無敵の力に飽きた俺が恋したのは、感情を理解できず俺を「研究対象」と呼ぶ魔族の少女でした

Gaku

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第3話『模倣された心』

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草木の匂いが支配していた世界が、まるで幕が上がるようにその姿を消した二日後、カイトとノアが長い旅路の果てに辿り着いたのは、圧倒的なまでの青が広がる場所、すなわち海であった。

連なっていた丘の最後の一つ、その頂を越えた瞬間、それまで木々の緑と土の色に閉ざされていた視界が、何の予兆もなく一気に開けた。目の前に現れたのは、人の知覚が及ぶ限りの広がりをもって横たわる、どこまでも続く水平線だった。空の青と、海の青。二つの絶対的な青が溶け合う境界線は、午後の強烈な陽光を真正面から受け止め、まるで神が銀の砂を撒き散らしたかのように、眩しくきらきらと乱反射を繰り返している。砕けた光の粒子が、視界の全てを満たしていた。

風の匂いが、またしても劇的に変わっていた。丘を越える直前まで二人を包んでいた、湿った土と青々とした草木の匂いは急速に後退し、それに取って代わるように、塩気を含んだ独特の香りが鼻腔を優しく、それでいて力強くくすぐる。それは、この世界のあらゆる生命の源そのものを思わせる、塩辛く、それでいて心の奥底に眠る太古の記憶を呼び覚ますかのような、不思議なほど懐かしい香りだった。波が寄せ、引いていくたびに、大気がゆっくりと呼吸しているのが感じられる。その壮大なリズムは、カイトの胸の鼓動と静かに共鳴した。

「海、か。久しぶりに見たな」

カイトは、長旅で凝り固まった背筋を伸ばし、天に向かって大きく伸びをしながら、誰に言うでもなく呟いた。その声には、疲労と同時に、目の前の絶景に対する純粋な感動が滲んでいた。かつて自分が生きていた世界で、最後にこの広大な水の景色を見たのは、一体いつのことだっただろうか。仕事に追われ、都会の喧騒の中で摩耗していた日々の記憶の断片が、不意に脳裏をよぎる。家族と訪れた夏の浜辺、友人たちと馬鹿騒ぎをした夜の波止場。それらの光景は、もはや遠い夢のようで、今となってはどうでもいい感傷に過ぎなかったが、それでも、潮の香りは彼の心の琴線を微かに震わせた。

「これが、海……。大きいんだね」

すぐ隣から、わずかに感心したような響きを含みつつも、やはりその根底にある平坦さを隠しきれない、鈴の鳴るような声が聞こえた。振り返るまでもなく、ノアだと分かる。彼女は、カイトのように感傷に浸るでもなく、眼前に広がる雄大なパノラマを、まるで初めて見る図形か何かのように、純粋な情報として処理しているようだった。その美しい横顔には、感動や畏敬といった情動の色は一切浮かんでいない。ただ、その銀色の瞳が、水平線の長さを計測し、波の高さを分析し、空と海の色彩情報をデータとして取り込んでいる、そんな無機質な知性が窺えた。

「星の七割くらいが、これなんだってね。君の世界も、そうだった?」


「ああ、だいたいそんなもんだ。地殻の構造や水の総量が酷似していれば、惑星における海洋の占有面積率も近似値を取る。当然の帰結」

やはり、彼女の関心は、この息を呑むような景色の美しさそのものではなく、この世界を構成する物理法則や普遍的な摂理の方にあるらしい。カイトは苦笑を漏らしながら、再び視線を前方へと戻した。

その視線の先、二つの青が交わる水平線上に、まるで蜃気楼のようにぼんやりと浮かんで見える影があった。丘を下り、さらに海岸線に沿って歩を進めるにつれて、その影は徐々にはっきりとした輪郭を現していく。それこそが、彼らの目的地である港町リヴァリアの威容であった。

リヴァリアは、この地方において最も規模が大きく、かつ重要な交易の拠点として知られる港町だ。丘の緩やかな斜面に沿うようにして、白い漆喰の壁と、鮮やかなオレンジ色の瓦屋根を持つ建物群が、まるで巨大な雛壇のように密集して立ち並んでいる。その景観は、無秩序なようでいて、どこか計算されたような調和を保っていた。陽光を浴びて輝く白壁と、影を作るオレンジの屋根のコントラストが、一つの巨大な芸術作品のようにも見える。

眼下の港には、大小様々な帆船のマストが、まるで冬の枯れ木林のように無数に突き出ていた。近海漁業に用いられるであろう小型の漁船から、遠洋航海をものともしないであろう巨大なガレオン船まで、その種類は多岐にわたる。それぞれの船が掲げる旗は風に煽られてはためき、さながら万国旗のように港を彩っていた。カモメだろうか、純白の鳥が甲高い、どこか物悲しい声で鳴きながら、マストの森の上を悠々と旋回している。その鳴き声だけが、この距離まで届く唯一の生命の音だった。

小一時間ほど歩き続け、ようやく二人はリヴァリアの正門に辿り着いた。石を無骨に積み上げて作られた巨大なアーチ状の門は、長い年月の風雨に晒され、風格のある苔に覆われている。門の両脇には、街の紋章が刻まれた旗が掲げられ、槍を携えた屈強な衛兵が二人、鋭い眼光で往来する人々を監視していた。

そして、その門をくぐった瞬間、カイトとノアは、今までいた世界とは完全に別次元の活気に、文字通り呑み込まれた。

まず、耳に飛び込んでくる音が違う。そこには、音の洪水があった。様々な地方の言葉や訛りが入り混じる人々の喧騒、荷物を満載した荷馬車の重い車輪が石畳を軋ませながら転がる音、少し離れた職人街から響いてくる鍛冶屋が規則正しく鉄を打つ甲高い金属音、道の両脇に軒を連ねる酒場の扉が開くたびに漏れ聞こえてくる陽気な音楽と酔客の笑い声、そして、頭上からは絶え間なく降り注ぐ、あのカモメの鳴き声。それら全ての音が渾然一体となって混じり合い、まるで巨大な生命体が生み出す力強い脈動のように、街全体を絶えず震わせていた。それは、静寂に慣れていた耳には暴力的にすら感じられるほどの、生命力の爆発だった。

匂いもまた、複雑怪奇に混ざり合っていた。丘の上で感じた純粋な潮の香りだけではない。港から直接吹き上げてくる、新鮮な魚介類が持つ生々しい匂い。道の脇に店を構えるスパイス商の店先から薫ってくる、嗅いだこともないようなエキゾチックな香辛料の匂い。その隣のパン屋から漂ってくる、焼きたての小麦が放つ甘く香ばしい匂い。それらが渾然一体となり、人々の胃袋を刺激し、この街で暮らす人々の生活のエネルギーそのものを感じさせた。

カイトとノアは、その人の波に抗うこともできず、ただ流されるようにメインストリートを歩いていた。足元の石畳は、この街ができてから一体どれほどの年月が経ったのか、数え切れないほどの人の往来と車輪の摩擦によって、その角という角はすっかり取れて丸みを帯び、表面は滑らかに磨き上げられている。歴史の重みが、足裏からじかに伝わってくるようだった。

時折、御者が荒々しい声を上げながら、大きな荷馬車が人波をかき分けるように通り過ぎていく。そのたびに、カイトは無意識のうちに、さりげなくノアの肩を引き、自分と壁の間に彼女を庇うように内側へと寄せた。彼のその行動に、ノアは不思議そうに小さく首を傾げ、カイトの顔を一瞥したが、特に何も言うことはなかった。彼女の瞳には、感謝も、戸惑いも、何の感情も映ってはいなかった。ただ、カイトの行動パターンを一つ、データとして記録しただけのように見えた。

「すごい人だな。これじゃ、宿を探すのも一苦労そうだ」

カイトが、四方八方から押し寄せる人の流れに、少しうんざりした表情でぼやいた。見渡す限り、人、人、人。どの建物も活気に満ちており、空いている宿屋を見つけるのは至難の業に思えた。

「ううん、大丈夫みたい」

しかし、ノアはこともなげに、平坦な声でそう答える。その声には、何の根拠もない楽観ではなく、絶対的な確信が満ちていた。

「さっき門を通った時に、衛兵の人が持ってた木の板に、この街の地図とか、主要な施設のリストとか、色々書いてあったから。それと、今この瞬間、どの宿屋にどれだけ空室があるか、それぞれの料金体系、宿泊客の評判。全部見せてもらったから。この道をまっすぐ進んで、三番目の角を右に曲がったところに、『海猫の寝床亭』っていう名前の宿屋があるんだけど、値段と部屋の質、それに現在の空室状況を総合的に判断すると、そこが一番良さそうだよ」

「……お前、本当に何者なんだ……」

カイトは、もはや感心するのを通り越して、軽い畏怖すら覚えていた。彼女のその驚異的な情報収集能力と分析能力にかかれば、この複雑怪奇で混沌とした巨大都市も、ただの攻略可能なデータマップに過ぎないのかもしれない。衛兵が手にしていたクリップボードのようなものを、一瞬横目で見ただけで、その全てを読み取り、最適解を導き出す。常人には理解不能な芸当だった。

二人が、街の中心に位置する、ひときときわ人でごった返す中央広場を抜けようとした、まさにその時だった。

「うわあああん……!おかあさーん……!どこー?」

それまでの街の喧騒を鋭く突き破るように、幼い子供の、悲痛な泣き声が辺り一帯に響き渡った。声はかん高く、切羽詰まっており、聞く者の胸を締め付ける。

声がした方に視線を向けると、広場のちょうど真ん中、多くの人々が行き交うその中心で、五歳くらいだろうか、赤いリボンをつけた小さな女の子が、ひとりぼっちで立ち尽くし、わんわんと声を上げて泣きじゃくっている。その小さな手は、ぎゅっと握りしめられ、顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。どうやら、この雑踏の中で、母親か父親か、保護者の手を見失ってしまったらしい。

周りを歩く大人たちは、一瞬だけ、面倒事が起きたというような表情でそちらに視線を向ける。しかし、誰もが自分の用事で手一杯なのか、あるいは関わり合いになりたくないのか、すぐに興味を失ったように視線を逸らし、足早に通り過ぎていく。見て見ぬふりをする人々の冷たい無関心が、泣き声の悲痛さを一層際立たせていた。

「おいおい、迷子か。まったく、この人の多さじゃ仕方ないとはいえ……仕方ないな」

カイトが、やれやれと困ったように肩をすくめ、その豊かな髪を軽くかき混ぜた。彼の口調は面倒臭そうだったが、その瞳の奥には、困っている者を見過ごせない生来の優しさが宿っている。彼は、人混みをかき分けるようにして、女の子の方へ一歩、歩き出そうとした。

その腕を、すっと伸びてきた白い手が、そっと掴んで制止した。ノアだった。

「カイト、待って」

「ん? なんだよ、ノア。放っておくわけにもいかないだろ」

カイトが振り返ると、ノアはカイトの疑問には答えようとせず、その感情の読めない銀色の瞳で、泣きじゃくる女の子の姿をじっと見つめていた。その視線は、憐れみや同情とは全く質の異なる、まるで精密機械が対象物をスキャンするような、冷徹な光を帯びていた。

そして、数秒間の沈黙の後、彼女の内部で何らかの演算が完了したかのように、ノアは小さく、それでいて確信に満ちた様子で頷いた。

「そっか、こういうことか……」

彼女はぽつりと、独り言のように呟いた。

「これは、この前の村で君がやっていたことの、応用問題だね。……うん、ちょっと試してみる」

### 2

次の瞬間、カイトは我が目を疑うことになった。

今まで、まるで寸分の狂いもなく組み立てられた精巧な人形のように、どこか硬質的で無機質な印象を与えていたノアの佇まいが、ふわりと、まるで魔法のように柔らかなものへと変化したのだ。すっと肩の力が抜け、背筋がしなやかな曲線を描く。その立ち姿は、先ほどまでの冷徹な観察者のものではなく、一切の威圧感を感じさせない、慈愛と母性に満ちたものへと、劇的に変貌を遂げていた。

彼女は、ゆっくりとした、計算され尽くした足取りで、泣きじゃくる女の子に近づいていく。その歩き方すら、完璧だった。決して相手を驚かせたり、警戒させたりしないように、歩幅は小さく、足音はごく僅か。慎重に、そして、包み込むような優しさをもって、彼女は少女との距離を詰めていった。

女の子の数歩手前で立ち止まると、ノアは、その場に、そっと屈み込んだ。その動作は流れるように滑らかで、一切の無駄がない。泣き叫ぶことで視野が狭くなっている子供の高さまで、完璧にその目線を合わせるためだった。地面に膝をつくことも厭わないその姿勢は、それだけで見る者に誠実な印象を与える。

「どうしたの、お嬢ちゃん」

その声を聞いて、カイトは再び愕然とした。それは、彼が今まで聞いてきた、あのどこか平坦で、感情の起伏に乏しいノアの声とは全くの別物だった。まるで上質な絹のように滑らかで、聖母が語りかけるように優しく、冬の陽だまりのように暖かく、そして、聞く者の心の奥底に直接響き、不安を溶かしていくような、不思議な鎮静効果を持った声だった。

突然、目の前に現れた息を呑むほど美しい少女と、その優しい声に驚いたのだろう。女の子は、一瞬だけしゃくりあげるのを止め、涙に濡れた瞳で、ノアの顔を見上げた。

ノアは、その不安げな顔に向けて、完璧なまでの「優しい微笑み」を浮かべていた。口角の上がり方、目尻の僅かな下がり方、わずかに傾げられた首の角度。その全てが、まるで教科書にでも載っているかのように完璧な、慈愛と共感に満ちた表情。それは、誰が見ても「優しいお姉さん」以外の何物でもない、理想的な微笑みだった。

「迷子になっちゃったの? 心細かったわね。でも、もう大丈夫よ。お姉さんが、一緒にお母さんを探してあげるから」

その言葉は、まるで優しい子守唄のようだった。そう言って、ノアは、ごく自然な仕草で、自身の服のポケットから小さなキャンディを一つ取り出した。鮮やかなオレンジ色をした、太陽の光を固めたような飴玉だ。セロファンを剥がすと、甘い柑橘系の香りがふわりとあたりに漂った。

「さあ、これをどうぞ。甘いものを舐めていると、不思議と元気が出てくるものなの。これを舐め終わる頃には、きっと、すぐにお母さんが見つかるわ」

その一連の仕草は、あまりにも自然で、流れるようで、どこにも不審な点は見当たらなかった。まるで、幾度となく同じことを繰り返してきたかのように、手慣れたものだった。

女の子は、まだしゃくりあげながらも、ノアのその聖母のような微笑みと、穏やかな声の響きにすっかり安心したのか、警戒心を解き、恐る恐るそのキャンディを受け取った。そして、こくりと小さく頷くと、涙で濡れた小さな手で、ノアの服の裾を、まるで命綱であるかのようにぎゅっと強く握った。

この一連の光景を、少し離れた場所から見ていた周囲の人々が、感心したように頷き合っているのが見えた。

「まあ、なんてお優しいお嬢さんだろう。あんな風に声をかけてもらえたら、子供も安心するわよねえ」
「本当に。うちの娘にも見習わせたいくらいだわ」
「あんな綺麗なお姉さんがいたら、そりゃ泣き止むよな」

賞賛と感嘆の声が、あちこちからさざ波のように聞こえてくる。それは、誰の目から見ても、疑いようもなく心温まる美しい光景だった。広場の喧騒の中で生まれた、ささやかな奇跡。

カイト、ただ一人を除いては。

カイトは、その場に釘付けになったように立ち尽くしていた。動けなかった。感動とは全く異質の感情が、彼の全身を支配していた。背筋に、ぞくりと、まるで冷たい氷を押し当てられたかのような悪寒が走るのを感じていた。

ノアの行動は、どこからどう見ても完璧だった。声色も、表情も、仕草も、小道具を使うタイミングも、その全てが、寸分の狂いもなく完璧に計算されていた。

だが、そう、完璧すぎたのだ。

それはまるで、何万回、何十万回と繰り返し練習された、超一流の役者による演劇の舞台を見ているかのようだった。一つ一つの動作に、人間が本来持っているはずの、予測不能な感情の「揺らぎ」というものが、全く、一片たりとも存在しない。あまりにも滑らかで、あまりにも理想的で、それゆえに、底知れない非人間性を感じさせた。

そして、何よりも、彼女の瞳。その瞳だけは、他の全てが完璧な演技を続けている間も、決して変わることはなかった。

慈愛に満ちた微笑みを浮かべたその顔の中心で、彼女の銀色の瞳だけが、相変わらずの、感情という光を一切反射しない、冷たい硝子玉のままだったのだ。それは、目の前で助けを求めている子供を「可愛い」とも「可哀想」だとも思ってはいない。ただ、自分の取った行動が対象物にどのような反応を引き起こし、周囲の環境にどのような影響を与えるのかを冷静に観察している、研究者の目そのものだった。

やがて、人混みをかき分け、血相を変えた母親らしき女性が、広場に駆け込んできた。

「この子ったら!ちょっと目を離した隙に、どこに行ってたの!心配したのよ!」

ノアは、その母親の姿を視界に捉えると、完璧な笑顔を崩さないまま、ゆっくりと立ち上がった。そして、「お母さんが来てくださって、よかったわね」と、最後の仕上げとばかりに女の子の頭を優しく撫でた。その仕草にも、微塵の澱みもない。

母親に事情を簡潔に、しかし礼儀正しく説明し、深々と頭を下げた。母親は何度も頭を下げて感謝の言葉を述べ、周囲の人々もまた、温かい拍手と賞賛の言葉を彼女に送った。その賞賛の渦の中心で、ノアは少しだけはにかんだような、完璧な表情を浮かべ、軽く会釈を返した。そして、その役目を終えると、何事もなかったかのように、人々の視線の中から静かにフェードアウトし、立ち尽くすカイトの元へと戻ってきた。

「ねえ、カイト、どうだった?」

カイトの隣に戻ってきたノアの表情と声は、まるでスイッチを切り替えたかのように、すっかり元の、感情の色彩を失った無機質なものに戻っていた。

「上手くできてたかな。分析通り、あの子は泣き止んだし、周囲の人間個体も、みんな私に対して肯定的な評価を示した。君が前の村で言っていた、『誰かを助けるという行為は、巡り巡って自分にとっても良いことがある』っていう仮説は、どうやら真実だったみたいだ。これは有益なデータだね」

「…………ああ」

カイトは、乾ききった喉から、かろうじてそんな一言を絞り出すことしかできなかった。

彼の心の中には、形容しがたい巨大な虚しさと、そして、今まで感じたことのない、奇妙で複雑な感情が渦巻いていた。それは、目の前で繰り広げられた完璧な茶番劇に対する深い悲しみであり、感情を持てない彼女への憐れみであり、そして、ほんの少しだけ、人間性をシミュレートして見せた彼女に対する、怒りにも似た感情だった。

完璧な偽物を見せつけられたことへの、どうしようもないやるせなさ。

そして、その完璧に構築された偽物の仮面の奥にいるはずの、まだ何者でもない、本当の彼女の素顔に触れてみたいという、矛盾した、そしてどうしようもない渇望が、彼の胸の中で静かに産声を上げていた。

### 3

その日の夕方、カイトは、予約した宿屋『海猫の寝床亭』に荷物を置いた後、ノアを連れて、港を一望できる丘の上の小道にひっそりと佇む、一軒の装飾品店を訪れた。観光客が訪れるような華やかな店ではなく、地元の人々が密かに利用するような、古びた趣のある店だった。

店の扉を開けると、カラン、と古風な鈴の音が鳴った。店の中は、長年磨き上げられた木の床と、年代物の家具が放つ、落ち着いた木の匂いとワックスの匂いに満ちていた。壁にかけられた魔導ランプの柔らかな光が、カウンターのガラスケースの中に静かに並べられた銀製品や天然石に穏やかに反射して、きらきらと控えめな輝きを放っている。それはまるで、小さな星々を閉じ込めた夜空のようだった。

店の主は、いかにも職人といった風情の、無口そうな初老の男だった。彼は客が入ってきたことには気づいているはずだが、手元で進めている精密な彫金作業から顔を上げようともせず、ただ黙々と仕事を続けていた。

「カイト? どうしたの、こんなお店に。何か、買うものがあるの?」

ノアが、店の入り口で立ち止まり、不思議そうに問いかける。彼女の視線は、店内の商品を品定めするでもなく、ただカイトの不可解な行動の意図を分析しようとしているようだった。

カイトは彼女の問いには直接答えず、ゆっくりとガラスケースの前まで進むと、その中に並べられた品々をじっと見つめていた。指輪、首飾り、耳飾り。どれも華美ではないが、作り手の確かな技術と誠実な心が感じられる品ばかりだった。そして、彼は、その中の一つを、無言で指さした。

それは、小さな銀細工の髪飾りだった。この港町リヴァリアの空を舞う、海鳥の羽根をモチーフにした、繊細で、流れるような美しいデザイン。一本一本の羽根の筋までが見事に彫り込まれており、まるで本物の羽根が銀に姿を変えたかのようだ。そして、その羽根の先端には、夜空の深い青をそのまま切り取って閉じ込めたかのような、ごく小さなサファイアが一粒、控えめに埋め込まれている。決して目が眩むほど高価なものではない。だが、職人の丁寧な仕事ぶりと、この港町への愛情が静かに伝わってくる、紛れもない逸品だった。

「……これを、貰おう」

カイトが低い声で言うと、店主は、その時になって初めて顔を上げた。彼はカイトの顔と、指さされた髪飾りを無言で見比べると、小さく頷き、手際よく商品を柔らかい布に包み始めた。その間、一言も言葉を発することはなかったが、その目には、自分の作品を選んだ客への確かな信頼の色が浮かんでいた。

店の外へ出ると、空は、燃えるようなオレンジ色と、落ち着いた深い紫色が複雑に混じり合った、息を呑むほど美しい夕焼けに染まっていた。太陽はすでに水平線の向こうに沈み、その最後の名残が、西の空を壮大に焦がしている。港では、一日の漁を終えた船が、それぞれの灯りを点し、次々と静かな港内へと帰港してくるところだった。街のあちこちでは、ガス灯に火を灯して回る少年の姿が見え、温かな光の点が、一つ、また一つと瞬くように増えていく。昼間の喧騒が嘘のように、街は穏やかな夕闇の帳に包まれ始めていた。

カイトは、その美しい光景を背に、無言で、ノアにその小さな布の包みを差し出した。

「……これは?」

ノアは、差し出されたそれをすぐには受け取らず、怪訝そうな表情で問いかける。

「君にだよ。プレゼントだ」

カイトの言葉を聞いて、ノアは、その包みを受け取ると、数秒間、それとカイトの顔を、まるで未知の物体を観察するかのように交互に見つめた。そして、カイトにははっきりと感じられた。彼女の内部で、再び、あの昼間と同じ高速な情報処理と分析が開始されるのを。彼女の銀色の瞳の奥で、膨大なデータベースが検索され、最適解が導き出されようとしていた。

(……来るぞ)

次に何が起こるか、カイトには痛いほど分かっていた。そして、その苦い予測は、寸分違わず、残酷なまでに正確に現実のものとなった。

ノアの顔に、まるで蕾がゆっくりと開いていくかのように、花が咲くような、完璧な笑顔が浮かんだ。

昼間、迷子の女の子に見せた慈愛に満ちた聖母の笑みとは、また全く質の違うものだった。それは、想いを寄せる男性から予期せぬ贈り物を受け取った、うら若い乙女が浮かべるべき、はにかみと、隠しきれない喜びに満ちた、完璧な笑顔だった。

彼女の白い頬が、ほんのりと上気しているように見える。その銀色の瞳は、内側から光が灯ったかのように潤んで、夕暮れの光を反射して、きらきらと輝いているようにすら見えた。

「まあ……! カイト、これを、私のために……?」

その声は、昼間の聖母の声とも、普段の平坦な声とも違う。甘く、か細く、そして感動で微かに震えている。

「なんて、綺麗なんでしょう……。嬉しい……。本当に、本当に嬉しいわ……。ありがとう、カイト。こんな素敵なもの、生まれて初めてもらったわ。一生、大切にするわね」

その言葉、その表情、その声色。一つ一つが完璧なパーツとして組み合わさり、理想的な「喜びの表現」を構築していた。

それは、カイトがこの世界に転生してから、数え切れないほどの女性たちから向けられてきた、好意の表現そのものだった。いや、それ以上に、完璧だった。どんな朴念仁な男でも、これを見せられたら、幸福の絶頂を感じ、天にも昇る気持ちになることだろう。

だが、カイトの心は、燃えるような夕焼けとは裏腹に、まるで極地の氷のように、急速に凍りついていくのを感じていた。

ああ、まただ。また、これだ。
また、この完璧な「模倣」だ。

彼は、プレゼントを渡した瞬間の、彼女の瞳の奥で起こった、ほんの一瞬の揺らぎを見逃してはいなかった。それは、「予期せぬ贈り物を受け取った際の、最適な反応パターンの検索および実行」とでも字幕がつきそうな、ごく僅かな、しかし決定的な、機械的な光の点滅だった。喜びという感情が湧き上がった結果の笑顔ではなく、笑顔という表情を作るという命令が実行された結果の笑顔。その致命的な違いを、カイトだけは理解してしまっていた。

カイトは、何も言えなかった。
「どういたしまして」とも、「君に似合うと思ってな」とも、用意していた言葉が喉の奥に張り付いて出てこなかった。

ただ、目の前で完璧な喜びを演じている、このあまりにも美しい少女を呆然と見つめながら、心が、ぎゅううっと、万力で締め付けられるような、鋭い痛みを感じていた。

そして、その時、彼は、はっきりと自覚したのだ。
自分の、この胸を苛む感情の、その正体を。

(ああ、そうか……。俺は、この女に、恋をしているんだ)

この、人間の心を模倣することしかできない、中身の空っぽな人形に。この、完璧な偽物であり続けるしかない、哀れな少女に。

その完璧に作り上げられた偽物の仮面を、いつか、この手で、一枚一枚丁寧に剥がしてやりたい。仮面の奥にあるはずの、まだ何の色もついていない、真っ白で、空っぽの彼女の素顔に、本当の感情というものを、この手で教えてやりたい。誰かの模倣ではない、彼女自身の、たとえ不器用でも、ぎこちなくてもいい、本当の笑顔というものを、この目で見せて欲しい。

それは、絶望的なまでに、困難な願い。
この世界に来て、ほぼ無敵の力を手に入れた自分が、唯一、どんなに手を伸ばしても決して届かない、まるで夜空に浮かぶ星のような、遠い願い。

夕闇が、街を完全にその腕の中に包み込んでいく。
ノアは、カイトの内心の激しい葛藤も知らず、受け取ったばかりの髪飾りを、自分の美しい銀色の髪にそっと着けてみせている。その仕草すら、まるで有名な絵画の一場面のように、完璧に計算され尽くして美しかった。

カイトは、そんな彼女の横顔を、ただ黙って見つめながら、これから始まるであろう、長く、そして、おそらくはひどく切ない旅路を、静かに覚悟するのだった。
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 世界一周旅行を夢見てコツコツ貯金してきたスーパーの店長、結城偉介32歳。  スーパーのバックヤードで、うたた寝をしていた偉介は、何故か異世界に転移してしまう。  偉介が転移したのは、スーパーでバイトするハル君こと、青柳ハル26歳が書いたファンタジー小説の世界の中。  スーパーの過剰商品(売れ残り)を捌きながら、微妙にズレた世界線で、偉介の異世界一周旅行が始まる!  冒険者じゃない! 勇者じゃない! 俺は商人だーーー! だからハル君、お願い! 俺を戦わせないでください!

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