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第1部:養成所編
第22話 後方の最前線
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かび臭さとチョークの粉塵が混じり合った、あの独特の匂いがしない。一年間、宮沢譲の学び舎であった普通科の教室とは、何もかもが決定的に異なっていた。後方支援科の専用教室に最初に足を踏み入れた瞬間、彼の肺を満たしたのは、無機質で、ひどく乾燥した空気だった。まるで巨大な電子機器の内部に迷い込んだかのような、オゾンの微かな匂いが鼻腔をくすぐる。
そこは、教室というよりは、遥か深海にその身を沈める超弩級潜水艦の司令室、あるいは惑星間航行を続ける宇宙船のブリッジと呼ぶ方が相応しい空間だった。自然光を取り込む窓は一つもなく、外界から完全に隔絶されている。四方の壁は、その全てが床から天井まで、継ぎ目のない巨大なマルチモニターで埋め尽くされていた。今はまだ電源が落とされ、深い夜の色を湛えたガラスの壁が、部屋の中央に集まる生徒たちの不安げな表情をぼんやりと映し出している。唯一の光源は、天井に等間隔で埋め込まれた非常灯の赤い光と、各コンソールから放たれる待機状態の青白い幽光だけだ。その光が、生徒たちの顔に奇妙な陰影を刻み、まるで能面のようにも見せていた。
部屋の中央には、司令官席を取り囲むように、何十台ものコンソールが同心円状に、完璧な秩序をもって配置されている。譲が割り当てられた席に着くと、人間工学に基づいて設計されたであろう硬質なシートが、彼の身体を寸分の隙間なく受け止めた。ひやりとした背もたれの感触が、制服越しに体温を奪っていく。
耳を澄ますと、世界から音が消えたかのような静寂の中に、いくつかの微かな音が響いていることに気づく。一つは、巨大な空間全体の温度を一定に保つための空調設備の、地鳴りのように低い唸り。それは、途切れることなく続き、腹の底に響くような圧迫感を伴っていた。もう一つは、この司令室の心臓部である、壁の向こうに設置された無数のサーバーが発する、か細くも鋭いファンの回転音。まるで夥しい数の虫が翅を震わせているかのような、神経を逆撫でする高周波音だ。そして、時折、その静寂を破るように、誰かが緊張に耐えかねてキーボードに触れてしまう、カチャ、という乾いた音が響き渡る。その度に、何人かの肩がびくりと震えた。
空気は肌を刺すほどに冷たく、そして重い。まるで、この部屋に充満する膨大な情報そのものが質量を持っているかのようだ。譲は深く息を吸い込んだが、その冷気は彼の緊張を解きほぐすどころか、肺を凍らせ、思考の速度を鈍らせるように感じられた。
やがて、重厚な金属扉が滑るように開き、一人の初老の男が入ってきた。歴戦の軍人を思わせる、厳しくも深い皺が刻まれた顔。彼が教官なのだろう。カツ、カツ、と硬い床を鳴らす彼の足音だけが、やけに大きく部屋に響いた。彼が中央の司令官席に着き、コンソールに指を触れた瞬間、世界は一変した。
壁一面の巨大モニターが一斉に起動し、目に痛いほどの青白い光で室内を白夜のように照らし出した。網膜を焼くような光量に、ほとんどの生徒が思わず目を細める。同時に、譲たちの目の前にある各コンソールも起動し、複雑なインターフェイスが立ち上がった。最初の授業は「戦況分析学」。その無機質な文字が、モニターの中央に表示されていた。
「これより授業を始める」
教官の、マイクを通したかのように明瞭で、しかし感情の温度を感じさせない声が響く。その合図と共に、正面のメインモニターに、過去の大規模戦闘の記録映像が、警告もなしに叩きつけられた。
ザザッ、という激しいノイズと共に映し出されたのは、高層ビルが立ち並ぶ市街地での凄惨な戦闘風景だった。ビルを薙ぎ倒し、アスファルトを巨大な爪で引き裂く、神話から抜け出してきたかのような異形の怪物。その冒涜的な姿に、誰かが「ひっ」と短い悲鳴を漏らす。対する防衛隊の兵士たちは、豆粒のように小さく、あまりに無力に見えた。曳光弾が夜空を赤い筋となって引き裂き、ミサイルが着弾する度に、画面が激しく揺れ、轟音と閃光が鼓膜と視神経を直接殴りつける。兵士たちの、スピーカーが割れるほどの絶叫。肉が引き裂かれ、血飛沫がカメラのレンズを赤く染める。そのあまりにも生々しい映像は、昨日まで平和な日常を送っていた生徒たちの顔から、急速に血の気を奪っていった。何人かは、青ざめた顔で口元を押さえ、こみ上げてくる吐き気と必死に戦っている。
だが、彼らが真に向き合うべきは、その映像が喚起する原始的な恐怖そのものではなかった。
「これより、五年前の『第二次沿岸防衛戦』における、戦闘開始から十五分間のリアルタイムデータを各コンソールに転送する」
教官の非情な宣告が、生徒たちの耳に突き刺さる。
「諸君の任務は、この膨大なデータを解析し、次の十五分間で起こりうるあらゆる戦況を予測すること。そして、その予測に基づき、最も効率的かつ現実的な対応策を立案し、レポートとして提出せよ。制限時間は、同じく十五分」
その言葉が終わるや否や、譲たちの目の前のコンソールに、情報の奔流が暴力的なまでの勢いで叩きつけられた。
『警告!右翼第3小隊、残弾30%! 即時補給を要請!』
『セクター4にて大型種を複数確認! 敵部隊の戦力、当初の予測を大幅に上回ります!』
『緊急! 基幹送電施設に被弾! 大破! 周辺地域の通信能力、87%がダウン!』
『第1戦闘小隊より入電! 負傷者多数! 前線維持、極めて困難!』
味方全部隊の詳細な位置情報。秒単位で更新される敵の出現パターン。高低差や障害物を含む三次元地形データ。各部隊の兵装、弾薬、燃料の消耗率。刻一刻と変化する天候データ。風向き、湿度、視界。さらには、兵士一人ひとりの心拍数やストレス値から算出された心理的負荷指数。後方から前線へ向かう補給部隊の現在位置と、輸送されている物資の残量。
それは、もはや情報ではなかった。無慈悲な洪水だ。膨大なデータが、意味をなす前の単なる記号の羅列となって、生徒たちの思考を麻痺させ、認識能力の限界を殴りつけてくる。
「うわっ、何だこれ…! 何から見ればいいんだよ…」
「情報が、多すぎる…! どこをどう見ても、全部緊急事態じゃないか!」
ほとんどの生徒が、何から手をつけていいのか皆目見当もつかず、ただ画面上を右往左往させるマウスカーソルと共に、静かなパニックの渦に呑み込まれていた。額に脂汗を浮かべ、浅い呼吸を繰り返す者。意味もなくウィンドウを開いては閉じ、時間を浪費する者。カタカタと小刻みに震える指で、タイプミスを繰り返す者。先ほどまでの静寂は完全に消え去り、焦燥と混乱が、冷たい司令室の空気をじっとりと湿らせていた。
だが、その喧騒と絶望のただ中で、宮沢譲だけが、異質なほどに静かだった。彼は、まるで長年連れ添った愛用のグランドピアノを前にした熟練のピアニストのように、あるいは複雑な外科手術に臨む天才外科医のように、静かに、そして滑らかに両手の指を動かしていた。その背筋は真っ直ぐに伸び、表情には何の感情も浮かんでいない。
彼の目には、他の生徒たちが見ている混沌と絶望に満ちた戦場が、全く違う景色として映っていた。
味方の兵士から送られてくる悲鳴混じりの通信は、彼にとっては感情を揺さぶる叫びではなく、意味を持つ変数(パラメータ)に過ぎなかった。無秩序に動き回っているように見える敵の赤いアイコンは、明確な意図と目的を持つベクトルへと変換される。兵士たちの消耗率を示すグラフは、ただの下降線ではなく、未来を予測する美しい減衰曲線として認識された。彼の脳内で、あの凄惨な戦場は、一つの巨大で、どこまでも複雑で、しかし必ず解を持つ方程式へと、瞬く間に再構築されていく。
譲は、右手でマウスを操り、複数のウィンドウを瞬時に切り替え、必要なデータを抽出していく。カチッ、カチッ、という最小限のクリック音。左手はキーボードの上を舞う。タタタタッ、タンッ! 彼の指先から生み出される無数のコマンドが、無秩序な情報の奔流を、まるで熟練の羊飼いが羊の群れを導くように、瞬く間に整理し、フィルタリングし、可視化していく。
(興味深い…敵の主力と思われる部隊の動きが、あまりに派手すぎる。これは陽動だ。彼らの本命は、基幹送電施設の破壊による、こちらの通信網の完全なる麻痺だ。指揮系統を断ち、各部隊を孤立させ、情報のやり取りを不可能にする。そうなれば、たとえ数の上で劣る敵であろうと、混乱した我々の部隊を各個撃破することは容易になる。実に合理的で、狡猾な戦術だ…)
譲の思考は、熱もなければ冷たさもない、純粋な論理の領域にあった。そこには恐怖も、焦りも、憐憫も存在しない。彼はまるで、神の視点からチェス盤を眺めるように、戦場のすべてを、その隅々までを俯瞰していた。駒の一つ一つの動き、その先に起こりうる幾千もの可能性の枝分かれ、そして、それらが収束していく唯一の未来を、彼は既に見通していた。
制限時間が残り五分を切った頃、司令室内の混乱が最高潮に達しようとしていた、その時。譲は、すっ、と静かに右手を挙げた。そのあまりに落ち着き払った動作が、逆に周囲の注目を集める。
「教官」
彼の淡々とした、しかしよく通る声が、喧騒に満ちた司令室に奇妙な静寂をもたらした。誰もが、何事かと彼の方を振り返る。
「3分12秒後、セクターB-7に位置する老朽化したオフィスビルが、現在接近中の大型種の侵攻によって引き起こされる地盤振動で崩落します。それにより、現在そのビルの陰に潜み、敵主力の側面を突く機会を窺っている我が方の第2小隊が、完全に退路を断たれ、瓦礫の下で孤立する確率が92%です」
教官を含む、その場にいた全員の時間が止まった。譲の口から紡がれた言葉は、あまりに具体的で、あまりに確信に満ちていた。
「同時に、敵の別動隊と思われる遊撃部隊が、手薄になった第5セクターの補給路を叩く可能性が極めて高い。孤立した第2小隊は、救援も補給も受けられないまま、瓦礫の中で敵の集中攻撃を受け、10分以内に壊滅します。対策として、今すぐ予備戦力である第4小隊を第5セクター防衛へと再配置し、補給路を固めると同時に、第2小隊には作戦を中止し、即時撤退するよう命令を下すべきです」
司令室は、水を打ったように静まり返っていた。ただ、譲の声だけが響いている。教官は、驚愕に目を見張っていた。その鉄仮面のような表情が、わずかに揺らいでいる。なぜなら、譲が今、淀みなく口にした作戦は、五年前に実際にこの戦闘で作戦指揮を執った、百戦錬磨の司令官が、司令室の誰もが絶望に沈む中、苦悩に満ちた長い長い沈黙の末に、ようやく下した最終判断と、一言一句違わぬものだったからだ。当時、まだ幼い子供であったはずのこの少年が、なぜそれを知っている? いや、知っているのではない。この場で、ゼロからその結論に辿り着いたのだ。
「……見事だ、宮沢」
やがて、教官は絞り出すように言った。その声には、隠しきれない賞賛の色が滲んでいた。
「君の分析は、完璧だ」
その言葉に、教室がざわめいた。信じられない、という表情で譲を見る者、嫉妬と畏怖の入り混じった視線を向ける者。だが、譲はただ静かに、教官を見つめ返しているだけだった。
「だが」
教官は続けた。その声には、先ほどの賞賛とは裏腹に、微かな、しかし鋭い棘が含まれていた。
「覚えておけ。現場とは、君のその完璧な計算通りには決して動かない、混沌(カオス)の塊だ。君のその完璧なレポート一枚で、救える命もあれば、どうしても救えない命もある。そのことを、ゆめゆめ忘れるな」
その言葉の本当の意味を、その重さを、譲は次の訓練で、骨身に染みて理解することになるのだった。
---
訓練の舞台は、あの無機質な司令室から一転した。消毒液のツンとした刺激臭と、鉄錆のような血糊の甘ったるい匂いが混じり合った、生々しい空気が漂う実習室。それが、午後の授業「負傷者救護訓練」の場だった。
だだっ広いコンクリート打ちっ放しの床には、数十体もの訓練用のダミー人形が、まるで本物の戦場で打ち捨てられたかのように、無造作に転がされている。その光景は、悪夢そのものだった。腕が根本から千切れ、断面から骨や配線が覗いているもの。爆風で腹が裂け、どす黒い内臓を模したパーツがはみ出しているもの。全身に重度の火傷を負い、皮膚が炭化してケロイド状に盛り上がっているもの。そのあまりのリアルさに、司令室では平然としていた生徒たちの中から、数人が顔を真っ青にして、耐えきれずに口元を押さえた。
さらに、その地獄絵図に拍車をかけていたのが、負傷者役として参加している上級生たちの、真に迫った演技だった。天井に設置されたスピーカーから流れる教官の指示に合わせ、彼らは本気さながらの苦悶の声を上げ、室内に響き渡らせていた。
「ぐっ…ぁああ…! 腕が…! 俺の腕がぁっ! どこだ、俺の腕はどこに行ったんだぁっ!」
「助けてくれ…! 息が、できない…! 肺に、穴が…っ、ごふっ…!」
「熱い、熱い熱い! 全身が焼けるようだ! 誰か、水を…殺してくれ…!」
阿鼻叫喚の地獄。それが、この訓練の日常風景だった。生徒たちは、この凄惨な状況下で、冷静に負傷者の重症度を判断(トリアージ)し、限られた医療器具で応急処置を施さなければならない。
譲は、ここでもその驚異的な記憶力を遺憾なく発揮していた。配属が決まってから一夜漬けで読み込んだ、百科事典のように分厚い救護マニュアルの全ページは、既に彼の頭の中に、写真のように鮮明に焼き付いている。動脈性出血に対する最も効率的な止血法、複雑骨折の際の最適な固定手順、気胸に対する胸腔穿刺、内臓損傷に対する応急手術のプロトコル。彼は、まるで精密機械のように、寸分の狂いもなく、感情を挟むことなく、淡々と目の前の処置をこなしていく。
だが、その行為に、心は全く伴っていなかった。これはただの作業だ。マニュアルに記述された手順を、プログラム通りに実行しているに過ぎない。彼の意識は、目の前の「患者」ではなく、常に次の手順、その次の手順へと向いていた。
汗と土埃を模した汚れにまみれた、ダミー人形の腕を掴む。ぞっとするほど冷たいシリコンの肌。その無機質な感触に触れるたび、言いようのない無力感が、彼の胸の奥からじわりと湧き上がってくるのを感じた。
(もし、このダミーが、あの能天気な顔をした颯太だったら? もし、この腹から内臓がはみ出た人形が、いつも優しく笑う陽葵だったら?)
その想像が、毒のように思考を侵食した瞬間、譲の手がぴたりと止まった。そして、次の瞬間には、カタカタと微かに震えだしたのだ。止血帯を握る指先に力が入らない。マニュアルの手順が、頭の中で白く霞んでいく。
(自分は、本物の仲間が血を流して目の前で苦しんでいる時、こうして冷静でいられるだろうか? この手の震えを、止めることができるだろうか?)
教官の言葉が、脳裏に雷鳴のように蘇る。『現場とは、君の計算通りには決して動かない、混沌(カオス)の塊だ』。
そうだ。現場には、データ化できない人間の感情が、痛みが、絶望が渦巻いている。仲間の悲鳴、血の匂い、死の恐怖。それを前にした時、自分のこの頭脳は、果たして正常に機能するのだろうか。レポート一枚で仲間を救えると思っていた自分は、あまりに傲慢だったのではないか。
訓練の合間の短い休憩時間、譲は誰とも口を利かず、一人、中庭に面した大きな窓のそばに立っていた。ガラスの向こう側では、討伐科の生徒たちが、けたたましい爆音を響かせながら訓練に励んでいる。
午後の傾きかけた陽光が、彼らの汗をきらきらと輝かせていた。風が吹き、グラウンドの砂塵を舞い上げる。その中で、剛の巨体から放たれた衝撃波が、巨大な模擬怪物を木っ端微塵に粉砕する様が見えた。窓ガラスがビリビリと微かに震える。少し離れた場所では、玲奈の周囲に絶対零度の冷気が渦巻き、純白の吹雪が舞っていた。模擬怪物の動きが、見る見るうちに鈍り、やがて完全に氷漬けにされていく。そして、ひときわ目を引くのは、二体の巨大な人型兵器、ヴァルキリーだった。颯太と陽葵が、実戦さながらの息の合った連携で、それらをまるで自分たちの手足のように軽々と操り、宙を舞い、敵を翻弄している。
それは、まるで神話の戦いだ。スクリーンの中で見る英雄たちの叙事詩そのものだった。
それに比べて、自分は今、一体何をしているのだろう。陽の光も届かない薄暗い司令室でモニターを睨み、消毒液と血糊の匂いが染みついた実習室で、冷たい人形の相手をする。そのあまりの落差に、乾いた自嘲の笑みが、思わず口元から漏れた。窓ガラスに映った自分の顔は、ひどく青白く、頼りなく見えた。
---
その日の全ての訓練が終わり、疲労で鉛のように重くなった身体を引きずって、譲は巨大な食堂の隅の席に、崩れるように座った。喧騒と、様々な料理の匂いが混じり合った、活気のある空間。だが、今の彼には、その全てが遠い世界の出来事のように感じられた。目の前に置かれた温かいビーフシチューの湯気だけが、彼のささくれた心を、ほんの少しだけ癒してくれるようだった。
スプーンを手に取った、その時。彼の向かいの席に、何の断りもなく、どかりと一人の人物が腰を下ろした。見上げると、あの初老の教官だった。その手には、湯気の立つ大皿。ご飯が見えないほどに盛られた、山盛りのカツカレーだ。
気まずい沈黙が、二人の間に流れた。周囲の生徒たちの賑やかな声が、まるで壁の向こうから聞こえてくるようだ。教官は、譲のことなど意にも介さない様子で、ただ黙々と、大きなスプーンでカレーを口に運んでいる。その食べ方は、決して行儀がいいとは言えないが、不思議なほどの落ち着きと、一切の迷いのない動きだった。
やがて、福神漬けをポリポリと小気味よい音を立てて噛み砕きながら、彼はぽつりと、誰に言うともなく呟いた。
「10年前の第二次沿岸防衛戦。私は、後方基地で通信士をしていた」
それは、先ほど譲が訓練で解析した、あの地獄のような戦いだった。思わず、シチューを口に運ぼうとしていた譲の手が止まる。
「戦闘は熾烈を極めた。情報は錯綜し、司令室はパニック状態だった。モニターに映し出されるのは、次々と消えていく友軍の識別信号ばかり。そんな中、前線で孤立した第7小隊から、撤退許可を求める必死の通信が入ったんだ」
教官は、分厚いカツを一口で飲み込むと、遠い過去を見つめるような目をして続けた。その瞳には、食堂の暖色の照明が映り込んでいるはずなのに、まるで光の届かない深淵のような色が宿っていた。
「だが、俺は…判断を躊躇した。戦況は、上官の許可を仰いでいる猶予もないほど切迫していた。独断で許可を出すべきか、それとも命令系統を遵守し、上官の指示を仰ぐべきか。ほんの、30秒ほどだ。俺が迷っていたのは」
教官はスプーンを置き、水の入ったグラスを呷った。ゴクリ、と喉が鳴る音が、やけに大きく聞こえた。
「そのたった30秒の間に、敵の別動隊が、その小隊の背後に完全に回り込んでいた。俺が撤退許可のコマンドを打ち込んだ時には、もう手遅れだった」
結果は、言うまでもなかった。一つの小隊が、敵の罠に掛かり、全滅した。譲がモニター越しに見た、あの凄惨な光景の一つが、目の前の男の、たった30秒の躊躇によって生まれたのだ。
「たった30秒だ。俺の指が、キーボードの上を数センチ動くのが遅れたせいで、32人の命が、一瞬で失われた。…血も、硝煙の匂いも、仲間の断末魔の悲鳴も聞こえない、安全な基地の中でな」
その言葉は、何トンもの重さを持つ巨大な錨のように、譲の心にずしりと、深く沈み込んでいった。
教官は、皿に残った最後の米粒までスプーンできれいに掬い取って食べ終えると、ナプキンで口元を拭い、真っ直ぐに譲の目を見た。その瞳の奥には、十年という長い歳月をもってしても、決して消し去ることのできない、深い後悔と痛みの色が、澱のように沈殿していた。
「宮沢。ここは、血の流れない最前線だ。お前たちの下す判断一つ、キーボードを叩くその指一本が、前線で命を張って戦う者たちの生死を分ける。そのことを、片時も忘れるな」
雷に打たれたような、とてつもない衝撃だった。
地味で、退屈で、英雄たちの華々しい戦いとは程遠い、日陰の場所だと思っていた、この後方支援科。銃弾は飛び交わない。硝煙の匂いもしない。自分の身に危険が及ぶこともない。だが、ここでの一つのミスは、一つの判断の遅れは、前線で戦う仲間たちの死に、間違いなく直結する。
ここも、紛れもない戦場なのだ。いや、もしかしたら、血が流れないからこそ、痛みが直接伝わらないからこそ、より残酷で、より重い責任を背負わされる戦場なのかもしれない。
譲は、ゆっくりとテーブルの上に置かれた自分の両手を見つめた。
この非力な手。銃の反動にさえ耐えられず、討伐科の仲間たちから笑われた手。
しかし、この指は、キーボードの上ならば、誰よりも速く、誰よりも正確に動く。
この思考は、混沌とした戦場から、誰よりも早く、生存への唯一の活路を見つけ出すことができる。
この手は、この頭脳は、仲間たちを死地から救い出すための、最も強力な武器になるのかもしれない。
譲の心の中に、新たな、そして静かな闘志の火が、確かに灯るのを本人が感じていた。それは、討伐科の仲間たちが燃やすような、激しく煌びやかな炎ではない。もっと静かで、深く、決して消えることのない、青い炎だった。
英雄にはなれない。神話の主役になることもないだろう。
だが、英雄を死なせないための戦いは、この場所でなら、自分にもできるはずだ。
譲は、冷めかけたシチューを、もう一度スプーンで掬った。先ほどまで感じていた無力感は、もうどこにもなかった。ただ、自らの成すべきことへの、静かで確固たる決意だけが、彼の胸を満たしていた。
そこは、教室というよりは、遥か深海にその身を沈める超弩級潜水艦の司令室、あるいは惑星間航行を続ける宇宙船のブリッジと呼ぶ方が相応しい空間だった。自然光を取り込む窓は一つもなく、外界から完全に隔絶されている。四方の壁は、その全てが床から天井まで、継ぎ目のない巨大なマルチモニターで埋め尽くされていた。今はまだ電源が落とされ、深い夜の色を湛えたガラスの壁が、部屋の中央に集まる生徒たちの不安げな表情をぼんやりと映し出している。唯一の光源は、天井に等間隔で埋め込まれた非常灯の赤い光と、各コンソールから放たれる待機状態の青白い幽光だけだ。その光が、生徒たちの顔に奇妙な陰影を刻み、まるで能面のようにも見せていた。
部屋の中央には、司令官席を取り囲むように、何十台ものコンソールが同心円状に、完璧な秩序をもって配置されている。譲が割り当てられた席に着くと、人間工学に基づいて設計されたであろう硬質なシートが、彼の身体を寸分の隙間なく受け止めた。ひやりとした背もたれの感触が、制服越しに体温を奪っていく。
耳を澄ますと、世界から音が消えたかのような静寂の中に、いくつかの微かな音が響いていることに気づく。一つは、巨大な空間全体の温度を一定に保つための空調設備の、地鳴りのように低い唸り。それは、途切れることなく続き、腹の底に響くような圧迫感を伴っていた。もう一つは、この司令室の心臓部である、壁の向こうに設置された無数のサーバーが発する、か細くも鋭いファンの回転音。まるで夥しい数の虫が翅を震わせているかのような、神経を逆撫でする高周波音だ。そして、時折、その静寂を破るように、誰かが緊張に耐えかねてキーボードに触れてしまう、カチャ、という乾いた音が響き渡る。その度に、何人かの肩がびくりと震えた。
空気は肌を刺すほどに冷たく、そして重い。まるで、この部屋に充満する膨大な情報そのものが質量を持っているかのようだ。譲は深く息を吸い込んだが、その冷気は彼の緊張を解きほぐすどころか、肺を凍らせ、思考の速度を鈍らせるように感じられた。
やがて、重厚な金属扉が滑るように開き、一人の初老の男が入ってきた。歴戦の軍人を思わせる、厳しくも深い皺が刻まれた顔。彼が教官なのだろう。カツ、カツ、と硬い床を鳴らす彼の足音だけが、やけに大きく部屋に響いた。彼が中央の司令官席に着き、コンソールに指を触れた瞬間、世界は一変した。
壁一面の巨大モニターが一斉に起動し、目に痛いほどの青白い光で室内を白夜のように照らし出した。網膜を焼くような光量に、ほとんどの生徒が思わず目を細める。同時に、譲たちの目の前にある各コンソールも起動し、複雑なインターフェイスが立ち上がった。最初の授業は「戦況分析学」。その無機質な文字が、モニターの中央に表示されていた。
「これより授業を始める」
教官の、マイクを通したかのように明瞭で、しかし感情の温度を感じさせない声が響く。その合図と共に、正面のメインモニターに、過去の大規模戦闘の記録映像が、警告もなしに叩きつけられた。
ザザッ、という激しいノイズと共に映し出されたのは、高層ビルが立ち並ぶ市街地での凄惨な戦闘風景だった。ビルを薙ぎ倒し、アスファルトを巨大な爪で引き裂く、神話から抜け出してきたかのような異形の怪物。その冒涜的な姿に、誰かが「ひっ」と短い悲鳴を漏らす。対する防衛隊の兵士たちは、豆粒のように小さく、あまりに無力に見えた。曳光弾が夜空を赤い筋となって引き裂き、ミサイルが着弾する度に、画面が激しく揺れ、轟音と閃光が鼓膜と視神経を直接殴りつける。兵士たちの、スピーカーが割れるほどの絶叫。肉が引き裂かれ、血飛沫がカメラのレンズを赤く染める。そのあまりにも生々しい映像は、昨日まで平和な日常を送っていた生徒たちの顔から、急速に血の気を奪っていった。何人かは、青ざめた顔で口元を押さえ、こみ上げてくる吐き気と必死に戦っている。
だが、彼らが真に向き合うべきは、その映像が喚起する原始的な恐怖そのものではなかった。
「これより、五年前の『第二次沿岸防衛戦』における、戦闘開始から十五分間のリアルタイムデータを各コンソールに転送する」
教官の非情な宣告が、生徒たちの耳に突き刺さる。
「諸君の任務は、この膨大なデータを解析し、次の十五分間で起こりうるあらゆる戦況を予測すること。そして、その予測に基づき、最も効率的かつ現実的な対応策を立案し、レポートとして提出せよ。制限時間は、同じく十五分」
その言葉が終わるや否や、譲たちの目の前のコンソールに、情報の奔流が暴力的なまでの勢いで叩きつけられた。
『警告!右翼第3小隊、残弾30%! 即時補給を要請!』
『セクター4にて大型種を複数確認! 敵部隊の戦力、当初の予測を大幅に上回ります!』
『緊急! 基幹送電施設に被弾! 大破! 周辺地域の通信能力、87%がダウン!』
『第1戦闘小隊より入電! 負傷者多数! 前線維持、極めて困難!』
味方全部隊の詳細な位置情報。秒単位で更新される敵の出現パターン。高低差や障害物を含む三次元地形データ。各部隊の兵装、弾薬、燃料の消耗率。刻一刻と変化する天候データ。風向き、湿度、視界。さらには、兵士一人ひとりの心拍数やストレス値から算出された心理的負荷指数。後方から前線へ向かう補給部隊の現在位置と、輸送されている物資の残量。
それは、もはや情報ではなかった。無慈悲な洪水だ。膨大なデータが、意味をなす前の単なる記号の羅列となって、生徒たちの思考を麻痺させ、認識能力の限界を殴りつけてくる。
「うわっ、何だこれ…! 何から見ればいいんだよ…」
「情報が、多すぎる…! どこをどう見ても、全部緊急事態じゃないか!」
ほとんどの生徒が、何から手をつけていいのか皆目見当もつかず、ただ画面上を右往左往させるマウスカーソルと共に、静かなパニックの渦に呑み込まれていた。額に脂汗を浮かべ、浅い呼吸を繰り返す者。意味もなくウィンドウを開いては閉じ、時間を浪費する者。カタカタと小刻みに震える指で、タイプミスを繰り返す者。先ほどまでの静寂は完全に消え去り、焦燥と混乱が、冷たい司令室の空気をじっとりと湿らせていた。
だが、その喧騒と絶望のただ中で、宮沢譲だけが、異質なほどに静かだった。彼は、まるで長年連れ添った愛用のグランドピアノを前にした熟練のピアニストのように、あるいは複雑な外科手術に臨む天才外科医のように、静かに、そして滑らかに両手の指を動かしていた。その背筋は真っ直ぐに伸び、表情には何の感情も浮かんでいない。
彼の目には、他の生徒たちが見ている混沌と絶望に満ちた戦場が、全く違う景色として映っていた。
味方の兵士から送られてくる悲鳴混じりの通信は、彼にとっては感情を揺さぶる叫びではなく、意味を持つ変数(パラメータ)に過ぎなかった。無秩序に動き回っているように見える敵の赤いアイコンは、明確な意図と目的を持つベクトルへと変換される。兵士たちの消耗率を示すグラフは、ただの下降線ではなく、未来を予測する美しい減衰曲線として認識された。彼の脳内で、あの凄惨な戦場は、一つの巨大で、どこまでも複雑で、しかし必ず解を持つ方程式へと、瞬く間に再構築されていく。
譲は、右手でマウスを操り、複数のウィンドウを瞬時に切り替え、必要なデータを抽出していく。カチッ、カチッ、という最小限のクリック音。左手はキーボードの上を舞う。タタタタッ、タンッ! 彼の指先から生み出される無数のコマンドが、無秩序な情報の奔流を、まるで熟練の羊飼いが羊の群れを導くように、瞬く間に整理し、フィルタリングし、可視化していく。
(興味深い…敵の主力と思われる部隊の動きが、あまりに派手すぎる。これは陽動だ。彼らの本命は、基幹送電施設の破壊による、こちらの通信網の完全なる麻痺だ。指揮系統を断ち、各部隊を孤立させ、情報のやり取りを不可能にする。そうなれば、たとえ数の上で劣る敵であろうと、混乱した我々の部隊を各個撃破することは容易になる。実に合理的で、狡猾な戦術だ…)
譲の思考は、熱もなければ冷たさもない、純粋な論理の領域にあった。そこには恐怖も、焦りも、憐憫も存在しない。彼はまるで、神の視点からチェス盤を眺めるように、戦場のすべてを、その隅々までを俯瞰していた。駒の一つ一つの動き、その先に起こりうる幾千もの可能性の枝分かれ、そして、それらが収束していく唯一の未来を、彼は既に見通していた。
制限時間が残り五分を切った頃、司令室内の混乱が最高潮に達しようとしていた、その時。譲は、すっ、と静かに右手を挙げた。そのあまりに落ち着き払った動作が、逆に周囲の注目を集める。
「教官」
彼の淡々とした、しかしよく通る声が、喧騒に満ちた司令室に奇妙な静寂をもたらした。誰もが、何事かと彼の方を振り返る。
「3分12秒後、セクターB-7に位置する老朽化したオフィスビルが、現在接近中の大型種の侵攻によって引き起こされる地盤振動で崩落します。それにより、現在そのビルの陰に潜み、敵主力の側面を突く機会を窺っている我が方の第2小隊が、完全に退路を断たれ、瓦礫の下で孤立する確率が92%です」
教官を含む、その場にいた全員の時間が止まった。譲の口から紡がれた言葉は、あまりに具体的で、あまりに確信に満ちていた。
「同時に、敵の別動隊と思われる遊撃部隊が、手薄になった第5セクターの補給路を叩く可能性が極めて高い。孤立した第2小隊は、救援も補給も受けられないまま、瓦礫の中で敵の集中攻撃を受け、10分以内に壊滅します。対策として、今すぐ予備戦力である第4小隊を第5セクター防衛へと再配置し、補給路を固めると同時に、第2小隊には作戦を中止し、即時撤退するよう命令を下すべきです」
司令室は、水を打ったように静まり返っていた。ただ、譲の声だけが響いている。教官は、驚愕に目を見張っていた。その鉄仮面のような表情が、わずかに揺らいでいる。なぜなら、譲が今、淀みなく口にした作戦は、五年前に実際にこの戦闘で作戦指揮を執った、百戦錬磨の司令官が、司令室の誰もが絶望に沈む中、苦悩に満ちた長い長い沈黙の末に、ようやく下した最終判断と、一言一句違わぬものだったからだ。当時、まだ幼い子供であったはずのこの少年が、なぜそれを知っている? いや、知っているのではない。この場で、ゼロからその結論に辿り着いたのだ。
「……見事だ、宮沢」
やがて、教官は絞り出すように言った。その声には、隠しきれない賞賛の色が滲んでいた。
「君の分析は、完璧だ」
その言葉に、教室がざわめいた。信じられない、という表情で譲を見る者、嫉妬と畏怖の入り混じった視線を向ける者。だが、譲はただ静かに、教官を見つめ返しているだけだった。
「だが」
教官は続けた。その声には、先ほどの賞賛とは裏腹に、微かな、しかし鋭い棘が含まれていた。
「覚えておけ。現場とは、君のその完璧な計算通りには決して動かない、混沌(カオス)の塊だ。君のその完璧なレポート一枚で、救える命もあれば、どうしても救えない命もある。そのことを、ゆめゆめ忘れるな」
その言葉の本当の意味を、その重さを、譲は次の訓練で、骨身に染みて理解することになるのだった。
---
訓練の舞台は、あの無機質な司令室から一転した。消毒液のツンとした刺激臭と、鉄錆のような血糊の甘ったるい匂いが混じり合った、生々しい空気が漂う実習室。それが、午後の授業「負傷者救護訓練」の場だった。
だだっ広いコンクリート打ちっ放しの床には、数十体もの訓練用のダミー人形が、まるで本物の戦場で打ち捨てられたかのように、無造作に転がされている。その光景は、悪夢そのものだった。腕が根本から千切れ、断面から骨や配線が覗いているもの。爆風で腹が裂け、どす黒い内臓を模したパーツがはみ出しているもの。全身に重度の火傷を負い、皮膚が炭化してケロイド状に盛り上がっているもの。そのあまりのリアルさに、司令室では平然としていた生徒たちの中から、数人が顔を真っ青にして、耐えきれずに口元を押さえた。
さらに、その地獄絵図に拍車をかけていたのが、負傷者役として参加している上級生たちの、真に迫った演技だった。天井に設置されたスピーカーから流れる教官の指示に合わせ、彼らは本気さながらの苦悶の声を上げ、室内に響き渡らせていた。
「ぐっ…ぁああ…! 腕が…! 俺の腕がぁっ! どこだ、俺の腕はどこに行ったんだぁっ!」
「助けてくれ…! 息が、できない…! 肺に、穴が…っ、ごふっ…!」
「熱い、熱い熱い! 全身が焼けるようだ! 誰か、水を…殺してくれ…!」
阿鼻叫喚の地獄。それが、この訓練の日常風景だった。生徒たちは、この凄惨な状況下で、冷静に負傷者の重症度を判断(トリアージ)し、限られた医療器具で応急処置を施さなければならない。
譲は、ここでもその驚異的な記憶力を遺憾なく発揮していた。配属が決まってから一夜漬けで読み込んだ、百科事典のように分厚い救護マニュアルの全ページは、既に彼の頭の中に、写真のように鮮明に焼き付いている。動脈性出血に対する最も効率的な止血法、複雑骨折の際の最適な固定手順、気胸に対する胸腔穿刺、内臓損傷に対する応急手術のプロトコル。彼は、まるで精密機械のように、寸分の狂いもなく、感情を挟むことなく、淡々と目の前の処置をこなしていく。
だが、その行為に、心は全く伴っていなかった。これはただの作業だ。マニュアルに記述された手順を、プログラム通りに実行しているに過ぎない。彼の意識は、目の前の「患者」ではなく、常に次の手順、その次の手順へと向いていた。
汗と土埃を模した汚れにまみれた、ダミー人形の腕を掴む。ぞっとするほど冷たいシリコンの肌。その無機質な感触に触れるたび、言いようのない無力感が、彼の胸の奥からじわりと湧き上がってくるのを感じた。
(もし、このダミーが、あの能天気な顔をした颯太だったら? もし、この腹から内臓がはみ出た人形が、いつも優しく笑う陽葵だったら?)
その想像が、毒のように思考を侵食した瞬間、譲の手がぴたりと止まった。そして、次の瞬間には、カタカタと微かに震えだしたのだ。止血帯を握る指先に力が入らない。マニュアルの手順が、頭の中で白く霞んでいく。
(自分は、本物の仲間が血を流して目の前で苦しんでいる時、こうして冷静でいられるだろうか? この手の震えを、止めることができるだろうか?)
教官の言葉が、脳裏に雷鳴のように蘇る。『現場とは、君の計算通りには決して動かない、混沌(カオス)の塊だ』。
そうだ。現場には、データ化できない人間の感情が、痛みが、絶望が渦巻いている。仲間の悲鳴、血の匂い、死の恐怖。それを前にした時、自分のこの頭脳は、果たして正常に機能するのだろうか。レポート一枚で仲間を救えると思っていた自分は、あまりに傲慢だったのではないか。
訓練の合間の短い休憩時間、譲は誰とも口を利かず、一人、中庭に面した大きな窓のそばに立っていた。ガラスの向こう側では、討伐科の生徒たちが、けたたましい爆音を響かせながら訓練に励んでいる。
午後の傾きかけた陽光が、彼らの汗をきらきらと輝かせていた。風が吹き、グラウンドの砂塵を舞い上げる。その中で、剛の巨体から放たれた衝撃波が、巨大な模擬怪物を木っ端微塵に粉砕する様が見えた。窓ガラスがビリビリと微かに震える。少し離れた場所では、玲奈の周囲に絶対零度の冷気が渦巻き、純白の吹雪が舞っていた。模擬怪物の動きが、見る見るうちに鈍り、やがて完全に氷漬けにされていく。そして、ひときわ目を引くのは、二体の巨大な人型兵器、ヴァルキリーだった。颯太と陽葵が、実戦さながらの息の合った連携で、それらをまるで自分たちの手足のように軽々と操り、宙を舞い、敵を翻弄している。
それは、まるで神話の戦いだ。スクリーンの中で見る英雄たちの叙事詩そのものだった。
それに比べて、自分は今、一体何をしているのだろう。陽の光も届かない薄暗い司令室でモニターを睨み、消毒液と血糊の匂いが染みついた実習室で、冷たい人形の相手をする。そのあまりの落差に、乾いた自嘲の笑みが、思わず口元から漏れた。窓ガラスに映った自分の顔は、ひどく青白く、頼りなく見えた。
---
その日の全ての訓練が終わり、疲労で鉛のように重くなった身体を引きずって、譲は巨大な食堂の隅の席に、崩れるように座った。喧騒と、様々な料理の匂いが混じり合った、活気のある空間。だが、今の彼には、その全てが遠い世界の出来事のように感じられた。目の前に置かれた温かいビーフシチューの湯気だけが、彼のささくれた心を、ほんの少しだけ癒してくれるようだった。
スプーンを手に取った、その時。彼の向かいの席に、何の断りもなく、どかりと一人の人物が腰を下ろした。見上げると、あの初老の教官だった。その手には、湯気の立つ大皿。ご飯が見えないほどに盛られた、山盛りのカツカレーだ。
気まずい沈黙が、二人の間に流れた。周囲の生徒たちの賑やかな声が、まるで壁の向こうから聞こえてくるようだ。教官は、譲のことなど意にも介さない様子で、ただ黙々と、大きなスプーンでカレーを口に運んでいる。その食べ方は、決して行儀がいいとは言えないが、不思議なほどの落ち着きと、一切の迷いのない動きだった。
やがて、福神漬けをポリポリと小気味よい音を立てて噛み砕きながら、彼はぽつりと、誰に言うともなく呟いた。
「10年前の第二次沿岸防衛戦。私は、後方基地で通信士をしていた」
それは、先ほど譲が訓練で解析した、あの地獄のような戦いだった。思わず、シチューを口に運ぼうとしていた譲の手が止まる。
「戦闘は熾烈を極めた。情報は錯綜し、司令室はパニック状態だった。モニターに映し出されるのは、次々と消えていく友軍の識別信号ばかり。そんな中、前線で孤立した第7小隊から、撤退許可を求める必死の通信が入ったんだ」
教官は、分厚いカツを一口で飲み込むと、遠い過去を見つめるような目をして続けた。その瞳には、食堂の暖色の照明が映り込んでいるはずなのに、まるで光の届かない深淵のような色が宿っていた。
「だが、俺は…判断を躊躇した。戦況は、上官の許可を仰いでいる猶予もないほど切迫していた。独断で許可を出すべきか、それとも命令系統を遵守し、上官の指示を仰ぐべきか。ほんの、30秒ほどだ。俺が迷っていたのは」
教官はスプーンを置き、水の入ったグラスを呷った。ゴクリ、と喉が鳴る音が、やけに大きく聞こえた。
「そのたった30秒の間に、敵の別動隊が、その小隊の背後に完全に回り込んでいた。俺が撤退許可のコマンドを打ち込んだ時には、もう手遅れだった」
結果は、言うまでもなかった。一つの小隊が、敵の罠に掛かり、全滅した。譲がモニター越しに見た、あの凄惨な光景の一つが、目の前の男の、たった30秒の躊躇によって生まれたのだ。
「たった30秒だ。俺の指が、キーボードの上を数センチ動くのが遅れたせいで、32人の命が、一瞬で失われた。…血も、硝煙の匂いも、仲間の断末魔の悲鳴も聞こえない、安全な基地の中でな」
その言葉は、何トンもの重さを持つ巨大な錨のように、譲の心にずしりと、深く沈み込んでいった。
教官は、皿に残った最後の米粒までスプーンできれいに掬い取って食べ終えると、ナプキンで口元を拭い、真っ直ぐに譲の目を見た。その瞳の奥には、十年という長い歳月をもってしても、決して消し去ることのできない、深い後悔と痛みの色が、澱のように沈殿していた。
「宮沢。ここは、血の流れない最前線だ。お前たちの下す判断一つ、キーボードを叩くその指一本が、前線で命を張って戦う者たちの生死を分ける。そのことを、片時も忘れるな」
雷に打たれたような、とてつもない衝撃だった。
地味で、退屈で、英雄たちの華々しい戦いとは程遠い、日陰の場所だと思っていた、この後方支援科。銃弾は飛び交わない。硝煙の匂いもしない。自分の身に危険が及ぶこともない。だが、ここでの一つのミスは、一つの判断の遅れは、前線で戦う仲間たちの死に、間違いなく直結する。
ここも、紛れもない戦場なのだ。いや、もしかしたら、血が流れないからこそ、痛みが直接伝わらないからこそ、より残酷で、より重い責任を背負わされる戦場なのかもしれない。
譲は、ゆっくりとテーブルの上に置かれた自分の両手を見つめた。
この非力な手。銃の反動にさえ耐えられず、討伐科の仲間たちから笑われた手。
しかし、この指は、キーボードの上ならば、誰よりも速く、誰よりも正確に動く。
この思考は、混沌とした戦場から、誰よりも早く、生存への唯一の活路を見つけ出すことができる。
この手は、この頭脳は、仲間たちを死地から救い出すための、最も強力な武器になるのかもしれない。
譲の心の中に、新たな、そして静かな闘志の火が、確かに灯るのを本人が感じていた。それは、討伐科の仲間たちが燃やすような、激しく煌びやかな炎ではない。もっと静かで、深く、決して消えることのない、青い炎だった。
英雄にはなれない。神話の主役になることもないだろう。
だが、英雄を死なせないための戦いは、この場所でなら、自分にもできるはずだ。
譲は、冷めかけたシチューを、もう一度スプーンで掬った。先ほどまで感じていた無力感は、もうどこにもなかった。ただ、自らの成すべきことへの、静かで確固たる決意だけが、彼の胸を満たしていた。
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