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第4部:終焉と再生編
第67話:粛清の弾丸
しおりを挟む世界が、死んでいた。
少なくとも、朝倉颯太の中の世界は、完全にその機能を停止していた。コックピットの床に膝をつき、両手をついたまま、彼はただ虚空を見つめていた。視界には、神楽院玲奈が送りつけてきた残酷な真実のデータが、まだ明滅している。自分が殺してきたのは、同じ境遇の、ただ運が悪かっただけの『兄弟』だったのかもしれないという、あまりにも重い事実。
信じてきた正義は、ただのプロパガンダだった。
誇りだった英雄という称号は、非人道的な実験の成功例に与えられたラベルだった。
親友を裏切り者だと憎んだ感情は、巨大な嘘の上で踊らされた、滑稽な道化の舞だった。
彼の魂は、その真実の質量に耐えきれず、粉々に砕け散ってしまった。もはや怒りも、悲しみも、絶望すらも感じない。ただ、冷たくて、どこまでも空っぽな虚無が、彼の全身を満たしていた。
崩壊を続ける神殿の轟音も、制御を失った『始祖の卵』が放つ冒涜的な光も、全てが遠い世界の出来事のようだった。赤い光を放っていたはずの愛機『アルテミス』も、主の心の火が消えたことを悟ったかのように、今は弱々しい明滅を繰り返すだけの、ただの鉄の塊と化していた。
その、時が止まったかのような静寂を、場違いなほど穏やかな拍手の音が、唐突に切り裂いた。
パチ…パチ…パチ…。
音源は、特殊部隊の兵士たちの向こう側。影の中からゆっくりと歩み出てきたのは、タチバナ幹部だった。その顔には、まるで極上の舞台演劇を観終えた観客のような、満足げな笑みさえ浮かんでいた。
「素晴らしい。実に素晴らしいメロドラマだ」
彼の声は、この地獄のような状況にはあまりに不釣り合いなほど、落ち着き払っていた。その瞳の奥には、人間的な感情の代わりに、全てを理解し、全てを駒として見下しているかのような、狂信的な光が宿っていた。
「ようやく真実にたどり着いたかね、出来損ないの英雄諸君」
彼は嘲笑を隠そうともせず、ゆっくりと譲たちの前へと歩み出る。その一歩一歩が、まるで死刑執行人が絞首台の階段を上る音のように、不吉に響いた。
「君たちが信じてきた正義。仲間との友情。そして、その果てにあるこの美しい絶望。全て、我々が描いた脚本通りだよ。君たちは、実に優秀な役者だった」
タチバ-ナは、愉悦に満ちた表情で、この世界の本当の目的を語り始めた。その言葉の一つ一つが、穏やかであればあるほど、その奥に潜む狂気を際立たせていた。
「この星はね、少しばかり、増えすぎたのだよ。旧人類…ホモ・サピエンスがね。彼らは自らの欲望のままに星を喰らい、互いに争い、この美しい惑星を汚し続けた。まるで、身体を蝕むガン細胞のように」
彼の言葉は、もはや正義ですらない。それは、人間の際限なき欲望、決して満たされることのない渇き――『渇愛』の極致だった。
「だから、我々は決めたのだ。この星を、一度リセットする必要があると。戦争と、制御された淘汰によって、不要な細胞を少しばかり『掃除』してね。そして、その先に、アース能力を持つ選ばれた新人類…ホモ・スペリオールだけの、完璧で、統率の取れた、美しい世界を創り上げる。我々が、その新たな世界の神となるのだ」
神。その言葉を口にした瞬間、タチバナの瞳の奥の光が、一際強く輝いた。彼は、自分たちの行為を罪だとは微塵も思っていない。むしろ、汚れた世界を救済するための、崇高な使命だと信じきっている。その揺るぎない狂信こそが、彼を人間ではない、何か別の領域の存在へと押し上げていた。
「そして、この『始祖の卵』は、我々が神に至るための最後の鍵だ。生命の設計図そのものを書き換える、聖杯だよ。それを、君たちのような旧世界の遺物や、ましてや異分子などに渡すわけにはいかない」
タチバナは、まるでゴミを見るかのような目で、譲たちを、そしてエヴァを一瞥した。
「そして、残念だが君たちの役割は、もう終わりだ」
彼は冷徹に、そして心底楽しそうに、粛清を宣言した。
「真実を知りすぎた旧人類(モニターの向こうの陽葵)、不安定な成功例(颯太、玲奈)、そして全ての元凶である裏切り者(譲)。君たちは、実に良い働きをしてくれた。感謝しているよ。だからこそ、敬意を表して、新世界の礎として、ここで粛清させてもらう」
タチバナが、指を軽く鳴らす。
その合図と共に、彼の背後に控えていた特殊部隊の兵士たちが、機械のように一糸乱れぬ動きで、一斉に銃口を譲たちへと向けた。
カシャッ、という冷たい金属音が、神殿に響き渡る。
譲の身体に、エヴァの身体に、そして力なく佇むアルテミスと、もう一体の漆黒のヴァルキリー『ブリュンヒルデ』の機体に、無数の赤いレーザーサイトの光点が、死の宣告のように張り付いた。
崩壊する神殿の白い砂が舞う中、制御不能な卵が放つ不気味な光と、兵士たちの銃口から伸びる無慈悲な赤い光が交錯し、まるで悪魔の儀式のような光景を現出させていた。逃げ場はない。絶対的な死が、すぐそこまで迫っていた。
誰もが息を呑む、その絶望的な静寂の中。
『――状況を分析』
凛とした、機械のように冷静な声が、ブリュンヒルデの外部スピーカーから響き渡った。神楽院玲奈の声だった。
『敵性対象、練度Aクラスの特殊部隊員32名。最新鋭の対ヴァルキリー装備を携行。敵リーダー、タチバナ幹部。搭乗機は未確認だが、相当の戦闘能力を持つと推定』
彼女は、この極限状況にあってもなお、感情を一切排し、淡々と事実だけを分析していた。
『こちら側の戦力、ヴァルキリー2機。うち1機はパイロットが戦闘不能状態。非武装の人間が2名。地形的有利はゼロ。敵の士気は最高レベル。こちらの士気は最低レベル』
そして、彼女は絶望的な結論を、まるで天気予報でも読み上げるかのように、静かに告げた。
『算出される生存確率は、0.2%』
0.2%。それは、統計学的には「ありえない」と言い切ってしまってもいいほどの、天文学的な数字だった。その無慈悲な数字が、その場にいる全員の心に、最後のとどめを刺したかのように思えた。
『ですが』
玲奈は、静かに、しかし力強く続けた。
『――ゼロでは、ありません』
その言葉は、単なる分析結果ではなかった。それは、この絶望的な状況に抗おうとする、彼女の人間としての、鋼のような意志そのものだった。
その声が、虚無の海に沈んでいた朝倉颯太の耳に、か細い、しかし確かな響きとなって届いた。
0.2%。
ゼロじゃない。
その言葉が、砕け散って灰になったはずの彼の心に、小さな、本当に小さな火種を落とした。
彼はゆっくりと、本当にゆっくりと、顔を上げた。アルテミスのモニターに映し出された彼の瞳には、もう、かつてのような太陽の輝きはない。人々を魅了した英雄の光は、完全に消え失せていた。
代わりに、そこにあったのは、一度全てを失い、真実という名の地獄の底から、自らの意志で這い上がってきた者のような、静かで、しかし何よりも強く燃える、決意の炎だった。
彼は「英雄」という、他者から与えられた役割(我)を、完全に捨てた。偽りの栄光も、作られた正義も、もう彼を縛ることはできない。今、彼はただの「朝倉颯太」として、初めて自分の意志で、この場所に立っていた。
インカムのスイッチを入れる。その指先に、微かな震えがあった。だが、スピーカーから響いた彼の声は、驚くほどに穏やかで、澄んでいた。
「……譲」
その呼びかけに、譲がはっと息を呑む。
「俺は……ずっと、間違っていた。お前の言うこと、信じようともしなかった。それどころか、お前を憎んだ。……本当に、すまなかった」
それは、心からの謝罪だった。自らが犯した過ち(無明)を認め、それと向き合う覚悟を決めた、一人の人間の声だった。
「だが」
颯太は、操縦桿をゆっくりと握りしめた。アルテミスの機体が、その意志に応えるかのように、微かに駆動音を響かせる。
「最後に一つだけ、正しいことをさせてくれ」
モニターの向こうで、譲が、玲奈が、そして通信回線の先で陽葵が、固唾をのんで彼の言葉を待っていた。
「お前を……陽葵を……玲奈を……」
「俺が、守る」
その言葉は、もはや組織から与えられた「正義」のためではなかった。ましてや、失われた名誉を取り戻すためでもない。
それは、ただ目の前にいる、傷つき、絶望している仲間を、友を、守りたいという、人間が持つ、最も根源的で、最も純粋な衝動だった。
その決意に応えるように、血のように赤く染まっていたアルテミスが、再び力強い光を取り戻していく。だが、その光は、かつての英雄を象徴した純白とは全く違う。
仲間を守るという、ただ一つの目的のために燃える、魂そのものの色だった。
タチバナが、その光景を、実に面白そうに眺めていた。まるで、予想外の展開を楽しむ脚本家のように。絶望の淵から生まれた、新たな共闘の予感が、崩壊する神殿の空気を、静かに震わせていた。
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