無能と蔑まれた僕だけが知る世界の嘘。敵であるはずの怪物の少女に恋したので、人類を裏切り世界を滅ぼす。

Gaku

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第1部:養成所編

第11話:机上の空論と一筋の光明

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じっとり、と肌にまとわりつくような濃密な湿気が、思考そのものを鈍らせていく午後だった。それはまるで、見えない粘菌に全身を覆われるような不快感であり、呼吸をするたびに肺がじわりと重くなっていく錯覚を覚える。窓の外では、分厚い灰色の雲が、まるで煮崩れた鉛のように空を覆い尽くし、今にもその重さに耐えかねて泣き出しそうな気配を漂わせている。梅雨入りを間近に控えた、ここ対怪異特殊技能者養成所、通称『アカデミー』の空気は、まるで今の僕たちチームJの現状を正確に映し出す鏡のように、重く、深く、そして救いようもなく淀んでいた。

指定された第三ミーティングルームは、その名が形骸化するほどに、気まずい沈黙に支配されていた。本来、活発な議論が交わされるべきこの部屋は、今やまるで深海の底に沈んだ潜水艦の内部のようだ。壁に掛けられた安っぽいプラスチック製の時計の秒針が「カチリ、カチリ」と無機質な音を立てるたびに、部屋の空気が一ミリずつ圧縮されていくような、耐え難い圧迫感が僕の肩にのしかかる。音、という音はそれだけだった。その規則正しいリズムが、逆にこの場の異常な静寂を際立たせている。

先日の、第一学期末に行われた合同戦闘訓練。そこで僕たち四人は、『歴代最低評価』という、輝かしいんだか、ただ恥ずかしいんだか分からない、とにかく不名誉極まりない称号を授かってしまった。評価項目は多岐にわたる――作戦理解度、連携遂行能力、状況判断、目標達成度――その全てにおいて、過去十年間の記録を大幅に下回る『E-』、すなわち測定不能レベルの低評価。教官は報告書を僕たちの目の前に叩きつけながら、「これはチームではない。ただの烏合の衆ですらない。個々が互いの足を引っ張り合うだけの、負の集合体だ」と吐き捨てた。その言葉は、今も僕の耳の奥で、不快な残響となってこびりついている。

それ以来、僕たちの間に流れる空気は、最悪の一言に尽きた。いや、最悪という言葉ですら、生ぬるいかもしれない。それはもはや空気ではなく、粘性を持った泥のような何かだった。息を吸い込むたびに、絶望と相互不信の粒子が喉に絡みつき、言葉を発する気力さえも奪っていく。

チームリーダーであるはずの赤城剛くんは、鋼の肉体を誇示するかのように太い腕を組み、パイプ椅子にこれでもかと深くふんぞり返っている。彼が座るにはあまりにも貧弱なその椅子は、彼の圧倒的な質量に耐えかねて、ミシミシ、と悲痛な叫びを上げ続けていた。今にもその細い金属の脚がへし折れてしまうのではないかと、僕は本気で心配していた。彼は部屋の壁の一点、そこにある何でもない小さなシミを、まるで親の仇でも見るかのように鋭く睨みつけている。その全身から「やってられるか」「こんな場所にいること自体が時間の無駄だ」という不満のオーラが、もはや視認できるレベルで漏れ出ていた。彼の周囲だけ、空間が陽炎のように歪んでいるように見えるのは、きっとこの澱んだ空気と僕の疲労が見せる幻覚ではないだろう。

その対角線上、窓際に座る神楽院玲奈さんは、雪のように白い肌と、彫刻家が精魂込めて作り上げたかのような気品のある横顔を、ただ静かに窓の外に向けていた。まるでこの部屋に、自分以外の人間など一人も存在しないかのように。あるいは、僕たち三人を、壁のシミや床の傷と同レベルの、意識を向けるに値しない無機物として認識しているのかもしれない。その完璧すぎる美貌は、分厚い氷の仮面で覆われ、他者の介入を一切拒絶する、静かで絶対的な無関心を貫いていた。時折、彼女の驚くほど長い睫毛がゆっくりと伏せられるたび、僕はそこに言い知れぬ孤独の影を見るような気がしたが、それもきっと、この重苦しい空気が僕の感傷を刺激して見せる幻覚に違いなかった。彼女のような完璧な存在が、孤独などというありふれた感情を抱くはずがないのだから。

そして、僕の隣。同じ一般枠の同級生である小林誠くんは、机の隅で、まるで溺れる者が藁を掴むかのように、胃薬のPTPシートを両手で必死に握りしめていた。その指はカタカタと小刻みに震え、彼の顔色は、窓の外の救いのない曇り空よりもさらに絶望的な、土気色をしていた。この数日間の心労で、彼の胃は既に限界を迎え、今まさに人としての尊厳をかけた最後の防衛戦を、その体内で繰り広げているらしかった。頑張れ小林くん、君の胃の平和は、世界の平和に繋がっている。心の中でだけ、僕は彼に無責任極まりないエールを送った。彼がこの極限状況下で嘔吐でもしようものなら、このチームは物理的にも精神的にも、完全に崩壊してしまうだろう。

そんな三者三様の絶望に囲まれながら、主人公である僕、宮沢譲は、テーブルの中央に広げた数枚のデータシートと、自分の汗ばんだ手のひらを、交互に何度も見比べていた。シートには、先日の訓練における各メンバーの行動ログ、擬似怪物の反応パターン、そして歴代最低を記録した評価の詳細が、無慈悲な数字と冷たいグラフでびっしりと印刷されている。この紙切れ一枚一枚が、僕たちの惨めな現実を、何の感情も挟まずに、ただ雄弁に物語っていた。赤城剛の単独突出、神楽院玲奈の戦闘不参加、小林誠の戦闘開始前からの機能不全、そして、宮沢譲の――有効な指示、ゼロ。その冷酷な事実が、僕の胸を容赦なく抉る。

このままではダメだ。絶対に。
このまま腐っていくのは、ごめんだ。

「さて、と」

僕は、この泥のような空気を断ち切るために、自分でも驚くほどわざとらしい、明るい声を出した。まるで文化祭の実行委員長にでもなったかのような、この場には致命的にそぐわない爽やかさで。喉がカラカラに乾いていて、声が少し裏返ったのはご愛嬌だ。

「前回の反省会を、始めたいと思うんだけど」

僕の声に反応したのは、隣の小林くんが喉の奥で鳴らした「ひっ」という、カエルの潰れたような短い悲鳴だけだった。剛くんは鼻でフンと嘲笑し、その巨体を揺らした。玲奈さんは眉一つ動かさない。窓の外の景色の方が、僕の言葉よりもよほど価値があると言わんばかりに。
完全なる無視。完全なる四面楚歌。
心がぽっきりと折れそうになるのを、僕は奥歯をぐっと噛み締めてこらえた。大丈夫だ、まだ心は折れていない。たぶん、ひびが入ったくらいだ。まだ修復は可能だ。そう自分に言い聞かせなければ、今すぐにこの場から逃げ出してしまいそうだった。

最初にこの泥沼の沈黙を破ったのは、やはりというべきか、このチームの破壊神、赤城剛くんだった。彼はパイプ椅子をガタン!と凄まじい音で後ろに蹴倒して立ち上がると、檻から解き放たれた獰猛な熊のように、部屋の中をのっしのっしと歩き始めた。その一歩一歩が、安物の床を、そして僕の小心臓を激しく震わせる。

「反省会だぁ? 反省なんざ、してどうすんだよ」

その声は、腹の底から響く低い唸り声のようだった。部屋の空気がビリビリと震える。

「原因はハッキリしてんだろ! この俺以外の三人が、全く、これっぽっちも役に立たなかった! それだけだ! 以上! 解散!」

ビシッ!と音が聞こえそうな勢いで、彼はまず、最も攻撃しやすいターゲットである哀れな小林くんの目の前に仁王立ちになった。身長二メートル近い巨体が見下ろすその威圧感は、もはや暴力と呼んでも差し支えないだろう。影が小林くんを完全に覆い尽くし、彼はまるで巨大な岩の下敷きになった虫のように縮こまっている。小林くんの顔から、さらに血の気が引いていくのが、隣にいる僕にもはっきりと分かった。

「テメェ! 小林! 最初の擬似怪物の咆哮だけで気絶なんかしやがって! お前はピクニックにでも来たのか!? あぁん!? こちとら命がけでやってんだよ!」
「ご、ご、ごめんなさいぃぃぃぃ! ぼ、僕、大きな音が本当に苦手で……あの、その、生まれつき……」
「言い訳すんな! 使えねぇもんは使えねぇんだよ!」

小林くんは椅子から転げ落ちそうな勢いで、半泣きになりながら謝罪した。彼の握りしめた胃薬のシートが、その震える手の中で無残にもぐしゃりと歪む。彼の尊厳も、今、同じようにぐしゃりと歪んだに違いない。

次に、剛くんの怒りの矛先は、氷の彫像のように静かな玲奈さんへと向いた。彼は、その完璧な横顔に、まるでゴリラが繊細なガラス細工を威嚇するかのような、野蛮で無遠慮な視線を突き刺した。

「おい、そこのお嬢様! テメェもだ! いっつもいっつも高みの見物決め込みやがって。チームプレイってもんを知らねぇのか!? 俺が一人で囮になって、必死こいて戦ってる間、てめぇは優雅にお茶でも飲んでたのかよ!」

その下品極まりない罵声に対し、玲奈さんは、ようやく、まるでスローモーション映像のようにゆっくりと剛くんに視線を向けた。その美しい瞳は、何か得体のしれない、理解不能な微生物でも見るかのように、絶対零度の光をたたえて冷え切っていた。

「あなたのような、作戦も連携も完全に無視して、ただ闇雲に敵陣の中央へ突進するだけの猪武者に、私の能力を使う価値を見出せなかっただけよ。貴重なエネルギーの、無駄遣いだわ。あなたを援護することは、穴の開いたバケツに水を注ぎ続けるような、不毛な行為でしかないもの」
「な、なんだと、このアマ!」

火花が散る、という表現は、まさにこの時のためにあるのだろう。二人の視線が交差する空間で、パチパチと音がしているような気さえする。僕は、ずきずきと痛み始めたこめかみを押さえた。これは反省会ではない。責任のなすりつけ合いと、小学生レベルの罵り合いだ。生産性というものが、この部屋には一グラムも存在しない。あるのはただ、互いへの憎悪と軽蔑だけだ。

(ダメだ、このままじゃ……本当に、終わってしまう)

僕は、手元のデータシートをぐっと強く握りしめた。紙の端が、汗ばんだ手のひらに食い込み、鋭い痛みを発する。脳裏に、訓練の後、鬼教官として名高い佐伯教官に呼び出されて、二人きりの教官室で浴びせられた叱責が、鮮明に蘇ってきた。

『宮沢!』
低い、地の底から響くような声だった。佐伯教官は、僕が提出した状況分析レポートを指でトン、と叩いた。
『貴様の状況分析は、報告書で読んだ限り、ほぼ完璧に正しかったようだな。敵の出現パターン、弱点の位置、味方の最適な配置……どれも非の打ち所がない。素晴らしい分析力だ』
一瞬、褒められたのかと期待した僕の心を、次の言葉が粉々に打ち砕いた。
『だがな、それがどうした! チームを一つの方向に導くリーダーシップが、貴様には絶望的に欠けている! 頭の中で完璧なチェス盤を並べ替えて、一人で悦に入っているだけだ! 机上の空論を並べるだけなら、誰にでもできる! 宮沢、貴様は英雄になりたいのではなく、評論家になりたいのか!』

――机上の空論。

その言葉が、一番、僕の胸に突き刺さった。そうだ、教官の言う通りだ。どれだけ正しい分析ができても、どれだけ完璧な作戦を頭の中で描けても、それをこのバラバラな仲間たちに実行させられなければ、何の意味もない。僕の知識は、ただの自己満足。誰にも届かない独り言。ただのインクの染み。ただの紙切れだ。

僕は、いつだってそうだった。物事を客観的に分析し、問題点を指摘するのは得意だった。でも、そこから一歩踏み出して、他人を巻き込み、事を動かす勇気がなかった。傷つくのが怖かった。否定されるのが怖かった。だから、いつも安全な評論家の席に座って、物事が失敗していくのをただ眺めているだけだった。

でも、もうそんな自分は嫌だ。

このバラバラで、どうしようもない四つの部品を、一つの機械として動かすための「設計図」を、僕が示さなければ。僕の言葉で、僕の意志で、このチームを動かさなければ。僕にしか、それはできない。なぜなら、このチームの誰も、互いを理解しようとすらしていないのだから。

僕は、意を決して立ち上がった。僕の急な動きに驚いたのか、パイプ椅子が、僕の決意に呼応するかのように、甲高い音を立てて床を引っ掻いた。

「もういい! 喧嘩はそのくらいにしてくれ!」

普段の僕からは考えられないほどの、腹の底から絞り出した大きな声だった。声帯が震え、自分でも驚くほどの音量が、沈黙に満ちた部屋に響き渡った。その声に含まれた切実さと、普段とのあまりのギャップに、あれほど激しくやりあっていた剛くんと玲奈さんも、一瞬だけ、動きと思考を止めた。部屋の空気が、ほんの少しだけ、確かに震えた気がした。

「僕に、考えがある」

僕はそう言うと、椅子の横に置いていた学生カバンから、ずしりと重い、分厚いファイルの束と、ロール状に丸められた一枚の巨大な模造紙を、まるでマジシャンが鳩を出すかのように、取り出した。

僕が机の上に広げた巨大な模造紙を見て、剛くんが最初に発した言葉は、「なんだ、こりゃ。宝の地図か?」という、彼の知性を的確に表現する一言だった。まあ、ある意味では、僕たちの未来という名の宝を掘り当てるための地図なのだが、彼が想像しているようなドクロのマークや、財宝のありかを示すバツ印は、残念ながらどこにも書かれていない。

その代わりに模造紙の上には、常人には到底理解不能な、おびただしい数の線と矢印、そして米粒のように小さな文字が、まるで複雑な電子回路図のようにびっしりと書き込まれていた。それは、古代遺跡から発掘された、失われた超文明の謎の設計図だと言われた方が、まだしも信憑性があるかもしれない。胃薬のシートを握りしめたままの小林くんが、ぽかんと口を開けてそれを見つめている。

「昨夜、徹夜で考えたんだ」僕は、目の下にこびりついた隈を隠すこともせず、少しだけ誇らしげに、しかし緊張で震える声で言った。「これは、第一学期最終試験で想定される、あらゆる状況に対応するための、僕たちチームJ専用の連携作戦パターンだ。コードネームは『ヘルメス・システム』」
「ヘルメット?」
「ヘルメスだ。ギリシャ神話に登場する、神々の伝令神の名前だよ。情報と連携を司る神だ」
「知るか、そんなもん。ややこしい名前つけやがって」

剛くんは、僕の説明など聞いているのかいないのか、怪訝な顔で模造紙を覗き込んでいる。その紙面には、敵の数(単体か、複数か)、地形(市街地か、森林か)、天候(晴天か、雨天か)、そしてメンバー一人一人の疲労度や精神状態といった、ありとあらゆる変数を考慮に入れ、その状況に応じて、四人がどのように動き、誰が誰を、どのタイミングで、どうサポートするべきか、その全てのパターンが、複雑なフローチャート形式で網羅されていた。それは、無数の可能性の枝分かれであり、僕たちが進むべき道筋を示した、唯一の道標だった。

さらに、僕はドン、と重い音を立てて、分厚いファイルの束を机に置いた。その衝撃で、机がわずかに揺れる。
「こっちが、その作戦の理論的根拠と、各員の詳細な分析データだ」

ファイルには、アカデミーが保有する過去の膨大な戦闘データ、剛くんや玲奈さんたち特殊能力者『アース』の身体能力の精密な分析結果、擬似怪物の行動アルゴリズムの解析、そして物理法則や行動心理学に基づいた予測モデルが、大学の卒業論文もかくやというレベルで、詳細にまとめられていた。グラフ、数式、考察。昨夜、僕が持てる知識と情熱の全てを注ぎ込んだ、努力の結晶だった。

剛くんは、そのファイルの最初の1ページを、まるで汚いものでも見るかのように、ごつい指先でつまんでめくった。そこに並んだ、運動エネルギーの効率的伝達に関する数式と、筋繊維の疲労度を示すグラフの羅列を見た瞬間、彼の脳の処理能力は限界を超えたらしい。彼は「うげっ」とカエルが潰れたような短い悲鳴を上げると、ファイルをまるで害虫でも払いのけるかのように、バサッ!と乱暴に投げ出した。紙の束が床に散らばり、僕の徹夜の努力が虚しく舞う。

「読めるか、こんなもん! わけのわかんねぇミミズが這ったような記号ばっかじゃねぇか!」
彼は立ち上がると、ドン、と力強く自分の胸を叩いた。その音が、部屋に鈍く響く。
「大体な、ガリ勉! 戦いってのはな、頭でやるもんじゃねぇんだよ! 体で! 魂で! やるもんだ! その場で感じて、動くんだよ!」
「……どこかの幼馴染も、似たようなことを言っていたな」
僕が思わず漏らした呟きに、剛くんが「あぁ!?」と凄む。
「いや、なんでもない。こっちの話だ」

剛くんは、僕の努力の結晶である模造紙を、心底軽蔑した目で見下ろした。
「こんなもん、ただの机上の空論だ! んなもん見てる暇があったら、腕立てでもして筋肉つけた方がよっぽどマシだ! くだらねぇ!」

――机上の空論。
また、その言葉だ。佐伯教官に言われたのと同じ、僕が最も恐れていた言葉。それは、僕が徹夜で注ぎ込んだ情熱と、僕が唯一誇れる武器である知識の全てを、真正面から否定する、最も重く、最も残酷な言葉だった。悔しさで、唇が震える。目の前が、ぐにゃりと歪んだ気がした。せっかく絞り出した勇気が、彼のたった一言で、砂の城のように崩れ去っていく。

(やはり、ダメなのか……。このチームでは、僕の言葉は、僕の考えは、永遠に届かないのか……)

僕が俯きかけ、全てを諦めようとした、その時だった。

「面白いわね」

凛とした、静かな声が、淀んだ空気を切り裂くように響いた。
声の主は、神楽院玲奈さんだった。
彼女は、剛くんが投げ出したファイルの束の中から、一冊を、まるで貴重な古文書でも拾い上げるかのように、優雅な仕草で手に取ると、興味深そうにページをめくっていた。その白い指が、ある一点で、ぴたりと止まる。

「この部分……」

彼女は、そこに書かれた一文を、静かに読み上げた。その声は、感情を排しているようでいて、どこか確かな好奇の色を帯びていた。
「『赤城剛の最大筋出力は、アドレナリン分泌量がピークに達する戦闘開始後90秒で最大値となり、その後は乳酸の蓄積により、二次関数的に急激な低下を見せる。対して、神楽院玲奈の特殊能力――空間固定――の精度は、周囲の状況を完全に把握し、心拍数が安定する戦闘開始後120秒以降に最大化する傾向が強い』」

玲奈さんは、そこに書かれた自分自身の、そして剛くんの極めてパーソナルな分析データを読み上げると、ふっと、その常に氷のように固く閉ざされていた口元に、微かな、本当に微かな、しかし確かな笑みを浮かべた。それは、僕が初めて見る彼女の表情だった。

「私の心拍数データまで分析したの? あなた、正直言って、気味が悪いわね。ストーカーの素質があるんじゃないかしら」
「い、一応、訓練時のバイタルデータは全チームメンバーに共有されてるから、その……同意は得たつもりだけど」

玲奈さんは、僕のしどろもどろな言い訳を気にも留めず、続けた。その美しい瞳は、もうファイルにはなく、まっすぐに僕を見据えていた。初めて、彼女の視界に僕という人間がはっきりと映った気がした。

「つまり、こういうことかしら。戦闘開始直後の、最も猪武者さんが暴走しやすい時間帯は、私が彼の無駄な消耗を最小限に抑えるように、敵の数を減らし、あるいは動きを牽制するに留める。そして、彼のパワーがピークを過ぎて、ただの的になり下がる頃に、今度は私の能力の精度が最大になるから、そこで一気に勝負を決める。互いの能力のピークが、意図的にずらされている。だからこそ、二つを組み合わせることで、チームとして、常に最大戦力を維持し続けることができる、と」

僕は、こくこくと、首がもげるほどに頷いた。そうだ、その通りだ。やっと、やっと分かってくれる人がいた。僕の言葉が、僕の思考が、初めて他人に届いた。その感動で、胸が熱くなる。

「その通りだ! 君たちの能力は、一見すると水と油。ひたすら破壊を突き詰めたパワー型の剛くんと、精密な制御を極めた玲奈さん。あまりにもタイプが違いすぎる。でも、だからこそ、互いの弱点を完璧に補い合える関係なんだ! 問題は、君たちの能力そのものじゃなかった。問題は、その『組み合わせ方』と『タイミング』だったんだよ!」

熱が、こもる。言葉が、溢れ出す。僕が本当に言いたかったこと。それは、個々の部品の性能を嘆くことじゃない。その繋がり方、関係性こそが、全てを決めるということだ。どんなに優秀なエンジンと、どんなに高性能なタイヤを持っていても、それらを正しく繋ぐ設計図がなければ、車は一ミリも動かない。ただの鉄屑のままだ。僕たちは、今までただの鉄屑だったんだ。

僕のその言葉に、玲奈さんは初めて、僕という人間を真正面から見た。その深い色の瞳には、もう侮蔑も無関心もなかった。そこには、確かな「興味」という名の光が、静かに、しかしはっきりと灯っていた。

玲奈さんは、ファイルをぱたりと閉じると、今度は呆然と立ち尽くす剛くんに向き直った。

「猪武者さん」
「……なんだよ」
「残念だけど、今の私たちに必要なのは、あなたのその使い古された根性論ではなく、彼のその気味の悪い『机上の空論』の方みたいよ」
「なっ!?」

玲奈さんの、鶴の一声。それは、このチームの絶対的だと思われたパワーバランスが、ほんの少しだけ、確かに動いた歴史的な瞬間だった。剛くんの筋肉と玲奈さんの美貌という二大政権の間に、僕の「知識」という、ひ弱で頼りない第三極が、かろうじて、本当に辛うじて、一つの議席を得たのだ。

「私は、試してみる価値はあると思うわ。このまま、歴代最低評価の落ちこぼれチームとして、他の生徒たちの笑いものにされ続けるよりは、ずっとマシな選択だと思うけど? あなたのその無駄に高いプライドは、それで満足なのかしら」

それは、完璧な正論だった。そして、その言葉は、誰よりもプライドの高い剛くんにとって、最も効果的な挑発でもあった。彼は他の誰かに見下されることを、何よりも嫌う男なのだから。

剛くんは、「ぐぬぬ……」と、漫画の効果音が聞こえてきそうな顔で唸っていた。額に青筋を浮かべ、ギリギリと歯ぎしりをしている。しかし、あの神楽院玲奈にまでそう言われては、さすがの彼も引き下がるしかなかったらしい。彼は、忌々しげに僕をギロリと睨みつけ、まるで地面に唾でも吐きかけるかのように、吐き捨てた。

「チッ……。わかったよ。今回だけ、てめぇに乗ってやる。だがな、ガリ勉!」
「み、宮沢だ。譲だ」
「どっちでもいい! もしテメェのそのご高説が、何の役にも立たなかったら、そのやけにデカい頭、丸めてアカデミーのグラウンドに埋めてやるからな! 覚えてやがれ!」

それは、決して前向きな同意ではなかった。むしろ、殺害予告に近い。しかし、僕にとっては、何日も続いた厚い雲の隙間から差し込んだ、一筋の、まばゆいばかりの光明のように思えた。

(机上の空論で、終わらせない)

僕は、模造紙の上に広げられた複雑な線を、もう一度、強く見つめた。それはもう、僕の目には、ただの線や文字には見えなかった。バラバラだった僕たち仲間を繋ぐ、運命の糸のように、キラキラと輝いて見えていた。

その時、窓ガラスを、ぽつり、と何かが叩いた。
見ると、こらえきれなくなった空が、大粒の雨を降らせ始めていた。それは、瞬く間にその勢いを増し、ザーッという音で、僕たちの不協和音を優しくかき消していく。湿った土の匂いが、開いた窓から部屋の中に流れ込んできた。

この雨は、このどうしようもないチームにとって、全てを洗い流す浄化の雨となるのだろうか。
それとも、さらなる泥沼への序曲に過ぎないのだろうか。

どちらにせよ、僕の、僕たちの、本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。僕は床に散らばったレポートを拾い集めながら、小さく、しかし確かな手応えを感じていた。
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