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第4部:終焉と再生編
第70話:二人だけの旅路(エピローグ)
しおりを挟むどれほどの時が、流れたのだろうか。
意識は、ただ、真っ白な光の中にあった。時間も、空間も、そして自分という輪郭さえも曖昧に溶け合った、絶対的な無。それは死と似て非なる、全ての始まりの前にある、ただ純粋な「存在」とでも言うべき状態だった。
やがて、その無限の白の中に、最初の感覚が生まれた。
頬を、何かが優しく撫でていく。風だ。
次に、音が聞こえた。寄せては返す、波のような音。それも、風の音だった。
そして、匂い。雨上がりの、濡れた土と草の匂い。
宮沢譲は、ゆっくりと瞼を開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、見たこともないほどに青く、どこまでも、どこまでも澄み渡った空だった。雲一つないその蒼穹は、まるで生まれたての赤ん坊の瞳のように、純粋な光に満ちていた。
ゆっくりと、身体を起こす。全身の骨が軋むような痛みは、自分がまだ肉体という器を持っていることを思い出させた。
見渡す限り、広大な、緩やかな起伏の続く草原が広がっていた。かつてそこにあったはずの、鋼鉄の建造物も、アスファルトの道も、憎しみも、悲しみも、その全てが跡形もなく消え去り、ただ、生まれたばかりの緑の絨毯が、地平線の彼方まで続いていた。
文明の音が、一切しない。
車の走行音も、工場の排気音も、人々の喧騒も、そして、彼の覚醒した感覚が常に拾い続けていた、無数の電子機器が発する微細なノイズさえも、完全に消え失せていた。
聞こえるのは、ただ、風が草の穂を揺らす、さわさわという優しい音だけ。
彼は、自分が何をしたのかを、静かに理解した。
ふと、隣に気配を感じて視線を向ける。そこには、傷つき、その美しい銀色の髪を土で汚しながらも、同じように呆然と世界を見つめているエヴァの姿があった。彼女の存在だけが、この空っぽの世界で、唯一確かな現実だった。
譲の、乾いた唇が、震えた。
そして、ほとんど声にならない声で、虚空に問いかけた。
「颯太は?」
「陽葵は?」
「玲奈は?」
仲間の名前を、一人、また一人と、呟くように。
エヴァは、ゆっくりと、そして静かに、首を横に振った。その瞳には、深い、深い哀しみの色が浮かんでいた。
『わからない』
彼女の思念が、静かに譲の心に響く。
『でも、この星のどこかに、生命の種は、まだ残っているかもしれない。あるいは、いつか、また新しい生命が、生まれるかもしれない』
その言葉が、最後の引き金だった。
譲は、自分が全てを失ったという、あまりにも重い事実を、ようやく、完全に受け入れた。
彼の脳裏に、仲間たちの最後の顔が、鮮やかに蘇る。
血のように赤い光の中で、それでも親友を救おうとした、颯太の怒りと悲しみに満ちた顔。
氷の仮面を脱ぎ捨て、初めて感情を露わにして自分を止めようとした、玲奈の必死の形相。
そして、最後に彼の腕の中で、チョコレートが食べたいと、子供のように笑った、陽葵の、あまりにも優しい笑顔。
彼らが生きていた世界。彼らが愛した人々。彼らが繋いできた、数えきれないほどの小さな幸せ。
その全てを、この手で、消し去ってしまった。
絶望的なまでの、罪の重さ。
しかし、その感情は、もはやかつてのように、彼の心を内側から焼き尽くす激しい炎ではなかった。それは、ただ、どうしようもなく、そこにある、揺るぎない事実として、彼の魂に静かに積もっていく、雪のようだった。
やがて、彼の瞳から、一筋の涙が、静かに頬を伝った。
それは、悲しみの涙ではなかった。
後悔の涙でも、ましてや、世界を救ったという安堵の涙でもなかった。
人類が犯した、あまりにも愚かで醜い罪も。
仲間たちの、あまりにも尊く美しい死も。
愛した人の、温もりも。
その、途方もないほどの因果の全てを、この小さな身体に背負い、それでもなお、この美しい世界で、自分は『生きている』という、ただ一つの、どうしようもない事実に対する、静かで、澄み切った涙だった。
涙が乾いた時、譲の心を満たしていたのは、虚無ではなく、不思議なほど穏やかな静けさだった。全ての欲望も、憎しみも、苦しみも、その火が完全に消え去った後に訪れる、澄み切った湖面のような心の状態。
彼は立ち上がり、土を払うと、地平線の彼方から昇り始めた、生まれたての太陽を、真っ直ぐに見据えた。その光は、暖かく、優しく、そして、何の分け隔てもなく、この新しい世界を平等に照らしていた。
彼は、エヴァへと向き直ると、そっと、手を差し伸べた。
「行こう」
その声は、かつてのような皮肉っぽさも、焦燥も、そして神のような傲慢さも、一切含んでいなかった。ただ、穏やかで、静かで、そしてどこまでも優しい、一人の人間の声だった。
「生き残った人たちがいるなら、探しに行こう。誰もいないなら、新しいアダムとイヴにでもなろうか」
彼は、少しだけ、悪戯っぽく笑った。それは、本当に、久しぶりに見せた、ただの少年の笑顔だった。
「今度こそ、誰も奪わず、誰も憎まず、誰も悲しまない世界を、この手で創るために」
彼の瞳には、もう、劣等感に苛まれた少年の影も、全能感に酔いしれた神の傲慢さもなかった。
そこにあったのは、ただ、果てしない荒野の先に広がる、まだ何も描かれていない未来を、真っ直ぐに見据える、人間の、強く、そして優しい光だった。
かつて親友が持っていた太陽のような輝きとは違う。それは、自らの内なる静けさの中から、進むべき道を静かに照らし出す、月のような、穏やかで、しかし何よりも確かな光だった。
エヴァが、その手を、優しく、そして強く、握り返した。
その温もりが、これからの旅が、決して一人ではないことを、告げていた。
二人は、終わりと始まりの旅へと、ゆっくりと、しかし、確かな足取りで、歩き出すのだった。
地平線の彼方へと続く、その小さな二つの影を、生まれたばかりの太陽が、いつまでも、いつまでも、優しく照らし続けていた。
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