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第4部:終焉と再生編
第66話:友よ
しおりを挟む壁が、泣いていた。
いや、正確には壁ではない。この地下神殿全体を構成している未知の純白の素材が、制御を失った『始祖の卵』から放たれる冒涜的な光を浴びて、その構造を維持できずに悲鳴を上げているのだ。空気そのものが震え、びりびりと肌を刺す。天井からは白い砂のような粒子が静かに降り注ぎ、まるでこの巨大な空間そのものが、ゆっくりと時間をかけて風化していく死体であるかのように錯覚させた。
けたたましく鳴り響く警報音は、とっくに人間の可聴域を超えた不快な高周波となり、思考を内側からかき乱す。その地獄のオーケストラの中心で、一体の鬼が静かに佇んでいた。
血のように赤い光を全身から立ち昇らせる、純白のヴァルキリー『アルテミス』。数秒前まで、その機体は人類の希望を象徴する、一点の曇りもない白だった。だが今、その白は憎悪と絶望によって内側から焼き尽くされ、禍々しいまでの深紅に染まっている。
壁を突き破って乱入してきたその鬼神は、タチバナ幹部率いる特殊部隊と、その後ろに立つ宮沢譲、そして彼が守るように立つ銀髪の少女エヴァとの間に、まるで世界の境界線であるかのように立ちはだかっていた。
「……颯太」
譲が、乾いた唇で親友の名を呼ぶ。返事はない。アルテミスの外部スピーカーは沈黙したままだが、譲の覚醒した感覚には、その鋼鉄の身体の奥深く、コックピットの中で渦巻く絶望の嵐が、痛いほどに伝わってきていた。
アルテミスのメインモニターには、数分前に神楽院玲奈が送りつけた、この世界の真実という名の呪いが、無慈悲に表示され続けていた。
『プロジェクト・アーク最終報告書』
そこに記されていたのは、英雄譚などでは断じてない。拉致され、物のように扱われ、遺伝子を弄られ、そして『失敗作』としてゴミのように処分されていった、数えきれない命の記録。自分たちが「アース」と呼ばれる選ばれた存在などではなく、この狂った計画の中で、偶然生き残っただけの『成功例』に過ぎなかったという、身も蓋もない事実。
そして、颯太の思考を完全に停止させたのは、その報告書の最後に添付されていた、幼い子供を使った初期の臨床実験の映像だった。恐怖に泣き叫ぶ金髪の少年。物心つく前の、自分自身の顔。
(ああ、そうか)
颯太の思考は、熱で溶けた飴のように、ゆっくりと形を失っていく。
(俺は、生まれた時から、英雄じゃなかったんだ)
(俺は、作られた、ただの……道具、だったのか)
信じてきたものが、足元から音を立てて崩れていく。いや、そもそも足元になど、何もなかったのかもしれない。自分はずっと、誰かが描いた絵の中を、それが世界だと信じて走り続けていただけの、哀れな道化だったのだ。激しい吐き気がこみ上げてくる。胃液が喉を焼く熱さだけが、今、自分がまだ生きているという唯一の実感だった。
その時、アルテミスの分厚い装甲を隔てて、インカムから懐かしい声が聞こえた。それは怒声でも、悲鳴でもなく、まるで道に迷った子供が母親を探すような、あまりにもか細く、純粋な響きを持っていた。
「……譲」
颯太の声だった。
「お前は……これを、知っていたのか? 俺たちが信じてきたものは、全部……嘘だったのか?」
その声は、怒りや憎しみといった、分かりやすい感情の色を一切含んでいなかった。ただ、深い、深い霧の中でたった一人、どちらへ進めばいいのか分からなくなった子供の、純粋な問いだった。
譲は、ゆっくりと、しかしはっきりと頷いた。この肯定が、親友の心を完全に破壊する最後のハンマーになることを知りながら、それでも彼は、この残酷な真実から目を逸らすことはできなかった。
「そうだ、颯太」
譲の声は、崩れゆく神殿の轟音の中、不思議なほど穏やかに響いた。
「俺たちは、巨大な嘘と、誰かの際限のない欲望のために、ただ戦わされていたに過ぎないんだ」
彼は語り始めた。エヴァから教えられた、この永い戦いの、あまりにも悲しい始まりの物語を。彼らの一族は、ただ自分たちの未来そのものである『始祖の卵』という、たった一つの希望を返してほしかっただけなのだと。それは侵略でも、殺戮でもなく、我が子を奪われた親の、血を吐くような叫びだったのだと。
「俺たちが『正義』だと信じてやってきたことは、ただの強盗殺人だったのかもしれないんだ、颯太」
譲の言葉が、颯太の心に突き刺さる。そうだ、玲奈が送ってきたデータにも、そう書かれていた。この戦いは、人類が彼らの聖域から『始祖の卵』を盗み出したことから始まった、と。
(じゃあ、俺は……俺がこの手で殺してきた、あいつらは……)
その思考の空白を埋めるように、アルテミスのモニターが再び明滅した。玲奈からの、最後のデータ。それは、慈悲などではない。真実という名の、最も残酷な処刑宣告だった。
モニターに映し出されたのは、『プロジェクト・アーク』の被験者リスト。そこには、颯太や玲奈の名前と共に、数えきれないほどの『失敗作』たちの名前が並び、その横には、『廃棄処分』という冷たい四文字が、無機質なフォントで記されていた。
そして、その一人一人の名前にカーソルが合うと、彼らが『廃棄処分』される直前の、変異後の姿が、ホログラムとなって表示された。
ねじくれた手足。おぞましく引き裂かれた口。憎悪と苦痛に歪んだ、無数の瞳。
それは、颯太がこれまで、人類を守るという大義名分のもと、憎しみを込めて、一片の躊躇もなく殺してきた『怪物』たちの姿と、完全に、一致していた。
時間が、止まった。
いや、颯太の中の世界が、完全に停止した。
(あ……あ、あ……)
声にならない声が、喉の奥で塊になる。
自分が殺してきた敵は、得体のしれない化け物ではなかった。
自分と同じように、ある日突然、理不尽に全てを奪われ、望まぬ姿に変えられ、ただ、運が悪かったというそれだけの理由で『失敗作』の烙印を押された、『兄弟』だったのかもしれない。
彼らの断末魔の叫びは、憎しみの咆哮ではなかったのかもしれない。
ただ、「助けてくれ」と。
ただ、「苦しい」と。
そう叫んでいただけだったのかもしれない。
信じてきた正義の土台が、完全に崩れ落ちた。立っているはずの地面が、足元から消えていく。自分が誰で、何のために戦い、何を信じて生きてきたのか、その全てが分からなくなった。激しい嘔吐感が、再び彼の身体を襲う。だが、もはや吐き出す胃液すら残ってはいなかった。代わりに、魂そのものを吐き出すかのような、乾いた喘ぎだけがコックピットに響き渡る。
自らが犯した罪の、あまりの重さ。その途方もない質量に、颯太の精神は耐えきれず、まるで糸の切れた操り人形のように、コックピットの床に膝から崩れ落ちた。
アルテミスの機体から放たれていた、血のように赤い光が、主の心の火が消えたことを悟ったかのように、ふっと弱々しく明滅した。
その一部始終を、ここから何百キロも離れた、地上にある中央司令部の管制室で、橘陽葵はたった一人、涙で滲むモニター越しに見つめていた。
譲の悲痛な告白も、颯太の魂の絶叫も、ガラス一枚を隔てた別世界の出来事のようだ。彼女の耳に届くのは、虚しいアラート音と、自分の心臓の音だけ。
モニターの中の親友たちは、もう、彼女が知っている彼らではなかった。一人は世界の罪を一身に背負い、もう一人は自らの罪に打ちひしがれている。どうして、こんなことになってしまったのだろう。
彼女の指が、祈るようにモニターに触れる。冷たいガラスの感触が、彼らとの絶望的な距離を物語っていた。
「……もう、やめて」
最初は、ただの呟きだった。
「もう、やめてよ……颯太も、譲も……もう、戦わないで……!」
堪えきれなくなった感情が、嗚咽と共に溢れ出す。
「私たち……! 私たち、ずっと、三人で一緒にいたかっただけじゃない……!」
「昔みたいに、学校の帰りに、くだらないことで笑い合って、コンビニでアイス買って、ただ、それだけで……それだけで、よかったじゃない……ッ!」
彼女の悲痛な叫びは、誰に届くでもなく、がらんとした薄暗い管制室に虚しく響き渡り、無機質な機械音の中に吸い込まれて消えていった。
地下深くの崩れゆく神殿では、英雄の正義が、音もなく死んだ。
その亡骸を挟んで、かつて親友だった二人の少年が、あまりにも残酷な真実の前に、ただ、静かに立ち尽くしていた。
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