無能と蔑まれた僕だけが知る世界の嘘。敵であるはずの怪物の少女に恋したので、人類を裏切り世界を滅ぼす。

Gaku

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第2部:討伐部隊・転機編

第42話:奈落の底へ

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雨は、地上から全ての音を奪い去ろうとするかのように、激しく降り続いていた。

颯太が率いるA班と、玲奈が率いるB班は、それぞれ錆びついた巨大な扉をこじ開け、第7廃工場地帯の心臓部へと足を踏み入れていた。東棟と中央棟。まるで巨大な獣の肋骨のように並び立つ、鉄骨とコンクリートの迷宮。その内部は、外の嵐が嘘のような、不気味な静寂に包まれていた。

譲は司令車両『アルゴス』のコクピットで、彼らから送られてくる映像とデータを、神経を針のように尖らせて監視していた。モニターに映し出されるのは、隊員たちのヘルメットに装着されたライトが切り取る、限定的な視界だけだ。埃をかぶった巨大な機械の残骸が、光の輪の中にぬっと現れては、闇の中へと消えていく。その影が、まるで意思を持った生き物のように揺らめき、見る者の不安を煽った。

「ポツン……ポツン……」

天井の裂け目から滴り落ちる雨水が、床の鉄板を規則正しく叩く音が、インカムを通して微かに聞こえてくる。それはまるで、この巨大な廃墟の心臓の鼓動のようでもあり、あるいは、破滅へのカウントダウンを告げる時計の秒針のようでもあった。錆とカビと、そして長い年月をかけて澱んだ水の匂いが混じり合った、濃密な空気がこちらまで伝わってくるようだった。

『こちらA班、東棟セクター3の探索を完了。異常なし』
颯太の冷静な声が響く。だが、譲には分かった。その声の奥に潜む、張り詰めた緊張の色が。
『B班も同じく。あまりに静かすぎるわね。まるで、主のいない巨大な墓場のよう』
玲奈の声には、いつもの冷徹さに加えて、微かな警戒心が滲んでいた。

譲は、メインモニターに表示された玲奈の部隊の動きを、固唾を飲んで見守っていた。彼女たちは中央棟の最も深いエリア、かつて巨大なタービンが設置されていたであろう、体育館ほどもある巨大な空間へと進んでいく。その時だった。

譲の目の端で、熱源探知モニターが一瞬だけ、ノイズとは思えない微かな反応を捉えた。それは、ほんの一瞬、瞬きをする間に消えてしまうほどの、淡い光点。だが、その位置は彼の全身の血を凍りつかせるのに十分だった。

地下だ。それも、遥か深く。玲奈たちが今いる、その真下。

(まずい、罠だ!)

全身の毛が、総毛立った。前回の警告を無視された苦い記憶が蘇る。だが、今はそんなことを言っている場合ではない。あの静けさは、やはり擬態だったのだ。地上に注意を引きつけておいて、本命は地下から一網-尽にする。合理的で、狡猾で、そして何よりも悪意に満ちた戦術。

譲は反射的にインカムのスイッチを入れた。
「玲奈さん、聞こえるか! 今すぐそこから離れろ! お前たちの真下に何かがいる!」

ザザッ、という耳障りなノイズが返ってくるだけだった。分厚いコンクリートと鉄骨の遮蔽壁が、ただでさえ弱い電波を容赦なく減衰させている。声が、届かない。この数秒の躊躇が、取り返しのつかない事態を招くかもしれない。

(どうする? 正規の手順を踏んで、司令部に報告し、そこから前線に伝達を……? 馬鹿を言え! そんなことをしている間に、全てが終わってしまう!)

彼の脳内で、服務規程の条文と、仲間たちの命が天秤にかけられた。論理と合理性の化身であったはずの宮沢譲が、その天秤がどちらに傾くかを計算するよりも早く、身体が動いていた。

彼はヘッドセットを叩きつけるように外し、司令車両のハッチを、文字通り蹴り開けた。

「宮沢観測員! どこへ行く!」

同僚の制止の声が背中に突き刺さるが、振り返る余裕はなかった。豪雨が、彼の身体を瞬く間に叩きのめす。冷たい雨粒が視界を奪い、風が体温を容赦なく削っていく。彼は、腰のホルスターから旧式のハンドガンを引き抜くと、最低限の自衛装備だけを頼りに、雨と闇に煙る工場の中へと駆け込んでいった。

玲奈に、直接危険を知らせる。
その、あまりにも非合理的で、無謀で、感情的な衝動だけが、今の彼を動かしていた。

降りしきる雨と、鼻をつく錆の匂いの中、譲は必死に走った。ぬかるんだ地面に足を取られ、何度も転びそうになる。泥だらけになりながら、タブレットに表示された玲奈のIDが示すポイントだけを目指した。

中央棟の入り口を転がり込むように抜け、内部の暗闇に目を慣らす。そして、巨大なタービン室へと続く、錆びついた鉄製のキャットウォークへと足をかけた。高さは20メートル以上。下は、何も見えない奈落のような闇が口を開けていた。玲奈のIDは、この先だ。

一歩、また一歩と、慎重に、だが速足で進む。その、まさに中央まで差し掛かった時だった。

ミシリ、と。足元で、鉄が悲鳴を上げるような、嫌な音がした。
怪物の罠ではない。誰かの悪意でもない。ただ、純粋に。数十年という、抗いようのない時間の重みと、絶え間なく降り注ぐ雨水がもたらした、静かで、無慈悲な腐食と劣化。強固に見えた鉄骨は、その内部を茶色い塵へと変え、もはや人の体重一人支えるだけの強度すら残してはいなかったのだ。

避けようのない、世界の法則。
どんなものも、永遠には続かない。全ては移ろい、形を変え、やがては滅びていく。

**ゴォォンッ! ガラガラガラッ!!**

廃工場全体を揺るがすほどの、けたたましい金属の絶叫と共に、譲が立っていた鉄板が、まるで紙切れのように崩れ落ちた。

短い、永遠のようにも感じられる浮遊感。
舞い上がる錆の粉が、雨水に濡れて血のように見えた。
すぐそこにいるはずの、守りたかった人の名前を叫ぼうとしたが、声になる前に、彼の身体は暗闇に吸い込まれていった。

鈍い衝撃と共に、譲の意識は、深い、深い闇の底へと沈んでいった。

その轟音は、遥か下のタービン室にいた玲奈たちの耳にも、確かに届いていた。

『何だ、今の音は!?』
B班の隊員が動揺する。
玲奈は即座に上を見上げたが、暗闇が広がるばかりだ。だが、あの音は尋常ではない。何かが、崩落した。彼女の第六感が、最大級の警報を鳴らす。
「全隊員、停止! 警戒態勢!」
玲奈の鋭い声が響く。その、まさに直後だった。

**ドゴォォォンッ!!!**

玲奈たちが数秒前まで立っていた場所のコンクリートの床が、何の前触れもなく爆発するように砕け散り、地下から巨大な鋼鉄の顎が突き出した。もしあのまま進んでいれば、部隊は一瞬で飲み込まれていただろう。

『……嘘、だろ』
冷や汗を流す隊員たち。玲奈は、あの轟音が自分たちを救ったのだと悟った。だが、一体何が……?
その答えは、最悪の形で届けられた。

前線基地の司令部と、颯太たちの部隊のモニターに、無機質なアラートが表示された。

【ID: MZ-Yuzuru_773 / SIGNAL LOST】

『宮沢観測員、応答しろ! 宮沢!』

オペレーターの絶叫が響く。やがて、冷徹な合成音声が、全部隊に通達を下した。

『観測員、宮沢譲。MIA(戦闘中行方不明)と判断』

その無機質なコールが、仲間たちの心を、まるで冬の湖のように凍りつかせた。

『俺の、せいだ……』
コックピットの中で、颯太は、唇から血が滲むほど強く、自らの唇を噛み締めていた。
『俺が……俺が、譲の警告を、信じていれば……!』
リーダーとしての、合理的な判断。それは正しかったはずだ。だが、その正しさが、たった一人の、かけがえのない親友を死地に追いやった。後悔という名の巨大な万力が、彼の心を原型もなく軋ませ、砕いていく。

玲奈は、氷の仮面を崩すことなく、静かにモニターを見つめていた。あの轟音。そして、彼のMIA報告。点と点が線で繋がり、残酷な真実を彼女に告げる。操縦桿を握りしめた彼女の指は、その根元が真っ白になるほど、強く、強く、力を込めていた。彼が、その身を賭して、自分を救ったのだと。

どれほどの時間が、経ったのだろうか。
地下の、光の一切届かない完全な暗闇の中で、譲はゆっくりと意識を取り戻した。
最初に感じたのは、全身を打つ、鈍い、鈍い痛みだった。
次に感じたのは、絶対的な絶望。
視界は、目を開けても閉じても変わらない、漆黒の闇。
耳元でかろうじて機能していたインカムは、今はただ「ザー」という死のノイズを繰り返すだけ。
光も、仲間との繋がりも、全てを失った。

(ああ、僕は、ここで死ぬのか)

じわじわと這い上がってくる恐怖が、彼の喉を締め上げる。このままパニックに陥り、発狂し、誰にも知られることなく、この冷たい闇の中で腐り果てていく。そんな、あまりにも惨めな最期が、脳裏をよぎった。

その、彼の理性が恐怖に飲み込まれようとした、刹那だった。
脳裏に、鮮明に、一つの光景がフラッシュバックした。

――『だから、私が、あなたの盾になる』

そうだ。
あの時、自分を庇って、その美しい白い機体を傷だらけにしながら、それでも仁王立ちで自分を守ってくれた、一人の少女の姿が。

(ここで死ぬわけには、いかない)

その、たった一つの想いが、彼の思考を、まるで雷に打たれたかのように強制的に再起動させた。
彼女に、まだ礼も言えていない。
彼女が信じてくれた「人類の羅針盤」としての自分を、こんな場所で、こんな無様に終わらせて、たまるものか。

譲は、恐怖に支配されることをやめた。
彼は、恐怖そのものを、自らの分析対象として、静かに観察し始めたのだ。

目を閉じる。
視覚という、今まで最も頼りにしてきた情報源を、自ら断ち切る。
すると、閉じていた他の五感が、まるでダムの放流のように、一斉に開き始めた。

耳が、遠くで響く、規則正しい水滴の音を拾う。水の在り処、それは生命の在り処だ。
鼻が、カビの匂いの濃淡を嗅ぎ分ける。匂いの薄い方へ、空気が流れている証拠だ。
肌が、頬を撫でる、ほんの微かな空気の流れを感じ取る。この暗闇にも、出口へと続く道があるはずだ。
指先が、壁のコンクリートの、ざらついた感触を確かめる。これを道標にすれば、迷うことはない。

普段は、モニターから流れ込む膨大な情報に忙殺され、ほとんど閉じていた、生身の感覚。それが、極限状況下で、異常なまでに研ぎ澄まされていく。
過去への後悔でも、未来への不安でもない。ただ、「今、ここ」にある、自分自身の感覚だけに、意識の全てを集中させる。

譲は、ゆっくりと、痛む身体を引きずるようにして立ち上がった。
そして、コンクリートの冷たい壁に手をつき、研ぎ澄まされた感覚が指し示す、か細い活路に向かって、確かな一歩を踏み出した。
その一歩は、絶望の闇の中に灯った、あまりにも小さく、しかし、決して消えることのない、希望の光そのものだった。
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