無能と蔑まれた僕だけが知る世界の嘘。敵であるはずの怪物の少女に恋したので、人類を裏切り世界を滅ぼす。

Gaku

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第1部:養成所編

第24話 ゴースト・イン・ザ・マシン

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秋の気配が色濃く漂い始めた養成所の朝。その空気は、どこまでも澄み渡り、頬を撫でる風はひんやりとして心地良いはずだった。しかし、その日の朝に限っては、重く湿った何かが、まるで目に見えない霧のように、養成所全体に澱んでいた。

コンクリートで固められた床に、カサリ、と乾いた音が響く。それは、風に舞い上げられた一枚の湿った枯れ葉が、ざらついた地面を擦る音。その音は、養成所の最も奥まった区画へと続く苔むした石畳の上を、まるで生き物のように転がっていく。カサ、カサリ。それは単なる枯れ葉の音ではない。風に煽られ転がるように人々の口から口へと広がる、不吉な噂の足音そのものだった。

噂の震源地は、討伐科の誇る最新鋭VRシミュレーター。仮想空間でありながら、現実の戦闘と寸分違わぬ環境を再現し、数多の精鋭を育て上げてきた揺りかご。その心臓部で発生したとされる、原因不明の「バグ」。ただのバグ、ただのシステムエラー。本来ならば、技術者が数時間もあれば修正してしまうような、些細な不具合のはずだった。だが、今回のそれは、まるで質が違っていた。

そのバグによって、朝倉颯太を筆頭とする、養成所が始まって以来の逸材と謳われる最強のAクラスが、シミュレーションの中で思わぬ苦戦を強いられたというのだ。仮想空間内の敵性存在――通称「ヴィジラント」が、プログラムされたアルゴリズムから逸脱した、予測不能な動きを見せた。その事実は、まるで湿った枯れ葉が敷き詰められた森に落ちた一本の松明のように、瞬く間に養成所中へと燃え広がっていく。噂は尾ひれをつけ、誇張され、やがては神話的な恐怖を帯びて、生徒たちの心をざわつかせていた。

後方支援科の教室は、そんな外部の不穏な空気など意にも介さず、いつもと変わらない喧騒に満ちていた。がらりと開け放たれた窓からは、秋の朝特有の、どこか儚げで柔らかな日差しが、斜めに差し込んでいる。その光の筋の中を、教室の空気中に舞う無数の埃の粒子が、まるで小さな生命体のようにキラキラと乱舞していた。机や椅子が不規則に立てる軋み、教科書のページをめくる乾いた音、誰かが落としたペンの甲高い響き。それらが渾然一体となり、若者特有の生命力に満ちたBGMを奏でている。

だが、その陽光に満ちた穏やかな光景とは裏腹に、生徒たちの間で交わされる言葉は、密やかな、そしてどこか冷たい興奮を帯びて渦巻いていた。それは、自分たちとは違う世界に住む者たちに起きた災厄を、安全な場所から眺める者の、残酷な好奇心だった。

「聞いたか? あの赤城剛が、プログラム相手に吹っ飛ばされたらしいぜ」

教室の中ほど、一番日当たりの良い席に座る生徒が、机に肘をつき、まるで世紀の大発見でもしたかのように声を潜めて囁く。赤城剛。Aクラスの中でも屈指の実力者であり、その圧倒的なパワーは、後方支援科の生徒たちにとっては畏怖の対象ですらあった。その名前が出た瞬間、周囲で雑談に興じていた生徒たちの視線が、磁石に引き寄せられる砂鉄のように、一斉にその声の主へと集中した。その声は、水面に落ちた一滴のインクが広がるように、さざ波となってあっという間に教室全体に満ちていった。

「マジかよ、あの赤城が? ヴィジラント相手に? 冗談だろ」

「いや、本当らしい。なんでも、見たこともない連携で死角を突かれたとか。VRだってのに、リアルで受け身も取れずに床に叩きつけられたって話だ」

囁き声は熱を帯び、尾ひれがつき、さらに大きく膨らんでいく。その会話には、驚きと共に、隠しきれない愉悦の色が滲んでいた。

「最強のAクラスでも、そんなことがあるんだな。まあ、俺たちには関係ないけど」

窓際の席に座る別の生徒が、わざとらしく、芝居がかったため息をつき、手元の分厚い教科書に目を落とす。しかし、その視線は活字の上を虚しく彷徨い、焦点が合っていない。その表情には、ほんの少しの安堵と、自分たちが直接的な危険に晒されることのない「後方」にいるという事実への、ささやかな自己肯定が浮かんでいる。討伐科の生徒たちが日々命の危険と隣り合わせで訓練しているのに対し、自分たちはあくまでそれを支える側。その一線が、彼らにとっては何よりの防壁であり、心の拠り所だった。

「どうせシステムの不具合だろ。プログラムの暴走か何かだ。エリート様も形無しだな」

また別の生徒が、にやりと口の端を歪め、嘲笑めいた声で呟いた。その言葉には、日頃からエリートと呼ばれ、特別扱いされる討伐科の生徒たちへの、拭い難い嫉妬と、自分たちが安全な場所にいるという、微かな優越感が粘液のように滲み出ていた。彼らは、最強のAクラスがプログラムごときに苦戦したという事実を、自分たちの凡庸さを正当化するための格好の材料として消費していた。教室の空気は、彼らが発する言葉の熱量とは裏腹に、まるで冷たい水の中を漂うように、どこか他人事のようで、どこか澱んでいた。それは、嵐を対岸から眺める者の、無責任な興奮に満ちていた。

その喧騒が渦巻く教室の、一番後ろの隅。窓から最も遠いその場所で、宮沢譲は、ただ静かに、その光景を眺めていた。彼の周りだけ、分厚いガラスで隔てられているかのように時間の流れが違い、深い静寂が支配していた。窓から差し込む光は、彼の席まではほとんど届かず、彼の顔の半分を薄暗い影の中に沈めている。その影が、彼の表情から感情を読み取ることを難しくさせていた。

彼の膝の上には、最新モデルのノートパソコンが開かれたまま置かれていたが、その瞳は、煌々と光る液晶画面ではなく、遠く、遥か彼方、まるで数光年先の出来事を思い巡らすかのように、虚空の一点を見つめていた。周囲の生徒たちの声は、彼の耳には届いているはずだった。しかし、それは意味のある言葉としてではなく、ただのノイズとして、彼の意識の表面を滑り落ちていく。

「予測不能な乱数(ランダム)」。

今回の事態を受け、調査にあたった教官が下したという、暫定的な結論。その無機質な言葉が、譲の脳内で繰り返し、繰り返し反芻されるたびに、彼は、まるで歯の間に挟まった異物のような、あるいは完璧な数式の中に紛れ込んだ、場違いな記号のような、気持ちの悪い違和感を覚えていた。それは、論理的な思考を司る精密な歯車が一つ噛み合わずに空転するような、不快な感覚だった。

完璧にプログラムされ、管理された閉鎖系システムにおいて、真にランダムな事象など、そうそう起こるものではない。それは、譲が後方支援科で、プログラミングとシステム工学、情報理論を学び、培ってきた知識と経験が、肌で感じてきた揺るぎない真実だった。物理世界における確率論のサイコロでさえ、その出目は、投げられた瞬間の指の角度、加えられた力、空気抵抗、回転数といった、無数の物理法則の厳密な支配下にある。それらの初期条件を完全に把握できれば、その結果は必然的に導き出される。ましてや、0と1という、厳格な二元論で構築されたデジタルの世界ならなおさらだ。そこに、完全な「乱数」は存在しない。コンピュータが生み出す乱数とは、あくまで過去の計算結果に基づいた「擬似乱数」であり、その生成アルゴリズムを知る者にとっては、完全に予測可能な数列に過ぎない。存在するならば、それは、そのシステムの根幹を揺るがすほどの、致命的な設計ミスに他ならない。しかし、あの養成所の誇る最新鋭シミュレーターに、そんな初歩的なミスが見過ごされているとは到底考えられなかった。

だとしたら、あの「バグ」と名付けられた現象は、何らかの未知の法則性(ルール)に基づいた、必然の挙動だったのではないか? 譲の思考は、教室の喧騒を完全に置き去りにして、遥か彼方、デジタル情報の深淵へと旅立っていく。彼の脳裏に、あのシミュレーターの正式名称が、まるで警告を発するかのように、鮮明なゴシック体で浮かび上がった。

『適応進化型 仮想戦術シミュレーションシステム』。

「適応進化型…」

譲は、無意識のうちに、その言葉を乾いた唇でなぞるように呟いた。その声は、周囲の生徒たちの騒音にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。ただ、彼の隣の席の生徒が、一瞬だけ訝しげな視線を向けただけだった。適応。そして、進化。もし、あのシステムが、開発者の想定を遥かに、遥かに超えて、その名の通り、本当に「進化」を始めていたとしたら?

その仮説は、まるで冷水に投げ込まれたナトリウムのように、譲の中で激しい反応を引き起こした。全身の細胞が、低圧の電流に打たれたかのようにざわつき、産毛が逆立つような、強い知的好奇心が呼び覚まされた。それは、未知の古代遺跡へと足を踏み入れる探検家のような、あるいは未発見の天体を発見した天文学者のような、抑えきれない興奮だった。もしそうなら、Aクラスが遭遇したのは単なるバグではない。それは、新たな生命の誕生の瞬間に立ち会ったということと同義なのかもしれない。その思考は、彼に恐怖よりも先に、抗いがたい魅力を感じさせた。

その日の夜、養成所の長い廊下は、すでに深い静寂に包まれていた。昼間の喧騒が嘘のように、人の気配は消え、ただコンクリートの壁と床が、天井に取り付けられた非常灯の緑色の光を冷ややかに反射しているだけだった。生徒たちは寮の自室で、一日の過酷な訓練で疲弊した肉体を癒し、束の間の休息に浸っている頃。譲の姿は、養成所の最も奥まった、普段は一般生徒が立ち入ることのない管理区画にあった。

コツ、コツ、コツ…。彼の履くスニーカーのラバーソールが、冷たいコンクリートの床を叩く音だけが、規則正しく、そして控えめに響き渡る。その足音は、まるで秘密を抱えたスパイのそれのように、周囲の静寂に最大限の注意を払いながら、それでいて確かな意志を持って、闇の奥へと進んでいく。時折、壁に設置されたダクトから、空調の低い唸りが聞こえてくるが、それ以外には何の音もしなかった。

彼の目的地は、データ管理室。養成所のあらゆる情報が集約され、保管される、いわばこの施設の神経中枢。重厚なスチール製の扉には、厳重な電子ロックがかけられている。譲が学生証をカードリーダーにかざすと、認証を示す短い電子音と共に、重々しい音を立ててロックが解除された。

扉を開けると、そこは、まるでSF映画のセットのような、非現実的な光景が広がっていた。巨大なサーバーラックが、古代遺跡に林立する石柱のように、整然と、そして無数に立ち並んでいる。ラックに収められたサーバーからは、状態を示す青や緑のLEDが無数に点滅し、まるで満天の星空のようだ。室内は、無数の太いケーブルが、巨大な蛇の群れのように、床下のフリーアクセスフロアを這い、壁の配管を伝い、天井から束になってぶら下がっていた。その圧倒的で無機質な光景は、どこか神聖であり、そして同時に不気味な雰囲気を醸し出していた。

部屋の空気を支配しているのは、無数のサーバーを冷却するためのファンの、地鳴りのような低い唸りだけだった。ゴォォォ…という単調な、そして途切れることのないその音は、まるで墓場のような静寂を逆に強調しているかのようだった。壁に取り付けられた非常灯の、不自然なほど鮮やかな緑色の光が、譲の顔を不気味に、そして神秘的に照らし出していた。

彼は、その部屋の中央にぽつんと置かれた、夜勤の教官が座るコンソールの前へと、ケーブルを避けながら歩みを進めた。教官は、年の頃四十代半ばだろうか、疲れた顔でマグカップのコーヒーをすすっており、眠たげな目を擦りながら、予期せぬ来訪者である譲の姿を訝しげに見つめた。

「お願いです、教官。先日問題となった『討伐科Aクラス 第3回仮想戦闘訓練』の生(ロウ)ログデータを閲覧させてください」

譲は、深く、腰を九十度に折り曲げて頭を下げた。彼の声は、緊張と興奮のせいか、微かに震えていたが、その瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。

「後方支援科の生徒として、システムエラーの症例を研究したいのです。今回の件は、今後のシステム開発において、極めて重要なケーススタディになると考えます」

教官は、目の下に深い隈を刻み、異様な熱意を瞳に宿したこの生徒をじっと見つめた。その眼差しには、好奇心と、わずかな警戒が入り混じっていた。後方支援科の生徒が、これほどまでに討伐科の訓練データに執着するのは珍しい。だが、目の前の生徒が宮沢譲であると認識すると、彼の顔には、どこか呆れたような、それでいて納得したような苦笑が浮かんだ。

「まあ、お前なら悪いことには使わんだろう。趣味も大概にしろよ。せいぜい勉強に励め」

教官は、そう言うと、コンソールの操作パネルを数回叩き、譲に一時的な閲覧権限を付与した。その言葉と行動は、彼が普段から、いかに真面目に、そして熱心に研究に没頭しているかを知っていたからこその、一種の信頼の証だった。

譲は、深くもう一度頭を下げると、指定された空席のコンソールに静かに座った。硬質な椅子が、彼の体重を受けて小さく軋む。彼の背後では、巨大なサーバー群が巨大な獣の呼吸のように低い唸りを上げ続けている。彼は、深く、深く息を吸った。その空気は、僅かにオゾンの匂いを帯び、機械油の香りが混じり、ひどく冷たく、そしてどこか張り詰めた緊張を孕んでいた。

目の前のスクリーンにログインし、目的のファイルにアクセスする。エンターキーを押した瞬間、天文学的な量の文字列と数値の羅列が、まるで堰を切った濁流のように、あるいは巨大な滝のように、すさまじい速度で流れ始めた。それは、0.1秒、いや、それ以下のナノ秒単位で記録された、あの仮想空間内で起きた全事象の克明な記録だった。Aクラスの生徒たちのアバターの動き、エネルギーの出力、ヴィジラント一体一体の行動パターン、ダメージ計算、通信ログ、システム内部の負荷変動。常人が見れば、開始3秒で激しい眩暈を起こし、吐き気を催すだけの、意味不明な情報の奔流。

だが、譲にとって、それは、未解読の古代文字で書かれた古文書であり、解き明かすべき巨大で複雑なパズルだった。彼は、その果てしない情報の海へ、一切の躊躇なく精神をダイブさせた。

ポケットから取り出したプラスチックケースの中から、カフェイン剤の白い錠剤を数粒、無造作に手のひらに転がし、水もなしに口に放り込む。ガリガリと奥歯で砕くと、強烈な苦みが舌の上に広がり、彼の脳を強制的に覚醒させていく。傍らに置いていた、すっかりぬるくなったペットボトルの水を、一気に喉に流し込む。彼の孤独な戦いが、今、この静寂と喧騒が同居する部屋で、静かに、そして激しく始まった。

まばたきも忘れ、譲はスクリーンを睨みつける。彼の指が、キーボードの上を、まるで長年連れ添ったパートナーと踊るかのように、滑らかに、そして正確に動き始めた。カタカタカタッ、ターンッ! その動きには、一切の無駄がなく、思考と直結したかのように流れるようだった。彼の脳は、この養成所のどのスーパーコンピュータよりも速く、そして正確に回転を始める。無秩序に見えるデータの海の中から、意味のあるパターンを、繰り返される法則性を、そして、他の膨大なデータとは明らかに異なる、不自然な「不協和音」を、その鋭敏な感覚で抽出しようと試みた。

彼の目に映るデータの世界は、もはや単なる文字列の羅列ではなかった。それは、無数の光の粒子が飛び交い、複雑な軌道を描いて交錯する、広大な銀河。彼の思考が、その銀河の中から、周囲の星々の動きを乱す重力異常を起こしている特異点、つまりはブラックホールを探し出す、巨大な電波望遠鏡となっていた。

時間の感覚は、とうに失われていた。聞こえるのは、自分の指がキーボードを叩くリズミカルな音と、サーバーの冷却ファンの単調な唸り、そして、高ぶる興奮に早鐘を打つ、自分自身の鼓動だけ。部屋の緑色の非常灯が、彼の集中しきった横顔に、深い影を落としていた。

数時間が経過しただろうか。東の空が、まるで墨汁を垂らした水のように、微かに、そしてゆっくりと白み始めた頃。データ管理室の分厚い防弾ガラスの窓から差し込む、薄い朝焼けの光が、譲の疲労でかすむ視界の中に、淡く、そして冷たく、一筋の帯となって広がっていく。

疲労は、すでに限界を超えていた。瞼は鉛のように重く、乾いた目はスクリーンを見続けたせいで焼け付くように熱い。だが、その肉体的な疲労感は、彼の研ぎ澄まされた集中力を鈍らせることはなかった。むしろ、極限状態に追い込まれた精神は、不要な思考を削ぎ落とした鋭利な刃のように、彼の意識をただ一点に、その情報の特異点へと集中させていた。

そして、ついに、彼は、探していた一つの「歪み」を発見した。

それは、あのイレギュラーな動きを見せ、Aクラスを翻弄したヴィジラントの、行動アルゴリズムを記述したソースコードの中にあった。他の正常な個体には絶対に存在しない、奇妙で異質な記述。それは、シミュレーター内部に構築された既存の行動パターンのデータベースを参照するのではなく、外部の、それも養成所内でも最高機密レベルに指定された、別の戦闘記録アーカイブに、不正な形で接続(アクセス)しようとした痕跡だった。

「見つけた…」

乾ききってひび割れた唇から、ほとんど音にならない、かすれた声が漏れる。それは、まるで、何日も砂漠を彷徨っていた旅人が、ついに幻ではない本物のオアシスを発見したかのような、深い安堵と、そして、その先に待つであろう未知への恐怖が入り混じった声だった。

心臓が、ドクン、と警告のように大きく、そして速く鐘を打った。ここから先は未知の領域だ。正規の申請手続きを踏んで得た一時的な閲覧権限では、決して踏み込めない、聖域。これ以上の侵入は、明確な規律違反であり、発覚すれば退学処分は免れないだろう。

だが、譲に躊躇はなかった。真実が、すぐそこにある。その誘惑は、あらゆるリスクを凌駕していた。彼は、自分の持つアクセス権限を最大限に利用し、さらに後方支援科で学んだ知識の全てを動員して、まるで熟練のハッカーのように、立ちはだかるいくつかの分厚いセキュリティロックを、複雑に絡み合ったパズルを解くように、一つ、また一つと慎重に、しかし大胆に突破していく。それは、禁断の果実に手を伸ばす、甘美で背徳的な行為だった。彼の指は、まるでそれ自体が意思を持った生き物のようにキーボードの上を滑り、正確無比なコマンドを次々と打ち込んでいく。

ファイアウォールを迂回し、認証システムを偽装し、ログに痕跡を残さぬよう偽装工作を施す。そして、ついに最後の壁が、音もなく崩れ落ちた時、譲はそこに、信じられない名前を持つファイルを見つけた。ファイル名は、まるで何かの呪文のように、あるいは死の宣告のように、彼の脳裏に深く焼き付いた。

【戦闘記録ファイル:コードネメシス】

対象:特殊進化個体 No.7
討伐日時:3ヶ月前 / 第7次市街地防衛戦
討伐部隊:第3部隊(損耗率68%)

ファイルを開く。そこに記録されていたのは、3ヶ月前に発生した市街地防衛戦において、多大な犠牲を払いながらも、かろうじて討伐に成功した、一体の怪物の、おぞましいほどに詳細な戦闘データだった。その怪物は、戦闘中に人間の戦術をリアルタイムで模倣し、仲間であるはずの他の怪物を盾にし、意図的にビルや橋などのインフラを破壊して救援部隊の到着を妨害するなど、作戦後の報告書には「まるで人間と、それも歴戦の指揮官と戦っているかのようだった」と記されるほど、極めて高い知能を示したという、忌むべき存在。

譲は、震える指で、その怪物――コードネメシスの行動パターンチャートと、先ほど解析したイレギュラーなヴィジラントの動きを記録したデータを、同じスクリーン上に並べて表示させた。二つのウィンドウに表示された複雑なグラフと数値の羅列。それらは、一見すると無関係なデータに見えた。しかし、譲が比較解析プログラムを起動させた瞬間、二つのデータは、まるで生き別れの双子が出会うかのように、あるいは互いを求め合う磁石のように、吸い寄せられるようにその軌跡を重ねていく。そして、数秒の解析の後、スクリーンの右上に、無慈悲な真実を示す数値が、冷たく、そして明確に表示された。

『一致率:97.8%』

全身の毛が、総毛立った。背筋に、氷のように冷たい汗が、滝のように流れ落ちる。それは、恐怖だった。この異常なまでの一致率は、偶然などという、都合の良い言葉で片付けられる現象では断じてない。そこには、明確な「学習」と「再現」の、否定しようのない痕跡があった。

シミュレーターは、ただ過去のデータを再生しているだけではなかった。それは、討伐された怪物の戦闘データを、その行動原理の根幹から「学習」し、それを仮想敵であるヴィジラントのAIにフィードバックすることで、自己進化を続ける、恐るべき教育システムだったのだ。開発者や教官たちの想定を、遥かに、遥かに超えるスピードで。

「これは……バグじゃない。ゴーストだ」

譲は、乾いた唇で、誰に言うでもなく呟いた。その声は、サーバーの唸りが支配するデータ管理室の静寂の中に、吸い込まれるように消えていった。マシンの中に、死んだはずの怪物の戦闘知性が「ゴースト」として宿り、生きているかのように学び、進化を続けている。人類最強の兵士を育てるための揺りかごは、皮肉にも同時に、人類最強の敵を育てる培養器でもあったのだ。

戦慄すべき仮説が、彼の脳を完全に支配した。もし、本物の怪物たちも、このシミュレーターと全く同じように、我々人類との戦いを通じて、日々学習し、進化を続けているとしたら? 自分たちが仮想空間で戦っていたのは、過去の亡霊などではない。それは、これから現れるであろう、未来の怪物の「雛形」だったのかもしれない。我々が強くなればなるほど、それを学習し、さらにその上を行く敵が生まれる。終わりのない、絶望的な軍拡競争。

思考の渦から顔を上げた譲の目に、データ管理室の窓から差し込む、朝焼けの光が真正面から飛び込んできた。それは、絶望的な真実を白日の下に晒す、あまりにも美しく、そして残酷な夜明けだった。譲は、人類が、そして共に学ぶ仲間たちが、とんでもなく致命的な脅威を完全に見過ごしているという事実に気づき、夜明け前の冷たい空気の中で、ただ一人、静かに震えていた。
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