やがて、君と見る木漏れ日

Gaku

文字の大きさ
25 / 44
前原美影の視点

第十話:背中の答え

しおりを挟む
翌日の朝、教室の空気はピンと張り詰めていた。

昨日の夕方、昇降口での出来事。 私は瞬くんに嘘をついた。「ただの世間話だよ」と。 彼はそれを飲み込んだふりをしてくれたけれど、その瞳の奥には、黒く重たい鉛のような感情が沈殿していたのを、私は見逃さなかった。

(……怒ってるかな)

彼が怒っているとしたら、それは私に対してではない。 不甲斐ない自分自身に対してだ。 自分の過去が、今の恋人を傷つけているという事実。 その事実に、彼のプライドと良心が、軋む音を立てているのが聞こえるようだった。

朝のHR前、瞬くんが教室に入ってきた。 いつもの気だるげな猫背ではない。 肩に力が入っていて、視線が鋭い。 彼は私の席には来なかった。目も合わせない。 一直線に、大輝くんの席へ向かった。

私は、教科書を広げるふりをして、耳をそばだてた。 教室の喧騒に混じって、彼らの低い話し声が聞こえる。

「……里奈のクラス、どこだ?」

心臓が、ドクンと跳ねた。 やっぱり。 彼は、逃げなかった。 私の嘘に甘んじて、「ああ、よかった」とやり過ごすことを選ばなかった。

「いいから、教えろ」 「これは、俺の問題なんだ」

その声は、低く、静かで、しかし、震えるほどの覚悟を孕んでいた。 大輝くんが気圧されたように答える声が聞こえる。

瞬くんが、席に戻る。 その横顔は、戦場に向かう兵士のように厳しかった。

(止めなきゃ)

一瞬、そんな衝動が走った。 彼がこれからしようとしていることは、泥沼に足を踏み入れるようなことだ。 傷ついた元カノと対峙するなんて、罵倒されるに決まっている。傷つけられるに決まっている。 「もういいよ、気にしないで」と私が笑えば、彼はこの苦行から解放されるのに。

私は、立ち上がりかけた。 でも、すぐに座り直した。

(違う。止めちゃダメだ)

これは、彼が「男の子」から「大人」になろうとしている瞬間なのだ。 自分の蒔いた種を、自分で刈り取る。 過去の自分と決着をつける。 そのための戦いに、私が「かわいそうだから」と割って入るのは、彼の尊厳を奪うことだ。 それは、優しさじゃない。過保護だ。

私は、唇を噛み締めて、彼の背中を見つめた。 行ってらっしゃい。 傷ついてもいい。ボロボロになってもいい。 あなたが逃げずに立ち向かうなら、私はここで、一歩も動かずに待っているから。

昼休み。 チャイムが鳴ると同時に、瞬くんは席を立った。 迷いのない足取りで、教室を出て行く。 向かう先は、二年生の校舎だろう。

私は、お弁当の包みを開けながら、祈るような気持ちで時計の針を眺めていた。 秒針が、カチ、カチ、と進む。 一分が、一時間のように長い。

今頃、会っているだろうか。 何を言われているだろうか。 里奈さんのあの憎悪に満ちた目を思い出すと、胃がキリキリと痛んだ。 彼女はきっと、彼を許さない。 ありったけの言葉で、彼を責めるだろう。

お弁当の卵焼きの味がしない。 結衣が「美影、顔色悪いよ」と心配してくれたけれど、うまく笑えていた自信がない。

私の想像の中で、瞬くんが傷つき、打ちのめされている姿が浮かぶ。 助けに行きたい。 彼の隣に立って、「彼は悪くない」と言ってあげたい。 でも、それはできない。 彼が「俺の問題だ」と言った以上、その領域は聖域だ。 他人が土足で踏み込んでいい場所じゃない。

長い、長い昼休みが終わろうとしていた。 予鈴が鳴る直前。 教室の引き戸が開き、瞬くんが戻ってきた。

私は、息を呑んで彼を見た。 彼は、ひどく疲れた顔をしていた。 髪は乱れ、ネクタイも少し緩んでいる。 まるで、嵐の中を歩いてきた後のように、消耗しきっているように見えた。

でも。 その瞳の色は、朝とは全く違っていた。

あの、澱んだ鉛色は消えていた。 代わりにそこにあったのは、痛みを知った者だけが持つ、静かで、透明な光だった。 何かを捨ててきたのではない。 何か重たい荷物を、ようやく正しい場所に降ろしてきたような、そんな軽やかさが、彼の全身から漂っていた。

彼と、目が合った。 彼は、私を見て、ほんの少しだけ、苦笑いをした。 「参ったよ」と言いたげに、眉尻を下げる。

その顔を見た瞬間、私の胸の奥に、熱い塊が込み上げてきた。

(おかえり)

声には出さなかった。 彼も、何も言わなかった。 「行ってきたよ」とも、「謝ってきたよ」とも言わなかった。 言葉にするには、あまりにも重く、個人的な体験だったのだろう。

でも、私には分かった。 彼は、やり遂げたのだ。 過去から逃げ回っていた自分自身を、殺してきたのだ。 そして、新しく生まれ変わって、私の元へ帰ってきてくれた。

私は、小さく頷き返した。 「お疲れ様」の代わりに。

放課後。 私たちは、いつものように並んで帰った。 会話は少なかったけれど、その沈黙は、心地よかった。 昨日までの、腫れ物に触るような緊張感はない。 雨上がりのアスファルトのような、しっとりとした落ち着きが、二人の間に流れていた。

ふと、彼が私の手を握った。 いつもより、力が強い。 その掌から、彼の無言の意思が伝わってくる。

『もう、逃げない』 『お前を守る』

そんな、言葉にならない誓いが。

私は、握り返した。 彼の指の節々にある硬さと、掌の熱さ。 その感触を確かめながら、私は心の中で、里奈さんに感謝した。

彼女が彼を責めてくれたおかげで。 彼女が彼に怒りをぶつけてくれたおかげで。 彼は、本当の意味で「誠実さ」を手に入れた。

ごめんね、里奈さん。 あなたが彼を育ててくれた分まで、私は彼を大切にするよ。 あなたが彼に教えた痛みを、私は優しさに変えて、彼を愛していくよ。

駅のホームに、電車が滑り込んでくる。 風が、私たちの髪を揺らす。 瞬くんの横顔は、夕日に照らされて、今まで見たどの瞬間よりも、頼もしく、そして美しく見えた。

私は知っている。 この人は、もう大丈夫だ。 どんな過去が追いかけてきても、もう二度と、私を置いて逃げたりしない。 その確信が、私を強くする。

「瞬くん」 「ん?」 「お腹すいたね」 「……だな。ラーメンでも食って帰るか」

私たちは顔を見合わせて、笑った。 日常が、戻ってきた。 でもそれは、昨日までの日常とは違う。 一段階、深く、強く結ばれた、新しい日常だ。

私は、彼の手をぶんぶんと振りながら、改札へと向かった。 今日のラーメンは、きっと世界で一番美味しい味がするはずだ。
しおりを挟む
感想 30

あなたにおすすめの小説

カモフラ婚~CEOは溺愛したくてたまらない!~

伊吹美香
恋愛
ウエディングプランナーとして働く菱崎由華 結婚式当日に花嫁に逃げられた建築会社CEOの月城蒼空 幼馴染の二人が偶然再会し、花嫁に逃げられた蒼空のメンツのために、カモフラージュ婚をしてしまう二人。 割り切った結婚かと思いきや、小さいころからずっと由華のことを想っていた蒼空が、このチャンスを逃すはずがない。 思いっきり溺愛する蒼空に、由華は翻弄されまくりでパニック。 二人の結婚生活は一体どうなる?

結婚する事に決めたから

KONAN
恋愛
私は既婚者です。 新たな職場で出会った彼女と結婚する為に、私がその時どう考え、どう行動したのかを書き記していきます。 まずは、離婚してから行動を起こします。 主な登場人物 東條なお 似ている芸能人 ○原隼人さん 32歳既婚。 中学、高校はテニス部 電気工事の資格と実務経験あり。 車、バイク、船の免許を持っている。 現在、新聞販売店所長代理。 趣味はイカ釣り。 竹田みさき 似ている芸能人 ○野芽衣さん 32歳未婚、シングルマザー 医療事務 息子1人 親分(大島) 似ている芸能人 ○田新太さん 70代 施設の送迎運転手 板金屋(大倉) 似ている芸能人 ○藤大樹さん 23歳 介護助手 理学療法士になる為、勉強中 よっしー課長(吉本) 似ている芸能人 ○倉涼子さん 施設医療事務課長 登山が趣味 o谷事務長 ○重豊さん 施設医療事務事務長 腰痛持ち 池さん 似ている芸能人 ○田あき子さん 居宅部門管理者 看護師 下山さん(ともさん) 似ている芸能人 ○地真央さん 医療事務 息子と娘はテニス選手 t助 似ている芸能人 ○ツオくん(アニメ) 施設医療事務事務長 o谷事務長異動後の事務長 雄一郎 ゆういちろう 似ている芸能人 ○鹿央士さん 弟の同級生 中学テニス部 高校陸上部 大学帰宅部 髪の赤い看護師(川木えみ) 似ている芸能人 ○田來未さん 准看護師 ヤンキー 怖い

ワケあり上司とヒミツの共有

咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。 でも、社内で有名な津田部長。 ハンサム&クールな出で立ちが、 女子社員のハートを鷲掴みにしている。 接点なんて、何もない。 社内の廊下で、2、3度すれ違った位。 だから、 私が津田部長のヒミツを知ったのは、 偶然。 社内の誰も気が付いていないヒミツを 私は知ってしまった。 「どどど、どうしよう……!!」 私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?

繰り返す夜と嘘 〜【実録】既婚の僕と後輩の彼女、あの夜のキスから始まった13年の秘密〜

まさき
恋愛
結婚して半年の僕と、同じ職場の彼女。 出会った頃は、ただの先輩と新入社員だった。   互いに意識しながらも、 数年間、距離を保ち続けた。   ただ見つめるだけの関係。   けれど――   ある夏の夜。 納涼会の帰り道。   僕が彼女の手を握った瞬間、 すべてが変わった。   これは恋でも、友情でもない。   けれど理性では止められない、 名前のない関係。   13年続いた秘密。 誓約書。 そして、5年の沈黙。   これは――   実際にあった「夜」の記録。

誘惑の延長線上、君を囲う。

桜井 響華
恋愛
私と貴方の間には "恋"も"愛"も存在しない。 高校の同級生が上司となって 私の前に現れただけの話。 .。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚ Иatural+ 企画開発部部長 日下部 郁弥(30) × 転職したてのエリアマネージャー 佐藤 琴葉(30) .。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚ 偶然にもバーカウンターで泥酔寸前の 貴方を見つけて… 高校時代の面影がない私は… 弱っていそうな貴方を誘惑した。 : : ♡o。+..:* : 「本当は大好きだった……」 ───そんな気持ちを隠したままに 欲に溺れ、お互いの隙間を埋める。 【誘惑の延長線上、君を囲う。】

【完結】言いつけ通り、夫となる人を自力で見つけました!

まりぃべる
恋愛
エーファ=バルヒェットは、父から十七歳になったからお見合い話を持ってこようかと提案された。 人に決められた人とより、自分が見定めた人と結婚したい! そう思ったエーファは考え抜いた結果、引き籠もっていた侯爵領から人の行き交いが多い王都へと出向く事とした。 そして、思わぬ形で友人が出来、様々な人と出会い結婚相手も無事に見つかって新しい生活をしていくエーファのお話。 ☆まりぃべるの世界観です。現実世界とは似ているもの、違うものもあります。 ☆現実世界で似たもしくは同じ人名、地名があるかもしれませんが、全く関係ありません。 ☆現実世界とは似ているようで違う世界です。常識も現実世界と似ているようで違います。それをご理解いただいた上で、楽しんでいただけると幸いです。 ☆この世界でも季節はありますが、現実世界と似ているところと少し違うところもあります。まりぃべるの世界だと思って楽しんでいただけると幸いです。 ☆書き上げています。 その途中間違えて投稿してしまいました…すぐ取り下げたのですがお気に入り入れてくれた方、ありがとうございます。ずいぶんとお待たせいたしました。

網代さんを怒らせたい

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「なあ。僕たち、付き合わないか?」 彼がなにを言っているのかわからなかった。 たったいま、私たちは恋愛できない体質かもしれないと告白しあったばかりなのに。 しかし彼曰く、これは練習なのらしい。 それっぽいことをしてみれば、恋がわかるかもしれない。 それでもダメなら、本当にそういう体質だったのだと諦めがつく。 それはそうかもしれないと、私は彼と付き合いはじめたのだけれど……。 和倉千代子(わくらちよこ) 23 建築デザイン会社『SkyEnd』勤務 デザイナー 黒髪パッツン前髪、おかっぱ頭であだ名は〝市松〟 ただし、そう呼ぶのは網代のみ なんでもすぐに信じてしまい、いつも網代に騙されている 仕事も頑張る努力家 × 網代立生(あじろたつき) 28 建築デザイン会社『SkyEnd』勤務 営業兼事務 背が高く、一見優しげ しかしけっこう慇懃無礼に毒を吐く 人の好き嫌いが激しい 常識の通じないヤツが大嫌い 恋愛のできないふたりの関係は恋に発展するのか……!?

背徳のミラールージュ(母と子 それぞれが年の差恋愛にのめり込んでいく鏡写し)

MisakiNonagase
恋愛
24歳の市役所職員・中村洋平には、自慢の恋人がいた。2歳年上の小学校教師、夏海。誰もが羨む「正解」の幸せの中にいたはずだった。 しかし、50歳になる母・美鈴が21歳の青年・翔吾と恋に落ちたとき、歯車は狂い出す。 ​母の恋路を「不潔だ」と蔑んでいた洋平だったが、気づけば自分もまた、抗えない引力に引き寄せられていた。  その相手は、母の恋人の母親であり、二回りも年上の柳田悦子。 ​純愛か、背徳か。4年付き合った恋人を捨ててまで、なぜ僕は「彼女」を求めてしまうのか。 交差する二組の親子。歪な四角関係の果てに、彼らが見つける愛の形とは――。

処理中です...