無能と蔑まれた僕だけが知る世界の嘘。敵であるはずの怪物の少女に恋したので、人類を裏切り世界を滅ぼす。

Gaku

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第1部:養成所編

第3話:紙の上の英雄

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最初の授業は、「怪物解剖学」だった。

人類最後の牙城と謳われる、巨大要塞都市『アーク・ノヴァ』。
その心臓部に位置する中央育成アカデミーの大講義室は、千年単位の時を刻んできた古代遺跡のような重々しい風格を漂わせていた。

案内されたそこは、古代ローマの円形劇場を彷彿とさせる、巨大なすり鉢状の階段教室。
何世代にもわたる若者たちの熱気と絶望を吸い込んできたであろう古びた木の机には、まるで地層のように幾重にも重なった落書きが、無数に刻み込まれている。
そこには、愛の言葉もあれば、決意の表明、そして明日をも知れぬ命が遺した、悲痛な辞世の句のようなものまで見て取れた。

講義室の空気は、独特の匂いで満たされていた。
鼻腔を鋭く突き刺す消毒液の、清潔だがどこか死を連想させるツンとした匂い。
そして、この建物の歴史そのものであるかのような、古い紙が長い年月をかけて湿気を吸い、発酵したような甘ったるい匂い。

それらが混じり合い、一種の聖域にも似た、あるいは巨大な霊安室にも似た、特異な雰囲気を醸成している。
天井では、化石のような巨大なシーリングファンが、キー、キーと乾いた軋み音を立てながら、その淀んだ空気を億劫そうにかき混ぜていた。
まるで、溜まりに溜まった死者たちの溜息を、どうにかして外へ逃がしてやろうとでもするかのように。

宮沢譲は、割り当てられた中央よりやや後方の席に、静かに腰を下ろした。
深く、ゆっくりと息を吸い込む。
この匂い、この雰囲気。
彼にとっては、砲弾が飛び交い、硝煙の匂いが立ち込める戦場よりも、ずっと心が安らぐ場所だった。

世界のすべてが分解され、分析され、定義される、知性の聖域。
ここでなら、混沌とした現実から目を背け、純粋な法則と理論の世界に没入できる。
それが、彼にとっての唯一の安息だった。

隣の席では、幼馴染の相田颯太が、早くも退屈を隠そうともせず、大きな欠伸を噛み殺していた。
彼の興味は、机上の理論よりも、訓練場での模擬戦や、最新鋭の兵装スペックにしかない。
そのがっしりとした体躯と、快活な表情は、明らかにこの黴臭い講義室には似つかわしくなかった。

「おい譲、今日の教官って、あの『解剖屋』だろ? マジかよ、初回から一番眠くなるやつじゃねえか……」

小声でぼやく颯太に、譲はかすかに微笑んでみせる。

その反対隣では、同じく幼馴染の朝比奈陽葵が、胸いっぱいの期待をその表情に浮かべていた。
彼女は、支給されたばかりの真新しいノートを開くと、何色ものカラーペンを使い、ポップな字体で自分の名前を丁寧に書き込んでいる。
さらにその周りに、花や星といった、この場所の雰囲気とはあまりにも不釣り合いな、楽しげな落書きをちりばめていた。

彼女にとって、このアカデミーでの生活は、人類の未来を担うという誇りと、新しい仲間たちとの出会いに満ちた、輝かしい青春の一ページの始まりなのだ。
その純粋な光が、譲には少しだけ眩しく感じられた。

やがて、予鈴が鳴り響き、ざわついていた講義室が徐々に静寂を取り戻していく。
重厚な扉が開き、一人の男が教壇へと向かった。
純白の、糊の効いた白衣を纏った初老の教官。

その顔には、長年の研究と解剖で刻まれた深い皺が走り、まるで年季の入った解剖図のように見えた。
彼は一言も発さず、ただ無機質な視線で一度だけ教室をぐるりと見渡すと、手元にある古めかしいコンソールのスイッチに、躊躇なく指を伸ばした。

ブウウン、という低い、地を這うようなモーター音が響き渡る。
それに呼応するように、教室の天井にいくつも設置されていた照明が一斉に光を失い、室内は急速に暗闇に包まれた。

唯一の光源は、教壇のコンソールから漏れる計器の微かな光と、窓から差し込む、厚い装甲シャッターの隙間から漏れる、外界の鈍い灰色光だけ。
生徒たちの間に、得体のしれない緊張が、さざ波のように広がっていった。
暗闇は、人の本能的な恐怖を呼び覚ます。

「――これより、諸君らがこれから生涯をかけて殺し、そして殺されるであろう隣人の、その内側をじっくりと見てもらう」

教官の静かで、抑揚のない、しかし講義室の隅々にまで染み渡るような声が響いた。
その声が合図だったかのように、部屋の中央に設置された円筒形のホログラム投影装置が、幽鬼のような青白い光を放ち始めた。
光は、まるで意思を持っているかのように蠢き、渦を巻き、収束し、そしてみるみるうちに巨大な実体を結んでいく。

最初に現れたのは、骨格だった。
何億年もの進化の果てに最適化された、機能美と凶悪さを兼ね備えた骨の集合体。
次に、その骨に絡みつくように、おびただしい数の筋肉の繊維が、一本一本編み上げられていく。
赤黒い筋繊維が脈動し、巨大な身体に生命の躍動感を与えていく。
そして、内臓が、神経が、血管が、次々とその定位置に収まっていく。
最後に、それら全てを覆い隠すように、ぬらぬらと粘液に濡れた緑黒色の外骨格が生成された。

全長十メートルはあろうかという、カマキリの凶悪さと、甲殻類の堅牢さを、悪意をもって混ぜ合わせたかのような異形の怪物。
その三次元ホログラムは、あまりに精巧で、リアルだった。

粘液に光る外骨格の質感、複雑に絡み合った筋肉の微細な動き、そして半透明のキチン質の皮膚の下で、不気味な青紫色の体液が、ドクン、ドクンと脈打つのまで、手に取るように見て取れる。
まるで本物が、今そこに存在しているかのような圧倒的な存在感。
それどころか、現実には決して見ることのできない、生命の内部構造までが、完全に可視化されていた。

「うわっ……なんだよ、これ……」
「きっつ……マジで吐きそう……」

講義室のあちこちから、呻き声や、押し殺したような小さな悲鳴が漏れ始めた。
特に感受性の強い女子生徒の何人かは、顔を真っ青にさせ、両手で口元を固く覆っている。
その瞳は、恐怖に大きく見開かれていた。

普段は強気な颯太でさえ、息を呑み、「やべえな、こりゃ……」と呟いている。
陽葵は、先程までの華やかな表情を消し去り、小さな身体を硬直させていた。

アカデミーの中でも、エリート中のエリートが集う『アース』クラスに所属する赤城剛ですら、その眉間に深い皺を寄せ、忌々しげに舌打ちをしている。

「ケッ、模型で脅かしか、芸がねえ」

彼の強がりは、しかし、そのわずかに強張った声色によって、内面の動揺を隠しきれてはいなかった。

だが、譲だけは違った。
その反応は、他の誰とも一線を画していた。

彼は、そのおぞましくも美しい光景に、思わず身を乗り出していた。
普段は静かに伏せられていることの多い彼の瞳が、今は大きく見開かれ、その中心にある瞳孔が、まるで暗闇に順応しようとする猫のように、ぐっと広がっている。
そして、その目は、ホログラムから放たれる青白い光を反射し、爛々と、狂的なまでの輝きを放っていた。

恐怖? 嫌悪感?
そのような感情は、彼の心の中には微塵も存在しなかった。
それは彼にとって、未知の機械の複雑怪奇な内部構造を、初めて目にする時のような、純粋な知的好奇心をくすぐられる、至高の瞬間だった。

この複雑怪奇な生命体は、どのような物理法則(システム)で稼働しているのか?
あの巨大な鎌を振り下ろすためのエネルギーは、どこで生成され、どのように伝達されるのか?
半透明の皮膚の下で脈打つ体液は、どのような成分で、何を循環させているのか?

全てを解き明かしたい。
全てを理解したい。

その根源的な欲求が、彼の脳を焼き尽くさんばかりに燃え上がらせていた。
彼の脳は、すでにフルスピードで回転を始め、目の前の生体情報を、貪欲なまでに吸収し、解析し、再構築していく。
彼にとって、この怪物はもはや恐怖の対象ではなく、解き明かすべき壮大なパズルに他ならなかった。

授業は、教官がレーザーポインターでホログラムの各部位を指し示しながら、淡々と進んでいった。
消化器官の構造、呼吸器系のメカニズム、脆弱な関節部分。
その説明は、まるで壊れた機械の部品について語るかのように、一切の感情が排されていた。

「――以上が、害獣指定怪物Class-B『マンティコア』の基本構造だ。
ここまでは教科書を熟読していれば、猿でも理解できるレベルの話。
言わば、準備運動にすぎん」

教官はそこで一旦言葉を切ると、コンソールを操作し、ホログラムをゆっくりと回転させた。
そして、怪物の背中、肩甲骨に当たる部分を急激に拡大する。
そこには、まるで電子基板の回路のように、びっしりと並んだ虹色に発光する神経網のような器官が、不気味に明滅していた。

「では、ここからが本題だ」

教官の目が、鋭く光る。

「誰か、この器官の役割を、論理的に説明できる者はいるか?」

教官の問いに、先程までのざわめきが嘘だったかのように、講義室は水を打ったように静まり返った。
エリートであるはずの『アース』クラスの生徒たちも、教科書に記載されていない未知の情報には戸惑うばかりで、誰もが顔を見合わせ、あるいは視線を下に落としている。
自信に満ちていたはずの彼らの顔に、困惑と焦りの色が浮かんでいた。

「なんだ、この程度も分からんのか。
これだから実戦ばかりで頭に筋肉の詰まった連中(実戦バカ)は困る。
いいか、この器官はな、一見すると第二の脳のように見えるが……」

教官が、心底呆れたというように、ため息混じりに解説を始めようとした、その時だった。

「それは、第二の脳ではありません」

静かだった。
だが、不思議と芯があり、講義室の隅々にまで届く、よく通る声だった。
全員の視線が、音もなく、しかし正確に、声の主へと一斉に集まる。
暗がりの中、すっと、一本の手が、何の迷いもなく、まっすぐに挙げられていた。
その手の主は、誰あろう、宮沢譲だった。

教官は、わずかに眉を上げ、意外そうな顔で譲を見た。
彼の分厚いデータファイルには、譲が戦闘不適合者として『一般枠』に分類されていることが明記されているはずだ。

「ほう。一般枠の、宮沢か。面白い。続けてみろ」

その声には、値踏みするような響きがあった。

促され、譲はゆっくりと席を立った。
彼の身体は細く、戦闘要員としてはあまりに頼りなく見える。
だが、その声は、驚くほど落ち着いていた。

「はい。
その神経網は、脳から完全に独立して機能する、一種の並列処理に特化した高速演算装置です。
主な役割は、六本の歩行脚と、一対の大鎌、合計八本の肢体を、コンマ一秒の誤差もなく完璧に同期させ、複雑な地形での高速機動や、精密な攻撃を可能にするためのものです。
いわば、モーションコントロール専用のサブプロセッサと呼ぶべき器官です」

「根拠は?」

教官は、短く、鋭く問い返した。

「根拠は二つあります。
第一に、先程の基本構造説明の際に表示された、大脳から伸びる主神経幹の断面積と、この器官に接続されている末梢神経線維の総量を比較した際に、後者が明らかに過剰であること。
これは、大脳皮質からのトップダウン指令を待たずして、末端器官がボトムアップ式に、ある程度の自律的な判断と動作を行っていることを強く示唆しています。

第二に、この器官が虹色に発光している点です。
この発光は、神経伝達物質の化学反応によるものではなく、情報伝達の際に生じる高エネルギー粒子のチェレンコフ光であると推測されます。
つまり、電気信号ではなく、光信号に近い速度で情報処理を行っている可能性が高い。
それほどの速度は、思考や判断といった高次の精神活動ではなく、反射的な運動制御に特化していると考えるのが妥当です」

譲は、一度も手元の教科書やメモに目を落とすことなく、淀みなく、まるで自分の目で見てきたかのように答えた。
講義室が、にわかにざわめき始める。

「おい、今の聞いたか?」
「チェレンコフ光だと?」
「一般枠のやつが、なんでそんなことまで…」

驚きと、若干の戸惑いが入り混じった囁き声が、あちこちで交わされる。
隣の颯太が、信じられないものを見るような目で、口を半開きにして譲を見上げていた。

「面白い……実に、面白いぞ、宮沢」

教官の口元に、初めて笑みらしきものが浮かんだ。
それは、予想外の逸材を見つけた研究者の、歓喜の表情だった。

「では、次の問題だ。
マンティコアの最大の武器である、あの一対の大鎌。
その先端から射出される高周波ブレードは、理論上、現行の主力戦車の複合装甲をも切り裂く。
そのエネルギー伝達経路における、構造的なボトルネックはどこだ?
そして、我々歩兵が携行可能な兵器で、最も効率的にそれを破壊し、無力化する戦術的アプローチを提示してみろ」

それは、怪物解剖学と兵器学、さらには戦術論までを横断する、より複合的で高度な問いだった。
実戦経験がなければ、あるいは双方の分野に深い造詣がなければ、到底答えられるはずのない難問。
生徒たちの誰もが、固唾を飲んで譲を見守った。

しかし、譲は間髪入れずに答えた。
まるで、その質問を予期していたかのように。

「ボトルネックは、肩関節の内部、大胸筋と三角筋に相当する筋肉群の奥深くに存在する、エネルギー収束チャンバーです。
体内で生成された膨大なエネルギーは、一度このチャンバーに集約され、高密度に圧縮されてから、腕部の伝達経路を通って大鎌の先端に供給されます。
高周波ブレードが絶大な破壊力を誇る一方で、そのエネルギー供給はこの一点に完全に依存している。
つまり、最大の長所が、同時に最大の弱点ともなっている構造です」

「だが、そのチャンバーは分厚い多重装甲の内側だ。
小口径のライフル弾では傷一つ付けられん。
どうやってそれを狙う?」

教官が、さらに畳み掛ける。

「直接的な破壊は不可能です。
しかし、マンティコアがブレードを最大出力で射出しようとする、その直前――具体的には、約0.3秒前から、チャンバーは過剰なエネルギー圧縮によって急激に高熱化します。
それを抑制するため、周辺の冷却液循環パイプが強制的に最大流量となり、結果として、チャンバー周辺の装甲表面に、チェス盤のような格子状の、微細な温度低下パターンが出現します。
その温度差は、わずか摂氏0.5度。
人間の肉眼では到底視認できませんが、我々が標準装備として支給されている多機能ゴーグルのサーマルスコープならば、ノイズの中からパターンとして捉えることが可能です」

譲はそこで一度息を吸い、確信に満ちた声で続けた。

「そのパターンが出現した瞬間、肩関節の直下、第三装甲板と第四装甲板のわずかな継ぎ目を、対物ライフル用の徹甲榴弾で狙撃する。
装甲を貫通する必要はありません。
継ぎ目に着弾した榴弾の爆圧が、内部の冷却液パイプを破壊する。
すると、制御不能となったチャンバー内のエネルギーが暴走し、冷却液と接触して爆発的な気化現象を引き起こす。
結果、最小限の外部からの威力で、チャンバーそのものを内部から誘爆させ、腕ごと完全に機能停止に追い込めるはずです」

そこまで一気に言い切ると、講義室は、先程までとは全く質の違う、畏敬の念すら混じった深い沈黙に包まれた。
それはもはや、単なる知識の披露ではなかった。
彼の言葉は、映像として、戦術として、そこにいる誰もが脳内で再現できるほど、具体的で、鮮明だった。
まるで、幾度となくその戦いをシミュレートしてきたかのような、圧倒的なリアリティがそこにはあった。

教官は、満足げに深く、深く頷いた。
その目には、もはや驚きではなく、確かな賞賛の色が浮かんでいた。

「……見事だ。宮沢、座ってよろしい。
百点満点、いや、百二十点の回答だ」

譲が静かに席に着くと、講義室のあちこちから、抑えきれない囁き声が聞こえてきた。

「すげえ……あいつ、全部覚えてるのかよ」
「記憶力だけの問題じゃないだろ。ていうか、あの分析力は異常だ」
「一般枠に、なんであんなのがいるんだ……?」

羨望、嫉妬、そして得体の知れない者へのわずかな恐怖。
様々な感情が渦巻く視線が、譲の背中に突き刺さる。

その中で、ただ一人。
後方の席で、腕を組み、氷のような無表情で一連のやり取りを静観していた少女、神楽院玲奈だけが、その完璧なポーカーフェイスをわずかに崩し、射抜くような、鋭利な刃物のような視線を、まっすぐに譲へと向けていた。
彼女の銀色の瞳が、暗闇の中で怜悧な光を放つ。

彼女は初めて、宮沢譲という存在を、単なる『一般枠の生徒』としてではなく、評価すべき『一個の個体』として、認識したのだった。

***

授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響くと、解放感に満ちた生徒たちの喧騒が、澱んでいた講義室の空気を一気に吹き払った。
昼休みだ。

アカデミーの巨大な食堂は、まるで戦場のようだった。
何千人もの生徒たちが発する喧騒、食器がぶつかり合う甲高い音、そして世界各国の料理が混じり合った、食欲をそそる匂い。
その混沌としたエネルギーが、巨大なドーム状の天井に反響していた。

譲は、トレーに今日の日替わり定食――白身魚のムニエルと、温野菜のセットを乗せ、この喧騒から逃れるように、なるべく目立たない壁際の隅の席へと向かった。
できるだけ、誰の視界にも入らずに、静かに食事を終えたかった。

「いやー、譲! さっきはマジでビビったぜ! お前、やっぱすげえな!」

しかし、そのささやかな願いは、背後から響いた快活な声によって打ち砕かれた。
振り返ると、山盛りの唐揚げ定食を乗せたトレーを危なっかしい手つきで持ちながら、颯太が満面の笑みで立っていた。

「ほんと、びっくりしたよ。教官もすっごく感心してたし。譲、めちゃくちゃかっこよかった!」

颯太の隣からひょっこりと顔を出した陽葵も、カルボナーラのパスタをくるくるとフォークに巻きつけながら、まるで自分のことのように頬を紅潮させて喜んでくれる。
二人の気兼ねない賞賛が、授業以来、周囲の視線に晒され続けていた譲の心を、少しだけ軽くした。

その時だった。
三人が座るテーブルに、突如として巨大な影が差した。
まるで、局地的な日食でも起きたかのような、圧倒的な圧迫感。

「おい、そこの物知り博士」

見上げると、そこには赤城剛が、腕を組んで仁王立ちしていた。
その鍛え上げられた巨体は、食堂の明るい照明を完全に遮り、譲たちの上に威圧的な影を落としている。
彼の背後には、同じ『アース』クラスの取り巻きが二人、にやにやと卑屈な笑みを浮かべて控えていた。

「黒板の前じゃ、随分とご立派な英雄様だったなァ?」

剛は、心底愉快でたまらないといった様子で、口の端を醜く歪めて言った。
その声は、周囲の喧騒の中でも、嫌なほどよく通った。

「だがな、忘れるんじゃねえぞ。
怪物の前に一歩でも出たら、お前のその達者な口は、悲鳴を上げるためだけにあるんだ。
お前が知ってる小賢しい弱点なんざ、俺のこの拳の前じゃ、何の意味もねえんだよ」

そう言って、剛は自分の拳を、ゴキリと音を立てて鳴らしてみせた。
それは、純粋な暴力の象徴であり、譲が最も持たざるものだった。

「なんだと、剛! てめえ!」

カッとなった颯太が、ガタンと音を立てて勢いよく立ち上がった。
その手は、いつでも殴りかかれるように、固く握りしめられている。
一触即発の空気に、周囲で食事をしていた生徒たちが、興味と野次馬根性に満ちた視線を、遠巻きにこちらへと向け始めた。

「やめろ、颯太」

譲は、今にも飛びかからんとする颯太の腕を、静かに、しかし強い力で制した。
そして、自分は席に座ったまま、顔を上げ、まっすぐに剛の目を見上げた。
その巨体を見上げるには、少し首が痛んだ。

「君の言う通りかもしれない。
僕の知識は、実践の前では、何の役にも立たない無力なものかもしれない。
でも」

譲の声は、震えてはいなかった。
そこには、恐怖も、怒りもなかった。
ただ、深く、静かな、水の底のような感情が湛えられているだけだった。

「僕には、これしかないんだ」

その瞳には、侮辱されたことへの怒りよりも、どうしようもない事実をただ事実として受け入れた、諦念に似た静かな決意が宿っていた。
それは、自分自身の限界と無力さを知り尽くした者だけが持つ、悲しい強さの光だった。

剛は、そんな譲の目を、数秒間、訝しむように見下ろしていた。
彼は、恐怖に歪む顔か、あるいは虚勢に満ちた反論を期待していたのだろう。
だが、目の前にあるのは、彼の理解を超えた、静謐な覚悟だった。
やがて、剛は「フン」と興味を失ったように鼻を鳴らすと、ゆっくりと踵を返した。

「紙の上の英雄ごっこは、そこまでにしとけよ。
戦場でお前の墓標を立ててやる奴はいねえからな」

その冷たい捨て台詞だけを残して、剛とその取り巻きは、人垣を割るようにして去っていった。
颯太は、まだ納得がいかないという顔で、「譲、なんであんな奴に……」と何か言おうとしたが、譲は「いいんだ」とだけ短く言って、それを遮った。
そして、何事もなかったかのように、黙々と冷めかけた定食を口に運び始めた。

白身魚の繊細な味も、バターの香りも、もうよく分からなかった。
ただ、機械的に咀嚼し、嚥下するという作業を繰り返すだけだった。

その一連のやり取りを、少し離れた、静かな席から、神楽院玲奈が一人、静かに見ていた。
彼女のトレーの上には、ほとんど手付かずの、彩りのないグリーンサラダだけが寂しげに置かれている。
周りの喧騒など、まるで存在しないかのように、彼女の周りだけが真空地帯になっている。

彼女は、去っていく剛の、力に満ちた背中と、再び食事を始めた譲の、細い横顔を、まるで性能の違う二つの兵器を値踏みするように、冷静に、交互に見つめていた。

そして、誰にも聞こえない、吐息よりも微かな声で、ぽつりと呟いた。

「……違う」

彼女の薄い、血の気の失せた冷たい唇が、微かに動く。

「あの怪物の本当の弱点は、彼の言った場所じゃない。
もっと、ずっと根源的で、そして深い場所に……あるのに」

その声は、食堂の雑多な喧騒の中に、一瞬で溶けて消えた。
玲奈は、再び氷のような無表情に戻ると、手にしたフォークで、トレーの上にあるサラダの、一枚のレタスの葉を、まるで何かを確かめるかのように、一度だけ、ゆっくりと、そして深く突き刺した。

彼女だけが知る、致命的な真実の欠片が、これから始まる壮大な物語の盤上に、静かに、そして確かに置かれた瞬間だった。
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