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第2部:討伐部隊・転機編
第53話:我々は、地球の免疫系
しおりを挟む荘厳な静寂が支配する、星の記憶の図書館。その中心で、俺、宮沢譲は崩れ落ちたまま身動き一つできなかった。
真実。それは、時に人を救う光にもなれば、魂ごと焼き尽くす業火にもなる。今、俺の精神を蝕んでいるのは、後者だった。
父さんを、母さんを殺した、あの忌まわしい怪物。その憎悪だけを燃料にして、俺は生きてきた。仲間たちの死も、友の涙も、全ては人類を守るための崇高な犠牲なのだと信じてきた。その全てが、ただの加害者の自己正当化、壮大な嘘の上に成り立っていたのだとしたら。
俺が捧げてきた人生は、一体何だったのか。
俺が信じてきた正義は、どこにあったのか。
獣のような喘ぎ声だけが、俺の喉から漏れる。思考は麻痺し、感情は焼け野原となり、ただ、どうしようもない虚無だけが、冷たい泥のように俺の心を埋め尽くしていく。
その時、地殻の底から響くような、賢者の思念が、沈みゆく俺の意識に静かに流れ込んできた。それは、俺を裁く声でも、慰める声でもなかった。ただ、揺るぎない事実を淡々と告げる、氷河の移動のように、抗いがたい響きを持っていた。
『――我々は、お前たちが呼ぶような「怪物」ではない』
顔を上げる力もなく、俺はただその声に耳を傾ける。
『我々は、この星そのものが持つ、自己治癒能力の現れ。お前たちの言葉で言うならば……地球の免疫システム、とでも言うべき存在だ』
免疫システム。その唐突な言葉の意味を、俺の麻痺した脳はすぐには理解できなかった。賢者は、そんな俺の混乱を見透かすように、一つの巨大なビジョンを、俺の脳内に直接映し出した。
それは、宇宙空間に浮かぶ、青く美しい地球の姿だった。
賢者の声は、まるで大学の講義のように、しかしその内容は神の視点から語られる、この星の法則そのものだった。
『この星を、一つの巨大な生命体だと考えてみるがいい』
賢者の思念に呼応するように、青い惑星の映像に、無数の生命活動を示す光のネットワークが重ねられていく。植物が二酸化炭素を吸い、酸素を吐き出す。その酸素を動物が吸い、二酸化炭素を吐き出す。死んだものは微生物に分解され、大地に還り、新たな生命の糧となる。捕食者と被食者、生と死、繁殖と淘汰。全ては、この巨大な生命体を健全に維持するための、完璧で美しいフィードバック・ループの一部だった。個々の生命は、ただ生き、死ぬという単純なルールに従っているだけ。しかし、その無数の相互作用が、全体として「調和」という、奇跡のような秩序を創発させている。
『かつて、この星には完璧な調和があった。我々もまた、その調和を維持するための、一つの要素に過ぎなかった。だが……お前たち人類という種は、そのループから逸脱した』
ビジョンの中の地球が、急速に時間を早送りし始めた。大陸を覆っていた広大な森に、小さな傷のようなものができ、それが瞬く間に広がり、癒えることのない醜い瘡蓋のように都市が大地を覆っていく。夜の地球は、文明の光で不気味なほど明るく輝き、大気は淀み、海は濁っていく。
その光景は、俺の脳裏で、別の、より鮮明なイメージへと変換された。
健康な人間の体内に、一つのガン細胞が生まれる。それは、周囲の細胞との調和を忘れ、死ぬことを忘れ、ただひたすらに自己を増殖させることだけを目的とする、異質な存在。最初は取るに足らない一つの点だったものが、凄まじい速度で周囲の正常な細胞を食い破り、栄養を独占し、やがては宿主である身体そのものを死に至らしめる。
『お前たちは、その高すぎる知性ゆえに、星の法則をハッキングした。天敵を克服し、病をねじ伏せ、寿命という枷さえも外そうとした。他の生物が何億年もかけて蓄えたエネルギー(石油)を瞬時に食い潰し、他の全ての生命の生存領域を奪いながら、異常な速度で増殖を始めた。それは、進化ではない。ただの、致命的なバグだ』
賢者の言葉に、反論の余地はなかった。人類が「進歩」と呼んできた歴史は、この星の視点から見れば、ガン細胞が身体を蝕んでいく過程と、何一つ変わらなかったのだ。
『星は、自らを守るために警告を発した。免疫システムが、異常増殖するガン細胞を攻撃するように。それが、お前たちが記録する、我々の最初の「襲撃」だ』
俺は、はっと息を呑んだ。
『それは殺戮が目的ではない。それは、システム全体の恒常性(ホメオスタシス)を維持するための、悲しいが必要な**「調整」**だったのだ』
それは、悪意ではなかった。それは、ただの機能。熱が出たら汗をかくように、ウイルスが侵入したら熱が出るように、星にとってはごく自然で、当たり前の生命維持活動。その調整機能が、俺の両親の命を奪った。その事実は、あまりにも無慈悲で、あまりにも機械的で、俺が抱えてきた個人的な憎しみが、いかに矮小で、無意味なものであったかを、骨の髄まで思い知らせた。
だが、その調整機能は、なぜ、あれほどまでに破壊的で、無差別なものへと変貌したのか。俺の疑問に答えるかのように、賢者の思念は、さらに深い絶望の淵へと俺を導いた。
『しかし、お前たちは、その警告の意味を理解しようとはしなかった。対話の道を閉ざし、我々を絶対悪と断定し、徹底抗戦を選んだ。そして……お前たちは、決して奪ってはならないものを、我々から奪った』
ビジョンが、あの「始祖の卵」が盗み出される瞬間に切り替わる。それは、ただの未来の象徴などではなかった。
『お前たちは、我らの未来を奪った。それは、この星の免疫システムから「新たな細胞を生み出す機能」そのものを、根こそぎ奪い去るに等しい行為だった』
ビジョンの中で、正常に機能していた免疫細胞たちが、次々とその輝きを失い、あるいは、敵と味方の区別がつかなくなり、正常な細胞までをも攻撃し始める、あの忌まわしい光景が映し出される。
『未来を失った免疫細胞は、希望を失い、暴走を始めた。調整機能は、歯止めのない破壊衝動へと変質したのだ。今の我々は、もはや正常な免疫システムではない。星自身をも傷つけかねない、制御不能な……自己免疫疾患のようなものなのだ』
全身を、絶対零度の氷水に叩き込まれたような衝撃が走った。
全てを、理解した。
人類が、勝てるはずがなかったのだ。相手は、星そのものの意志。
そして、このまま戦いを続ければ、勝敗など関係ない。人類も、暴走した免疫システムである彼らも、そして宿主である星そのものも、やがては必ず共倒れになる。そこに待っているのは、勝者なき、完全な「死」だけだ。
道は、一つしかない。
この狂ってしまった因果の輪を、どこかで断ち切らなければならない。
暴走した免疫システムを、正常な状態に戻さなければならない。
「卵を……」
俺の口から、か細い声が漏れた。
「卵を、返せばいいんですね?」
それは、質問ではなかった。
絶望という名の、底なしの沼の底で、俺がようやく掴んだ、たった一本の、か細い蜘蛛の糸。
人類が犯した罪を、ただ断罪するのではない。
怪物と化した彼らを、ただ殲滅するのでもない。
この苦しみの連鎖を断ち切るための、唯一の道筋(道諦)。
俺は、震える足に、ありったけの力を込めて立ち上がった。全身の骨がきしみ、筋肉が悲鳴を上げる。だが、心の中では、憎しみも、悲しみも、絶望も、全てが燃え尽きた後に残った、静かで、しかし鋼のように硬質な決意が、新たな炎となって燃え始めていた。
賢者を、そして隣で静かに涙を流すエヴァを、真っ直ぐに見据える。
「僕が、取り返します」
その声は、まだ震えていた。だが、そこには、もはや一片の迷いもなかった。
それは、人類を裏切るという決意ではない。
それは、傲慢で、愚かで、それでも守るべき仲間たちがいる人類と、この美しくも残酷な星の全てを、この手で救うための、最初の宣誓だった。
「僕たちの手で奪ったものは、僕たちの手で、返さなければならない」
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