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第4部:終焉と再生編
第69話:滅びの引き金
しおりを挟む時間が、止まった。
いや、世界から、音が消えたのだ。耳をつんざくような警報音も、崩壊する神殿の轟音も、暴走する『始祖の卵』が発する空間の軋みも、その全てが、まるで存在しなかったかのように、絶対的な静寂に飲み込まれた。
ただ、目の前で、白いヴァルキリーだったものが、スローモーションのようにゆっくりと光の粒子へと分解されていく。それは暴力的な爆発ではなく、まるで役目を終えた雪の結晶が、春の日差しに溶けていくかのような、あまりにも静かで、あまりにも美しい、残酷な光景だった。
その光景に、戦場にいた誰もが、呼吸を忘れた。
親友を救うために鬼神と化した朝倉颯太も。
世界の真実を知り、それでも冷静さを保っていた神楽院玲奈も。
自らが新たな世界の神となることを信じて疑わなかったタチバナ幹部さえも。
全ての思考が、その美しすぎる死の前で、完全に停止していた。
やがて、光の粒子が全て消え失せ、後には黒い煙を上げる無残な残骸だけが残された時、止まっていた世界の時間が、再び、しかし歪んだ形で動き始める。
その静寂を破ったのは、一人の少年の、ふらついた足音だった。
宮沢譲が、歩き出す。その足取りは、まるで夢遊病者のように覚束なく、どこへ向かうという明確な意志すら感じさせない。ただ、魂が抜け落ちた器だけが、目の前の悲劇の中心へと、引力に引かれるように進んでいく。
墜落し、半分に裂けたヴァルキリーのコックピット。そこへたどり着いた譲は、覚醒した力をもってすれば赤子の手を捻るよりも容易いはずのハッチの解放レバーに、まるで千鈞の重さがあるかのように、震える両手をかけた。
ギ、ギギギ……と、錆びついた鉄が擦れるような、嫌な音が響く。
開かれたハッチの向こう側にあったのは、地獄だった。
赤い、赤い、血の海。その中心に、橘陽葵が、まるで眠っているかのように静かに沈んでいた。彼女の身体を無数の計器の破片が貫き、もうどこが元の形だったのかも分からない。それでも、その顔だけは、奇跡のように無傷だった。
「……ひ、まり」
譲の唇から、乾いた風のような声が漏れる。
その声に反応したかのように、陽葵の瞼が、ほんのわずかに、震えた。
彼女は、まだ生きていた。
譲は、転がるようにコックピットの中へ飛び込み、血の海に膝をつくのも構わず、彼女の身体を抱き起した。
「陽葵! しっかりしろ! 今、助けるから……!」
譲の脳は、この瞬間ですら、彼女を救うための最適解を導き出そうと回転していた。出血箇所、損傷部位、生存確率。無数のデータが、思考のスクリーンを埋め尽くす。だが、その全てが、無慈悲なまでに「0.00%」という数字を叩き出すだけだった。
その時、陽葵の瞳が、ゆっくりと開かれた。その焦点はもう合っておらず、ただ目の前の、泣き出しそうな親友の顔を、ぼんやりと映しているだけだった。
彼女の、血に濡れた手が、ゆっくりと持ち上がる。そして、譲の頬に、そっと触れた。その手は、氷のように冷たかった。
「……ゆずる」
か細い、吐息のような声。
「……昔みたいに、三人で、また……チョコレート、食べたかったな」
その言葉に、譲の脳裏に、鮮やかな記憶がフラッシュバックする。
小学生の頃。学校の帰りに、三人でなけなしの小遣いを出し合って買った、一枚の板チョコ。誰が一番大きいかけらを食べるかでくだらない喧嘩をして、結局、陽葵が真ん中で泣き出して、慌てた颯太と譲が、自分たちの一番大きいかけらを彼女の口に突っ込んでやった。チョコレートと涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で、それでも彼女は、最高に幸せそうに笑ったのだ。
「……ごめんね、ゆずる。わたし……うまく、できた、かな……あなたの、盾に……なれた、かな……」
陽葵の瞳から、最後の光が、すうっと消えていく。
譲の頬に触れていた彼女の手が、重力に従って、ことり、と力なく落ちた。
その、あまりにも小さな音が、譲の中で、十五年間張り詰めていた理性の糸を、永遠に断ち切った。
仲間を守るための力も、未来を視る能力も、全てを理解する頭脳も、結局、一番大切だったはずの、たった一人の幼馴染さえ、救えなかった。
彼の瞳から、光が消えた。
喜びも、悲しみも、怒りも、絶望も、その全てが燃え尽きた後に残る、絶対的な虚無。世界が、完全に色を失ったモノクロームの風景へと変わっていく。
暴走する卵の光も、仲間の声も、全てが意味をなさない、ただのノイズと化した。
(ああ、そうか)
彼の心の中に、乾いた声が響く。
(結局、人生は、思い通りになんて、ならないんだ)
それは、彼がこの物語の最初に抱いた、根源的な諦念。あらゆる努力も、奇跡も、愛さえも、このどうしようもない世界の法則の前では、無力なのだという、究極の結論だった。
その、絶対的な絶望に呼応するかのように、エヴァの悲痛な思念が、彼の思考の海に、静かに流れ込んできた。
『……譲』
『もう、この星は救えません。この憎しみと悲しみの連鎖は、一度すべてを無に還さなければ、永遠に断ち切れない』
エヴァは、譲に最後の選択肢を示す。
暴走した『始祖の卵』のエネルギーを触媒とし、この星の文明と生命を、誕生以前の原子の状態にまで初期化する、禁断の最終プロトコル。
『リセット・シークエンス』。
それは、善も悪も、愛も憎しみも、そして、陽葵のあのチョコレートのように甘くて優しい笑顔の記憶さえも、全てを永遠に洗い流してしまう、究極の『滅びの引き金』。
それは、救済などではない。ただ、苦しみ続けることから逃れるための、最も根源的で、最も慈悲深い、完全な「無」への回帰。
譲は、冷たくなっていく陽葵の亡骸を、まるで世界で最も尊い宝物でも扱うかのように、そっと抱きしめた。彼の頬を、涙はもう流れなかった。感情という、人間を人間たらしめる機能が、彼の内側で完全に死んだからだ。
彼は静かに立ち上がった。その瞳は、もはや人間のそれではない。全ての因果、全ての感情を、遥か高みから俯瞰する、絶対者の瞳だった。
「陽葵」
彼の声は、悲しみも怒りもなく、ただ、絶対的な事実を告げる、神の宣託のように、崩壊する神殿に響き渡った。
「もう誰も、こんな風に悲しまなくていい世界を、創るよ」
彼は、陽葵の亡骸を静かに横たえると、エヴァと共に、神殿の中央にある『始зоの卵』に繋がれたプロトコルのコンソールへと、一歩、また一歩と、迷いなく歩き出す。
「譲ッ! やめろ! それだけはダメだ! 戻ってこい!」
颯太が、我に返って必死の制止の声を上げる。
「宮沢君、考え直して! それは救いじゃない、ただの終わりよ!」
玲奈の、初めて感情を露わにした悲痛な叫びが響く。
「私の世界を…! 私の楽園を、壊すなぁっ!」
タチバナが、自らの計画が水泡に帰すことを悟り、狂気の絶叫を上げる。
だが、それらの声は、もう、彼の世界には届かない。
彼は、コンソールの前で足を止めると、ゆっくりと、その白いスイッチへと手を伸ばした。
躊躇いも、迷いも、一片の人間的な感情も見せることなく。
彼の指が、そのスイッチに、静かに、触れた。
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