無能と蔑まれた僕だけが知る世界の嘘。敵であるはずの怪物の少女に恋したので、人類を裏切り世界を滅ぼす。

Gaku

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第2部:討伐部隊・転機編

第55話:黒い衝動

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時間の感覚が失われた、深く、長い闇の底から、俺、宮沢譲の意識は、まるで深海から水面へと引き上げられるように、ゆっくりと浮上していった。最後に感じたのは、全身の細胞が一度原子レベルまで分解され、灼熱の溶岩の中で再構築されていく、想像を絶する苦痛だった。だが、今、俺の身体を満たしているのは、痛みではなかった。
それは、静謐。そして、圧倒的なまでの全能感だった。

ゆっくりと瞼を開ける。
その瞬間、俺が知っていた「世界」は、完全にその姿を変えた。

まず、光が見えた。それは、賢者のいる聖域を照らす、あの乳白色の結晶体が放つ光だけではなかった。空気中に漂う無数の粒子が放つ微弱な光、壁面を構成する物質が内包するエネルギーの光、そして、隣に立つエヴァの身体から放たれる、生命そのもののオーラのような、淡く優しい光。ありとあらゆる光が、スペクトル分解された虹色の情報となって、俺の網膜に流れ込んでくる。

次に、音が聞こえた。それは、エヴァの心配そうな呼吸の音だけではなかった。この巨大な世界樹の壁面を、遥か地中深くから吸い上げられた水が、分子レベルで振動しながら流れていく音。洞窟の天井から滴り落ちる一滴の水が、大気の抵抗を受けながら落下していく微細な摩擦音。そして、信じられないことに、この聖域のはるか上空、鈍色の空の向こう側で、俺たちがいた世界の大気が、巨大な渦となってうねる音までが、まるで耳元で囁かれているかのように、クリアに聞こえていた。

視覚と聴覚だけではない。触覚は、肌に触れる空気の流れから、その温度、湿度、気圧の変化を読み取り、数時間後の天候を正確に予測していた。嗅覚は、この空間に存在する物質の分子構造を解析し、その起源を特定していた。俺という存在は、もはや人間というカテゴリーに収まるセンサーではなく、この星全体のあらゆる情報をリアルタイムで受信し、解析する、一つの巨大な観測装置へと変貌していた。

それは、神にでもなったかのような、甘美な感覚だった。だが、同時に、それは地獄だった。脳が処理できる情報量を遥かに超えたデータの津波が、俺の思考を、自我を、根こそぎ洗い流そうとしていた。このままでは、俺は宮沢譲という個を失い、ただの世界の一部となって溶けて消えてしまう。
その恐怖と苦痛が頂点に達した、その時だった。

(―――消し去ってしまえ)

俺の心の、最も深く、暗い場所から、ささやくような声が聞こえた。それは、俺自身の声のようでもあり、全く別の誰かの声のようでもあった。

(素晴らしい力だろう? もう、誰もお前を無能だとは言わせない。お前を『モヤシ』と罵った者たちを。お前の必死の警告を、ただの戯言として握りつぶした愚かな組織を。そして、この美しくも脆弱な星を、飽くなき欲望で汚し続ける、矮小な人間どもを、全て)

その声は、抗いがたいほどに甘美だった。そうだ、なぜ俺が、あんな連中のために苦しまなければならない? 俺には、世界そのものを書き換える力がある。俺が信じてきた正義は、あいつらの手で踏みにじられたじゃないか。俺の父さんと母さんは、あいつらの罪のせいで死んだじゃないか。

それは、これまで俺が必死に理性で抑圧してきた劣等感や無力感、そして心の奥底に澱のように溜まっていた憎悪が、手に入れた絶対的な力を触媒にして、一気に臨界点を突破し、暴走を始めた**「渇愛(かつあい)」**そのものだった。全てを支配し、自分を認めなかった世界に復讐したいという、黒く、燃え盛るような欲望。
気づけば、俺の瞳は、血のように深い、妖しい蒼色に輝いていた。その手は、無意識のうちに、俺のすぐ傍にあった、この星の何億年もの記憶が刻まれた、神聖な記憶結晶へと伸ばされていた。

(そうだ。壊してしまえ。古い記憶など、もう必要ない。お前が、新しい世界の法則になるのだ)

指先に、力がこもる。この結晶を握り潰した瞬間、俺はもう、後戻りのできない獣になるだろう。その快感に身を委ねようとした、まさにその刹那。

「―――ダメッ!」

その手を、エヴァの小さな手が、しかし鋼のように強い力で、掴んでいた。
俺の腕力は、もはや人間のものではない。だが、彼女の手は微動だにしなかった。その手から、彼女の純粋で、必死な思念が、濁流のように俺の心へと流れ込んでくる。

「その力は、憎しみを晴らすためじゃない! この悲しみの連-鎖を、断ち切るためのものでしょう!」

その叫びが、俺の狂気に満ちた思考に、一瞬の空白を生んだ。その空白に、俺の脳裏で、忘れかけていた記憶が、次々と蘇る。

――雨に打たれながら、不器用な笑顔で俺の頭を撫でてくれた、父さんの大きな手。
『頭でっかちのお前さんには、お前さんにしかできない戦い方が、きっとあるさ』

――絶体絶命の俺の前に舞い降り、その身を盾にしてくれた、玲奈の真剣な眼差し。
『あなたは、この混沌とした戦場で、唯一、未来を指し示すことができる羅針盤。だから、私が、あなたの盾になる』

そうだ。俺は、こんな下らない復讐のために、全てを投げ打ったわけじゃない。俺は、英雄にはなれない。だが、仲間を、そしてこの理不尽な世界そのものを、正しい方向へと導くための「脳」に、「羅針盤」になるために、この道を選んだはずじゃなかったのか。
この力は、破壊のためのものではない。物事をありのままに、正しく見て(正見)、憎しみや欲望に囚われず、正しい考え(正思惟)に基づいて、失われた調和を取り戻すためのものだ。

「う……あああああああああっ!!」

俺は、歯を食いしばった。全身の骨がきしみ、筋肉が断裂しそうなほどの力で、内側から俺を喰い尽くそうとする、黒い衝動と戦った。額に脂汗が滲み、全身が激しく痙攣する。それは、外の敵と戦うこととは比較にならない、自分自身との、あまりにも孤独で壮絶な戦いだった。

どれほどの時間が経ったのか。
やがて、荒れ狂う嵐のように渦巻いていた衝動が、ゆっくりと、しかし確実に、静まっていくのを感じた。俺は、自分がどれほど危険で、そして諸刃の剣である力を手にしてしまったのか、そして、それを御するためには、常に自分自身を客観視し続ける、鋼のように冷徹な「智慧」が不可欠であることを、骨の髄まで理解した。

俺は、ゆっくりとエヴァに向き直った。瞳の蒼い光は消え、元の静かな黒に戻っていたが、その奥には、以前とは比較にならないほどの、絶望と覚悟を乗り越えた者だけが持つ、深く、そして強い光が宿っていた。

「行こう、エヴァ」

俺の声は、穏やかだった。しかし、その一言には、星の運命そのものを背負うという、揺るぎない決意が込められていた。

「僕たちの『卵』を、取り返しに」
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