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第1部:養成所編
第19話:流転する弱点
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静寂が、戦場を支配していた。
まるで分厚い鉛の毛布のように、音という音を全て吸い尽くし、圧殺するかのような、死の色を帯びた静寂。その静けさの中で、唯一生命の活動を感じさせるのは、ひゅう、と寂寥を乗せて吹き抜ける風の音だけだった。嵐が過ぎ去った後の湿り気をたっぷりと含んだ風は、鉄錆と血の生臭さ、そして硝煙の乾いた匂いをない交ぜにして運び、古代遺跡の広場を幽鬼のように彷徨っている。
『チームJ、戦闘継続は不可能と判断する。最終試験は失敗だ。直ちに撤退せよ』
譲の耳に装着されたインカムから、教官の無機質な音声が 흘러나왔다.感情の起伏を一切排した、まるで合成音声のようなその声は、静まり返った譲の意識の水面に落ちた小石のように、小さな波紋すら立てることなく、ただ意味もなく沈んでいった。ノイズがざらりと混じるその響きは、あまりにも遠い、どこか別の世界の出来事のようにしか聞こえない。鼓膜は確かに震えている。音波として空気の振動を捉えている。だが、その信号が意味のある情報として脳に届くことを、彼の魂の奥底が、本能が、頑なに拒絶していた。
洗い流されたはずの空は、いつの間にか再び厚く、重い鈍色の雲に覆い尽くされていた。雲の隙間から漏れ落ちるわずかな光は、力なく拡散し、広場全体を薄暗いモノクロームの世界へと変えている。苔むした石畳は、夜半の嵐が残した雨水を吸い込んで、しっとりと黒く濡れていた。その石畳の隙間からは、腐葉土と黴の匂いが混じり合った、湿った土の匂いが立ち上り、死の気配と絡み合って、譲の肺腑をじっとりと重く満たしていく。足元で、風に揺れた名も知らぬ草の葉が、カサリ、と乾いた音を立てた。その微かな音ですら、この静寂の中では銃声のように大きく響く。
譲の視界は、ゆっくりと、しかし確実に彩度を失っていく。まるで褪せた古い写真のように、世界から色が抜け落ちていく。彼の網膜に、そして脳裏に焼き付いているのは、ただ、三つの、あまりにも絶望的な光景だけだった。
一つは、広場の端、かつてこの神殿の荘厳な天井を支えていたであろう巨大な柱が崩れ落ち、無残な瓦礫の山と化したその麓。幾重にも重なった石材の隙間から、一本の腕が、力なく突き出ている。チームの盾であり、その豪腕で幾度となく窮地を切り開いてきた剛の腕だ。特殊合金製の強化ガントレットは、まるで紙細工のように捻じ曲がり、砕け散っている。その無惨な残骸の先から覗く生身の腕は、ありえない角度に折れ曲がり、どす黒い血がだらりと流れ落ちて、下の瓦礫を濡らしていた。ぴくりとも動かない。その巨体は、まるで太古の昔からそこに存在していたかのように、この遺跡の一部と化して、静かに、ただ静かに横たわっていた。風が吹き抜けるたび、彼の戦闘服の破れた切れ端が、はたはたと虚しく揺れるだけだった。
二つ目は、その瓦礫の山から少し手前、広場の中央付近で、小さな子供のようにうずくまる玲奈の姿。汚れ一つなかったはずの純白の戦闘服は、泥に汚れ、そして何よりも彼女自身の血で、禍々しい模様を描いていた。普段は気丈な光と、悪戯っぽい輝きに満ちているはずの大きな瞳は、今は激しい苦痛に耐えるように固く閉じられている。きつく結ばれた唇の端から、一筋の赤い血が糸のように流れ落ち、陶器のように白い彼女の肌の上で、非現実的なまでに鮮烈なコントラストを描いていた。か細い肩が、浅く、速い呼吸のたびに、小刻みに震えている。ぜぇ、はっ、ぜぇ、はっ、と、空気を求める苦しげな音が、微かに譲の耳に届いた。彼女の周囲だけ、陽炎のように空気が歪んで見えるのは、最後の力を振り絞って展開した念動力の、制御を失った残滓が空間を乱しているからだろうか。
そして三つ目は、その二つの無残な光景を、そしてなす術もなく立ち尽くす自分自身の全てを、まるで創造主が被造物を見下ろすかのように、冷たく、静かに睥睨する、鉄と絶望の巨大な塊。
最終試験の目標、コードネーム『ガーディアン』。
全長は二十メートルを優に超えるだろうか。蜘蛛のようにも、あるいは古の甲殻類のようにも見える、無数の脚を持つその巨体は、もはや機械というよりも、この地に遥か昔から根を張る岩山そのものだった。幾多の戦闘で刻まれたであろう無数の傷跡が、分厚いチタン合金の装甲に歴戦の風格を与え、長年の風雪に耐えた遺跡の石材と見分けがつかないほどの、絶対的な威圧感を放っている。無数に埋め込まれた複眼のようなセンサー群が、今この瞬間も、不気味な赤い光を、心臓の鼓動のように規則正しく、じっ、じっ、と明滅させていた。それはまるで、致命傷を負わせた獲物が完全に絶命するのを、静かに、冷徹に待ち続けている、巨大な捕食者の姿そのものだった。その全身から立ち昇る濃密な『死』の匂いは、もはや精神的なプレッシャーなどという生易しいものではなく、物理的な圧力となって譲の全身を押し潰さんばかりに、重く、重くのしかかってくる。
負けた。
その二文字が、脳漿に直接熱した鉄の印を押し付けられるような、抗いようのない絶対的な感覚として、譲の思考の全てを支配した。
これまで学んできた全ての戦略。机上で完璧に組み上げたはずの戦術。仲間たちの、そして自分自身の、磨き上げてきた個々の能力。そして、ほんの昨夜、嵐の中でようやく芽生えたばかりの、あの温かく、確かな手応えを感じたはずの絆。その全てが、この圧倒的なまでの『現実』という名の暴力の前に、ガラス細工のように粉々に砕け散った。まるで子供が時間をかけて丁寧に作り上げた砂の城が、無慈"な波に一瞬で攫われていくように、あまりにもあっけなく、跡形もなく。
撤退。
それが、論理的に導き出される唯一の正解だ。生存確率0.12%。この数字が意味するのは、統計学的にはほぼゼロに等しいということだ。これ以上この場所に留まることは、無意味な死、犬死にを意味する。頭では、痛いほど分かっている。脳が、その全ての回路を使って警鐘を乱れ打っている。逃げろ、と。生き延びろ、と。情報を持ち帰れ、と。それが分析官であるお前の、唯一残された役割だ、と。
分かっているのに。
足が、動かない。
まるで太古の呪術師によって、この苔むした石畳に縫い付けられてしまったかのように、一歩も踏み出すことができない。膝から下の感覚が、ない。まるで他人の足のようだ。いや、足どころか、全身に鉛を流し込まれたかのように重く、感覚そのものが麻痺している。風が彼の濡れた髪を揺らし、戦闘服の裾を虚しくはためかせる。だが、譲自身は、この古代遺跡に新たに加わった、一体の風化した石像のように、ただそこに立ち尽くすだけだった。
「……なぜだ」
声にならない、乾いた吐息のような声が、ひび割れた唇から漏れた。口の中に、鉄の味がじわりと広がる。いつの間にか、唇を強く、強く噛み締めていたらしい。
「何かが、違う……」
何が違うというのか。圧倒的な戦力差。為す術もなく打ちのめされた仲間たち。絶望的な状況。何もかもが、最悪のシミュレーション通り、予測通りの敗北だ。この結末以外、ありえなかったはずだ。だが、心の奥底で、理性とは別の何かが、獣のように叫んでいる。このまま終わるべきではない、と。この結論は、この結末は、間違っている、と。
その瞬間だった。
キィン、と。
譲の頭蓋の内側で、耳鳴りとは違う、もっと硬質で、鋭い金属的な高音が鳴り響いた。それは、許容量を遥かに超えた負荷をかけられた精密機械が、断末魔に上げる悲鳴にも似ていた。あるいは、張り詰めきったヴァイオリンの弦が、ぷつりと切れる寸前の、極限の音だったのかもしれない。恐怖が、絶望が、後悔が、そして仲間を見捨てて逃げられないという無意識の抵抗が、彼の脳内に幾重にも張り巡らされた安全装置を、思考のリミッターを、強制的に、暴力的に破壊したのかもしれない。常人であれば、あるいは、ほんの数分前の譲であれば、思考停止という名の自己防衛機能が働いていたであろう、この極限状況下で。
彼の脳だけが、まるで壊れてしまった時計のように、あるいは暴走する原子炉のように、異常な速度で回転を始めていた。
ブツン、と何かが焼き切れる、生々しい感覚。脳の毛細血管が数本、耐えきれずに破裂したのではないか。目の前に、存在しないはずの白い火花がバチバチと散り、視界が一瞬、完全に真っ白に染まった。凄まじい熱量が、彼の脳細胞を猛烈な勢いで焼き尽くしていく。その灼熱地獄の中で、これまでの全ての情報が、記憶が、データが、何億、何兆という数のパズルのピースとなって、彼の意識という名の無限の空間に、暴力的にぶちまけられた。
――ゴオオオオオッ!
昨夜、世界を洗い流すかのように荒れ狂った嵐の記憶が、音と感触を伴って蘇る。テントのフライシートを狂ったように叩きつけ、まるで全身を打ちのめされているかのような、暴力的でさえあった雨粒の感触。肌にまとわりつく、異常なまでに高く、まとわりつくような湿度の記憶。息をするだけで、肺が水で満たされるかのような、あの不快な感覚。
――ザァ……、ポツン、ポツン……。
嵐が去った後の、夜明け前の静寂。洗い清められた木々の葉から、重力に従って滴り落ちる水の音。一つ、また一つと、規則的に水たまりを叩く、あの澄んだ音色。そして、作戦開始地点までの行軍。足元に広がる、ぬかるんだ岩盤の、つるり、と足を滑らせそうになったあの危険な感触。靴底にまとわりつく、粘土質の土の重さ。
――ギ、ギギ……ィィン。
ガーディアンが初めてその巨体を動かした、戦闘開始直後の記憶。全ての関節が、まるで錆びついた巨大な歯車のようにきしみながら駆動する際に発した、ほんの僅かな、しかし確実に存在した音の乱れ。それは、完璧に調律されたオーケストラの中に紛れ込んだ、たった一つの、調律の狂った楽器が奏でる不協和音だった。
――フュン……。
玲奈の渾身の念動力を、まるで蚊を払うかのように、あっさりと弾き返した、あの淡い翠色のエネルギーシールド。展開された瞬間の、ごく微細な、最新鋭の計測機器にすら映らないであろうエネルギーの揺らぎ。その時、周囲の大気中の水分が電離する際に放った、微かな、しかし鋭いオゾンの匂いが、今、鼻腔の奥で再現される。
――ゴッッッ!!!
剛の、文字通り渾身の一撃。特殊合金のガントレットが砕け散った時の、鼓膜を破るかのような轟音と、地面を伝わって足の裏まで届いた衝撃のデータ。反作用の法則に従って、ガーディアンの脚部にも、寸分違わず同等の力が加わったはずだ。その際の反発係数、装甲の減衰率、衝撃吸収のメカニズム。全ての物理データが、数字の羅列となって脳内を駆け巡る。
無意味だと切り捨てていたノイズ。戦闘とは無関係だと判断し、思考のメモリから削除していたはずの環境要因。膨大な、しかしバラバラだった全ての情報が、恐怖と絶望という名の強力な触媒によって、凄まじい勢いで化学反応を起こし始めた。バラバラに散らばっていた無数のパズルのピースが、まるで強力な磁場に引き寄せられる砂鉄のように、一つの答えに向かって、恐るべき速度で収束していく。星々が星座を結び、銀河が渦を巻くように、混沌の中から、一つの明確な『形』が生まれようとしていた。
そして、譲の脳内に、一枚の、あまりにも鮮明な『絵』が完成した。
「……そうか」
鳥肌が、腕から首筋にかけて、ぶわりと総毛立った。
絶望という名の分厚い暗雲に閉ざされていた視界に、一条の、剃刀の刃のように細く、鋭い光が差し込んだ。
ガーディアンのエネルギーシールドは、完璧ではなかった。無敵の盾など、この世には存在しない。
あの記録的な豪雨による、異常なまでの高湿度の環境下。シールドは展開する際、防御力を最大化するために、周囲の大気中に含まれる大量の水分をプラズマ化、電離させることで、その防御フィールドを形成している。だが、それは同時に、乾燥した環境下よりも遥かに多くのエネルギーを、ジェネレーターから継続的に供給されなければならないことを意味する。その過剰な負荷は、システム全体に均等にかかるわけではない。最もエネルギー効率が悪く、最も複雑で精密な動きを絶えず要求される末端部位――常に地面に接し、巨大な本体を支え、移動の起点となる脚部の関節。その関節部分に供給されるシールドの出力が、ほんの僅かに、計測不能なコンマ以下のレベルで、低下している。
それだけでは、弱点とは到底呼べない。象が踏んでも壊れない巨大な金庫の、塗装が僅かに剥げている程度の、取るに足らない、無視できるレベルの欠陥だ。
だが、もう一つのピースが、雷鳴と共にその場所に嵌まった時、その些細な欠陥は、戦局を覆すための唯一無二の設計図へと、その姿を変貌させた。
ぬかるんだ地面。
嵐が残した、この不安定な足場で、あの二十メートルを超える巨体を安定させるためには、常に三本以上の脚で体重を分散させ、ぬかるんだ地面を確実に捉え続ける必要がある。そして、進行方向を変えるため、あるいは攻撃対象に照準を合わせるために、特定の脚にぐっと体重をかけた、その瞬間。
その瞬間だ。
過負荷がかかった一本の脚の関節部。その関節を保護するシールドが、ほんの一瞬――コンマ数秒、いや、おそらくは0.5秒にも満たない、瞬きよりも遥かに短い時間だけ、システム全体への連鎖的なダメージを避けるための自己防御プログラムによって、エネルギー供給を極端に絞るはずだ。
「弱点がないんじゃない……」
譲の唇が、恐怖とは全く違う理由で、わなないた。声帯が震え、意味のある言葉が、ようやく形になる。
「弱点は、常に生まれては、消えているんだ……!」
絶対的で、永遠に揺らぐことのない不動の存在に見えた『強さ』。それもまた、この世界の法則の例外ではありえなかった。環境という名の『縁』によって、常に移ろい、変化し、その形を変え続ける、流動的な現象に過ぎなかった。
仏教の言葉で言う、『諸行無常』。この世に存在するありとあらゆるものは、過去から未来へと流れる時間の中で、一瞬たりとも同じ状態に留まることはない。それは、この無慈悲な鉄の怪物とて、同じこと。
神ですら見逃すであろう、その0.5秒にも満たない、刹那の空白。
そこに、勝率0.00%という絶望的な数値を覆す、唯一の、そして最後の可能性が隠されている。
譲は、この紙よりも薄く、剃刀の刃よりも鋭い一条の希望に、チームの、そして自分自身の、全ての魂を賭けることを決意した。
彼は、震える手で、首元にぶら下がっていたインカムのマイクを、まるで溺れる者が掴む最後の命綱のように強く、強く握りしめた。もはや、彼の心に恐怖は一片もなかった。全身の細胞という細胞が沸騰するような、凄まじい昂揚感。それは、純粋な武者震いだった。心臓が、肋骨の内側で暴れ馬のように跳ねている。ドクン、ドクン、というその力強い鼓動が、全身の隅々にまで熱い血を送り出していく。麻痺していた手足に、再び感覚が戻ってくる。
「剛ッ! 玲奈ッ! 聞こえるかッ!!」
自分の喉が張り裂けるのではないかと思うほどの声量で、彼は絶叫した。それは、もはや分析官の冷静な声ではなかった。腹の底から絞り出した、戦場の指揮官の、魂の咆哮だった。その声は遺跡の苔むした石柱に反響し、こだまとなって死んだはずの広場全体に響き渡った。
「死んだフリはやめろッ! 生きてるなら返事をしろ! 一度だけでいい、僕の言う通りに動いてくれ! これは命令じゃない! 僕からのお願いだッ!!」
静寂は、完全に破られた。
譲の叫びが、死んだはずの戦場に、再び命の火を灯そうとしていた。
数秒の、しかし永遠のように長く感じられる沈黙。インカムからは、ザザッ……という空虚なノイズが聞こえるだけだった。
ダメか。もう、意識が――。譲の心に、再び絶望の影が差し込もうとした、その時だった。
『……ぐる……せえな、モヤシ……。頭に、響くだろが……ッ』
瓦礫の山の下から。ノイズに激しく掻き消されそうになりながらも、苦しげだが、確かに生きている剛の、絞り出すような声が返ってきた。その声には、骨が砕ける激しい痛みと、それでもなお全く失われていない不屈の闘志が、燃え盛る炎のように滲んでいた。
そして、もう一つ。
『……その作戦で死んだら……あの世で、あなたを呪うわ……』
玲奈の、か細く、途切れ途切れの声も、ノイズ混じりに聞こえてくる。その声は、今にも砕け散ってしまいそうなガラス細工のように繊細だったが、その奥には、決して折れることのない、研ぎ澄まされた鋼のような意志が宿っていた。
二人の声。
それは、譲の心に再び叩きつけられた、強力な着火剤だった。砕け散ったはずのチームの心が、彼の魂の絶叫によって、か細いが、しかし確実な一本の糸で、再び固く、固く繋ぎ合わされたのだ。
「小林君! 聞こえるか、小林君!」
意識を失っているはずの、最後のメンバーに呼びかける。この作戦には、四人全員が必要だ。
『は、はいぃっ! ぼ、僕、生きてますぅ……!』
悪夢から無理やり引きずり出されたような、情けないが、必死な声が返ってきた。広場の隅で倒れていた小林が、最初の砲撃音で失神していたものの、譲の絶叫で無理やり意識を取り戻したのだ。
四つの魂が、再び繋がった。
譲は、矢継ぎ早に、しかし先ほどまでの彼からは想像もつかないほど明瞭で、力強い声で指示を飛ばした。その言葉の一つ一つは、常人が聞けば狂気の沙汰としか思えないだろう。だが、その声には、聞く者を否応なく従わせる、不思議な説得力と燃えるような熱が満ち満ちていた。
「小林君! 君の仕事が、この作戦の成否を決める! いいか、よく聞け! ガーディアンの左後方、あの大きな岩陰が見えるか! あそこまで全力で走れ! そして、持ってるライフルの弾がなくなるまで、空に向かって撃ち続けるんだ! 狙いは定めるな、ただひたすら音を立てて、あいつの注意を引け! いいな!?」
『む、む、無理ですぅ! 食べられちゃいますぅ! おしっこ漏れそうですぅ!』
インカムの向こうで、ガチガチと歯の根が合わない音が聞こえてくるほどの、怯えきった声が返ってくる。
「君にしかできない! 君の臆病さが、今は最大の武器になるんだ! 誰よりも必死に、誰よりも無様に逃げて、あいつの気を引く! 頼む! 僕らを助けてくれ!」
「玲奈! ガーディアンが小林君の方を向いて、その巨体を捻った瞬間だ! 残った全ての力を使って、あいつの右から三番目の脚の真下の地面を、ありったけの力で泥沼に変えてくれ! 深く、粘り気のある、本物の沼に!」
『……分かったわ。……これが、最後になるかもね』
覚悟を決めた、静かで、しかし凛とした声が返ってきた。
「そして、剛!」
『ああ、分かってる。……お前のその声を聞いてりゃ、何をさせたいかくらい、分かる』
譲が言い切る前に、剛の、全てを理解した声が重なった。
「ガーディアンの脚が泥沼に踏み込み、体勢が崩れた、その一瞬だ! その時、第三関節の冷却パイプが剥き出しになる部分だけを狙え! そこだけを、お前の最大パワーで、叩き潰せ!」
作戦は、実行に移された。
「うわああああああああああん! ママぁーっ!」
全ての始まりは、一人の少年の、英雄とはおよそかけ離れた、情けない絶叫だった。
小林が、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも、必死に走り出した。赤ん坊のような泣き声を上げながら、もつれる足を必死に前に進める。その姿は、英雄とはほど遠い、ただの臆病な少年そのものだった。だが、その生存本能からくる必死さが、ガーディアンの注意を引くには十分すぎた。岩陰に文字通り転がり込むようにしてたどり着くと、彼は震える手でライフルのセーフティを外し、引き金を引いた。
ダダダダダダダダダッ!!
けたたましい銃声が、再び死の静寂に包まれようとしていた広場に、激しく、そして虚しく響き渡った。意味のない弾丸が、鉛色の空に向かって次々と吸い込まれていく。
その音に、ガーディアンの無数の複眼が、機械的な精密さで、一斉に小林の隠れた岩陰の方を向いた。ギ、ギ、ギ、と、巨大な首が軋む音が、不気味に響き渡る。
「今よ……!」
玲奈が、最後の生命力を燃やすように、精神を振り絞る。彼女の瞳が、この薄暗い広場の中で、燐光のように青白く発光した。ごふっ、と彼女の口から血の塊が吐き出される。それほどの精神集中。彼女の伸ばした指先から、目には見えない力の波紋が放たれ、ガーディアンの足元の地面が、まるで意思を持った生き物のように、ぐにゃり、と音もなく液状化した。それはもはや土ではなく、獲物を捕らえて離さない、粘り気のある、底なしの沼だった。
ギギギ……ッ!
注意を完全に小林に逸らされたガーディアンが、その足元の致命的な変化に気づくことなく、巨体を捻る。視界の端でちょろちょろと動き回る、邪魔な虫けらを排除するために。
そして、その右から三番目の、巨大な鋼鉄の脚が、玲奈が最後の力で作り出した見えない泥沼へと、深く、深く沈み込んでいった。
ズブッ、と。水気の多い土が立てる、鈍く、嫌な音がした。
ぐらり、と。
それまで決して揺らぐことのなかった、絶対的な安定を誇っていた鉄の山が、大きく、大きく傾いだ。
体勢を立て直そうとするガーディアン。その巨体を支えるために、沈み込んだ脚の関節部に、瞬間的に凄まじい負荷がかかる。
ギシッ、ギシギシッ、ミシミシッ!
金属が悲鳴を上げる。装甲が歪み、シールドが自己防御のために最も薄くなる、運命の0.5秒が訪れる。
関節部の装甲が僅かに開き、内部に収められていた冷却パイプが、一瞬だけ、その無防備な姿を晒した。そこから、圧縮された冷却ガスが、白い煙となってプシュッと漏れ出すのが、スローモーションのように見えた。
その、神の目ですら捉えきれないであろう刹那を、譲は見逃さなかった。
彼の、もはや人間業とは思えない、魂そのものを音に変えたかのような絶叫が、遺跡全体に木霊した。
「今だあああああああああっ!!!!」
まるで分厚い鉛の毛布のように、音という音を全て吸い尽くし、圧殺するかのような、死の色を帯びた静寂。その静けさの中で、唯一生命の活動を感じさせるのは、ひゅう、と寂寥を乗せて吹き抜ける風の音だけだった。嵐が過ぎ去った後の湿り気をたっぷりと含んだ風は、鉄錆と血の生臭さ、そして硝煙の乾いた匂いをない交ぜにして運び、古代遺跡の広場を幽鬼のように彷徨っている。
『チームJ、戦闘継続は不可能と判断する。最終試験は失敗だ。直ちに撤退せよ』
譲の耳に装着されたインカムから、教官の無機質な音声が 흘러나왔다.感情の起伏を一切排した、まるで合成音声のようなその声は、静まり返った譲の意識の水面に落ちた小石のように、小さな波紋すら立てることなく、ただ意味もなく沈んでいった。ノイズがざらりと混じるその響きは、あまりにも遠い、どこか別の世界の出来事のようにしか聞こえない。鼓膜は確かに震えている。音波として空気の振動を捉えている。だが、その信号が意味のある情報として脳に届くことを、彼の魂の奥底が、本能が、頑なに拒絶していた。
洗い流されたはずの空は、いつの間にか再び厚く、重い鈍色の雲に覆い尽くされていた。雲の隙間から漏れ落ちるわずかな光は、力なく拡散し、広場全体を薄暗いモノクロームの世界へと変えている。苔むした石畳は、夜半の嵐が残した雨水を吸い込んで、しっとりと黒く濡れていた。その石畳の隙間からは、腐葉土と黴の匂いが混じり合った、湿った土の匂いが立ち上り、死の気配と絡み合って、譲の肺腑をじっとりと重く満たしていく。足元で、風に揺れた名も知らぬ草の葉が、カサリ、と乾いた音を立てた。その微かな音ですら、この静寂の中では銃声のように大きく響く。
譲の視界は、ゆっくりと、しかし確実に彩度を失っていく。まるで褪せた古い写真のように、世界から色が抜け落ちていく。彼の網膜に、そして脳裏に焼き付いているのは、ただ、三つの、あまりにも絶望的な光景だけだった。
一つは、広場の端、かつてこの神殿の荘厳な天井を支えていたであろう巨大な柱が崩れ落ち、無残な瓦礫の山と化したその麓。幾重にも重なった石材の隙間から、一本の腕が、力なく突き出ている。チームの盾であり、その豪腕で幾度となく窮地を切り開いてきた剛の腕だ。特殊合金製の強化ガントレットは、まるで紙細工のように捻じ曲がり、砕け散っている。その無惨な残骸の先から覗く生身の腕は、ありえない角度に折れ曲がり、どす黒い血がだらりと流れ落ちて、下の瓦礫を濡らしていた。ぴくりとも動かない。その巨体は、まるで太古の昔からそこに存在していたかのように、この遺跡の一部と化して、静かに、ただ静かに横たわっていた。風が吹き抜けるたび、彼の戦闘服の破れた切れ端が、はたはたと虚しく揺れるだけだった。
二つ目は、その瓦礫の山から少し手前、広場の中央付近で、小さな子供のようにうずくまる玲奈の姿。汚れ一つなかったはずの純白の戦闘服は、泥に汚れ、そして何よりも彼女自身の血で、禍々しい模様を描いていた。普段は気丈な光と、悪戯っぽい輝きに満ちているはずの大きな瞳は、今は激しい苦痛に耐えるように固く閉じられている。きつく結ばれた唇の端から、一筋の赤い血が糸のように流れ落ち、陶器のように白い彼女の肌の上で、非現実的なまでに鮮烈なコントラストを描いていた。か細い肩が、浅く、速い呼吸のたびに、小刻みに震えている。ぜぇ、はっ、ぜぇ、はっ、と、空気を求める苦しげな音が、微かに譲の耳に届いた。彼女の周囲だけ、陽炎のように空気が歪んで見えるのは、最後の力を振り絞って展開した念動力の、制御を失った残滓が空間を乱しているからだろうか。
そして三つ目は、その二つの無残な光景を、そしてなす術もなく立ち尽くす自分自身の全てを、まるで創造主が被造物を見下ろすかのように、冷たく、静かに睥睨する、鉄と絶望の巨大な塊。
最終試験の目標、コードネーム『ガーディアン』。
全長は二十メートルを優に超えるだろうか。蜘蛛のようにも、あるいは古の甲殻類のようにも見える、無数の脚を持つその巨体は、もはや機械というよりも、この地に遥か昔から根を張る岩山そのものだった。幾多の戦闘で刻まれたであろう無数の傷跡が、分厚いチタン合金の装甲に歴戦の風格を与え、長年の風雪に耐えた遺跡の石材と見分けがつかないほどの、絶対的な威圧感を放っている。無数に埋め込まれた複眼のようなセンサー群が、今この瞬間も、不気味な赤い光を、心臓の鼓動のように規則正しく、じっ、じっ、と明滅させていた。それはまるで、致命傷を負わせた獲物が完全に絶命するのを、静かに、冷徹に待ち続けている、巨大な捕食者の姿そのものだった。その全身から立ち昇る濃密な『死』の匂いは、もはや精神的なプレッシャーなどという生易しいものではなく、物理的な圧力となって譲の全身を押し潰さんばかりに、重く、重くのしかかってくる。
負けた。
その二文字が、脳漿に直接熱した鉄の印を押し付けられるような、抗いようのない絶対的な感覚として、譲の思考の全てを支配した。
これまで学んできた全ての戦略。机上で完璧に組み上げたはずの戦術。仲間たちの、そして自分自身の、磨き上げてきた個々の能力。そして、ほんの昨夜、嵐の中でようやく芽生えたばかりの、あの温かく、確かな手応えを感じたはずの絆。その全てが、この圧倒的なまでの『現実』という名の暴力の前に、ガラス細工のように粉々に砕け散った。まるで子供が時間をかけて丁寧に作り上げた砂の城が、無慈"な波に一瞬で攫われていくように、あまりにもあっけなく、跡形もなく。
撤退。
それが、論理的に導き出される唯一の正解だ。生存確率0.12%。この数字が意味するのは、統計学的にはほぼゼロに等しいということだ。これ以上この場所に留まることは、無意味な死、犬死にを意味する。頭では、痛いほど分かっている。脳が、その全ての回路を使って警鐘を乱れ打っている。逃げろ、と。生き延びろ、と。情報を持ち帰れ、と。それが分析官であるお前の、唯一残された役割だ、と。
分かっているのに。
足が、動かない。
まるで太古の呪術師によって、この苔むした石畳に縫い付けられてしまったかのように、一歩も踏み出すことができない。膝から下の感覚が、ない。まるで他人の足のようだ。いや、足どころか、全身に鉛を流し込まれたかのように重く、感覚そのものが麻痺している。風が彼の濡れた髪を揺らし、戦闘服の裾を虚しくはためかせる。だが、譲自身は、この古代遺跡に新たに加わった、一体の風化した石像のように、ただそこに立ち尽くすだけだった。
「……なぜだ」
声にならない、乾いた吐息のような声が、ひび割れた唇から漏れた。口の中に、鉄の味がじわりと広がる。いつの間にか、唇を強く、強く噛み締めていたらしい。
「何かが、違う……」
何が違うというのか。圧倒的な戦力差。為す術もなく打ちのめされた仲間たち。絶望的な状況。何もかもが、最悪のシミュレーション通り、予測通りの敗北だ。この結末以外、ありえなかったはずだ。だが、心の奥底で、理性とは別の何かが、獣のように叫んでいる。このまま終わるべきではない、と。この結論は、この結末は、間違っている、と。
その瞬間だった。
キィン、と。
譲の頭蓋の内側で、耳鳴りとは違う、もっと硬質で、鋭い金属的な高音が鳴り響いた。それは、許容量を遥かに超えた負荷をかけられた精密機械が、断末魔に上げる悲鳴にも似ていた。あるいは、張り詰めきったヴァイオリンの弦が、ぷつりと切れる寸前の、極限の音だったのかもしれない。恐怖が、絶望が、後悔が、そして仲間を見捨てて逃げられないという無意識の抵抗が、彼の脳内に幾重にも張り巡らされた安全装置を、思考のリミッターを、強制的に、暴力的に破壊したのかもしれない。常人であれば、あるいは、ほんの数分前の譲であれば、思考停止という名の自己防衛機能が働いていたであろう、この極限状況下で。
彼の脳だけが、まるで壊れてしまった時計のように、あるいは暴走する原子炉のように、異常な速度で回転を始めていた。
ブツン、と何かが焼き切れる、生々しい感覚。脳の毛細血管が数本、耐えきれずに破裂したのではないか。目の前に、存在しないはずの白い火花がバチバチと散り、視界が一瞬、完全に真っ白に染まった。凄まじい熱量が、彼の脳細胞を猛烈な勢いで焼き尽くしていく。その灼熱地獄の中で、これまでの全ての情報が、記憶が、データが、何億、何兆という数のパズルのピースとなって、彼の意識という名の無限の空間に、暴力的にぶちまけられた。
――ゴオオオオオッ!
昨夜、世界を洗い流すかのように荒れ狂った嵐の記憶が、音と感触を伴って蘇る。テントのフライシートを狂ったように叩きつけ、まるで全身を打ちのめされているかのような、暴力的でさえあった雨粒の感触。肌にまとわりつく、異常なまでに高く、まとわりつくような湿度の記憶。息をするだけで、肺が水で満たされるかのような、あの不快な感覚。
――ザァ……、ポツン、ポツン……。
嵐が去った後の、夜明け前の静寂。洗い清められた木々の葉から、重力に従って滴り落ちる水の音。一つ、また一つと、規則的に水たまりを叩く、あの澄んだ音色。そして、作戦開始地点までの行軍。足元に広がる、ぬかるんだ岩盤の、つるり、と足を滑らせそうになったあの危険な感触。靴底にまとわりつく、粘土質の土の重さ。
――ギ、ギギ……ィィン。
ガーディアンが初めてその巨体を動かした、戦闘開始直後の記憶。全ての関節が、まるで錆びついた巨大な歯車のようにきしみながら駆動する際に発した、ほんの僅かな、しかし確実に存在した音の乱れ。それは、完璧に調律されたオーケストラの中に紛れ込んだ、たった一つの、調律の狂った楽器が奏でる不協和音だった。
――フュン……。
玲奈の渾身の念動力を、まるで蚊を払うかのように、あっさりと弾き返した、あの淡い翠色のエネルギーシールド。展開された瞬間の、ごく微細な、最新鋭の計測機器にすら映らないであろうエネルギーの揺らぎ。その時、周囲の大気中の水分が電離する際に放った、微かな、しかし鋭いオゾンの匂いが、今、鼻腔の奥で再現される。
――ゴッッッ!!!
剛の、文字通り渾身の一撃。特殊合金のガントレットが砕け散った時の、鼓膜を破るかのような轟音と、地面を伝わって足の裏まで届いた衝撃のデータ。反作用の法則に従って、ガーディアンの脚部にも、寸分違わず同等の力が加わったはずだ。その際の反発係数、装甲の減衰率、衝撃吸収のメカニズム。全ての物理データが、数字の羅列となって脳内を駆け巡る。
無意味だと切り捨てていたノイズ。戦闘とは無関係だと判断し、思考のメモリから削除していたはずの環境要因。膨大な、しかしバラバラだった全ての情報が、恐怖と絶望という名の強力な触媒によって、凄まじい勢いで化学反応を起こし始めた。バラバラに散らばっていた無数のパズルのピースが、まるで強力な磁場に引き寄せられる砂鉄のように、一つの答えに向かって、恐るべき速度で収束していく。星々が星座を結び、銀河が渦を巻くように、混沌の中から、一つの明確な『形』が生まれようとしていた。
そして、譲の脳内に、一枚の、あまりにも鮮明な『絵』が完成した。
「……そうか」
鳥肌が、腕から首筋にかけて、ぶわりと総毛立った。
絶望という名の分厚い暗雲に閉ざされていた視界に、一条の、剃刀の刃のように細く、鋭い光が差し込んだ。
ガーディアンのエネルギーシールドは、完璧ではなかった。無敵の盾など、この世には存在しない。
あの記録的な豪雨による、異常なまでの高湿度の環境下。シールドは展開する際、防御力を最大化するために、周囲の大気中に含まれる大量の水分をプラズマ化、電離させることで、その防御フィールドを形成している。だが、それは同時に、乾燥した環境下よりも遥かに多くのエネルギーを、ジェネレーターから継続的に供給されなければならないことを意味する。その過剰な負荷は、システム全体に均等にかかるわけではない。最もエネルギー効率が悪く、最も複雑で精密な動きを絶えず要求される末端部位――常に地面に接し、巨大な本体を支え、移動の起点となる脚部の関節。その関節部分に供給されるシールドの出力が、ほんの僅かに、計測不能なコンマ以下のレベルで、低下している。
それだけでは、弱点とは到底呼べない。象が踏んでも壊れない巨大な金庫の、塗装が僅かに剥げている程度の、取るに足らない、無視できるレベルの欠陥だ。
だが、もう一つのピースが、雷鳴と共にその場所に嵌まった時、その些細な欠陥は、戦局を覆すための唯一無二の設計図へと、その姿を変貌させた。
ぬかるんだ地面。
嵐が残した、この不安定な足場で、あの二十メートルを超える巨体を安定させるためには、常に三本以上の脚で体重を分散させ、ぬかるんだ地面を確実に捉え続ける必要がある。そして、進行方向を変えるため、あるいは攻撃対象に照準を合わせるために、特定の脚にぐっと体重をかけた、その瞬間。
その瞬間だ。
過負荷がかかった一本の脚の関節部。その関節を保護するシールドが、ほんの一瞬――コンマ数秒、いや、おそらくは0.5秒にも満たない、瞬きよりも遥かに短い時間だけ、システム全体への連鎖的なダメージを避けるための自己防御プログラムによって、エネルギー供給を極端に絞るはずだ。
「弱点がないんじゃない……」
譲の唇が、恐怖とは全く違う理由で、わなないた。声帯が震え、意味のある言葉が、ようやく形になる。
「弱点は、常に生まれては、消えているんだ……!」
絶対的で、永遠に揺らぐことのない不動の存在に見えた『強さ』。それもまた、この世界の法則の例外ではありえなかった。環境という名の『縁』によって、常に移ろい、変化し、その形を変え続ける、流動的な現象に過ぎなかった。
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そこに、勝率0.00%という絶望的な数値を覆す、唯一の、そして最後の可能性が隠されている。
譲は、この紙よりも薄く、剃刀の刃よりも鋭い一条の希望に、チームの、そして自分自身の、全ての魂を賭けることを決意した。
彼は、震える手で、首元にぶら下がっていたインカムのマイクを、まるで溺れる者が掴む最後の命綱のように強く、強く握りしめた。もはや、彼の心に恐怖は一片もなかった。全身の細胞という細胞が沸騰するような、凄まじい昂揚感。それは、純粋な武者震いだった。心臓が、肋骨の内側で暴れ馬のように跳ねている。ドクン、ドクン、というその力強い鼓動が、全身の隅々にまで熱い血を送り出していく。麻痺していた手足に、再び感覚が戻ってくる。
「剛ッ! 玲奈ッ! 聞こえるかッ!!」
自分の喉が張り裂けるのではないかと思うほどの声量で、彼は絶叫した。それは、もはや分析官の冷静な声ではなかった。腹の底から絞り出した、戦場の指揮官の、魂の咆哮だった。その声は遺跡の苔むした石柱に反響し、こだまとなって死んだはずの広場全体に響き渡った。
「死んだフリはやめろッ! 生きてるなら返事をしろ! 一度だけでいい、僕の言う通りに動いてくれ! これは命令じゃない! 僕からのお願いだッ!!」
静寂は、完全に破られた。
譲の叫びが、死んだはずの戦場に、再び命の火を灯そうとしていた。
数秒の、しかし永遠のように長く感じられる沈黙。インカムからは、ザザッ……という空虚なノイズが聞こえるだけだった。
ダメか。もう、意識が――。譲の心に、再び絶望の影が差し込もうとした、その時だった。
『……ぐる……せえな、モヤシ……。頭に、響くだろが……ッ』
瓦礫の山の下から。ノイズに激しく掻き消されそうになりながらも、苦しげだが、確かに生きている剛の、絞り出すような声が返ってきた。その声には、骨が砕ける激しい痛みと、それでもなお全く失われていない不屈の闘志が、燃え盛る炎のように滲んでいた。
そして、もう一つ。
『……その作戦で死んだら……あの世で、あなたを呪うわ……』
玲奈の、か細く、途切れ途切れの声も、ノイズ混じりに聞こえてくる。その声は、今にも砕け散ってしまいそうなガラス細工のように繊細だったが、その奥には、決して折れることのない、研ぎ澄まされた鋼のような意志が宿っていた。
二人の声。
それは、譲の心に再び叩きつけられた、強力な着火剤だった。砕け散ったはずのチームの心が、彼の魂の絶叫によって、か細いが、しかし確実な一本の糸で、再び固く、固く繋ぎ合わされたのだ。
「小林君! 聞こえるか、小林君!」
意識を失っているはずの、最後のメンバーに呼びかける。この作戦には、四人全員が必要だ。
『は、はいぃっ! ぼ、僕、生きてますぅ……!』
悪夢から無理やり引きずり出されたような、情けないが、必死な声が返ってきた。広場の隅で倒れていた小林が、最初の砲撃音で失神していたものの、譲の絶叫で無理やり意識を取り戻したのだ。
四つの魂が、再び繋がった。
譲は、矢継ぎ早に、しかし先ほどまでの彼からは想像もつかないほど明瞭で、力強い声で指示を飛ばした。その言葉の一つ一つは、常人が聞けば狂気の沙汰としか思えないだろう。だが、その声には、聞く者を否応なく従わせる、不思議な説得力と燃えるような熱が満ち満ちていた。
「小林君! 君の仕事が、この作戦の成否を決める! いいか、よく聞け! ガーディアンの左後方、あの大きな岩陰が見えるか! あそこまで全力で走れ! そして、持ってるライフルの弾がなくなるまで、空に向かって撃ち続けるんだ! 狙いは定めるな、ただひたすら音を立てて、あいつの注意を引け! いいな!?」
『む、む、無理ですぅ! 食べられちゃいますぅ! おしっこ漏れそうですぅ!』
インカムの向こうで、ガチガチと歯の根が合わない音が聞こえてくるほどの、怯えきった声が返ってくる。
「君にしかできない! 君の臆病さが、今は最大の武器になるんだ! 誰よりも必死に、誰よりも無様に逃げて、あいつの気を引く! 頼む! 僕らを助けてくれ!」
「玲奈! ガーディアンが小林君の方を向いて、その巨体を捻った瞬間だ! 残った全ての力を使って、あいつの右から三番目の脚の真下の地面を、ありったけの力で泥沼に変えてくれ! 深く、粘り気のある、本物の沼に!」
『……分かったわ。……これが、最後になるかもね』
覚悟を決めた、静かで、しかし凛とした声が返ってきた。
「そして、剛!」
『ああ、分かってる。……お前のその声を聞いてりゃ、何をさせたいかくらい、分かる』
譲が言い切る前に、剛の、全てを理解した声が重なった。
「ガーディアンの脚が泥沼に踏み込み、体勢が崩れた、その一瞬だ! その時、第三関節の冷却パイプが剥き出しになる部分だけを狙え! そこだけを、お前の最大パワーで、叩き潰せ!」
作戦は、実行に移された。
「うわああああああああああん! ママぁーっ!」
全ての始まりは、一人の少年の、英雄とはおよそかけ離れた、情けない絶叫だった。
小林が、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも、必死に走り出した。赤ん坊のような泣き声を上げながら、もつれる足を必死に前に進める。その姿は、英雄とはほど遠い、ただの臆病な少年そのものだった。だが、その生存本能からくる必死さが、ガーディアンの注意を引くには十分すぎた。岩陰に文字通り転がり込むようにしてたどり着くと、彼は震える手でライフルのセーフティを外し、引き金を引いた。
ダダダダダダダダダッ!!
けたたましい銃声が、再び死の静寂に包まれようとしていた広場に、激しく、そして虚しく響き渡った。意味のない弾丸が、鉛色の空に向かって次々と吸い込まれていく。
その音に、ガーディアンの無数の複眼が、機械的な精密さで、一斉に小林の隠れた岩陰の方を向いた。ギ、ギ、ギ、と、巨大な首が軋む音が、不気味に響き渡る。
「今よ……!」
玲奈が、最後の生命力を燃やすように、精神を振り絞る。彼女の瞳が、この薄暗い広場の中で、燐光のように青白く発光した。ごふっ、と彼女の口から血の塊が吐き出される。それほどの精神集中。彼女の伸ばした指先から、目には見えない力の波紋が放たれ、ガーディアンの足元の地面が、まるで意思を持った生き物のように、ぐにゃり、と音もなく液状化した。それはもはや土ではなく、獲物を捕らえて離さない、粘り気のある、底なしの沼だった。
ギギギ……ッ!
注意を完全に小林に逸らされたガーディアンが、その足元の致命的な変化に気づくことなく、巨体を捻る。視界の端でちょろちょろと動き回る、邪魔な虫けらを排除するために。
そして、その右から三番目の、巨大な鋼鉄の脚が、玲奈が最後の力で作り出した見えない泥沼へと、深く、深く沈み込んでいった。
ズブッ、と。水気の多い土が立てる、鈍く、嫌な音がした。
ぐらり、と。
それまで決して揺らぐことのなかった、絶対的な安定を誇っていた鉄の山が、大きく、大きく傾いだ。
体勢を立て直そうとするガーディアン。その巨体を支えるために、沈み込んだ脚の関節部に、瞬間的に凄まじい負荷がかかる。
ギシッ、ギシギシッ、ミシミシッ!
金属が悲鳴を上げる。装甲が歪み、シールドが自己防御のために最も薄くなる、運命の0.5秒が訪れる。
関節部の装甲が僅かに開き、内部に収められていた冷却パイプが、一瞬だけ、その無防備な姿を晒した。そこから、圧縮された冷却ガスが、白い煙となってプシュッと漏れ出すのが、スローモーションのように見えた。
その、神の目ですら捉えきれないであろう刹那を、譲は見逃さなかった。
彼の、もはや人間業とは思えない、魂そのものを音に変えたかのような絶叫が、遺跡全体に木霊した。
「今だあああああああああっ!!!!」
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