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第17話 魔法使いは、時を待つ
しおりを挟むリリアナとソフィアの一件以来、僕たちのパーティーの雰囲気は、ほんの少しだけ、しかし確実に変わった気がする。相変わらずアレクは脳筋だし、ソフィアは瞬間湯沸かし器だし、エマはおっとりしすぎている。そして、ノアは……まあ、ノアだ。デコボコなのは相変わらず。でも、そのデコボコした歯車が、以前よりも少しだけ、スムーズに噛み合うようになった。そんな気がしていた。
そんな僕たちが次に受けた依頼は、これまでの戦闘メインのものとは少し毛色が違っていた。「賢者の遺跡の調査」。ギルドマスターは、依頼書を僕たちに渡しながら、心底不思議そうに首を傾げていた。「君たちには、正直、あまり向いていないと思うのだが……まあ、指名依頼だからな」。その不安は、残念ながら的中することになる。
賢者の遺跡は、深い霧に包まれた渓谷の、さらに奥にあった。一年中、太陽の光が届かないのではないかと思えるほど深い谷底。そこにかかる、頼りない一本の古い石橋を渡った先に、その入り口は巨大な口を開けていた。常に湿った空気が肌にまとわりつき、どこからか、ぽつり、ぽつりと水の滴る音が、不気味なほど規則正しく反響している。壁や床は、長い年月を経て、ビロードのような深い緑色の苔に覆われていた。壁面に刻まれた無数の古代文字は、そのほとんどが風化し、もはや意味を読み取ることは難しい。ここは、時間が堆積した場所だ。忘れ去られた知識と、悠久の沈黙が支配する聖域。
そんな神聖な場所に、僕たちのパーティーは、土足で、いや、もはやブルドーザーで踏み込むような勢いで侵入した。
「おお!なんとも荘厳な場所ではないか! よし、まずはこの俺が、先行して安全を確保してやろう!」
先陣を切って、アレクが意気揚々と遺跡の通路を歩き始めた、その三歩目だった。彼が踏み出した床の石板が、カタン、と軽い音を立てて沈む。
「む?なんだ?」
アレクが不思議そうに自分の足元を見下ろした、次の瞬間。彼の立っていた床が、まるでマンホールの蓋が開くように、パカリと消えた。
「うおっ!?……わあああああああああっ!」
騎士の、情けない絶叫が、遺跡の奥へと吸い込まれていく。しばらくして、下の方から「ドッスーン!」という、何か重いものが地面に叩きつけられた鈍い音と、「いってええええ!」という、存外元気そうな声が聞こえてきた。
「もう!だから、慎重に進めって言ったでしょ、この単細胞騎士!」
ソフィアが、落とし穴の縁から下を覗き込み、怒鳴りつける。
「うるさい!これしきの罠、俺の頑丈な体には効かんわ!それより、この壁の模様、なんだか怪しいぞ!」
落とし穴の底から聞こえるアレクの声に、ソフィアが「あんたはそこで大人しくしてなさい!」と一喝する。そして、ふと、通路の壁に埋め込まれた、拳ほどの大きさの、赤く美しい宝石に気づいた。
「あら、この宝石、綺麗ね。古代の遺物かしら。高く売れるかも」
彼女は、まるで道端に咲く花でも摘むかのように、何の警戒心もなく、その宝石に指を伸ばした。
「おい、馬鹿、やめろ!」
僕の制止の声は、間に合わなかった。彼女の指先が、宝石に触れた瞬間。カチリ、という乾いた音が壁の奥から響き、次の瞬間、通路の両側の壁から、無数の小さな穴が現れ、そこから「シュシュシュシュシュッ!」という、蛇の威嚇のような音と共に、びっしりと毒が塗られた矢の雨が、僕たちに向かって降り注いできたのだ。
「きゃあああっ!」
「危ない!」
僕は、咄嗟にソフィアとエマを突き飛ばし、地面に伏せる。矢の何本かが、背中を掠めていった。
「わ、わわ、お二人とも大丈夫ですか!?今、治癒の光を!」
パニックになったエマが、なぜかまだ落とし穴の底にいるアレクに向かって、必死に回復魔法をかけようとしている。
「だから落ち着けって言ってるだろ!特に前の二人!ここは遊園地のアトラクションじゃないんだぞ!」
僕のツッコミだけが、虚しく遺跡に響き渡る。調査依頼は、開始わずか十分で、地獄の障害物競走へとその姿を変えていた。
この絶望的な状況に、一筋の光を差し込んだのは、やはりこの男だった。
「待って!みんな、動かないで!」
パーティーの後方で、ずっと分厚い魔導書とにらめっこしていた、魔法使いのノア。彼の、いつもより少しだけ大きく、そして真剣な声が、僕たちの動きを止めた。
「この遺跡の罠は、単純な物理作動式じゃない。古代の『調和魔術』に基づいて、連鎖的に作動するように設計されている。アレクさんが踏んだ床は『土』の属性を持つ起動盤。ソフィアさんが触れた宝石は『火』の属性を持つ誘爆装置。おそらく、次に僕たちが特定の行動を取ると、『風』と『水』の罠が連動して、この通路全体が崩落する仕組みになっているはずだ」
彼は、石橋を叩いて、叩いて、叩き割ってからようやく渡るような、その持ち前の異常なまでの慎重さで、壁に刻まれた古代文字の配列を一つ一つ解読し、罠の法則性を見事に看破していた。彼の知識がなければ、僕たちは今頃、文字通り生き埋めになっていただろう。
「解除するには、中央の制御紋様に、水系統の魔法で、三秒以内に、寸分違わぬ量のマナを、三つのポイントに同時に注ぎ込む必要がある。僕がやる」
ノアの言葉には、いつもの気弱さとは違う、専門家としての確固たる自信が満ちていた。しかし、いざ罠を解除する魔法を発動する段になると、彼は途端にいつものノアに戻ってしまう。
「え、えーっと、まずは、マナ循環の安定を確認して……次に、術式の座標軸を固定……それから、万が一の暴発に備えて、防御障壁の基礎理論を頭の中で反芻して……」
彼は、ぶ厚い魔導書を広げ、指先を震わせながら、非常に、それはもう、気の遠くなるほどに、長大な呪文の詠唱を始めたのだ。
「グオオオオオオオッ!」
その時だった。通路の奥の暗闇から、低い唸り声と共に、巨大な影が姿を現した。遺跡のガーディアンだ。石と苔でできた、身長三メートルはあろうかというゴーレムが、その鈍色の瞳を不気味に光らせながら、僕たちに向かって、地響きを立てて歩み寄ってくる。
「ノア、まだか!?」
ソフィアが、焦燥に満ちた声を上げる。
「ちょ、もうちょっと待って!今、魔力循環の安定性を最終確認しないと、万が一、その、暴発でもしたら……!」
「そんなこと言ってる場合か!来ちまうだろ!」
アレクが、落とし穴の底から叫んでいる。僕たちは、迫りくるガーディアンと、マイペースに詠唱を続けるノアとの間で、完全に板挟みになっていた。なぜだ。なぜこの男は、これほどの知識と才能を持ちながら、いざという時に、これほどまでに行動が遅いのか。仲間たちの焦りが、遺跡の湿った空気の中で、じりじりと飽和していく。
「グオオオオオッ!」
ガーディアンの唸り声が、すぐそこまで迫っている。その、地を揺るがすような音を聞きながら、ノアの脳裏に、忘れることのできない、灰色の記憶が、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇っていた。
――若く、そして、自信に満ち溢れていた、かつての自分。
彼は、魔導士ギルドの中でも、将来を嘱望された天才だった。どんな複雑な魔法理論も一度聞けば理解し、どんな高難度の魔法も、彼はたやすく使いこなした。仲間から寄せられる称賛と羨望の眼差しが、彼のプライドを心地よく満たしていた。若さとは、時に傲慢さと同義だ。
あるオークの集団討伐任務。彼は、自分の力を過信していた。
「この程度の相手に、完全詠唱は不要だ」
仲間のベテラン魔導士が「油断するな、ノア。オークの集団は、数が増えれば脅威だ」と忠告するのも、耳に入らなかった。彼は、自分の才能を誇示することに酔っていた。
彼は、敵を殲 hùng するため、詠唱を大幅に省略した、高威力の範囲攻撃魔法を放った。彼の両手から、制御しきれないほどの巨大な魔力の奔流が、灼熱の嵐となって解き放たれる。
しかし、その奔流は、彼の未熟な制御をあざ笑うかのように、大きく軌道を逸れた。
暴発。
灼熱の嵐は、オークの群れだけでなく、彼のすぐそばで剣を構えていた、当時の仲間たちをも、無慈悲に飲み込んだ。
今でも、耳にこびりついて離れない。仲間たちの、苦悶に満ちた悲鳴。鼻腔を焼く、肉の焼け付くような匂い。自分の未熟さと傲慢さが招いた、地獄のような惨状を前に、彼はただ、震えながら立ち尽くすことしかできなかった。
「僕のせいで……僕のせいで……!」
あの日以来、彼は自分の力を、そして、あれほど愛していた魔法そのものを、心の底から恐れるようになった。彼の心は、あの灰色の記憶の中に、今も囚われたままだった。
「ノア!お前が詠唱を終えるまで、この俺たちが時間を稼ぐ!だから、何も心配するな!」
アレクが、いつの間にか落とし穴から這い上がり、ガーディアンの前に立ちはだかると、その巨大な盾を大地に突き立てた。彼の声は、ノアを過去の悪夢から、現在へと引き戻す、力強い錨となった。
そうだ。目の前には、ガーディアンがいる。そして、背後には、仲間たちがいる。
彼の長い詠唱は、単なる臆病さから来るものではなかった。魔法の構造を一つ一つ、指先で確認するように完璧に組み立て、マナの流れを完全に制御し、二度と、二度と仲間を傷つけることがないようにするための、血の滲むような、祈りにも似た確認作業。それこそが、彼が過去の拭い去れない過ち(集諦)を乗り越えるために、自らに課した、苦しくも、誠実な努力の形(正精進)だったのだ。
「ソフィア!」
「言われなくても!」
ソフィアが、ガーディアンの足元を凍らせ、その動きを鈍らせる。
「エマさん!」
「はい!アレクさんに、防御強化の魔法を!」
エマの祈りが、アレクの盾に淡い光の膜を張る。僕も、剣を抜き、ガーディアンの注意を引くために、その側面へと回り込んだ。
誰も、ノアの遅さを責めなかった。彼の「臆病さ」の裏にある、悲痛なまでの覚悟を、言葉もなく理解していたからだ。僕たちは、ただ、彼を信じて、その華奢な背中を守るために、それぞれの武器を構えた。
その、揺るぎない信頼が、ノアの心を、最後の恐怖から解き放った。
「――ありがとう、みんな」
彼は、小さく、しかし確かな声で呟くと、その震える指先に、全ての意識を集中させた。
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