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第2部:討伐部隊・転機編
第48話:死者への鎮魂歌
しおりを挟むその日、世界から色が失われたように見えた。
七月の終わりだというのに太陽は分厚い雲の向こうに隠れ、降りしきる雨は、まるで空そのものがすすり泣いているかのようだった。地球防衛隊養成所の広大な敷地の片隅、普段は新兵が基本教練を行うだけの殺風景なグラウンドに、急ごしらえの白いテントがぽつんと一つ、張られていた。
宮沢譲の、公式な追悼式だった。
テントの中は、湿った土の匂いと、参列した兵士たちの制服が発する湿気の匂い、そして線香のかすかな香りが混じり合い、重くよどんだ空気を形成していた。祭壇と呼ぶにはあまりに簡素な長テーブルの上には、遺影も、ましてや遺体もなかった。ただ、彼が生きていたという唯一の証として、見慣れた黒縁の眼鏡と、彼がいつも読みふけっていたであろう数冊の難解な専門書が、空っぽの棺の前に寂しく置かれているだけだった。
橘陽葵は、もうどれくらいそうしているのか、嗚咽をこらえきれずにその場に泣き崩れていた。膝をついた泥の感触も、雨に濡れて冷え切った身体の芯も、今はもう感じない。ただ、胸にぽっかりと開いた穴から、大切な何かがごっそりと抉り取られてしまったような、耐え難い喪失感だけが彼女を支配していた。
赤城剛は、そんな彼女の隣で、まるで石像のように微動だにせず立ち尽くしていた。その巨大な体躯は雨風から陽葵を守る壁のようだったが、彼の視線は祭壇ではなく、テントの外の灰色の空に向けられていた。憎まれ口を叩き、いつも「モヤシ」と罵っていた相手。だが、その頭脳に何度も命を救われたことも、揺るぎない事実だった。もう二度と、あの小癪で、それでいて頼りになる皮肉を聞くことはできない。その寂しさを認めたくなくて、彼は唇を強く噛み締めることしかできなかった。
そして、朝倉颯太は、静かに、ただ静かに、その空っぽの棺を見つめていた。
司令部から、譲の「戦死」が正式に通達されたのは、昨日のことだった。彼のID信号が途絶した地下深くの崩落地点から、引きちぎられた彼の制服の認識票部分と、おびただしい量の血液が発見された、という極めて信憑性の高い報告書と共に。――もちろん、その血痕が、彼の失踪後に何者かによって意図的に撒かれた偽りの証拠であることなど、誰も知る由もなかった。
颯太の脳裏で、譲との他愛ない記憶が、走馬灯のように明滅していた。
『いいか、颯太。このゲームの最適解は、最初のターンでわざと不利な状況を作ることにあるんだ。そうすることで相手の思考アルゴリズムを混乱させ、勝率を12%も引き上げることができる』
子供の頃、一緒に遊んだ対戦ゲーム。いつも理屈っぽいことばかり言う譲を、颯太は笑いながら見ていた。
『――おい、モヤシ。お前、ほんとに俺たちと一緒に戦う気あんのかよ』
『君が、僕の計算通りに動いてくれれば、の話だけどね』
養成所時代。憎まれ口を叩き合いながらも、どこかで互いを認め合っていた、あの無人島での夜。
『今すぐ全軍を後退させろ! この工場は巨大な罠の可能性がある!』
そして、彼の最後の、悲痛な叫び。あの時、俺が信じていれば。指揮官としての立場など捨てて、親友の声に従っていれば。後悔という名の毒が、彼の全身をじわじわと蝕んでいく。
その毒は、やがて純粋な悲しみを、もっと黒く、もっと熱く、もっと破壊的な感情へと変質させていった。
彼という存在への執着、彼との思い出、彼を守れなかったという自責の念。それらのどうしようもない苦しみが、コントロール不能な憎悪となって燃え上がっていく。
颯太は、ゆっくりと棺の前へ進み出ると、手に持っていた白い花束を、まるで叩きつけるようにしてその上に置いた。そして、静かに、しかしその場にいた誰もが凍り付くほどの、燃えるような憎悪を瞳に宿して、空っぽの棺に誓った。
「譲……見ててくれ。お前の仇は、俺が必ず……」
その瞬間、仲間たちにとって、宮沢譲の死は絶対的な事実となった。そして、彼の死は、決して癒えることのない傷となり、怪物への純粋で、それ故に危険な憎悪を、取り返しのつかないレベルまで増幅させていた。
その頃、宮沢譲は、自分が死んだことになっているとは夢にも思わず、想像を絶する光景に言葉を失っていた。
エヴァと名乗る銀色の髪の少女に導かれ、地下空洞のさらに奥深くへと足を踏み入れた先。そこは、およそ「怪物の巣」という言葉が持つ、おぞましく、不潔なイメージとは全く無縁の世界だった。
そこは、一つの巨大な「都市」だった。
壁や天井を構成する乳白色の結晶体が、自ら淡い青白い光を放ち、空間全体を月光のような幻想的な光で満たしている。その光に照らし出されていたのは、有機的で滑らかな曲線を描く、美しい高層建築物の群れだった。それらの間を、まるで植物の蔓が伸びるように空中回廊が網の目のように結び、足元では発光する植物が、まるで蛍の光のように柔らかな明滅を繰り返している。
地上のような喧騒は一切ない。聞こえるのは、風が洞窟を吹き抜ける時に奏でる、パイプオルガンのような微かな共鳴音だけ。まるで、巨大な聖堂の中に、未来都市を築いたかのような、神聖で、静謐な空間。
そして、そこで暮らす「怪物」たちの姿に、譲はさらに衝撃を受けた。彼らは、戦闘時に見せるような凶暴な姿ではなく、より人間に近い、穏やかなフォルムをしていた。ある者は、結晶体の壁に映る光のパターンを静かに見つめて思索に耽り、ある者は、空中回廊で子供たちが光る苔を追いかけて遊ぶのを、優しい眼差しで見守っている。彼らは、声ではなく精神的な共鳴でコミュニケーションを取っているため、街は驚くほど静かで、知的な空気に満ちていた。
「ここが……君たちの……」
譲は、かろうじてそれだけを口にした。自分たちが「巣」と呼び、殲滅の対象としてきた場所は、高度な文明と文化を持つ、静かで美しい「都市」だったのだ。俺たちは、一体何と戦っていたんだ? その根源的な問いに、彼の知性は答えを出すことができなかった。
地上の司令車両では、教官の一人が、壁のモニターに映し出された各部隊のバイタルデータを眺め、深いため息をついていた。譲の戦死が通達されてから、部隊全体の士気を示すグラフは、危険水域とされるレッドゾーンにまで落ち込んだまま、一向に回復の兆しを見せなかった。
「宮沢がいれば……」
無意識に、そんな言葉が口をついて出た。あの憎まれ口を叩く、生意気な一般枠の青年。だが、彼がいた時、部隊には確かに一本の芯が通っていた。混乱した戦況を整理し、恐怖に震える兵士たちに道を示し、絶望的な状況をひっくり返す、あの声。戦術的価値以上の、部隊の「心」を支えていた存在を失ったことを、彼は今更ながら痛感していた。
一方、地下都市では、譲がエヴァから食事だという光る液体を、結晶体で作られた器で差し出されていた。警戒しながらも一口飲むと、それは驚くほど甘く、芳醇な香りが口の中に広がり、疲弊しきった身体の細胞一つ一つに、温かいエネルギーがみなぎっていくのが分かった。
「美味い……」
思わず漏れた言葉に、エヴァは嬉しそうに微笑んだ。その無垢な笑顔を見ていると、彼女が怪物だという事実すら忘れそうになる。
地上で仲間たちが、自分の死を嘆き、悲しみに暮れている頃、自分は敵であるはずの相手と、こうして食卓を囲んでいる。この圧倒的な世界の反転。この、あまりにも残酷で、滑稽なまでの皮肉。譲は、込み上げてくる乾いた笑みを、必死にこらえるしかなかった。
自分はもう、地上の人間ではいられない。かといって、地下の住人でもない。二つの世界の狭間に、たった一人で取り残された、孤独な迷子。それが、今の自分だった。
エヴァに案内され、譲は都市の中枢にある、一際巨大な結晶体の前に立っていた。それは、この都市の図書館であり、中央情報アーカイブでもあるという。彼らの一族が、何十万年もの歳月をかけて蓄積してきた、この星のあらゆる情報が、その内部に眠っているのだと。
感傷に浸っている暇はない。仲間たちの悲しみも、自分の孤独も、全てはこの狂った世界の構造が生み出したものだ。ならば、自分がやるべきことは一つ。この世界の歯車そのものを、正しい場所へと戻すこと。
譲は、過去の記憶を振り払うように一度強く目を閉じ、そして、燃えるような決意を宿した瞳で、エヴァを真っ直ぐに見つめ返した。
「卵は、どこにある?」
その声は、もう迷子の少年のものではなかった。
「人類は、それを、どこに隠している?」
彼の新たな戦いが、この静かで美しい、世界の裏側で、静かに始まろうとしていた。
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