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第2部:討伐部隊・転機編
第44話:なぜ、殺すの?
しおりを挟む静寂が支配していた。
それは、
音という概念そのものが、この宇宙から消滅してしまったかのような、
絶対的な静寂であった。
数時間前に彼が潜り抜けてきた、
地上の廃工場で感じた息苦しい沈黙とは、
その質がまるで異なっていた。
あの場所の静けさは、
獲物を前に息を殺す獰猛な獣の緊張感、
あるいは、いつ爆発するとも知れない爆弾を前にした時の、
張り詰めた恐怖に似ていた。
そこには常に、
次に来るであろう破壊の予兆が、
濃密な死の匂いと共に満ちていた。
また、人が訪れることのなくなった墓地を覆う、
虚無の衣のような、
死が全てを平等に塗りつぶしてしまった後の、
空虚な静寂とも違う。
ここに在るのは、始まりの静寂だ。
まだ星も、
生命も、
時間さえも生まれる以前の、
原初の宇宙を満たしていたであろう、
無限の可能性をその内に秘めた、
神聖にして満ち足りた静寂。
それは耳を澄ますものではなく、
魂で浴びるものだった。
全身の皮膚呼吸を通して、
細胞の一つ一つにまで浸透してくるような、清浄な沈黙。
そのあまりの純粋さは、
地上で絶えずノイズに晒され続けてきた鼓膜を、
そして心を、
優しく洗い清めていくかのようであった。
宮沢譲は、
その神聖な静寂の海の底に沈んだまま、
一歩も動けずにいた。
彼の手には、
冷たく硬質な感触を持つ制式ハンドガンが、
まるで身体の一部であるかのように固く握られている。
だが、その銃口は、
明確な敵意を持って目標を捉えることもできず、
かといって、無力に下がることもできず、
ただ虚空の一定点を捉えたまま、
微細に、しかし絶え間なく震え続けていた。
彼の両目は、
目の前に存在する「それ」を確かに捉えている。
網膜は光を受け、
視神経は電気信号を脳へと送り続けている。
しかし、大脳皮質の情報処理中枢は、
その信号に対して意味のある解釈を下すことを完全に放棄していた。
彼の脳は、
理解不能な情報奔流の前に、
システムダウンを起こした旧式のコンピューターのように、
ただただ空転を続けている。
エラー、エラー、エラー。
思考の回路がショートし、
焼き切れる寸前の危険な異音が、
頭蓋の内側で鳴り響いていた。
アナリストとしての、
彼が後天的に獲得し、
血の滲むような訓練の果てに研ぎ澄ませてきた本能だけが、
この異常事態に抗っていた。
それは、
パニックに陥った主人を無視して自律的に動き続ける、
忠実な機械仕掛けの猟犬にも似ていた。
必死に目の前の存在を構成する要素を分解し、
既知のデータベースと照合し、
カテゴリーに分類し、
理解可能な「情報」という名の檻の中へと押し込めようと、
無駄な努力を繰り返している。
(基礎情報走査開始。)
(対象、生命体と仮定。)
(形態、人型。)
(身長、推定およそ百六十センチメートル。)
(体重、外見からの推測値、四十五キログラム前後。)
(骨格構造、四肢の配置、頭部の位置、人間との類似性が極めて高い。)
(ただし、明確な差異を複数確認。)
(第一に、異常なまでの色素の欠如。)
(肌は磨き上げられた純白の陶磁器を思わせ、血の通う生命体特有の温かみ、色みが一切感じられない。)
(第二に、頭髪。)
(観測史上、地球上のいかなる生物種にも該当しない、純粋な銀。)
(それは金属光沢ではなく、まるで月光そのものを紡いで織り上げたかのような、柔らかな光を内側から放っている。)
(そして第三、周囲の結晶体群との間に、未知の相互作用を観測。)
(対象の存在そのものが、この空間に満ちる微弱な光の源となっている可能性が高い。)
(周囲の光が対象に集まっているのか、対象から光が拡散しているのか、判断不能。)
(結論――分析不能。)
(カテゴリーエラー。)
(既知のいかなる分類にも属さず。)
(危険度、判定不能。)
(脅威レベル、測定不能。)
彼の頭脳は、
これまでどんな複雑怪奇な戦況であっても、
どんな異形の怪物と対峙しようとも、
常に冷静さを失わなかった。
あらゆる事象を冷徹なまでに情報の断片へと分解し、
鋭利な論理のメスで切り刻み、
その本質を暴き出してきた。
それがアナリスト、宮沢譲という人間の存在意義であり、
戦場における唯一無二の武器だった。
データこそが真実であり、
分析こそが世界を理解するための唯一の手段だった。
だが、今、
彼の目の前に静かに佇む少女は、
その彼が築き上げてきた世界の、
全ての法則の外側にいた。
彼女は、
譲が絶対の信頼を置いてきた「知識」や「データ」という、
人間が作り出した矮小な物差しでは、
その存在の輪郭すら測ることができない、
規格外の存在だったのだ。
銃口の震えが、徐々に大きくなっていく。
その震えは、
腕の筋肉の痙攣から、肩へ、背骨へ、そして足元へと伝わっていく。
だが、それは単なる恐怖から来るものではなかった。
死への恐怖ならば、彼は訓練の中でとっくに克服している。
未知との遭遇に対する怯えとも違う。
それはもっと根源的で、
存在の基盤そのものを揺るがされるような、
巨大な感覚の奔流だった。
自分が信じてきた世界の全て、
当たり前だと思っていた常識、
善と悪の区別、
それら全てが、今この瞬間、足元から音を立てて崩れ落ちていく。
その途方もない喪失感と浮遊感が、
彼の身体から完璧な制御という概念を奪い去っていたのだ。
まるで、
自分が立っている大地そのものが、
巨大な顎を開けて彼を飲み込もうとしているかのような、
抗いようのない眩暈。
「お前は、誰だ?」
ようやく、
乾ききった喉の奥から絞り出した声は、
彼自身が耳にして驚くほどに、
情けないほどか細く、
ひび割れたガラスのように嗄れていた。
声帯が正常に振動せず、
ただ空気だけが虚しく漏れ出ていく。
静寂の湖面に投じられた、あまりに小さな小石。
それは波紋すら生むことなく、音もなく水底へと沈んでいった。
彼は、喘ぐように息を吸い、もう一度言葉を紡ごうと試みた。
「人間じゃない。……それは、わかる。」
「……じゃあ、怪物、なのか?」
「なぜ、ここにいる?」
「なぜ、僕を待っていた?」
問いは、
無数に林立する水晶の柱に吸い込まれ、
反響することもなく消えていった。
問いを投げかけたはずの譲自身の耳にすら、
それが届いたのかどうか定かではない。
それほどに、
彼の声は弱々しく、
この場の支配的な静寂の前には無力だった。
少女は、
彼の問いに言葉で応じようとはしなかった。
ただ、
その純白の貌に、
何の感情も浮かべぬまま、
譲をじっと見つめている。
その瞳は、
深淵の湖のようにどこまでも深く、
色という概念すら存在しないかのように澄み切っていた。
敵意も、
警戒も、
好奇心さえも、
そこからは読み取れない。
やがて、彼女は、
譲の警戒心を無用に刺激しまいと心掛けるかのように、
ゆっくりと、
そして僅かに躊躇うような仕草で、
一歩だけ譲の方へと踏み出した。
その小さな、ほとんど無音の動き。
しかし、それだけで、
この空間を満たす空気がふわりと揺らぎ、
まるで数多の夜香花が一斉に開いたかのような、
甘く、
それでいて心を落ち着かせる清浄な香りが、
譲の鼻腔を微かに掠めた。
それは、
彼の荒れ狂う思考の嵐を、
一瞬だけ凪がせる不思議な力を持っていた。
そして、彼女は、
先ほど彼がこの場所に足を踏み入れた時と同じように、
その桜色の唇を開くことなく、
譲の頭の中枢に、直接その意思を送り込んできた。
それは声ではない。
音波による鼓膜の振動を介した情報伝達ではない。
純粋な思念の波動が、
彼の頭蓋骨を、
大脳皮質を、
そして意識の最も深い領域を、
何の抵抗も許さずに貫いていく。
その問いは、
どこまでも純粋で、
何の飾り気もなく、
そして何よりも、
この世界の矛盾そのものを射抜く、
核心を突いた一撃だった。
『なぜ、あなたたちは、私たちを殺すの?』
その問いは、
鋭利に研ぎ澄わされたガラスの刃のように、
譲の胸の中心に、
深く、深く突き刺さった。
物理的な痛みは、ない。
出血もない。
しかし、彼の魂が、
存在の根源から力ずくで抉り出されるような、
激しい衝撃が全身を駆け巡った。
呼吸が止まる。
心臓が、
まるで巨大な手で鷲掴みにされたかのように、
一度、大きく軋んだ。
視界が真っ白に染まり、
思考が完全に停止する。
なぜ、殺すのか?
なぜ、殺すのかだと?
その問いは、譲にとって、
あまりにも純粋で、
あまりにも根源的で、
そして、それ故にあまりにも愚かに響いた。
それは、
なぜ人は呼吸をするのか、
なぜ太陽は東から昇り西へと沈むのか、
なぜ重力は万物を大地へと引き寄せるのかと問うようなものだ。
考えるまでもない。
それは、
この世界が成立するための大前提であり、
疑うことすら許されない、
絶対的な公理のはずだった。
彼が物心ついた時から、
いや、人類という種が「怪物」という存在と出会ってから、
片時も揺らぐことのなかった、
自明の理。
その自明の理を、根底から否定された。
侮辱された。
愚弄された。
その認識が、譲の中で、
思考の停止から回復した脳を、
一気に沸点へと到達させた。
彼の内面で、
これまで理性という名の分厚い防壁によって辛うじて抑え込まれていた何かが、
轟音と共に堰を切って溢れ出した。
それは、
彼がこの二年間の過酷な訓練の中で、
骨の髄まで叩き込まれた兵士としての矜持。
地球を守るという大義への絶対的な信仰。
そして、それよりも遥かに深く、
彼の魂の最も柔らかい場所に刻みつけられた、
個人的で、
決して癒えることのない灼けつくような痛み。
「決まってるだろ!」
彼の口から迸った叫びは、
もはや人間の声ではなかった。
この神聖なまでに静謐な空間には、
あまりにも不釣り合いな、
憎悪と憤怒に焼け爛れた、
一頭の獣の咆哮だった。
水晶の柱が、
その憎悪の波動に共鳴し、
びりびりと微かに震える。
「お前たちが先に、人間を襲ったからだ!」
「理由もなく、何の罪もない人たちを、たくさん、たくさん、たくさん殺した!」
「俺の目の前で、街が焼かれた! 人が死んだ!」
「俺の両親が、瓦礫の下で冷たくなっていくのを、俺は見ていたんだぞ!」
言葉が、
思考よりも先に、
感情の濁流となって口から溢れ出てくる。
脳裏に、あの日の光景が鮮明に蘇る。
空を切り裂く怪物の咆哮、
崩れ落ちるビルディング、
舞い上がる黒煙と粉塵、
そして、嗅ぎたくもない肉の焼ける匂い。
助けを求める人々の悲鳴は、
やがて巨大な破壊音の中に掻き消されていった。
幼い彼の手を必死に握っていた母親の温もりが、
徐々に失われていく絶望的な感触。
父親の、
彼を庇って砕け散った背中の記憶。
「養成所の仲間たちが、どれだけ傷ついたと思ってる!」
「手足を失った奴もいる!」
「心を壊して、二度と笑えなくなった仲間もいる!」
「全部、全部、全部、お前たちのせいだ!」
それは、譲個人が信じる真実であると同時に、
彼が所属する組織、
いや、この星に生きる全ての人類が共有する、
疑いようのない「事実」であり「正義」だった。
地球防衛隊の教義の第一条。
全ての兵士が、
入隊の日にその胸に血で刻み込むことを強制される大原則。
『我々は被害者である。』
『我々の戦いは、怪物によって一方的に奪われた平穏と尊厳を取り戻すための、正当かつ神聖なる防衛戦争である』と。
彼は、
震える指を叱咤し、
引き金にかけた人差し指に、
全身の体重を乗せるかのように力を込めた。
この、
世界の理すら弁えない、
無知で蒙昧な存在に、
人類が流してきた血と涙の重さを、
その身をもって教えなければならない。
それが、
死んでいった者たちへの、
生き残った自分の、
唯一の責務のはずだった。
しかし、少女は、
その譲の魂の奥底からの叫びを、
憎悪の全てを叩きつけるような眼差しを正面から受け止めても、
微塵も怯むことがなかった。
怒りを露わにすることもない。
反論のために、思念を飛ばしてくることすらしなかった。
ただ、
その底なしの湖のようだった瞳を、
静かに、そして深く、
哀れみとでも言うべき、
あるいはもっと別の、
譲には理解の及ばない慈愛にも似た、
複雑な色に染めて、
ゆっくりと、悲しげに、
その華奢な首を横に振った。
その動きと同時に、
再び彼女の思念が、
今度はさらに優しく、
しかし有無を言わせぬ力強さをもって、
譲の荒れ狂う意識の中へと染み渡ってきた。
『いいえ。違うの』
その声は、
彼の燃え盛る怒りの炎を、
まるで天から降り注ぐ柔らかな春の雨のように、
優しく包み込み、鎮めてしまうような、
不思議な響きを持っていた。
憎悪で満たされていた心が、
強制的に冷却されていく。
逆上した血液が、
ゆっくりと全身へと戻っていくのを感じた。
『私たちは、あなたたちを殺したかったわけじゃない。』
『私たちは、ただ返して欲しかっただけ。』
『私たちの、たった一つの希望を』
譲は、愕然とした。
その言葉の意味を理解するのに、
永遠とも思えるほどの時間が必要だった。
彼の思考は、
ハンマーで頭を殴られたかのように、
再び停止した。
希望?
返して欲しかった?
彼がこれまで学んできた世界の構造、
彼が存在する世界の秩序は、
常に「人類(善)」対「怪物(悪)」という、
極めてシンプルで分かりやすい二元論の上に成り立っていた。
怪物は、理由なく人間を襲う。
破壊と殺戮を本能とする、邪悪で、対話の通じない、駆除すべき害獣。
対する人類は、
その理不尽な暴力から母なる地球を守る、正義の徒。
その単純極まりない方程式の上で、
全ての戦いは肯定され、
全ての犠牲は美化され、
全ての憎悪は正当化されてきたのだ。
だが、
目の前の少女は、
その方程式のどこにも当てはまらない。
彼女の心から直接響いてくる声には、
譲がこれまで幾度となく耳にしてきた、
どの怪物の耳障りな咆哮とも全く違う、
明確な「理由」と、
そして何よりも人間と同じような「感情」が込められていた。
それも、
憎しみや殺意といった、
彼らが常に浴びせられてきた攻撃的なものではない。
そこに在るのは、
ただ、深く、静かで、
そしてどこまでも癒しようのない、
純粋な「悲しみ」の色だけだった。
その瞬間、
譲の世界観に、
修復不可能なほど決定的な亀裂が走った。
これまで彼を支えてきた価値観の柱が、
内側から崩壊していく音が聞こえた。
僕が見てきた世界は、本当に世界の全てだったのか?
僕たちが教えられてきた歴史は、誰かにとって都合のいいように編集され、切り貼りされた、偏向した物語だったのではないか?
養成所の分厚い教科書に、
黒いインクで無機質に印刷されていた文字列が、
脳裏に焼き付いたように浮かび上がる。
『原因不明の突発的襲撃により、人類と怪物の生存を賭けた全面戦争が始まった』
原因不明。
本当に、そうだったのか?
それとも、
人類にとって著しく不都合な「原因」が存在し、
それを組織ぐるみで、意図的に隠蔽してきただけではないのか?
ベテラン教官たちの、凝り固まった常識。
彼らはいつも、怪物を人間以下の存在として語り、
その生態や習性を知ろうとすることを「無駄な感傷」だと切り捨てた。
組織の、
決して自らの過ちを認めようとしない、
官僚的で硬直した体質。
そして、
つい数日前、
この地下空洞の存在を示唆するデータを提出した自分自身の警告を、
上官が「憶測に過ぎん」と冷たく一蹴した、
あの屈辱的な現実。
全てが、一本の線で繋がっていく。
彼がこれまで信じ、
疑うことすらしなかった正しいものの見方が、
実は組織によって都合よく作り上げられた、
虚構の正義に過ぎなかったとしたら?
もし、
人類こそが、
この悲しい戦いの「原因」だったとしたら?
その恐ろしい疑念は、
もはや小さな亀裂ではなかった。
それは巨大な地割れとなって、
彼の思考の土台そのものを、
まるで未曾有の大地震のように根底から揺るがし始めた。
ずしり、と。
今更ながら、
右腕に握られた銃の重さを感じた。
それは、ただの金属の塊ではなかった。
人類の正義の象徴。
憎しみの結晶。
そして、もしかしたら、巨大な過ちの証拠品。
その重さに耐えきれなくなったかのように、
彼の腕は、
意思とは無関係に、
ゆっくりと、
力なく下を向いていた。
銃口が、
光を放つ結晶の床を、
無意味に映し出す。
目の前の少女が、
敵なのか、味方なのか、
もはや彼には判断がつかなかった。
いや、そもそも「敵」とは何だ?
「味方」とは何だ?
あれほど明確だったはずのその境界線すらもが、
今は不確かな輪郭となって、
曖昧に溶け出している。
殺すべき相手。
守るべき世界。
そのどちらもが、
今や確かな実体を失っていた。
「何をだ?」
彼の口から漏れた声は、
自分でも気づかないうちに、
懇願するように震えていた。
それは、兵士が敵に問い質す声ではなかった。
真実の前にひれ伏し、救いを求める罪人の告白であり、
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救いの叫びでもあった。
「一体、何を……」
「何を返して欲しかったんだ?」
少女の、
湖のように静かだった瞳が、
その問いに答えるかのように、
わずかに、
しかしはっきりと潤んだように見えた。
その瞳の表面に溜まった雫が、
周囲の光を乱反射させ、
まるで銀河のかけらを閉じ込めたかのように、
きらりと、
儚く輝いた。
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