二十年分の空白を埋めるように、僕はただ息をして、笑って、泣いた

Gaku

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第一部:昏き淵に光を灯し、祝福の風を纏って

第3話『木漏れ日の凶刃と錆びた銀輪、泥濘の街に己の残影を見る』

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ガタゴトと、荷馬車の分厚い木製車輪が乾いた土を噛み砕く音が、単調なリズムを刻んでいた。
 木漏れ日が鬱蒼とした森の枝葉をすり抜け、まだら模様の光となってジンの視界をチカチカと撫でる。初めてギルドから引き受けた本格的な仕事は、隣町へ向かう商人の護衛だった。
 歩を進めるたびに、枯れ葉を踏み砕く「カサッ」という乾いた音が足元から響く。森の奥からは湿った土と苔の匂いが漂い、微かに聞こえる小鳥のさえずりが、のどかな旅路を思わせていた。

 ――だが、その静寂は不意に破られた。

 ビィンッ!
 森の深淵から、微かに弦の弾かれる重い振動音が鳴った。
 次いで、空気を切り裂く鋭い風切り音。
 ジンの鼓膜は、そのすべての音の出処と軌道を完璧に捉えていた。
「危ないっ!」
 商人の胸倉を掴んで強引に後方へ引き倒すと同時に、ジンは体を半身に開いた。
 彼の極限まで研ぎ澄まされた動体視力は、世界を泥の底に沈んだように遅く――スローモーションの次元へと引きずり込んでいた。
 一本の矢が、ジンの鼻先数ミリの空間をゆっくりと通り過ぎていく。矢羽が空気を擦る微かな摩擦音すら鮮明だ。
 矢が背後の木の幹に深々と突き刺さる乾いた音と同時に、木漏れ日の逆光を利用して、街道脇の茂みから三つの影が躍り出た。

「へっ! 運のいいガキだ。だが、そこまでだ!」
 先頭に立つのは、赤いバンダナを巻き、両手に抜き身の双曲剣(シミター)を構えた女リーダー、マリア。
 その左右には、身の丈ほどもある大剣を肩に担いだ傷顔の巨漢ガッシュと、錆びた長剣をいやらしく構えた細身の男ボルクが続いている。
 マリアの瞳には、飢えた獣特有のギラついた光が宿っていた。

「やっちまいな、ガッシュ、ボルク!」

 マリアの号令と共に、男二人が左右から凄まじい勢いで襲いかかってきた。
 ガッシュの大剣が、風を唸らせてジンの脳天へと振り下ろされる。同時に、ボルクの長剣がジンの足元を薙ぐ。
 完璧な連携。――常人であれば。
 だが、ジンの目に映る彼らの動きは、あまりにも、あまりにも遅すぎた。

 ジンは深く息を吸い込んだ。肺が新鮮な酸素を取り込み、心臓が一気に熱い血を全身の筋肉へと送り出す。
 ――ダンッ!!
 足の裏で大地を爆発的に蹴り上げた。
 硬い土がすり鉢状に爆ぜ、空気が破裂する。ジンの体は、男たちの認識速度を遥かに超えた神速のステップで、二人の刃の隙間――わずかな安全圏へと滑り込んでいた。
「なっ――!?」
 空を斬ったガッシュが驚愕に目を見開く。その顔が、コマ送りのようにジンの横を流れていく。
 すれ違いざま、ジンはガッシュのガラ空きになった鳩尾へ、手首の捻りだけで重い掌底を叩き込んだ。
 ゴフッ! と肺から空気を吐き出す鈍い音。
 ジンはその反動を利用して独楽のように反転。這いつくばるように剣を振っていたボルクの顔面に、流れるような回し蹴りを叩き込んだ。
 メキッ、と骨が軋む音。
 巨漢のガッシュと細身のボルクは、悲鳴を上げる間もなく同時に宙を舞い、白目を剥いて地面に崩れ落ちた。土煙が舞い上がり、光の筋の中で埃の粒子が乱舞する。
 瞬きをする間の、一瞬の制圧劇だった。

「嘘、だろ……!?」
 マリアが絶望的な声を上げ、ヤケクソ気味に双曲剣を振り回して突進してくる。
 左右から迫る刃が空気を切り裂き、太陽の光を反射して白い閃光の軌跡を幾重にも描く。
 美しい剣舞。だが、ジンにはすべての太刀筋が見え透いていた。
 キンッ! キィンッ!
 ジンは最小限の首と肩の動きだけで刃を躱し、最後の一撃を人差し指と親指の先でパチンと弾き飛ばした。
 姿勢が崩れ、無防備になったマリアの懐へ一歩踏み込む。
 両手首を的確に掴み上げ、そのまま彼女の勢いを利用して足を払い、地面へと仰向けに押さえつけた。
「がはっ……!」
 カラン、カラン……。
 手放された双曲剣が、乾いた音を立てて石の上に転がった。圧倒的な力の差を見せつける、あっけない幕切れだった。

 その時、押さえつけられたマリアの懐から、銀色の小さなロケットペンダントがこぼれ落ちた。
 カチャリ、と硬い音を立てて蓋が開き、中身が露わになる。
 そこには、病的なまでに痩せ細った、幼い子供の寝顔が写し出された写真が収められていた。

「……子供?」
 ジンが呟くと、マリアは血走った目で彼を睨みつけた。
「触るなっ! アンタらみたいに日の当たる道を歩いてる恵まれた奴らに、アタシらのことなんか話すもんは何もないね!」
 牙を剥く獣のような反発。
 ジンは短くため息をつき、空いている手で拳を作り、彼女の頭頂部にゴツンッ! と遠慮のないゲンコツを落とした。
「いっっっっだぁぁぁ!?」
「いいから、話を聞かせろ。その写真の子はどうしたんだ?」

 涙目で頭を押さえるマリアは、ジンの底知れない圧力に観念したように、重い口を開いた。
 彼女たちは、この街の郊外にあるスラム(貧民街)の住人だった。
「盗みでもしなきゃ、明日のパンすら買えないんだよ……。あそこじゃ、伝染病になっても薬一つ買えやしない……」
 「病」という言葉に、ジンの心臓が嫌な音を立てて跳ねた。

     * * *

 商人を無事に街へ送り届けた後、ジンはマリアの案内で、街から少し離れた森の先にあるという貧民街へと足を運んだ。
 視界が開けた瞬間、強烈な悪臭が鼻腔を蹂躙した。
 腐敗した生ゴミ、淀んだ泥水、そして排泄物の入り混じった、思わず嘔吐しそうになるほどの臭気。
 傾いたバラック小屋が密集し、太陽の光すらも分厚い煤煙と土埃に遮られ、街全体がどんよりとした鉛色に沈んでいた。
「ゲホッ……ゴホッ……」
 薄暗い路地のあちこちから、胸を掻きむしるようなひどい咳が聞こえてくる。
 道端には、骨と皮だけになった人々が力なく横たわり、虚ろな目で宙を見つめていた。その肌には不気味な斑点が浮かび、ハエの羽音が耳障りに響いている。見るからに重篤な伝染病が蔓延しているようだった。

 その光景は、ジンの脳裏に、あの冷たく無機質な「病室」の記憶を強制的にフラッシュバックさせた。
 消毒液の鋭い匂い。絶望しかない四角く白い天井。徐々に熱と機能を失っていく自分の肉体。
 ただ病魔に侵され、死を待つしかなかったかつての己の姿が、目の前に横たわる彼らの姿と完全に重なり合った。

(……なんとか、できないか)

 健康な体を手に入れ、風を感じ、ただ「走る」という無上の喜びを知ったジンだからこそ、彼らの理不尽な苦しみが痛いほど理解できた。
 彼らを救うには、金がいる。莫大な資金が。
 その時、かつて病室のテレビで何度も見た、ビジネスで大成功を収める企業家のドキュメンタリー番組の記憶が脳裏をよぎった。この異世界で、あの知識を利用して一攫千金を狙うことはできないだろうか。

 ジンはスラムの淀んだ空気を肺いっぱいに吸い込み、固く拳を握りしめた。
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