として扱っている。当たり前のように。日常の延長として。
(……知ってるの?)
アリアは呆然と立ち尽くした。 湯気が揺らぐ向こう側で、メイが恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑っている。 「ありがとうございます、アリスさん」と。
(みんな、知った上で……こんなに普通に接しているの?)
ガラガラと、音を立てて何かが崩れていく気がした。 それは、アリアの中にあった「常識」という名の分厚い壁だった。 エルフの森では、違うものは排除された。不吉な兆候は、徹底的に避けられた。 「正しさ」とは、純粋であること。異物が混じっていないこと。そう教わってきた。
でも、ここは違う。 この場所では、異物さえも「仲間」として溶け込んでいる。 呪いも、災厄も、伝説も。「今のメイ」という存在の前では、何の意味も持たないのだと言わんばかりに。
(私が……間違っていたの?)
アリアは、自分の胸に手を当てた。 激しく脈打つ心臓。 恥ずかしい。「紫色は怖い」と怯え、後ずさった自分が、どうしようもなく恥ずかしい。 彼女たちがメイを受け入れているその「器の大きさ」に比べて、自分はなんて小さく、臆病な世界に住んでいたのだろう。
世界が怖いんじゃない。 私が勝手に、色眼鏡をかけて、世界を怖い場所にしていただけなんだ。
アリアは、お湯の中に深く潜った。 顔まで沈める。 ボコボコという音と共に、涙が滲んでお湯に溶けていく。 このお湯は、全部知っている気がした。私の強がりも、弱さも、そして今知った自分の愚かさも。全てを包み込んで、洗い流してくれる。
プハッ。 顔を上げると、メイが心配そうに覗き込んでいた。 紫の瞳が、月明かりの下で優しく輝いている。そこには、アリアを責める色はなかった。
「アリアさん、のぼせてませんか?」
アリアは、濡れた髪をかき上げて、小さく首を振った。
「……ううん。平気よ」
彼女は、メイの紫の瞳を、初めて真っ直ぐに見つめ返した。 怖くない。ただ、綺麗なだけだ。
「あなたの目……本当に、綺麗ね。夜空みたい」
アリアの言葉に、メイがパァっと花が咲くように笑った。 アリスが「でしょー!」と水をかけてくる。エリーゼが「静かになさい」と水をかけ返す。
水しぶきと笑い声。 アリアも、小さく水をかけ返した。 冷たい夜風が心地よい。 湯けむりの向こう側に、新しい世界が見えた気がした。 そこは、呪いも偏見もない、ただ「私」と「あなた」がいるだけの、シンプルで温かい世界だった。
川のせせらぎと、宿の軒先に吊るされた行灯(あんどん)の揺れる灯り。 そこは、外界から切り離された、夢と現(うつつ)の境界線にあるような幻想的な世界だった。
――そんな静謐な空気を、銀色の巨大な鉄塊が土足で踏み荒らしていくまでは。
「オーライ! オーライ! ストップストップ! そこ屋根! 屋根当たるって!」
瞬(シュン)の絶叫が谷間に木霊する。 村の入り口にある木造の門を、アリスご自慢の巨大キャンピングカー「クイーン・アリス号」が通過しようとして、完全につっかえていたのだ。
「無理よ瞬! 車幅感覚がおかしいのよ、この村の設計は!」 運転席のアリスが窓から顔を出して逆ギレする。 「村のせいにするな! お前の車がデカすぎるんだよ!」 「ええい、ままよ! 強行突破する!」 「待てアリス! 器物破損だ! 外交問題になる!」
ゼイクが青ざめて止めようとするが、アリスはアクセルを踏み込んだ。 ズズズ……メリメリッ。 嫌な音が響いたが、なんと車体は浮遊魔術の出力調整で強引に門の上を飛び越え、ドスンと着地した。
「……ふぅ。ギリギリセーフね」 「アウトだよ! 瓦が三枚落ちたぞ!」
騒がしい到着劇。 こうして、最強の勇者パーティ一行は、秘湯の宿「湯の華亭」へと滑り込み、アリスの財力(金貨の袋)によって貸し切りを勝ち取ったのだった。
***
「じゃあ、一時間後に宴会場でな!」 「のぼせるなよー」
廊下で男女が別れる。 瞬とゼイクたちは、タオルを片手に男湯の暖簾(のれん)をくぐっていった。すぐに中から「うおっ、熱っ!」「背中流してやんよ!」という賑やかな声が聞こえてくる。
アリアは、その声を背中で聞きながら、女湯の脱衣所へと足を踏み入れた。 ムッとするような湿気と熱気。
「ん~! 開放感! やっぱりドレスって肩凝るわよねぇ」 アリスが躊躇なく服を脱ぎ捨て、真っ白な肌を晒して伸びをする。 「さっさと汗を流したいですわ。今日の移動で、肌の水分量が三%低下しましたもの」 エリーゼも手早くローブを脱ぐ。
アリアは、部屋の隅で壁に向かって、こそこそと服を脱いだ。 恥ずかしい。 エルフにとって肌を晒すことは、魂を晒すことに等しい。それに、自分の体は人間とは違う。長く尖った耳や、色素の薄い肌。「違う」ということは、それだけで疎外感を生む。
バスタオルをきつく巻き、誰とも目を合わせないようにして、浴室の扉を開けた。
視界が白く染まる。 もうもうと立ち込める湯気。 岩造りの広大な露天風呂が広がっていた。頭上を見上げれば、屋根はなく、冬の澄んだ夜空に満月がぽっかりと浮かんでいた。
「わぁ……! お月様が綺麗!」
一番に飛び込んだのはメイだった。 彼女はタオルも巻かずに、チャプンと音を立ててお湯に浸かった。 ――ただ、あの白いアイガードだけは、しっかりと顔につけたままだ。 半年近く一緒に旅をして、食事をし、同じ部屋で寝ていても、彼女がそのガードを外したところをアリアは一度も見たことがなかった。
「極楽ぅ~! これよこれ! 日本人のDNAが騒ぐわぁ!」 アリスがオッサンくさい声を上げて肩まで浸かる。 「成分分析終了。硫黄泉、酸性度は低め。美肌効果は科学的に証明されていますわ」 エリーゼがお湯をすくって顔にかける。
アリアは、できるだけみんなから離れた岩陰を選んで、そっとお湯に入った。 熱い。 冷え切っていた足先がジンジンと痺れる。けれど、すぐにその熱さが全身を包み込み、強張っていた筋肉をほぐしていく。
「……ふぅ」 思わず息が漏れた。 お湯の中に体を沈めると、耳までお湯に浸かる。 外界の音が遮断され、ボコボコという水音と、自分の心臓の音だけが響く。
温かい。 この温かさだけは、種族も立場も関係なく、平等だ。 アリアは湯面から顔だけを出して、ぼんやりと月を眺めた。
(気持ちいい……) 罪悪感も、不安も、この湯気と一緒に空へ昇って消えてしまえばいいのに。 そう願ってしまうほど、この場所は優しかった。
その時だった。 チャプン、と近くで水音がした。 メイだ。 彼女はアリスたちの騒ぎから少し離れて、アリアの近くで髪を洗おうとしていた。 手桶でお湯を汲み、頭からかぶる。銀色の髪が濡れて、肌に張り付く。
メイが顔を洗おうと、両手で顔を拭った、その瞬間。
するり。
濡れて緩んでいたのか、彼女がいつも顔につけていた白いアイガードの紐が解けた。 車内での食事中も、寝る時さえも決して外そうとしなかった、あの頑ななガードが。
白い革が、スローモーションのようにハラリと落ち、湯船に浮かぶ。 そして。 湯気に濡れたその下に、隠されていた「真実」が露わになった。
アリアは、見てしまった。 月明かりと、水面の揺らめきに照らされて、妖しく、鮮烈に輝く――紫色の瞳を。
ドクン。 アリアの心臓が、凍りついたように止まった。
(紫……!?)
それは、エルフの古い伝承にある禁忌の色。 かつて国を滅ぼし、災厄を招いたとされる魔女の瞳。不吉の象徴。疫病神の刻印。 生理的な恐怖が、背筋を駆け上がった。
アリアは反射的に息を呑み、ザバッと音を立てて後ずさった。 湯が波打ち、アリアの動揺を伝える。
「……メイ、その目……」
声が震えた。 メイが、ハッとしてこちらを見る。 左右で色の違う瞳。片方は普通の黒、もう片方はアメジストのような、底知れぬ深さをたたえた紫。 その瞳が、アリアの怯えた表情を捉えた。
「あ……」
メイの顔色から、血の気が引いていくのがわかった。 彼女は慌てて両手で顔を覆った。濡れた手が、必死に右目を隠そうとする。
「ご、ごめんなさい! 気分を悪くされましたよね!? すぐに隠します! 見ないでください!」
彼女の体は小さく震えていた。 拒絶されることを、罵倒されることを予期して、身を縮めている小動物のように。 その姿を見て、アリアの胸が痛んだ。 けれど、それ以上に「恐怖」という本能が勝ってしまう。近づいてはいけない。見てはいけない。それは「呪い」なのだから。
アリアは言葉を失い、ただ立ち尽くすしかなかった。 この楽しい時間が、音を立てて壊れていく予感がした。 アリスたちも気づくだろう。そして、悲鳴を上げるに違いない。「化け物!」と叫んで、メイを追い出すかもしれない。
だが。 次の瞬間、アリアの予想を裏切る事態が起きた。
バシャバシャバシャ! 豪快な水音を立てて、アリスが近づいてきたのだ。
「何やってんのよ、メイ!」
アリスは、怯えるメイの前に立つと、隠している両手を強引に引き剥がした。
「ひっ……!」 メイが身をすくめる。怒られると思ったのだろう。 しかし、アリスの口から出たのは、罵倒ではなかった。
「そんなの手で隠してたら、髪も洗えないでしょ! 邪魔よ邪魔!」
「え……?」 アリアが目を丸くする。
アリスは、露わになったメイの紫の瞳を見ても、眉一つ動かさなかった。 恐怖どころか、嫌悪感の欠片もない。まるで、顔についた泡を拭うような気軽さで、メイの手を払いのけたのだ。
「ほら、シャンプー貸してあげるから。ちゃんと目を開けて洗いなさいよ。泡が入るわよ」 「そ、そうですわね」
エリーゼも、平然とお湯をすくって自分の肩にかけていた。 彼女はチラリとメイの方を見たが、すぐに月を見上げて優雅に言った。
「お風呂は開放的に入ったほうが血行にも良いですわ。それに、その瞳の色、湯気に映えてとても綺麗ですもの。隠すなんてもったいないです」
……は? アリアは、自分の耳を疑った。 今、なんて言った? 邪魔? 綺麗? 災厄の色を見て、そんな感想が出るの?
誰も、悲鳴を上げない。 誰も、不気味だと言わない。 誰も、逃げ出さない。
アリスは鼻歌交じりにメイの背中を流し始め、エリーゼはお湯の効能について独り言を言っている。 彼女たちは、メイのその「異形」を、まるで「ちょっと変わった髪色」や「ホクロの位置」くらいの、些細な個性として扱っている。当たり前のように。日常の延長として。
(……知ってるの?)
アリアは呆然と立ち尽くした。 湯気が揺らぐ向こう側で、メイが恥ずかしそうに、でも嬉しそうに笑っている。 「ありがとうございます、アリスさん」と。
(みんな、知った上で……こんなに普通に接しているの?)
ガラガラと、音を立てて何かが崩れていく気がした。 それは、アリアの中にあった「常識」という名の分厚い壁だった。 エルフの森では、違うものは排除された。不吉な兆候は、徹底的に避けられた。 「正しさ」とは、純粋であること。異物が混じっていないこと。そう教わってきた。
でも、ここは違う。 この場所では、異物さえも「仲間」として溶け込んでいる。 呪いも、災厄も、伝説も。「今のメイ」という存在の前では、何の意味も持たないのだと言わんばかりに。
(私が……間違っていたの?)
アリアは、自分の胸に手を当てた。 激しく脈打つ心臓。 恥ずかしい。「紫色は怖い」と怯え、後ずさった自分が、どうしようもなく恥ずかしい。 彼女たちがメイを受け入れているその「器の大きさ」に比べて、自分はなんて小さく、臆病な世界に住んでいたのだろう。
世界が怖いんじゃない。 私が勝手に、色眼鏡をかけて、世界を怖い場所にしていただけなんだ。
アリアは、お湯の中に深く潜った。 顔まで沈める。 ボコボコという音と共に、涙が滲んでお湯に溶けていく。 このお湯は、全部知っている気がした。私の強がりも、弱さも、そして今知った自分の愚かさも。全てを包み込んで、洗い流してくれる。
プハッ。 顔を上げると、メイが心配そうに覗き込んでいた。 紫の瞳が、月明かりの下で優しく輝いている。そこには、アリアを責める色はなかった。
「アリアさん、のぼせてませんか?」
アリアは、濡れた髪をかき上げて、小さく首を振った。
「……ううん。平気よ」
彼女は、メイの紫の瞳を、初めて真っ直ぐに見つめ返した。 怖くない。ただ、綺麗なだけだ。
「あなたの目……本当に、綺麗ね。夜空みたい」
アリアの言葉に、メイがパァっと花が咲くように笑った。 アリスが「でしょー!」と水をかけてくる。エリーゼが「静かになさい」と水をかけ返す。
水しぶきと笑い声。 アリアも、小さく水をかけ返した。 冷たい夜風が心地よい。 湯けむりの向こう側に、新しい世界が見えた気がした。 そこは、呪いも偏見もない、ただ「私」と「あなた」がいるだけの、シンプルで温かい世界だった。
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