やがて、君と見る木漏れ日

Gaku

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前原美影の視点

第八話:雨の日の距離感

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あの猫カフェでのデートから数日が経ち、季節は本格的な梅雨に入った。

朝から、空は重い鉛色。 窓ガラスを叩く雨音が、教室の中の会話をかき消すように響いている。 湿った空気と、カビっぽい匂い。 多くの生徒が気だるそうにしている中で、私は背筋を伸ばして黒板を見ていた。

でも、私の意識の半分は、斜め後ろに向けられていた。 垣原瞬くん。 彼は今日、朝から様子がおかしい。

いつもなら授業中は窓の外を眺めているか、こっそり大輝くんと手紙を回しているのに、今日は机に突っ伏したまま動かない。 時折、小さく肩が揺れる。 空調は効いていないはずなのに、彼だけが寒そうに背中を丸めている。

(……熱、あるのかな)

五時間目の古典の授業中。 先生が「ここの活用は~」と説明している間、私はこっそりと後ろを振り返った。 彼と目が合うことはない。彼は顔を腕に埋めているから。 でも、その首筋がうっすらと赤いのが見て取れた。 呼吸も、いつもより浅くて速い気がする。

「大丈夫?」と声をかけるのは簡単だ。 でも、彼はそれを望まないだろう。 彼はプライドが高い。特に、私に対しては「かっこいい彼氏」でいたいと思っている節がある。 みんなの前で「具合悪いの?」と聞かれて、弱々しい姿を晒すなんて、彼の美学が許さないはずだ。

だから、私は気づかないふりをした。 それが、今の私にできる一番の気遣いだと思ったから。

放課後のチャイムが鳴った。 彼は、弾かれたように顔を上げたけれど、その動きはひどく緩慢だった。 目がとろんとしていて、焦点が定まっていない。

私は、カバンを持って彼の席へ行った。 あくまで、いつも通りに。

「瞬くん、一緒に帰ろ」

彼は、私を見た。 その瞳が一瞬泳ぐ。 「……悪い。今日、ちょっと、用事あるから。先に帰っててくれ」

やっぱり。 「用事」なんて嘘だ。 立っているのもやっとなくせに、彼は必死に平気な顔を作っている。 私に風邪をうつしたくないのか、それとも弱っているところを見せたくないのか。 たぶん、両方だ。

「そっか。わかった。じゃあ、また明日ね!」

私は、あっさりと引いた。 ここで「何の用事?」とか「顔色悪いよ?」と食い下がるのは、彼の必死の演技を台無しにすることになる。 彼が「用事がある」と言うなら、それは「一人にしてくれ」というサインだ。

教室を出て、私は結衣たちとも別れて、一人で校門を出た。 雨は激しさを増している。 傘を叩く音がうるさい。

(……帰ろう)

そう思って歩き出しかけたけれど、足が止まった。 彼のあのアパートには、看病してくれる人はいない。 一人暮らしの部屋で、熱を出して寝込む心細さを、私は知っている。 水が飲みたくても起き上がれない辛さ。 世界から切り離されたような孤独感。

「用事がある」と言った彼を尊重して、放置するのが正解? それとも、押し掛けて看病するのが愛情?

(ううん、どっちも違う)

放置は冷たすぎる。 でも、押し掛けるのは「私の自己満足」だ。 熱がある時に、誰かに部屋に入られるのはしんどい。 部屋は散らかってるかもしれないし、汗をかいたパジャマ姿を見られたくないかもしれない。 「大丈夫?」と聞かれたら「大丈夫」と答えなきゃいけないし、「ありがとう」と気を使わなきゃいけない。 そのエネルギーすら、今の彼には惜しいはずだ。

私がすべきことは、「彼の孤独を埋める」ことじゃない。 「彼が一番早く回復できる環境を作る」ことだ。

私はくるりと回れ右をして、駅前のコンビニへと走った。 スポーツドリンクを二本。 熱さましのジェルシート。 それから、スプーンがなくても食べられるゼリー飲料と、消化に良さそうなフルーツのゼリー。 カゴに入れながら、彼の顔を思い浮かべる。

(これくらいなら、重くないよね)

レジでお金を払い、白いビニール袋を受け取る。 雨の中、彼のアパートへと向かう足取りは、不思議と軽かった。

アパートに着くと、彼の部屋の窓は暗かった。 もう寝ているのかもしれない。 インターホンを押そうとして、指を止める。 ピンポーンという音で、彼を起こしてしまうかもしれない。 重い体を引きずって、玄関まで歩かせることになる。

(ここまでにしよう)

私は、ドアノブにそっとビニール袋をかけた。 雨に濡れないように、口をしっかりと縛って。

スマートフォンを取り出し、メッセージを打つ。 彼からの『ごめん、やっぱ体調悪いみたいだ』というメッセージが入っていた。 やっぱり、素直じゃないなぁ。

『そっか、つらいね。今、家の前にいるんだけど、鍵、開けられる?』 ……とは送らない。 そんなことをしたら、彼は慌てて部屋を片付けたり、着替えたりしようとするだろうから。

『ごめん、驚かせたかな。顔見たら、逆に気を遣わせちゃうと思って。とりあえず、必要になりそうなもの、ドアノブにかけといたから』

送信。 既読がつくのを待たずに、私は階段を降りた。 これでいい。 彼がもし起きていたら、これを見て荷物を取り込むだろう。 もし寝ていたら、起きた時に気づくだろう。 どちらにしても、彼は誰にも気兼ねすることなく、水分を補給して、また眠ることができる。

アパートを出て、帰り道を歩きながら、私はもう一通だけ送った。

『無理はしないでね。ゆっくり休むのが、一番の薬だよ。もし、本当に、どうしようもなくなったら、その時は、夜中でもなんでも、遠慮なく連絡して。でも、今は、ちゃんと寝てね。おやすみ』

これは、セーフティネット。 「一人じゃないよ」という合図。 干渉はしないけれど、見捨てない。 その距離感が、今の彼にとって一番の薬になると信じて。

雨はまだ降り続いている。 靴の中までぐっしょりと濡れてしまって、少し気持ち悪い。 でも、心の中は、晴れた日の布団みたいにぽかぽかと温かかった。

きっと彼は今頃、私が置いていったスポーツドリンクを飲んで、「あいつ、わかってるな」なんて思ってくれているかもしれない。 あるいは、何も考えずにぐっすり眠っているかもしれない。

どっちでもいい。 彼が少しでも楽になれば、それでいい。

「早く元気になってね、瞬くん」

雨音に紛れて、小さく呟いた。 恋人って、ただイチャイチャするだけの間柄じゃない。 相手が弱っている時に、どうやってその背中を守るか。 その方法を考えることも、すごく大切な「愛」の形なんだと、私は今日、学んだ気がした。

濡れたアスファルトに、街灯の光が滲んでいる。 私は傘を回しながら、少し早足で家路を急いだ。 明日の朝、彼から「ありがとう」ってメッセージが来ていたら、なんて返そうかな。 そんなことを考えながら。
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