無能と蔑まれた僕だけが知る世界の嘘。敵であるはずの怪物の少女に恋したので、人類を裏切り世界を滅ぼす。

Gaku

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第2部:討伐部隊・転機編

第43話:銀色の妖精

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時間の感覚は、とうの昔に失われていた。
光のない世界では、一秒も一日も、同じ価値しか持たない。宮沢譲は、ただひたすらに歩き続けていた。右手に触れる、ざらついたコンクリートの壁の感触だけが、自分がまだ生きているという唯一の証明だった。

全身を蝕む痛みは、既に鈍い痺れへと変わっている。乾ききった喉は、もはや渇きを訴えることすらやめてしまった。彼の意識をかろうじて繋ぎとめているのは、脳裏に焼き付いて離れない、一つの光景だけだった。

――『私が、あなたの盾になる』

その、あまりにも純粋で、絶対的な信頼を宿した声。彼女が信じてくれた自分を、こんな名もなき闇の底で、獣のように朽ち果てさせていいはずがない。その想いだけが、彼の足を、一歩、また一歩と前へ進ませる燃料となっていた。

彼の世界は、視覚を失った代わりに、他の感覚が異常なまでに増幅されていた。耳は、遠くで響く、規則正しい水滴の音を捉えている。ポツン……ポツン……。それは、この死んだような静寂の中で唯一の、生命の気配を感じさせる音だった。音源は、おそらく北東の方角。距離、およそ200メートル。

鼻は、カビと湿気が混じり合った淀んだ空気の中に、ほんの僅かな、清浄な風の流れを嗅ぎ分けていた。微かだが、確実に、空気が動いている。この地下迷宮にも、どこかに出口へと続く道があるはずだ。

彼は、まるで生まれつきの盲目の探検家のように、五感から得られる全ての情報を脳内で統合し、三次元の地図を構築していく。それは、彼が司令車両のモニターに向かっていた時と、本質的には同じ作業だった。ただ、入力される情報源が、機械のセンサーから、生身の人間の感覚へと変わっただけだ。

水滴の音は、次第に大きくなり、反響音から推測するに、かなり開けた空間が近いことを示していた。そして、永遠に続くかと思われた漆黒の闇の中に、初めて、針で突いたような、あまりにも微かで、しかし希望と呼ぶには十分すぎるほどの、光の筋が見えた。

譲は、ほとんど這うようにして、その光に向かった。それは、巨大な鉄製の扉の隙間から漏れる光だった。最後の力を振り絞り、錆びついて悲鳴を上げる扉に全体重をかけて押し開ける。

その瞬間、譲は、息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、彼が想像していた、薄汚く、崩落した地下施設の光景ではなかった。
そこは、この世のものとは思えないほどに、美しく、荘厳な空間だった。

巨大なドーム状の空洞。天井は遥か高く、その全貌を窺い知ることはできない。人工的な照明は、どこにも見当たらない。それなのに、空間全体が、まるで月光が降り注ぐ夜の湖の底のように、幻想的な青白い光に満たされていた。

光の源は、壁一面に、まるで森の木々のように自生している、巨大な乳白色の結晶体だった。その一つ一つが、人間の背丈ほどもあるだろうか。結晶は、まるでゆっくりと呼吸をする巨大な生命体のように、穏やかな光を明滅させていた。その光は、決して目を焼くような強いものではなく、心を静めるような、優しく、そしてどこか懐かしい光だった。

空気は、どこまでも澄み渡っていた。地上の工場地帯で嗅いだ錆とカビの腐臭も、先ほどまで彼を閉じ込めていた地下通路の澱んだ匂いも、ここには一切存在しない。代わりに、雨上がりの森のような、清浄で、わずかに甘い香りが彼の肺を満たした。

ここは、一体どこだ?
天国か? それとも、僕は落下した衝撃でついに狂ってしまい、都合のいい幻覚を見ているのか?
譲の脳は、過去に蓄積したあらゆるデータを検索したが、目の前の光景に合致する情報は一つもなかった。物理学も、地質学も、生物学も、彼が拠り所としてきた全ての論理と法則が、この場所では意味をなさないように思えた。

彼は、まるで聖域に足を踏み入れてしまった罪人のように、呆然と立ち尽くしていた。
そして、彼は見てしまったのだ。

その、巨大な空洞の中央。
まるで、壮大な舞台の上の、たった一人の主役のように。
静かに佇む、一人の少女の姿を。

腰まで届く、長い、長い銀色の髪。
それは、まるで溶かした白金(プラチナ)をそのまま流し込んだかのような、現実離れした輝きを放っていた。壁の結晶体が放つ青白い光を浴びて、その一本一本がきらきらと、星屑のように瞬いている。
彼女が着ているのは、純白の、シンプルなワンピースのような服だけだった。その白い布地から覗く肌は、磨き上げられた純白の陶器のように滑らかで、ほとんど透明に近いほどの白さだった。

人間か?
いや、違う。こんなにも完璧で、神々しい存在が、人間であるはずがない。
では、新型の怪物か?
それも、違う。彼女からは、あの忌まわしい怪物たちが放つ、飢えや殺意といった、どす黒い気配が一切感じられなかった。

譲の脳は、カテゴリー分類不能な未知の存在を前に、完全に処理能力の限界を超えてショートしていた。分析も、予測も、評価もできない。彼の唯一にして最大の武器であったはずの頭脳が、この少女の前では、ただの無力な肉塊と化してしまった。

彼の身体は、それでも、二年間の過酷な訓練で叩き込まれた、戦闘時の反射行動だけは忘れなかった。彼は無意識のうちに、腰のホルスターから、泥だらけの旧式ハンドガンを抜き放っていた。震える両手で、その銃口を、ゆっくりと少女に向ける。

だが、引き金にかけた指が、まるで鉛の塊のように重く、動かなかった。
恐怖ではない。
彼の本能が、全身全霊で叫んでいたのだ。目の前の存在は、断じて「敵」ではない、と。それは、善悪や、敵味方といった、人間が作り出した矮小な二元論では到底測ることのできない、もっと根源的で、崇高な何かだと。

その時だった。
少女は、まるで背中に目があるかのように、ゆっくりと、譲の方を振り向いた。

その顔立ちを見た瞬間、譲は、呼吸の仕方すら忘れてしまった。
玲奈の美しさが、計算され尽くした氷の彫刻だとするならば、この少女の美しさは、夜空に咲いた一輪の月下美人のようだった。儚く、清らかで、触れれば壊れてしまいそうな、神聖な造形。
そして、その完璧な顔に浮かべられたのは、ふわりとした、あまりにも無垢な微笑みだった。
その微笑みには、敵意や警戒心といった感情は一切含まれていなかった。それは、まるで、道端で迷子になって泣いている子犬を見つけた時のような、純粋で、無条件の慈愛に満ちていた。

譲が、その神々しいまでの光景に完全に心を奪われていた、次の瞬間。
彼の頭の中に、直接、声が響き渡った。

『――怖がらないで。大丈夫。あなたを、ずっと待っていた』

それは、耳で聞く音ではなかった。
鼓膜を震わせる物理的な振動ではない。彼の思考と記憶が渦巻く、脳という宇宙の、そのど真ん中に、まるで最初からそこにあったかのように、その声は静かに、そしてあまりにも自然に、染み込んできた。
鈴の音のように、どこまでも透き通った声。
春の陽だまりのように、温かく、優しい響き。

テレパシー? 幻聴? それとも、ついに僕は本当に狂ってしまったのか?
譲は、混乱の極みに達していた。
彼が学んできた因果の鎖は、この場所では意味をなさないのかもしれない。原因と結果という、彼が信じてきた世界の基本法則が、目の前の少女の存在によって、いとも容易く否定され、上書きされていく。彼女は、僕が知る「生命」という定義の外側にいる存在だ。

彼は、自分が知っていた「世界」の境界線を、今、まさに越えてしまったのだと、直感した。
それは、もう二度と、元の場所には戻れないことを意味していた。
銃を握りしめたまま、彼はただ、呆然と、その銀色の妖精を見つめることしかできなかった。
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