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第三章:好色剣豪と呪いの魔剣
第11話:森の村とだらしない天才
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王都の喧騒が、地平線の彼方に蜃気楼のように溶けて消えてから、早くも数日が過ぎようとしていた。俺、アリーシア、そしてセレスという、どうにもちぐはぐな三人組の旅は、驚くべき速さで一種の様式美ともいえる日常を確立しつつあった。
どこまでも続く緩やかな緑の丘を、乗合馬車はガタゴトと平和なリズムを刻みながら進んでいく。車輪が土を踏みしめる音、馬のいななき、御者の呑気な鼻歌。それら全てが混ざり合い、心地よい子守唄となって耳に届く。窓から吹き込む初夏の風は、道端に群生する名も知らぬ野花の、甘酸っぱくも瑞々しい香りを運んできた。あまりにものどかで、瞼が自然と重くなってくるような、そんな穏やかな陽気だ。昨夜の野営で火の番をしていたせいか、俺の意識は心地よい眠りの淵を彷徨い始めていた。
だが、そんな平和な微睡みを無慈悲にぶち壊すように、俺のすぐ隣から、根拠のない自信に満ち溢れた声が高らかに響き渡った。
「よし、決めた!次の宿場町では、私が交渉しよう。私の王族として培ってきた高等な話術にかかれば、宿泊費など半額は堅いと見るべきだな!」
声の主は、アリーシア・フォン・クローヴィス。つい最近まで一国の王女様だったが、現在は華麗なる家出を敢行中の、自称「自由を求める旅人」だ。艶やかな金色の髪をポニーテールに揺らし、勝ち誇った笑みを浮かべて得意げに胸を張るその姿は、確かに威厳に満ちている…ように見えなくもない。少なくとも、本人はそう信じて疑っていないだろう。
「どの口が言うんだ」
俺は目を開けるのも億劫なまま、乾いた声で返した。
「つい三日前の昼間、街道沿いの露店でリンゴ一個まともに買えなかったのは、どこのどなただったかな?」
「うっ…!」
アリーシアの自信に満ちた表情が、一瞬で凍り付く。彼女は気まずそうに視線を泳がせ、どもりながらも必死に反論を試みた。
「あ、あれは!あれは練習だ!そう、庶民の経済感覚を肌で学ぶための、いわば社会勉強の一環であってだな!本番では違う!本番での私は、生まれ変わったかのような交渉術を見せるぞ!」
. . .
三日前。俺たちは、活気のある小さな町に立ち寄った。そこでアリーシアは、「自分のことは自分でする」と宣言し、昼食用の果物を買いに意気揚々と露店へ向かったのだ。セレスと二人で遠巻きに見守っていると、アリーシアは山と積まれた真っ赤なリンゴを一つ手に取り、威厳たっぷりに店主の老婆にこう言い放った。
「店主よ、苦しゅうない。この見事なリンゴ、一ついただこう。褒美として、この私との会話を許可する」
一瞬、時が止まった。老婆は目をぱちくりさせ、アリーシアの綺麗な身なりと、その尊大な態度を交互に見比べている。やがて状況を理解したのか、老婆は深々と刻まれた皺をさらに深くして、にこやかに答えた。
「へぇ、お嬢ちゃん、ご立派な口の利き方だねぇ。それで、お金はどこだい?」
「金…?ああ、対価のことか。よかろう。この国の通貨で、銅貨…一枚で足りるか?」
アリーシアが懐から取り出した銅貨一枚。リンゴの値段は、銅貨五枚だった。老婆は困ったように微笑み、指を五本立てて見せる。すると、アリーシアは眉をひそめ、信じられないといった表情でこう言ったのだ。
「ご、五枚だと!?なんと強欲な!これは王家に対する不敬と見なすが、良いのか!?この私を誰だと心得る!」
結局、あまりの剣幕に老婆が怯え始めたのを見かねて、俺が割って入り、正規の値段を支払って事なきを得た。アリーシアはその後、「民の生活は私が思うよりも困窮しているようだ…」などと、的外れな分析をしながらしょんぼりしていた。あれが練習だというのなら、本番では一体どんな惨事を引き起こすつもりなのか。
. . .
「で、その生まれ変わった王族の話術とやらで、宿の主人にこう言うんだろ。『我こそはこの国の王女アリーシアである!そなたの宿に泊めてやるという栄誉を与える故、対価など求めるな。むしろ、我らが泊まってやることを光栄に思い、平伏せよ!』とかなんとか」
「な、なぜ分かった!?君はエスパーか何かか!?私の完璧な作戦を、なぜそこまで正確に…!?」
俺の的確すぎる指摘に、アリーシアは心の底から驚愕している。どうやら本気でその作戦を実行するつもりだったらしい。そのあまりの純粋さ、あるいは世間知らずっぷりに、俺はもはや怒る気力も失せ、深いため息しか出てこない。
そんな俺たちのやり取りを、向かいの席で聞いていたセレスが、「ふふっ」と楽しそうに肩を揺らして微笑んでいた。亜麻色の髪を三つ編みにした、穏やかで心優しい少女。彼女はすっかり、俺とアリーシアの漫才における、専属の観客兼、時として暴走するアリーシアをなだめる緩衝材としての地位を確立していた。彼女のその柔らかな微笑みは、ともすれば険悪になりかねない俺たちの空気を、いつだって和ませてくれるのだ。まあ、これも悪くない。実に、悪くない平穏な時間だ。
そんな、のどかで、どこか間延びしたような旅路の果てに、俺たちは目的の地、「森の村ミストラル」に到着した。
街道から脇道に入り、鬱蒼とした森を抜けた先に、その村はあった。豊かな森の恵みによって栄えていると、王都のギルドで聞いていた。木材や薬草、獣の毛皮などの交易で潤う、活気ある村だと。
しかし、乗合馬車を降りた俺たち三人を出迎えたのは、まるで時間が止まってしまったかのような、不気味なほどの静寂だった。
巨大な木々をそのまま柱や壁に利用したかのような、見事なログハウス調の家々が立ち並び、村全体が自然と調和した、趣のある景観を作り出している。屋根には苔が生え、壁には蔦が絡まり、その歴史の長さを物語っていた。だが、そこに生活の匂いがまるで感じられない。
石畳の道には人影もまばらで、時折すれ違う数少ない村人たちの表情は、一様に暗く、何かをひどく恐れているかのようにこわばっている。彼らは俺たち旅人を見ても、好奇の目を向けるどころか、むしろ厄介者を見るかのように視線を伏せ、足早に家の中へと消えていく。本来ならば聞こえてくるはずの、子供たちの無邪気な笑い声も、鍛冶屋が槌を振るうリズミカルな音も、酒場から漏れ聞こえる陽気な歌声も、何も聞こえない。ただ、風が森の木々を揺らす「ざわ…」という音だけが、やけに大きく、不吉な響きを持って村全体を支配していた。
「なんだか…ゴーストタウンみたいね。聞いていた話と、随分と様子が違うわ」
アリーシアが不安げに呟き、無意識に俺のローブの袖を掴んだ。その指先が小さく震えている。
「ああ。これは、ただ事じゃないな」
俺たちはひとまず、情報収集のために村の中心にあるギルドを目指すことにした。村で唯一、かろうじて人の出入りがあるように見えた建物だ。年季の入った樫の木の扉を押し開けると、カラン、と寂しげな鐘の音が鳴った。
中は薄暗く、埃とカビの匂いが混じった空気が淀んでいる。冒険者たちの熱気で満ちているはずのホールには、数人の気だるそうな男たちがいるだけで、皆、黙り込んでエール杯を傾けているだけだった。
俺たちの視線は、自然と壁に設置された依頼ボードへと向かう。そこで、この村を覆う活気のなさの正体に、完全に納得がいった。
ボードに貼られた羊皮紙には、震えるような文字で、村の惨状が綴られていた。
『緊急依頼:森の魔物討伐。森深くに入った者が、次々と正気を失って戻ってこない。生存者も、何かにおびえ、言葉も話せぬ状態に…』
『夜な夜な、森の奥に広がる古い洞窟から、不気味な剣戟の音と、人のものとは思えぬ絶叫が聞こえてくる。眠ることすらままならない』
『古老の言い伝えによれば、その洞窟には、かつてこの地を支配した狂王の『呪いの魔剣』が眠るという。魔剣が、新たな主を求めて、人々を狂わせているのに違いない…』
依頼はどれもこれも物騒な内容で、その下には、村の財政を圧迫しているであろう、破格の報酬額が記されていた。しかし、どの依頼書にも、依頼を受けたことを示す冒険者のサインは一つもなかった。誰もが、この得体の知れない脅威に手を出すことを躊躇しているのだ。
「なるほどね…。これじゃあ、村が静まり返るのも無理はない」
俺は腕を組み、ボードの内容を吟味する。アリーシアはゴクリと喉を鳴らし、セレスは胸の前でそっと十字を切っていた。
その日の夕方。俺たちは、村で唯一まともに営業している宿屋を見つけ、その一階にある食堂で、一つのテーブルを囲んでいた。客は俺たちの他に、隅の席で黙々とシチューをかきこむ行商人風の男が一人いるだけ。活気という言葉とは無縁の、侘しい空間だった。
アリーシアは早速、宿の主人から半ば強引に(といっても、王族の威厳ではなく、俺が支払った銀貨の力で)手に入れた村とその周辺の地図をテーブルいっぱいに広げ、すっかり軍師モードに入っていた。
「この村が抱える問題を解決すれば、ギルドからの信頼も得られ、今後の私たちの旅が格段に有利に進むはずだ。高額な報酬も手に入るし、一石二鳥だな。だが、それ以上に…困窮している民を見過ごすなど、私の王族としての信条に反する!」
ランプの揺れる灯りが、彼女の真剣な横顔をドラマチックに照らし出す。その瞳には、かつて王女として国を憂いていた頃の、真摯な光が宿っていた。家出中とはいえ、彼女の根底にある民を思う心は、決して揺らぐことはないのだろう。その高潔な精神は、素直に尊敬できる。
その、シリアスで、ちょっとだけ格好いい雰囲気を、根こそぎ台無しにする、泥酔した男の品のない声が響いたのは、まさにその時だった。
「ひっく…。おやぁ?こんな寂ぃれた村によぉ、こーんな綺麗な花が二輪も咲いてるじゃねえか、うぃ~…」
声のした方を見ると、酒瓶を片手に、千鳥足で覚束ない様子でこちらに近づいてくる、一人の男がいた。年の頃は二十代後半だろうか。無精髭は伸び放題で、よれよれの革鎧からは酸っぱい酒の匂いがぷんぷんと漂ってくる。手入れされていないであろう赤茶色の髪は、寝癖のせいでもはや鳥の巣のようだ。そのだらしなく、不潔な風体の中で、左頬に深く刻まれた大きな十字の傷跡だけが、彼がただの酔っ払いではないことを、妙な説得力をもって主張していた。
男――ジンと名乗ることになるこの男は、にやけきった、いやらしい笑みを顔中に貼り付けて俺たちのテーブルにたどり着くと、何のためらいもなく、セレスとアリーシアの肩に、馴れ馴れしく、そして汗でベタつくような手つきで腕を回した。
「よぉ、お嬢ちゃんたち。どうだい?俺と、熱ぅい夜を過ごさねえかい?俺のこの、燃えるような魂でよぉ、一晩中あっためてやろうかあ?へっへっへ…」
下品な笑い声と共に、アルコールの腐敗臭が鼻をつく。
瞬間。
アリーシアの右手に、いつ、どこから取り出したのか、護身用の鉄扇が音もなく握られた。彼女の空色の瞳が、氷のように冷たい怒りの色に染まる。
「――無礼者ッ!」
その声と共に、鉄扇が振り上げられ、男のこめかみに向かって炸裂する、まさにその寸前だった。
一方、セレスは、突然のことに完全に固まってしまっていた。恐怖よりも、純粋な困惑が彼女の表情を支配している。ただただ、どうしていいか分からず、助けを求めるように俺を見つめ、困ったように微笑んでいる。彼女は、怒るという感情を知らないのかもしれない。
やれやれ。俺は、テーブルの上で冷めていく一方の、キノコと干し肉のスープに視線を落とした。せっかくの温かい食事が、これ以上まずくなるのはごめんだ。この面倒事は、さっさと終わらせるに限る。
俺は、静かに、そして深くため息を一つ吐いた。
そして、目の前でまだ下品な軽口を叩き続けている酔っ払いの、その眉間のど真ん中に向かって、右手の人差し指をスッと構える。まるで、精密な射撃手(スナイパー)が標的を定めるように。
ピンッ!
「いてっ!」
乾いた、しかし妙に芯のある音が食堂に響き渡った。俺の指先から弾き出されたデコピンが、一ミリの狂いもなく、ジンの眉間を正確に捉えていた。それは、ただのデコピンではなかった。俺が込めた微量の魔力が、指先で斥力となって爆ぜ、小石を投げつけられたかのような鋭い衝撃を生み出したのだ。
男は「うげっ」とカエルの潰れたような情けない声を上げ、その場にぺたんと尻餅をついた。回した腕は、アリーシアとセレスの肩からだらしなく滑り落ちている。
何が起きたか理解できていないのか、ジンはぱちぱちと瞬きを繰り返し、涙目になってジンジンと痛むであろう眉間を押さえた。やがて、その怒りの矛先が俺に向けられる。
「な、何すんだてめえ!いきなりよぉ!」
逆上し、凄むように俺を睨みつける男に、俺はスプーンを手に取りながら、心底面倒くさそうに、そして冷たい声で言い放った。
「うるさい。酔っ払いはあっち行ってろ。スープが冷める」
俺のあまりに素っ気ない態度に、ジンは一瞬呆気に取られたようだったが、やがてその顔を悔しさと怒りで真っ赤に染め、何かを叫ぼうと口を開いた。しかし、その言葉が音になることはなかった。彼は俺の目をじっと見つめ、その奥にある何かを感じ取ったかのように、動きを止めた。そして、何かぶつぶつと悪態をつきながらも、すごすごと立ち上がり、ふらつく足取りでカウンター席へと戻っていくのだった。
. . .
アリーシアは振り上げた鉄扇を下ろし、「な、なんだ…今の…」と呆然としている。セレスは、「あ、ありがとうございます…」とほっとしたように胸をなでおろしていた。
俺は何も答えず、ようやく静けさを取り戻した食堂で、ぬるくなってしまったスープを一口すする。
これが、後に俺たちの旅に、想像を絶するほどのカオスと、数々の伝説(そのほとんどが、ろくでもないものだったが)をもたらすことになる稀代の天才剣豪、ジンとの、あまりにも情けなく、そして最悪としか言いようのない出会いであったことを、この時の俺はまだ、知る由もなかった。
どこまでも続く緩やかな緑の丘を、乗合馬車はガタゴトと平和なリズムを刻みながら進んでいく。車輪が土を踏みしめる音、馬のいななき、御者の呑気な鼻歌。それら全てが混ざり合い、心地よい子守唄となって耳に届く。窓から吹き込む初夏の風は、道端に群生する名も知らぬ野花の、甘酸っぱくも瑞々しい香りを運んできた。あまりにものどかで、瞼が自然と重くなってくるような、そんな穏やかな陽気だ。昨夜の野営で火の番をしていたせいか、俺の意識は心地よい眠りの淵を彷徨い始めていた。
だが、そんな平和な微睡みを無慈悲にぶち壊すように、俺のすぐ隣から、根拠のない自信に満ち溢れた声が高らかに響き渡った。
「よし、決めた!次の宿場町では、私が交渉しよう。私の王族として培ってきた高等な話術にかかれば、宿泊費など半額は堅いと見るべきだな!」
声の主は、アリーシア・フォン・クローヴィス。つい最近まで一国の王女様だったが、現在は華麗なる家出を敢行中の、自称「自由を求める旅人」だ。艶やかな金色の髪をポニーテールに揺らし、勝ち誇った笑みを浮かべて得意げに胸を張るその姿は、確かに威厳に満ちている…ように見えなくもない。少なくとも、本人はそう信じて疑っていないだろう。
「どの口が言うんだ」
俺は目を開けるのも億劫なまま、乾いた声で返した。
「つい三日前の昼間、街道沿いの露店でリンゴ一個まともに買えなかったのは、どこのどなただったかな?」
「うっ…!」
アリーシアの自信に満ちた表情が、一瞬で凍り付く。彼女は気まずそうに視線を泳がせ、どもりながらも必死に反論を試みた。
「あ、あれは!あれは練習だ!そう、庶民の経済感覚を肌で学ぶための、いわば社会勉強の一環であってだな!本番では違う!本番での私は、生まれ変わったかのような交渉術を見せるぞ!」
. . .
三日前。俺たちは、活気のある小さな町に立ち寄った。そこでアリーシアは、「自分のことは自分でする」と宣言し、昼食用の果物を買いに意気揚々と露店へ向かったのだ。セレスと二人で遠巻きに見守っていると、アリーシアは山と積まれた真っ赤なリンゴを一つ手に取り、威厳たっぷりに店主の老婆にこう言い放った。
「店主よ、苦しゅうない。この見事なリンゴ、一ついただこう。褒美として、この私との会話を許可する」
一瞬、時が止まった。老婆は目をぱちくりさせ、アリーシアの綺麗な身なりと、その尊大な態度を交互に見比べている。やがて状況を理解したのか、老婆は深々と刻まれた皺をさらに深くして、にこやかに答えた。
「へぇ、お嬢ちゃん、ご立派な口の利き方だねぇ。それで、お金はどこだい?」
「金…?ああ、対価のことか。よかろう。この国の通貨で、銅貨…一枚で足りるか?」
アリーシアが懐から取り出した銅貨一枚。リンゴの値段は、銅貨五枚だった。老婆は困ったように微笑み、指を五本立てて見せる。すると、アリーシアは眉をひそめ、信じられないといった表情でこう言ったのだ。
「ご、五枚だと!?なんと強欲な!これは王家に対する不敬と見なすが、良いのか!?この私を誰だと心得る!」
結局、あまりの剣幕に老婆が怯え始めたのを見かねて、俺が割って入り、正規の値段を支払って事なきを得た。アリーシアはその後、「民の生活は私が思うよりも困窮しているようだ…」などと、的外れな分析をしながらしょんぼりしていた。あれが練習だというのなら、本番では一体どんな惨事を引き起こすつもりなのか。
. . .
「で、その生まれ変わった王族の話術とやらで、宿の主人にこう言うんだろ。『我こそはこの国の王女アリーシアである!そなたの宿に泊めてやるという栄誉を与える故、対価など求めるな。むしろ、我らが泊まってやることを光栄に思い、平伏せよ!』とかなんとか」
「な、なぜ分かった!?君はエスパーか何かか!?私の完璧な作戦を、なぜそこまで正確に…!?」
俺の的確すぎる指摘に、アリーシアは心の底から驚愕している。どうやら本気でその作戦を実行するつもりだったらしい。そのあまりの純粋さ、あるいは世間知らずっぷりに、俺はもはや怒る気力も失せ、深いため息しか出てこない。
そんな俺たちのやり取りを、向かいの席で聞いていたセレスが、「ふふっ」と楽しそうに肩を揺らして微笑んでいた。亜麻色の髪を三つ編みにした、穏やかで心優しい少女。彼女はすっかり、俺とアリーシアの漫才における、専属の観客兼、時として暴走するアリーシアをなだめる緩衝材としての地位を確立していた。彼女のその柔らかな微笑みは、ともすれば険悪になりかねない俺たちの空気を、いつだって和ませてくれるのだ。まあ、これも悪くない。実に、悪くない平穏な時間だ。
そんな、のどかで、どこか間延びしたような旅路の果てに、俺たちは目的の地、「森の村ミストラル」に到着した。
街道から脇道に入り、鬱蒼とした森を抜けた先に、その村はあった。豊かな森の恵みによって栄えていると、王都のギルドで聞いていた。木材や薬草、獣の毛皮などの交易で潤う、活気ある村だと。
しかし、乗合馬車を降りた俺たち三人を出迎えたのは、まるで時間が止まってしまったかのような、不気味なほどの静寂だった。
巨大な木々をそのまま柱や壁に利用したかのような、見事なログハウス調の家々が立ち並び、村全体が自然と調和した、趣のある景観を作り出している。屋根には苔が生え、壁には蔦が絡まり、その歴史の長さを物語っていた。だが、そこに生活の匂いがまるで感じられない。
石畳の道には人影もまばらで、時折すれ違う数少ない村人たちの表情は、一様に暗く、何かをひどく恐れているかのようにこわばっている。彼らは俺たち旅人を見ても、好奇の目を向けるどころか、むしろ厄介者を見るかのように視線を伏せ、足早に家の中へと消えていく。本来ならば聞こえてくるはずの、子供たちの無邪気な笑い声も、鍛冶屋が槌を振るうリズミカルな音も、酒場から漏れ聞こえる陽気な歌声も、何も聞こえない。ただ、風が森の木々を揺らす「ざわ…」という音だけが、やけに大きく、不吉な響きを持って村全体を支配していた。
「なんだか…ゴーストタウンみたいね。聞いていた話と、随分と様子が違うわ」
アリーシアが不安げに呟き、無意識に俺のローブの袖を掴んだ。その指先が小さく震えている。
「ああ。これは、ただ事じゃないな」
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中は薄暗く、埃とカビの匂いが混じった空気が淀んでいる。冒険者たちの熱気で満ちているはずのホールには、数人の気だるそうな男たちがいるだけで、皆、黙り込んでエール杯を傾けているだけだった。
俺たちの視線は、自然と壁に設置された依頼ボードへと向かう。そこで、この村を覆う活気のなさの正体に、完全に納得がいった。
ボードに貼られた羊皮紙には、震えるような文字で、村の惨状が綴られていた。
『緊急依頼:森の魔物討伐。森深くに入った者が、次々と正気を失って戻ってこない。生存者も、何かにおびえ、言葉も話せぬ状態に…』
『夜な夜な、森の奥に広がる古い洞窟から、不気味な剣戟の音と、人のものとは思えぬ絶叫が聞こえてくる。眠ることすらままならない』
『古老の言い伝えによれば、その洞窟には、かつてこの地を支配した狂王の『呪いの魔剣』が眠るという。魔剣が、新たな主を求めて、人々を狂わせているのに違いない…』
依頼はどれもこれも物騒な内容で、その下には、村の財政を圧迫しているであろう、破格の報酬額が記されていた。しかし、どの依頼書にも、依頼を受けたことを示す冒険者のサインは一つもなかった。誰もが、この得体の知れない脅威に手を出すことを躊躇しているのだ。
「なるほどね…。これじゃあ、村が静まり返るのも無理はない」
俺は腕を組み、ボードの内容を吟味する。アリーシアはゴクリと喉を鳴らし、セレスは胸の前でそっと十字を切っていた。
その日の夕方。俺たちは、村で唯一まともに営業している宿屋を見つけ、その一階にある食堂で、一つのテーブルを囲んでいた。客は俺たちの他に、隅の席で黙々とシチューをかきこむ行商人風の男が一人いるだけ。活気という言葉とは無縁の、侘しい空間だった。
アリーシアは早速、宿の主人から半ば強引に(といっても、王族の威厳ではなく、俺が支払った銀貨の力で)手に入れた村とその周辺の地図をテーブルいっぱいに広げ、すっかり軍師モードに入っていた。
「この村が抱える問題を解決すれば、ギルドからの信頼も得られ、今後の私たちの旅が格段に有利に進むはずだ。高額な報酬も手に入るし、一石二鳥だな。だが、それ以上に…困窮している民を見過ごすなど、私の王族としての信条に反する!」
ランプの揺れる灯りが、彼女の真剣な横顔をドラマチックに照らし出す。その瞳には、かつて王女として国を憂いていた頃の、真摯な光が宿っていた。家出中とはいえ、彼女の根底にある民を思う心は、決して揺らぐことはないのだろう。その高潔な精神は、素直に尊敬できる。
その、シリアスで、ちょっとだけ格好いい雰囲気を、根こそぎ台無しにする、泥酔した男の品のない声が響いたのは、まさにその時だった。
「ひっく…。おやぁ?こんな寂ぃれた村によぉ、こーんな綺麗な花が二輪も咲いてるじゃねえか、うぃ~…」
声のした方を見ると、酒瓶を片手に、千鳥足で覚束ない様子でこちらに近づいてくる、一人の男がいた。年の頃は二十代後半だろうか。無精髭は伸び放題で、よれよれの革鎧からは酸っぱい酒の匂いがぷんぷんと漂ってくる。手入れされていないであろう赤茶色の髪は、寝癖のせいでもはや鳥の巣のようだ。そのだらしなく、不潔な風体の中で、左頬に深く刻まれた大きな十字の傷跡だけが、彼がただの酔っ払いではないことを、妙な説得力をもって主張していた。
男――ジンと名乗ることになるこの男は、にやけきった、いやらしい笑みを顔中に貼り付けて俺たちのテーブルにたどり着くと、何のためらいもなく、セレスとアリーシアの肩に、馴れ馴れしく、そして汗でベタつくような手つきで腕を回した。
「よぉ、お嬢ちゃんたち。どうだい?俺と、熱ぅい夜を過ごさねえかい?俺のこの、燃えるような魂でよぉ、一晩中あっためてやろうかあ?へっへっへ…」
下品な笑い声と共に、アルコールの腐敗臭が鼻をつく。
瞬間。
アリーシアの右手に、いつ、どこから取り出したのか、護身用の鉄扇が音もなく握られた。彼女の空色の瞳が、氷のように冷たい怒りの色に染まる。
「――無礼者ッ!」
その声と共に、鉄扇が振り上げられ、男のこめかみに向かって炸裂する、まさにその寸前だった。
一方、セレスは、突然のことに完全に固まってしまっていた。恐怖よりも、純粋な困惑が彼女の表情を支配している。ただただ、どうしていいか分からず、助けを求めるように俺を見つめ、困ったように微笑んでいる。彼女は、怒るという感情を知らないのかもしれない。
やれやれ。俺は、テーブルの上で冷めていく一方の、キノコと干し肉のスープに視線を落とした。せっかくの温かい食事が、これ以上まずくなるのはごめんだ。この面倒事は、さっさと終わらせるに限る。
俺は、静かに、そして深くため息を一つ吐いた。
そして、目の前でまだ下品な軽口を叩き続けている酔っ払いの、その眉間のど真ん中に向かって、右手の人差し指をスッと構える。まるで、精密な射撃手(スナイパー)が標的を定めるように。
ピンッ!
「いてっ!」
乾いた、しかし妙に芯のある音が食堂に響き渡った。俺の指先から弾き出されたデコピンが、一ミリの狂いもなく、ジンの眉間を正確に捉えていた。それは、ただのデコピンではなかった。俺が込めた微量の魔力が、指先で斥力となって爆ぜ、小石を投げつけられたかのような鋭い衝撃を生み出したのだ。
男は「うげっ」とカエルの潰れたような情けない声を上げ、その場にぺたんと尻餅をついた。回した腕は、アリーシアとセレスの肩からだらしなく滑り落ちている。
何が起きたか理解できていないのか、ジンはぱちぱちと瞬きを繰り返し、涙目になってジンジンと痛むであろう眉間を押さえた。やがて、その怒りの矛先が俺に向けられる。
「な、何すんだてめえ!いきなりよぉ!」
逆上し、凄むように俺を睨みつける男に、俺はスプーンを手に取りながら、心底面倒くさそうに、そして冷たい声で言い放った。
「うるさい。酔っ払いはあっち行ってろ。スープが冷める」
俺のあまりに素っ気ない態度に、ジンは一瞬呆気に取られたようだったが、やがてその顔を悔しさと怒りで真っ赤に染め、何かを叫ぼうと口を開いた。しかし、その言葉が音になることはなかった。彼は俺の目をじっと見つめ、その奥にある何かを感じ取ったかのように、動きを止めた。そして、何かぶつぶつと悪態をつきながらも、すごすごと立ち上がり、ふらつく足取りでカウンター席へと戻っていくのだった。
. . .
アリーシアは振り上げた鉄扇を下ろし、「な、なんだ…今の…」と呆然としている。セレスは、「あ、ありがとうございます…」とほっとしたように胸をなでおろしていた。
俺は何も答えず、ようやく静けさを取り戻した食堂で、ぬるくなってしまったスープを一口すする。
これが、後に俺たちの旅に、想像を絶するほどのカオスと、数々の伝説(そのほとんどが、ろくでもないものだったが)をもたらすことになる稀代の天才剣豪、ジンとの、あまりにも情けなく、そして最悪としか言いようのない出会いであったことを、この時の俺はまだ、知る由もなかった。
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だけど、そんな彼女たちにとっては俺が英雄のようだ……。
※※多少意識はしていますが、主人公最強で無双はなく、普通に苦戦します……流行ではないのは承知ですが、登場人物の個性を持たせるためそのキャラの物語(エピソード)や回想のような場面が多いです……後一応理由はありますが、主人公の年上に対する態度がなってません……、後、私(さくしゃ)の変な癖で「……」が凄く多いです。その変ご了承の上で楽しんで頂けると……Mです。の本望です(どうでもいいですよね…)※※
※※楽しかった……続きが気になると思って頂けた場合、お気に入り登録……このエピソード好みだなとか思ったらコメントを貰えたりすると軽い絶頂を覚えるくらいには喜びます……メンタル弱めなので、誹謗中傷てきなものには怯えていますが、気軽に頂けると嬉しいです。※※
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