31 / 70
第1部:養成所編
第31話:卒業試験、再び戦場へ
しおりを挟む夜明けは、まだ来ない。
遥か東の地平線の彼方が、ようやく深海魚の腹のように微かに白み始めたばかりの、そんな時間。
インクを幾重にも塗り重ねたような深い、深い藍色の闇の底に、世界はまだ沈黙していた。
---
午前四時三十分。
その時刻を告げるデジタル表示の冷たい光だけが、やけに鮮明に網膜を焼く。
ここは地球防衛隊養成所、その最終関門である卒業試験作戦司令部。
集められた教官やオペレーターたちの間に交わされる言葉は極端に少なく、誰もが口を真一文字に結び、目の前の計器か、あるいは壁一面を埋め尽くす巨大なメインモニターを凝視している。
まるで刃物の上を素足で歩くかのような、皮膚を切り裂くほどの緊張感が、このだだっ広い空間の隅々にまで満ち満ちていた。
換気システムの低い唸りだけが、この場の唯一の環境音として、澱んだ空気をかき混ぜている。
---
壁一面の巨大モニターが放つ青白い光が、室内にいる者たちの真剣な横顔を、まるで意志を持たない彫像のように無機質に照らし出していた。
光は彼らの額に滲む汗を鈍く反射させ、目の下に刻まれた深い隈を、より一層濃い影として浮かび上がらせる。
モニターの中心に映し出されているのは、目標地点である「旧首都圏第7封鎖区域」の荒涼とした衛星写真。
等高線と無数の区画を示すグリッドラインが重ねられたその画像は、かつてここが、一千万を超える人々が夢と欲望を抱いてひしめき合っていた世界有数の大都市であったという事実を、微塵も感じさせなかった。
今はただ、無慈悲な怪物の侵攻によって放棄され、ひび割れたアスファルトの大地と、赤黒い錆に覆われた高層ビルの鉄骨が、巨大な墓標群のように突き出すだけの、広大な廃墟と化している。
その死せる都の衛星写真は、まるで巨大な獣の死骸のレントゲン写真のように、不気味な静けさを湛えていた。
---
部屋の片隅では、大型のコーヒーメーカーが、間断なく液体を抽出する音を立てている。
その焦げ付いたような、それでいてどこか酸っぱい香りが、サーバーやコンソールから立ち上る冷たい機械油の匂いや、人いきれのむっとする熱気と混じり合い、じわりじわりと、しかし確実に神経を逆撫でしていく。
誰もが、その不快なミックス臭に気づきながらも、意識の全てを作戦に集中させることで、感覚を麻痺させていた。
---
そんな司令部の喧騒と熱気から、物理的にも心理的にも少しだけ距離を置いた薄暗い片隅に、一台の大型車両が、まるで周囲の喧騒など存在しないかのように、静かに佇んでいた。
後方支援部隊が運用する、移動司令車両。
装甲化されたその車体は、さながら陸の潜水艦のようにも見える。
宮沢譲(みやざわゆずる)の戦場は、そこにあった。
たった一人だけの、孤独な戦場が。
彼の席は、これから前線で巨大な人型兵器『ヴァルキリー』を駆り、人類の存亡をその双肩に担うパイロットたちのものとは、その存在意義からして根本的に異なっていた。
物理的な操縦桿も、ペダルもない。
彼の目の前に広がるのは、無数のモニターと、発光するキーボード、そして複雑に絡み合ったケーブルが壁や床を這う、いわば電子のコクピット。
外界から完全に遮断されたこの空間で、彼は、戦場という名の巨大で複雑な数式を解き明かすための、たった一人の計算手だった。
---
手元にあるメインモニターには、これから死地へと向かう仲間たちの名が連なっていた。
それぞれのヴァルキリーの機体状況を示す夥しい数のパラメータ、現在地を示すGPS座標、そしてエネルギーの残量を示すパーセンテージ。
さらにその横には、各隊員の心拍数や血圧、発汗レベルといった生々しいバイタルデータが、ただの無機質な数字の羅列となって、冷たく、そして無慈悲に明滅を繰り返している。
心拍数を示すグラフの線がわずかに跳ねるだけで、それは仲間の一人が恐怖や興奮に身を震わせた証拠であり、エネルギー残量の数字が一つ減るだけで、それは彼らの生命活動の限界が、また一歩近づいたことを意味する。
譲にとって、この数字の群れは、仲間たちの命そのものだった。
---
一年前、太平洋上の孤島で行われた最終選抜試験とは、決定的に、そして絶望的に違うものがここにはあった。
あの時も、緊張はあった。
恐怖もあった。
だが、それはどこまでいっても『試験』という名の、安全が保障された檻の中での出来事だった。
しかし、今は違う。
本物の『死』が、解決すべき問題の中に、無視することも切り捨てることもできない絶対的な変数として、圧倒的なリアリティを持って存在しているという事実。
モニターに表示されるバイタルデータの数字がゼロになった時、それは単なるシミュレーションの終了を意味しない。
友の、かけがえのない命の終わりを意味するのだ。
その重圧が、鉛のように譲の肩にのしかかっていた。
---
譲は、乾ききってひりつく喉を潤すため、コンソールの脇に置いていたペットボトルの水を一口、口に含んだ。
常温を通り越して、車内の電子機器が発する熱で生ぬるくなった水は、何の味もしなかった。
ただ、唇に触れるプラスチックの無味無臭な感触だけが、この異常な状況の中で、やけに生々しい現実感を伴っていた。
ごくり、と喉を鳴らす音が、静かな車内にやけに大きく響いた。
しかし、その一口の水では、心の奥底で燃え盛る渇きは少しも癒えなかった。
---
車両の分厚い防弾ガラス越しに、夜明け前の薄明かりの中、出撃準備を最終段階まで進めている仲間たちの姿がおぼろげに見えた。
それぞれの機体の前で、最後のチェックを行う彼らのシルエットは、まるで神話時代の巨人たちのように見えた。
幼馴染の朝倉颯太(あさくらそうた)は、その中でも一際、強い光を放っていた。
まるでこの部隊の、いや、この絶望的な世界にとっての太陽そのものであるかのように。
彼は、卒業試験という極度のプレッシャーで顔をこわばらせている後輩の肩を力強く叩き、何か冗談を飛ばしているのだろう、屈託のない、白い歯がこぼれるほどの笑顔を見せている。
その姿は、生まれながらの英雄だけが放つことのできる、人を惹きつけてやまない絶対的な光に満ち溢れていた。
彼がいる。
その事実だけで、どれほど絶望的な戦場であっても、希望という名の小さな花が、必ずや咲くに違いない。
部隊の誰もが、そう信じて疑わなかった。
譲もまた、その一人だった。
もう一人の幼馴染、橘陽葵(たちばなひまり)は、自らの愛機である純白のヴァルキリーの、巨大な脚部装甲にそっと頬を寄せていた。
その仕草は、まるで気性の荒い名馬を労わる騎手のように、優しく、そしてこの上なく丁寧に、鋼鉄の相棒と心を通わせているように見えた。
彼女の操縦技術は、養成所で教えられる理論や理屈といったものを、遥かに超越した領域に到達している。
まるで機体と直接対話し、その微細な振動から声を聞き、完全に一体化する。
彼女にとってヴァルキリーは、単なる兵器などではない。
自らの手足の延長であり、魂の半分を分かち合った、かけがえのない相棒なのだろう。
その横顔は、戦士というよりも、祈りを捧げる巫女のように神聖ですらあった。
赤城剛(あかぎごう)は、まるで檻から解き放たれる直前の猛獣のように、荒い息を白い靄として吐き出しながら、自身の紅蓮の機体が携える巨大なヒートアックスの出力を、何度も、何度も、執拗なまでに確認していた。
全長十メートルを優に超える鋼鉄の塊。
その刃が超高熱で赤く輝き、対峙する怪物の分厚い甲殻を、熱したナイフがバターを切り裂くように溶断する光景を、彼は今、その脳内で繰り返し、繰り返しシミュレーションしているに違いなかった。
その双眸には、かつて自らの両親の命を奪った忌まわしい怪物への、決して消えることのない、地獄の業火にも似た復讐の炎が、ゆらゆらと揺らめいている。
そして、神楽院玲奈(かぐらいんれいな)。
彼女だけは、他の三人の誰とも違う空気を纏っていた。
まるでこの場所の、この瞬間の時間の流れから、完全に切り離されてしまったかのように、ただ静かに、雪で作られた精緻な彫像のように、ぽつんと佇んでいた。
固く閉じられた瞼の裏で、彼女はいったい何を見ているのだろうか。
精神を極限まで研ぎ澄ませ、これから訪れるであろう混沌の戦場を、その内なる世界で完璧に予測しているのか。
彼女が戦場で見せる、まるで未来を予知しているかのような、常人には到底予測不可能な神がかり的な動きは、こうした我々には計り知れないほどの深い精神集中の果てに、ようやく生まれるものなのかもしれない。
彼女の周りだけ、音が消え、空気が凍てついているかのように感じられた。
---
その時だった。
出撃直前の張り詰めた静寂を破り、剛がこちらの司令車両を一瞥し、そしてわざと部隊の全員に聞こえるように、インカムのオープンチャンネルのスイッチを入れた。
ノイズ混じりの彼の声が、譲のヘッドセットから響いてくる。
『安全な場所から高みの見物とは、いいご身分だなァ、英雄サマよ』
その声には、不思議と、一年前の彼が常に放っていたような、刺々しく相手を見下すような侮蔑の色は、もうなかった。
代わりに、まるでじゃれついてくる大型犬のような、あるいは自らが抱える途方もない緊張を、悪態をつくことでどうにかほぐそうとしているかのような、そんな不器用な響きがあった。
無人島でのあの一件以来、彼は決して素直に口にはしないが、譲の持つ特異な能力を認め、一つのチームを構成する、対等な仲間として受け入れている。
その事実が、声の棘を丸めていた。
譲は、ガラスの向こうの剛に視線を送ることもなく、ただ目の前のモニターに表示された膨大なデータから一切目を離さず、まるでピアニストが鍵盤を奏でるかのように滑らかな指の動きでキーボードを叩きながら、冷静に、そしてこの上なく正確に、その皮肉を打ち返した。
『君が、僕の計算通りに動いてくれれば、の話だけどね。君のその、野生の勘とかいう、極めて非論理的なパラメータは、僕の構築した予測モデルをいつも致命的なレベルで狂わせる』
『な、なんだと、てめぇ!』
インカムの向こうで、剛が獣のように唸り声を上げるのが聞こえる。
譲はなおも表情一つ変えずに続けた。
『事実を言ったまでだ。もし、それほどまでに心配なら、君のその単純そうな脳と、僕のこのパーソナルコンピュータを、物理的に直接ケーブルで繋いであげようか? 君の行動をリアルタイムで強制的に最適化できる』
『ふざけんじゃねえぞ、このインテリ野郎! 俺の頭に穴開ける気か!』
わめき立てる剛の声と、それを宥めるような他の隊員たちの声が、ヘッドセットの中で混線する。
その不毛で、しかしどこか微笑ましいとさえ思えるやり取りに、陽葵が、くすりと鈴を転がすように笑う、微かな気配がした。
その刹那、まるで魔法のように、死の匂いが充満していた戦場の空気が、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、緩んだような気がした。
---
午前五時。
その瞬間は、唐突に訪れた。
作戦開始を告げる、甲高い、耳を劈くようなサイレンが、夜明け前の静寂な空気を、まるで巨大な刃物で無慈悲に引き裂くかのように鳴り響いた。
大地が、唸りを上げて揺れた。
各部隊のヴァルキリーが、その巨体に似合わぬ俊敏さで一斉に体勢を整え、足元のブースターから眩いばかりの光と熱を噴出し、轟音と共に空へと舞い上がる。
譲の目の前のモニターに表示されていた仲間たちのバイタルデータが、まるで示し合わせたかのように、一斉に興奮状態を示す危険領域の数値へと、グラフの線を急上昇させた。
譲の、卒業試験が始まった。
---
最初の数分間は、不気味なほど順調に進んだ。
養成所の教官たちが、過去十年間の膨大な戦闘データを分析し、練りに練り上げた作戦計画は、まるで精密機械のように完璧に機能していた。
先行した斥候部隊が事前に発見した小型の擬似怪物の群れを、陽葵と颯太が率いるA部隊が、まさに教科書に載せるべき手本のように、華麗で無駄のない連携で次々と撃破していく。
モニター越しに見えるその戦闘は、あまりにも鮮やかで、まるで事前に振り付けられたダンスのようでもあった。
司令部のメインモニターを見つめる教官たちの間からも、張り詰めていた緊張を解くような、安堵のため息が漏れ始めていた。
だが、その完璧さこそが、これから訪れる未曾有の嵐の前の、ほんの束の間の静けさに過ぎないことを、この時、譲だけが、その理性の奥深くにある本能で感じ取っていた。
完璧すぎる。
あまりにも、計画通りに事が進みすぎている。
まるで、見えざる敵の手のひらの上で踊らされているかのような、薄気味悪い感覚が、彼の首筋を這い上がってきていた。
---
そして、その予感は、最悪の形で現実のものとなる。
試験開始から、ちょうど七分が経過した、その時だった。
『なんだ、これはッ!?』
突如、インカムの全てのチャンネルを貫いて、前線で展開していたC部隊の隊長の、悲鳴に近い絶叫が響き渡った。
その声は、恐怖と、それ以上に、自らの常識では到底理解できない現象に遭遇したことによる、純粋な混乱に満ちていた。
『東だ! 東の、旧地下鉄跡から、敵性反応! 数が、数が多すぎます! データにないぞ、こんなの! 事前データに、こんな情報は一切なかった!』
譲は、他の誰よりも速く、コンソールを操作した。
指が、意思を持つかのようにキーを叩き、東地区を監視していた偵察ドローンのライブ映像を、即座に手元のメインモニターに最大表示で映し出す。
そこに映し出された光景に、一瞬遅れて、司令部全体が凍りついたように息を呑んだ。
古びて崩れかけた地下鉄の入り口。
その漆黒の暗闇の中から、まるで地獄の釜が開いて黒い粘液が溢れ出すかのように、小型で俊敏な、蜘蛛とサソリを混ぜ合わせたような形状の怪物の大群が、次から次へと、無限に湧き出るように吐き出されていた。
一つ一つの個体の体長は三メートルほどで、ヴァルキリーにとっては取るに足らないサイズだ。
だが、その動きは、予測不能な軌道を描く昆虫のように気味が悪いほど素早く、垂直のビル壁や、瓦礫の天井を、重力を無視しているかのように自在に走り回る。
そして何よりも、その数が異常だった。
画面に映るだけでも、ざっと見積もって、百は下らないだろう。
それはもはや「群れ」というよりも、「津波」と呼ぶべき規模だった。
『C部隊、応戦しろ! 慌てるな、落ち着いて一体ずつ的確に対処すれば、ただの雑魚だ!』
司令室の作戦司令官である教官が、マイクに怒鳴りつける。
しかし、その声は、完全に虚を突かれてしまった前線のC部隊には、もはや届いていなかった。
完璧に舗装された作戦計画という名のレールの上を、ただひたすらに走り続けていた列車が、突如として現れた想定外の障害物によって、大脱線を起こしたかのような、凄まじい大混乱に陥っていた。
四方八方、三次元的な空間の全てから襲い来る、予測不能な怪物の動きに翻弄され、堅固だったはずの隊列はあっという間に分断されてしまう。
同士討ちさえ起きかねないほどの、完全なパニック状態だった。
譲のモニターに映るC部隊の機体アイコンが、生命の灯火が消えるかのように、次々と緑色(正常)から黄色(損傷)、そして赤色(行動不能)へと、その色を絶望的に変えていく。
---
『なぜだ! なぜデータにない場所から、これほどの規模の敵が出現する!』
『斥候部隊は何をしていたんだ! 見落としがあったとは言わせんぞ!』
『東ルートは最も安全なルートだと、過去のデータに基づくシミュレーションではじき出されたはずだぞ! 一体、どうなっている!』
教官たちの怒号が、司令部内に虚しく飛び交う。
彼らが今まで絶対の拠り所としていた、過去の膨大なデータと、それに基づく精緻な理論は、目の前で起きている残酷な現実の前では、何の役にも立たなかった。
誰もが、目の前の現象を理解することを放棄し、ただ自らの無能を棚に上げて、声を荒げるだけだった。
---
その狂乱と怒号が渦巻く喧騒の真っ只中で、譲だけが、まるで深海にいるかのように、氷のように冷たく、静かに、そして絶対的に冷静だった。
彼の十指は、まるでそれ自体が一つの独立した生命体であるかのように、鍵盤の上を舞う蝶のように滑らかに、そして常人には目で追うことすら不可能なほどの恐ろしい速度で、キーボードの上を踊り続けていた。
モニターに映るC部隊の惨状など、もはや彼の目には入っていない。
彼の脳内では、この戦場に存在する、およそありとあらゆる情報が、スーパーコンピュータすら凌駕する凄まじい速度で、統合され、分析され、そして再構築されていく。
この区域の詳細な三次元地形データ。
過去十年間にわたる、この区域における小型種の出現パターンとその季節変動。
廃墟と化した都市の地下に、網の目のように張り巡らされた地下鉄の路線図と、その構造的な脆弱性を示した地質データ。
そして、今朝の風向きと湿度から計算される、怪物が仲間に危険を知らせるために放出するであろう、フェロモンによる匂いの拡散範囲のシミュレーション。
それら一つ一つは、何の関係も持たない、ただの無意味な情報の断片に過ぎない。
だが、それら無数の情報が、彼の頭の中では、一つの巨大で、そして邪悪な意図を持った形を結びつつあった。
(おかしい。何もかもが、あまりにも、おかしい)
譲の思考は、常人が決して到達することのできない、深く、冷たい分析の海へと、さらに潜っていく。
(この小型種の群れは、たしかに厄介だ。C部隊を壊滅させるには十分な脅威だろう。だが、この卒業試験に参加している部隊全体の戦力を考えれば、決定的な脅威じゃない。C部隊が足止めされている間に、A部隊や、剛のいるB部隊を救援に投入すれば、時間はかかるだろうが、いずれは殲滅できるはずだ。なのに、なぜ? なぜ、敵は、このタイミングで、これほどまでに大規模で、派手な『陽動』を仕掛けてきた?)
陽動。
その言葉が、まるで天啓のように脳裏に浮かんだ瞬間、今までバラバラだった全てのピースが、カチリ、と硬質な音を立てて、完璧に一つの絵にはまった。
複雑怪奇なパズルの、最後のたった一つのピースが埋まった時のような、背筋を悪寒が駆け上るほどの、戦慄すべき快感。
譲は、見つけてしまった。
気づいてしまったのだ。
この作戦の背後に隠された、敵の、真の狙いに。
このおびただしい数の小型種の群れは、見せかけの脅威。
ただの『陽動』に過ぎない。
この群れが、C部隊、ひいては司令部全体の注意を一身に引きつけている、まさにその瞬間、別の場所に密かに潜んでいた、より大型で、より強力な『本命』が、部隊全体の生命線である『補給路』を、根元から断ち切る。
それこそが、この狡猾で知能の高い敵が仕掛けた作戦の、本当の目的だ。
補給路を断たれたヴァルキリー部隊が、どうなるか。
エネルギーは補給できず、弾薬も尽きる。
どんな屈強なパイロットが乗る精鋭部隊であろうと、ただの動かない鉄の棺桶と化す。
これは、敵が、人類の戦術を学習し、その裏をかくことで編み出した、極めて高度で悪辣な兵糧攻めなのだ。
---
彼は、養成所が定めた正規の指揮系統を、自らの意思で、完全に無視した。
教官にこの推論を報告し、その許可を仰いでいる時間など、もはや一秒たりとも残されてはいない。
コンマ一秒の遅れが、仲間全員の死に直結する。
仲間を救うため、彼は、自らが規則を破る『悪魔』になることを選んだ。
譲は、A部隊にのみ繋がる専用回線に、自身の持つ最高権限コードを行使して、直接割り込んだ。
インカムの向こうで、陽動部隊の殲滅に集中していた颯太が、驚きで息を呑む気配が、空気の振動として伝わってきた。
『颯太、聞こえるか! 宮沢だ!』
譲は、自らの声が、感情の乗らない、冷たい機械音のように響いているのを感じていた。
『譲!? なんでお前がこの回線に…司令部はどうした!』
戸惑う親友の声を、譲は、心を鬼にして、冷たく遮った。
感傷に浸っている暇など、一瞬たりともないのだ。
『作戦を変更する。今すぐ部隊を反転させろ! C部隊の救援じゃない! 目標はポイントD-7、高速道路の立体交差の下だ! 今すぐ、全速力でそこへ向かえ! 敵の本命が、そこに来る!』
『何を言ってるんだ、譲! 目の前でC部隊がやられてるんだぞ! 仲間を見捨てる気か! それに、レーダーにも、D-7には何の反応も出ていない!』
颯太の反論は、当然だった。
友を見捨てられない彼の正義感が、そう叫ばせている。
だが、譲には、もうそれ以上、言葉で説득する時間はなかった。
彼は、自らの魂を絞り出すように、ほとんど絶叫に近い声で、一つの数字を叩きつけた。
『確率、94.2パーセント!』
それは、単なるデータからの分析結果でも、不確かな予測でもない。
彼にとっては、もはや寸分違わぬ、確定した未来の光景だった。
---
インカムの向こうで、颯太が一瞬、言葉を失い、ためらった。
親友の、あまりにも突拍子もない、狂気じみた言葉と、目の前のモニターに映し出されている、苦悶し、助けを求める仲間たちの姿。
その二つの現実の狭間で、彼の真っ直ぐな正義が、激しく揺れる。
だが、その時、彼の脳裏に鮮やかに蘇ったのは、一年前の、あの絶望の無人島での記憶だった。
誰もが全滅を覚悟したあの状況で、この男の声だけが、自分たちを勝利へと導いてくれた。
あの時の、狂気に満ちているように見えて、しかし絶対的な確信に満ちていた、親友の瞳。
信頼は、時として、あらゆる理屈や常識を超える。
『――分かった! 信じるぜ、譲!』
颯太の決断は、一瞬だった。
『A部隊、全機、俺に続け! C部隊のことはB部隊に任せる! 目標、ポイントD-7! 急げ! 一秒でも早く着くぞ!』
『隊長、無許可での作戦変更は!』
『司令部の命令を待つべきです!』
という部下たちの制止の声と、司令部から響き渡る教官たちの怒号を振り切って、モニターの中で、颯太が率いるA部隊が、美しいV字の編隊を組んで、戦場から鮮やかに離脱していく。
---
そして、彼らが立体交差の下の、影になったポイントに布陣を完了した、まさに、その直後だった。
何の前触れもなく、彼らの目の前のアスファルトが、まるで薄いガラスのように、内側から凄まじい力で突き破られた。
轟音と共に、地面を大きく割って出現したのは、巨大なカマキリのような鉤爪を持ち、その全長が二十メートルはあろうかという、異形の巨大怪物だった。
地中に潜み、補給部隊が通りかかるのを、息を殺して待ち伏せていたのだ。
もし、颯太たちが、譲の指示を無視してC部隊の救援に向かっていれば、この怪物に完全に背後を取られ、部隊は一瞬で壊滅していただろう。
だが、永い潜伏から姿を現したその怪物が目にした光景は、無防備な補給部隊の姿ではなかった。
自らの出現を、まるで予期していたかのように、全砲門を寸分の狂いもなく自分自身に向け、静かに待ち構えていた、A部隊の鋼鉄の勇姿だったのだ。
『――撃てッ!』
颯太の、戦場に響き渡る号令一下、待ち構えていたA部隊の全てのヴァルキリーから放たれた一斉砲火が、出現したばかりで完全に無防備な巨大な怪物へと、灼熱の鉄槌となって叩き込まれた。
---
移動司令車両の中で、譲はその光景を、ただ静かに、瞬きもせずに見つめていた。
モニターに映し出される仲間たちの、あまりにも華々しい戦闘。
巨大な怪物が断末魔の咆哮を上げ、崩れ落ちる。
その際に巻き起こる爆炎の、まばゆいばかりの光が、譲の青白い顔を、明滅しながら照らし出していた。
自分は、英雄ではない。
颯太のように、人を惹きつける光は持たない。
剛のように、敵を憎む炎も燃やせない。
陽葵のように、機体と心を通わせることも、玲奈のように、全てを見通すこともできない。
この指は、ヴァルキリーの引き金を引くことすらできない。
だが、この場所で、この電子のコクピットで、この指先で、確かに自分は、仲間たちの命を守っている。
その熱い、確かな実感があった。
しかし、それと同時に、言いようのない、胸を締め付けるような無力感も、彼の心を支配していた。
モニターに映る爆炎の光が明滅する、あの華々しい戦場と、安全なこの司令車両の中とでは、決して埋まることのない、一枚の分厚い、冷たいガラスが存在している。
あのガラスの向こう側へ、自分は、決して行くことはできないのだ。
生まれ持った、どうしようもないこの身体。
そして、どれだけ願っても、思い通りにならないこの現実。
彼の戦いは、怪物との戦いは、まだ、始まったばかりだった。
そして、彼自身の内なる戦いもまた、今、静かに幕を開けたのだった。
10
あなたにおすすめの小説
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
処刑された勇者は二度目の人生で復讐を選ぶ
シロタカズキ
ファンタジー
──勇者は、すべてを裏切られ、処刑された。
だが、彼の魂は復讐の炎と共に蘇る──。
かつて魔王を討ち、人類を救った勇者 レオン・アルヴァレス。
だが、彼を待っていたのは称賛ではなく、 王族・貴族・元仲間たちによる裏切りと処刑だった。
「力が強すぎる」という理由で異端者として断罪され、広場で公開処刑されるレオン。
国民は歓喜し、王は満足げに笑い、かつての仲間たちは目を背ける。
そして、勇者は 死んだ。
──はずだった。
十年後。
王国は繁栄の影で腐敗し、裏切り者たちは安穏とした日々を送っていた。
しかし、そんな彼らの前に死んだはずの勇者が現れる。
「よくもまあ、のうのうと生きていられたものだな」
これは、英雄ではなくなった男の復讐譚。
彼を裏切った王族、貴族、そしてかつての仲間たちを絶望の淵に叩き落とすための第二の人生が、いま始まる──。
詠唱? それ、気合を入れるためのおまじないですよね? ~勘違い貴族の規格外魔法譚~
Gaku
ファンタジー
「次の人生は、自由に走り回れる丈夫な体が欲しい」
病室で短い生涯を終えた僕、ガクの切実な願いは、神様のちょっとした(?)サービスで、とんでもなく盛大な形で叶えられた。
気がつけば、そこは剣と魔法が息づく異世界。貴族の三男として、念願の健康な体と、ついでに規格外の魔力を手に入れていた!
これでようやく、平和で自堕落なスローライフが送れる――はずだった。
だが、僕には一つ、致命的な欠点があった。それは、この世界の魔法に関する常識が、綺麗さっぱりゼロだったこと。
皆が必死に唱える「詠唱」を、僕は「気合を入れるためのおまじない」だと勘違い。僕の魔法理論は、いつだって「体内のエネルギーを、ぐわーっと集めて、どーん!」。
その結果、
うっかり放った火の玉で、屋敷の壁に風穴を開けてしまう。
慌てて土魔法で修復すれば、なぜか元の壁より遥かに豪華絢爛な『匠の壁』が爆誕し、屋敷の新たな観光名所に。
「友達が欲しいな」と軽い気持ちで召喚魔法を使えば、天変地異の末に伝説の魔獣フェンリル(ただし、手のひらサイズの超絶可愛い子犬)を呼び出してしまう始末。
僕はただ、健康な体でのんびり暮らしたいだけなのに!
行く先々で無自覚に「やりすぎ」てしまい、気づけば周囲からは「無詠唱の暴君」「歩く災害」など、実に不名誉なあだ名で呼ばれるようになっていた……。
そんな僕が、ついに魔法学園へ入学!
当然のように入学試験では的を“消滅”させて試験官を絶句させ、「関わってはいけないヤバい奴」として輝かしい孤立生活をスタート!
しかし、そんな規格外な僕に興味を持つ、二人の変わり者が現れた。
魔法の真理を探求する理論オタクの「レオ」と、強者との戦いを求める猪突猛進な武闘派女子の「アンナ」。
この二人との出会いが、モノクロだった僕の世界を、一気に鮮やかな色に変えていく――!
勘違いと無自覚チートで、知らず知らずのうちに世界を震撼させる!
腹筋崩壊のドタバタコメディを軸に、個性的な仲間たちとの友情、そして、世界の謎に迫る大冒険が、今、始まる!
王命って何ですか? 虐げられ才女は理不尽な我慢をやめることにした
まるまる⭐️
恋愛
【第18回恋愛小説大賞において優秀賞を頂戴致しました。応援頂いた読者の皆様に心よりの感謝を申し上げます。本当にありがとうございました】
その日、貴族裁判所前には多くの貴族達が傍聴券を求め、所狭しと行列を作っていた。
貴族達にとって注目すべき裁判が開かれるからだ。
現国王の妹王女の嫁ぎ先である建国以来の名門侯爵家が、新興貴族である伯爵家から訴えを起こされたこの裁判。
人々の関心を集めないはずがない。
裁判の冒頭、証言台に立った伯爵家長女は涙ながらに訴えた。
「私には婚約者がいました…。
彼を愛していました。でも、私とその方の婚約は破棄され、私は意に沿わぬ男性の元へと嫁ぎ、侯爵夫人となったのです。
そう…。誰も覆す事の出来ない王命と言う理不尽な制度によって…。
ですが、理不尽な制度には理不尽な扱いが待っていました…」
裁判開始早々、王命を理不尽だと公衆の面前で公言した彼女。裁判での証言でなければ不敬罪に問われても可笑しくはない発言だ。
だが、彼女はそんな事は全て承知の上であえてこの言葉を発した。
彼女はこれより少し前、嫁ぎ先の侯爵家から彼女の有責で離縁されている。原因は彼女の不貞行為だ。彼女はそれを否定し、この裁判に於いて自身の無実を証明しようとしているのだ。
次々に積み重ねられていく証言に次第に追い込まれていく侯爵家。明らかになっていく真実を傍聴席の貴族達は息を飲んで見守る。
裁判の最後、彼女は傍聴席に向かって訴えかけた。
「王命って何ですか?」と。
✳︎不定期更新、設定ゆるゆるです。
没落した貴族家に拾われたので恩返しで復興させます
六山葵
ファンタジー
生まれて間も無く、山の中に捨てられていた赤子レオン・ハートフィリア。
彼を拾ったのは没落して平民になった貴族達だった。
優しい両親に育てられ、可愛い弟と共にすくすくと成長したレオンは不思議な夢を見るようになる。
それは過去の記憶なのか、あるいは前世の記憶か。
その夢のおかげで魔法を学んだレオンは愛する両親を再び貴族にするために魔法学院で魔法を学ぶことを決意した。
しかし、学院でレオンを待っていたのは酷い平民差別。そしてそこにレオンの夢の謎も交わって、彼の運命は大きく変わっていくことになるのだった。
※2025/12/31に書籍五巻以降の話を非公開に変更する予定です。
詳細は近況ボードをご覧ください。
ゲームコインをザクザク現金化。還暦オジ、田舎で世界を攻略中
あ、まん。
ファンタジー
仕事一筋40年。
結婚もせずに会社に尽くしてきた二瓶豆丸。
定年を迎え、静かな余生を求めて山奥へ移住する。
だが、突如世界が“数値化”され、現実がゲームのように変貌。
唯一の趣味だった15年続けた積みゲー「モリモリ」が、 なぜか現実世界とリンクし始める。
化け物が徘徊する世界で出会ったひとりの少女、滝川歩茶。
彼女を守るため、豆丸は“積みゲー”スキルを駆使して立ち上がる。
現金化されるコイン、召喚されるゲームキャラたち、 そして迫りくる謎の敵――。
これは、還暦オジが挑む、〝人生最後の積みゲー〟であり〝世界最後の攻略戦〟である。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる