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第3部:真実と覚醒編
第64話:パンドラの箱
しおりを挟む神楽院玲奈(かぐらいん れな)の意識は、肉体という名の重い枷を離れ、光速でデータが飛び交う電子の海を泳いでいた。彼女の思考そのものが、このサイバー空間における唯一の実体だった。目の前には、深紅のアイコンで禍々しく封印された、一つのファイルが静かに脈動している。
【Project ARK / Final Report】
それは、彼女が追い求めてきた全ての答えであり、同時に、決して開けてはならなかった禁断の扉。玲奈は躊躇わなかった。論理(ロゴス)の探求者にとって、未知とは解き明かされるために存在するパズルに過ぎない。彼女の指先を模した光のカーソルが、そのアイコンに触れた瞬間、パンドラの箱は、音もなく開かれた。
最初に溢れ出したのは、膨大な量のテキストデータだった。数十年前の日付が記された、最高機密の議事録。
『――本日、第7地区に落下した未確認飛翔体(コードネーム:メテオ)の中心部より、未知の生命活動を示す物体(コードネーム:始祖の卵)を回収。初期分析の結果、内部には地球上の既知の生物とは全く異なる遺伝子情報が含まれていることが判明。その構造は、生命の設計図そのものを書き換える可能性を秘めている――』
玲奈の思考は、スーパーコンピュータをも凌駕する速度で、淡々と綴られた記録を読み解いていく。卵の神秘的な力に魅せられた科学者たちが、当初の「解析」という目的から逸脱し、やがて「利用」という傲慢な欲望へと駆られていく過程。人類を強制的に次のステージへと進化させるという、神をも恐れぬ狂気の計画『プロジェクト・アーク』が立案されるまでの、克明な記録。
次に流れ込んできたのは、無数の実験ログだった。遺伝子操作、クローニング、そして――おぞましい数の『失敗』の記録。
そして最後に、玲奈の精神を根底から破壊するものが現れた。ノイズ混じりの、白黒の実験映像。
無菌室のような白い部屋。ガラスの向こう側で、泣き叫ぶ一人の被験者。その腕に、卵から抽出された遺伝子情報が注入される。数秒後、被験者の身体は痙攣を始め、骨格が軋むおぞましい音と共に、人間のものとは思えぬ姿へと変貌していく。それは、彼女たちが戦場で見てきた「怪物」の、出来損ないのようだった。
『――実験体No.47、アース能力への不適合を確認。プロトコルに従い、処分せよ』
非情なアナウンスと共に、被験者は泣き叫びながら、部屋を満たした高圧電流によって黒い炭塊へと変わった。そんな映像が、何十、何百と、終わることなく再生されていく。
玲奈は、自分自身が、その数えきれない屍の上に咲いた、ほんの一握りの『成功例』であったという絶望的な事実を突きつけられた。父が、組織が、人類が掲げてきた崇高な大義。その全ては、このおぞましい罪を隠蔽し、自分たちの失敗作を「怪物」という敵に仕立て上げ、人類の敵意を逸らすための、壮大なプロパガンダに過ぎなかったのだ。
玲奈は、絶対的な論理と、揺るぎない理性を自らのアイデンティティとしてきた。しかし、目の前の現実は、どんな非合理な悪夢よりもおぞましかった。胃の腑から、熱いものがせり上がってくる感覚。生まれて初めて、彼女の思考は意味のある形を結ばず、ただ純粋な『吐き気』と『嫌悪』だけが、精神の全てを支配していた。
それでも、彼女は崩れ落ちなかった。絶望の最も深い場所で、彼女の論理は最後の答えを導き出す。この事実を、誰よりも先に知るべき人間が一人だけいる。この狂った世界の構造を、唯一理解しうる、もう一人の天才。彼女は震える指で、一つの特別な通信回線を開いた。その宛先は、戦場でただ一人、この真実に肉薄していた男――朝倉颯太だった。
---
一方、その頃。
宮沢譲(みさわ ゆずる)とエヴァは、地下施設の最深部にたどり着いていた。そこは、これまでの無機質な通路とは全く異なる、巨大なドーム状の純白の部屋だった。壁も床も、継ぎ目のない滑らかな素材で作られ、まるで巨大な卵の内側にいるかのような錯覚を覚える。照明一つないにもかかわらず、空間全体が自ら発光しているかのように明るく、静謐で、神聖な空気が満ちていた。そこは無菌室であると同時に、神殿のようでもあった。
部屋の中央。複雑怪奇な生命維持装置のパイプと、無数の電極に無慈悲に繋がれ、青白い冷却液の中に静かに浮かんでいたのは、一つの巨大な『卵』だった。
それは、譲が玲奈の資料で見た写真よりも、遥かに、遥かに美しかった。全長は十メートル以上。その表面は磨き抜かれたオパールのように滑らかで、内側からは、まるで銀河の星々をその内に宿したかのように、何億もの生命の光がゆっくりと、そして力強く脈動していた。
「――――ぁ」
隣にいたエヴァから、声にならない声が漏れた。彼女は、まるで母親の元へと駆け寄る子供のように、ふらふらと卵へと歩み寄る。そして、分厚い強化ガラス越しに、そっとその手を触れた。
その瞬間、エヴァの心から、歓喜、悲しみ、怒り、そして愛おしさ、ありとあらゆる感情が、凄まじい嵐となって譲の脳へと流れ込んできた。数十年ぶりに再会した、自らの種の母であり、未来そのものである存在。奪われ、弄ばれ、実験動物のように拘束されている我が子への、痛切なまでの愛情。そのあまりに純粋で、あまりに強烈な思念の奔流に、譲は立っていることさえできず、思わず膝をついた。
これが、彼らが戦ってきた理由。この、たった一つの宝物を、故郷へと連れて帰るため。ただ、それだけのために。
譲は、卵が発する純粋で強大な生命エネルギーに圧倒されながらも、周囲に設置された研究ターミナルへと歩み寄った。パスワードも、セキュリティも必要なかった。彼の指が触れるだけで、あらゆる電子機器は彼に対して無防備にその内側を晒す。そして、彼はターミナルのメインログにアクセスした。
そこに記されていたのは、玲奈がサイバー空間で見たものと全く同じ、冷たい真実だった。開発者たちの、興奮と狂気が入り混じった無機質な研究記録。非人道的な実験を、ただの「データ収集」として処理する、歪んだ倫理観。
二人の天才が、別々の場所で、同時に人類最大の禁忌(タブー)というパンドラの箱を開けてしまった瞬間だった。
---
「行こう、エヴァ」
全ての記録を読み終えた譲は、静かに立ち上がった。その瞳には、もはや怒りも絶望もなかった。ただ、為すべきことを為すという、氷のように冷徹な決意だけが宿っていた。
「これを、君たちの元へ、還しに行こう」
彼は、卵を繋ぎとめる生命維持装置のメインコンソールへと歩み寄った。この冒涜的な機械を破壊し、彼らの母を解放する。それが、人類の一員として、彼にできる唯一の贖罪だった。
彼が、そのコンソールに手を伸ばした、その時だった。
キィン、という甲高い金属音と共に、背後にあった重厚な隔壁が、音もなく横へとスライドした。
そこに立っていたのは、黒一色の特殊戦闘服に身を包んだ、十数名の重武装した兵士たち。そして、その中心で、まるで全てを見通していたかのように、薄く、冷たい笑みを浮かべていたのは、神楽院総帥の側近であり、この『プロジェクト・アーク』の現責任者である、タチバナ幹部だった。
「――残念だったな、裏切り者」
その声は、静かだったが、この神殿のような空間の隅々まで、不吉に響き渡った。
「そして、久しぶりだな、サンプルEVE(イヴ)」
タチバナの視線が、卵に触れたまま硬直しているエヴァへと向けられる。その『サンプルEVE』という呼び名を聞いた瞬間、エヴァの心から、純粋で絶対的な『殺意』の思念が、ナイフのように鋭く放たれた。
タチバナは、その殺意を意にも介さず、愉しげに言葉を続ける。
「その『箱』は、我々旧人類が進化の階段を駆け上がり、神に至るための、大切な礎(いしずえ)だ。誰にも渡すものか」
彼の言葉と共に、特殊部隊の兵士たちが構えるライフルの銃口から、レーザーサイトの赤い光が無数に放たれる。その赤い光点は、譲の額、エヴァの心臓、そして彼らの唯一にして最後の希望である、『始祖の卵』の上で、冷酷に揺らめいていた。
絶望的なまでの、完全なチェックメイトだった。
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